代議制民主主義のバグ
なんかどうだ、日本の政治? ここんところどうかね? どうもなんかよくないよな。よくないところがあるんじゃないのか。
よいという人もいるだろうが、それはたとえば自分の支持する政党が政権与党にあるとかそういうことで、もうちょっと仕組みというか、構造というか、そういうところに問題あるような気はしないか。
おれはするのであって、とくによくないんじゃないかと思うのが「世襲」の問題だ。世襲政治家ばかりになっている。
ちょっとまえにこちらの記事を読んだ。
日本には「世襲政治家」が多すぎる、ビジネス界からの転身が少ない根本理由、これだ。
正直