「ヤツらはラーメンを食っているんじゃない。情報を食っているんだ。」

『ラーメン発見伝』という漫画を読んだことのない人でも、このフレーズを読んだことのある人、スキンヘッドのおっさんが凄い顔をして言い放っているのを見たことのある人は多いはずだ。

 

コラ画像にも登場しがちなインターネットの有名人、芹沢さんのお言葉である。

  

グルメもお酒も、情報を飲み食いしていませんか? 

「ラーメンを食っているんじゃない。情報を食っているんだ」とは、いかにも現代人に刺さりやすいセリフだと思う。

だってそうだろう? 現代社会にはモノが溢れていて、それ以上に情報が溢れている。星の数もだ。

ラーメンでもアニメでもゲームでも、コスパやタイパを意識するならジャンルを総当たりするより優れた情報源に頼って良いものを選びたくなる……のはわからなくもない。

 

だが、そうやって情報が先行するかたちでグルメや娯楽に向き合うと、自分の五感で味わうより前に、どこかの誰かによる感想や解説が頭に飛び込んでくることになる。

食べログの星の数やカリスマレビュアーの感想。本当はよくわかってないのに付和雷同したくなる「繊細な味わいですね」。それらは先入観でもある。

 

そうした情報先行と効率重視をもっと突き詰めると、情報どおりに賞味し、情報どおりの感想を口にすることが通人への最短距離と思えるかもしれない。

そんな情報過多な社会と、そこでコスパやタイパの最短距離を突き進んで通人ぶろうとする人々に対し、芹沢さんはこう問いかけているのだ、

 

「あんたはラーメンを食っているんじゃなくて、情報を食っているんじゃないのか?」、と。

 

芹沢さんの問いは、情報を食っている私たちに痛切に響く。

そうとも私たちは情報を食っている! ここから、真にラーメンを食うとはどういうことか、いや、ラーメンに限らず、アニメでもゲームでも映画でもいいが真にプロダクツと向き合うとはどういうことか、振り返りたくもなるだろう。

 

実際、五感をとおしてそれらを本当に味わえているのかは問うに値することだ。

自分が当該分野の趣味人や通人志望者だったとして、他人のレビューをリピートし、世評をなぞるばかりとは、いかにも情けないことではないか。そのような趣味生活は形骸化していて、得られる喜びもアメージングもたかが知れている。

 

だから私たちは情報ばかり食っていてはいけない。

ラーメンとじかに向き合おう。アニメやゲームや映画を五感で感じよう。

そういった教訓を導きたくもなる。

 

しかし、ワインには情報という側面もなかったか? 

しかし、である。

情報を食っているという側面はかならず悪いものだろうか?

 

ここで、ワインという趣味について考えてみたい。

 

お正月の某テレビ番組では、ものすごく高級なワインとまずまずな中堅どころのワインとを隠して比較し、どちらが高級品であるかを言い当てる設問がしばしば登場する。

その設問の正答率を見ている限り、高級なワインと中堅どころのワインを言い当てるのはなかなか難しいようにみえる。

 

実際、ワインは自分自身の五感にまかせたテイスティングが難しいジャンルである。

進化生物学の書籍である『文化がヒトを進化させた』には、人間の文化的学習について解説する一例としてワインが挙げられていて、そこには以下のようなくだりが登場する。

 ワインの場合には、とくにそれが顕著で面白い。一本1.65ドルから150ドルまでのワインについて二重盲検法で飲み比べ実験を行うと、何度やっても、ワインのテイスティングの訓練を受けていないアメリカ人は、実際には安いワインのほうを美味しいと評価する。ワインの価格と味を正しく関連付けられるようになるのには、訓練が必要なのである。

まったく前情報なしでワインと向き合った時、たいていの人は安いほうのワインをおいしいと言い、高いほうのワインをおいしくないと言う。

 

なんの経験も情報もない状態で高級ワインと安ワインを呑み比べた時、前者が後者の十倍以上の値段がついている理由は初心者にはさっぱりわからないだろう。

のみならず、十倍以上の値段がついているだけの根拠、あるいはワインマニアやワインファンたちが大枚をはたいて何を追いかけようとしている体験、それらもよくわからないだろう。

 

実際、瞬間的なおいしさで比較するなら、安ワインが高級ワインをしのぐことなどざらにある。

安ワインの、フレッシュで飲み口のやさしい、爽快感にあふれた旨さでもって、ワインのおいしさの行き止まりと考える人はたぶん多い。実際、それらの安ワインはワインマニアやワインファンからしてもおいしいとは感じるのだ。

だから五感だけをたのみにワインと向き合い、その安くておいしい世界の向こう側に気づくのはかなり難しい。

 

では、安くておいしい世界の向こう側のワインがわかるようになるにはどうすればいいのか?

 

ワインがわかるようになるためには、多かれ少なかれ、情報があったほうがいい。

安くておいしいワインたちに比べ、わかりにくい高級ワインたちがなぜ高値で取引されているのかを知るためには、高級ワインとの付き合い方も含め、その卓越の具合を誰かに手ほどきしてもらうのが手っ取り早い。

最善なのは自分の味覚をよく知ってくれているソムリエさんのいるところで個人的に教えていただくことだろう。頭でっかちになりすぎない範囲で、ワインについて書かれた書籍を読むのもいいかもしれない。

 

そうして外部からの情報を頼りにしながら、なぜ、その高級ワインがその値段で取引されているのか検証していくうちに、高級ワインなるものが単に味がおいしいからでも、単に香りが強いからでもない理由で持てはやされているゆえんがわかってくる。

それは香りの複雑さや味わいの移ろい具合などに由来するもので、安くておいしいワインだけを飲んでいた頃には変なにおいや風味と感じられたものだ──たとえば古タイヤのにおいやプロパンガスのにおいや馬糞のようなにおいとして──。ところが情報をまじえながらワインと向き合っていると、そうした変なにおいや風味が魅力の一部としてピントを結ぶようになる。

 

そうやって「高級ワインが高値をつけられるゆえん」を理解しようと取り組んでいる最中は、だからワインを飲んでいるのか、情報を飲んでいるのか、区別のつかない状態になる

両方を飲み合わせて思案している、というのが本当だろう。この最中において、情報を飲み、五感と情報の整合性を追いかけることはとてもためになる。

 

ワインがわかるようになっていく過程でも芹沢さんの警句は完全には死なない。なぜなら自分自身の五感と情報がロクに結びつかないまま、まさに情報を飲むばかりになってワインがわからないままの人、というのもいなくもないからだ。

 

そこまでワインがわからないままの人というのも稀で、たとえば高級なシャルドネに特有の雰囲気がわからないままの人はあまりいないだろうけれども。

それでも、ワインを飲むことが値札や蘊蓄やパーカーポイントをなぞるばかりになってしまう恐れはやっぱりあるし、ワインがわかる度合いには個人差がある。

 

だからといって、徒手空拳の五感だけでワインをわかろうとするのも、それはそれで難しいのである。

この点において、ワインは絵画鑑賞にも似ている。ボッティチェリやミレーの絵画は徒手空拳で向き合っても美しい。

しかしそこを絵画鑑賞の終着駅としないためには、絵画鑑賞について情報や手ほどきがあったほうが有利である。少なくとも、情報や手ほどきが介在したほうが捗りやすい時期はある。

 

だから芹沢さんの警句は、ワインについては以下のように反駁可能な状況がある。

 

「ワインという情報を飲んでいますが、なにか?」

 

ワインは飲み物だからもちろん五感で向き合うものだし、飲み過ぎれば酔っ払ってしまう。

しかし、いざワインをわかろうと思ったら理解のために情報の助けを借りなければならず、その情報と五感とを上手に繋ぎあわせなければならない。

それがおざなりのままでは、いつまでたっても安くておいしいワインが最上のままで、たとえば、熟成したプレステージシャンパンの良さがわからずじまいになってしまう。

 

「ボルドーらしくない赤ワインをボルドーと当てられなくったっていいんだよ」

こうしたワインの情報を飲む側面が際立つ瞬間は、なんといってもブラインドテイスティングだ。ブラインドテイスティングとは、ラベルを隠した状態でワインを飲み、どこのどういうワインなのかを当てる遊びだ。プロのソムリエの場合、このワインのあてっこが試験や競技にもなっている。

 

いざ自分がブラインドテイスティングに臨んでみると、五感をとおしてワインの情報を推測する、類を見ない遊びになる。

ワインを点検するインターフェースは五感だが、その五感をとおして頭のなかで整理されるのは、過去に飲んだワインたちの情報だ。ボジョレーの赤ワインだったらこんな色をしていてこんな風味だろう、プロヴァンスのロゼワインだったらこんな色をしていてこんな風味だろう、等々。

 

プロのソムリエは、ワインのぶどう品種や大まかな地域だけでなく、もっと細かい畑のちがいやワインが瓶詰めされた年(ヴィンテージ)まで当てようとする。

五感の鋭さもさることながら、世界じゅうのワインについて情報を蓄積し、整理し、わかっていなければ到底できないだろう。

 

アマチュアである私の場合、ワインのぶどう品種や大まかな地域を当てようとするのがせいぜいだが、それでも猛烈に面白く、それは紛れもないワインの読解作業だ。

「このグラスの中身がブルゴーニュ産の赤ワインだったら、一般にはこういうつくりのはずで、このグラスの中身はそこからみてこれぐらいズレている」とか「チリ産のシャルドネと北フランス産のシャルドネでは風味がこう違うはずだから、このグラスの中身はきっと北フランス産だ」とか、そういった過去の情報をたのみにグラスの中身を推測する。

 

こういう当て推量をしていると、必然的に、意地悪問題みたいなワインは当てられないことになる。ボルドーそっくりにつくられたイスラエルワインに出くわしたら私はボルドー産だと言い張るだろうし、シャンパンそっくりにつくられたイギリスワインをシャンパンと間違えるだろう。

でも、そういう間違え方はアマチュア的には恥ずかしいことじゃない。ボルドーそっくりのワインをボルドーと間違えるのは、ボルドーのワインを理解している反映であっても、ボルドーのワインを理解していない反映ではないからだ。

 

ブラインドテイスティングでは、各地方・各品種のワインがどれだけ情報として整理されていて、五感をとおしてそれを思い出せるのかが「模範的な回答」に近づく鍵なのだと思う。

もちろん、百戦錬磨のソムリエとアマチュアでは程度の差は大きい。それでもワインを情報として整理し、理解し、五感をとおして思い出している点は共通しているんじゃないだろうか。五感と情報、その両方が結びついていなければワインのことはわからない。

 

知りすぎは形骸化のもと

ワインは五感で向き合うものであると同時に、情報を飲むもの、情報としてわかろうとするものでもある。

make sense of wines において、情報や知識は不可欠の要素で、それなしにワインの大海原に漕ぎ出しても安くておいしいワインの海域から抜け出しにくい。

 

それに比べれば、ラーメンやアニメやゲームはごちゃごちゃ考える前に五感で楽しむこと・味わうことを素直に許してくれるジャンルかもしれない。

とはいえ少し深掘りしようと思ったら、それらのジャンルでも五感と情報との結びつきは避けて通れない。ただ感動し、ただ面白がるだけでは、そのジャンルについて考えられる範囲はなかなか広がらない。

 

私がワインに肩入れするようになった理由のひとつは、もともと好きだったアニメやゲームといったジャンルを相対化するために、あえてアナログな対象にあたってみるためだった。アニメやゲームと比べ、徒手空拳では面白さがわかりづらそうなのも気になった。

ワインと取っ組み合いをしてみると、なるほどワインは面白いジャンルだった。私はワインをわかろうとすることをとおして、アニメやゲームについても似たような方法論を手に入れた。

 

けれども、そうやってワインと取っ組み合いをし、歳月が流れて思うこともある。

 

ワインがわかった。それはいい。でも、ワインがわかったからといってそのぶんワインが好きになって、ワインに感動しやすくなっただろうか?

 

ところがどっこい、たぶん、感動しやすくなっていないのだ。

 

世の中のすごいソムリエにも、ワインのことが詳しくわかったけれどもワインが好きじゃなくなった人がいるんじゃないだろうか。

アマチュアでも、ワインについて理解がはかどったけれども以前ほど面白くなくなり、風味絶佳に飛び上がることがなくなった人もいるんじゃないだろうか。

 

私は2015年ぐらいまでに飲んだワインが一番記憶に残っていて、天地がひっくり返るような感動を最近は経験していない。

ワインと向き合う時、これはこんなワインで、ここが長所、ここが短所、たぶんここがユニークな特徴なんだろう、みたいなことを考えてしまう。

 

まさに、情報を飲むようなワインとの向き合い方だ。

それでも本当にいいワインはアメージングで、特有のうまさがある。がしかし、情報を飲むゆえ、それも整理されて、理解されて、たぶん理解しようとしてしまうぶん、驚きが減ってしまっている気がする。

 

もし、このままワインを情報として飲み続けたら、ワインが好きという気持ちと記憶がだんだん遠のいて、知識の伽藍ばかり整備されていって、最後にはワインの骸骨堂が残るのではないか? と心配になることもある。

 

とはいえ私はそこまで求道的ではないし、そもそもワインが値上がりしている今、無限に高級ワインを買い求めるわけにもいかないので、ワインはいつまでもアメージングなフロンティアを残したままでいてくれるだろう。

 

20代の頃に2000円ほどで買ったスパークリングワインのおいしさを思い出す。あのおいしさはすっかり遠くになってしまった。

ワインを朴訥に飲むのでなく、わかろうと努力し、情報に落とし込み続けた果てにたどり着いたのが、このような境地だ。

それでも私がワインファンであり続けられるのは、私がある程度いい加減で、まあ、飲兵衛だからだと思う。そして結局のところ、芹沢さんの警句から完全に逃れきれている気はしない。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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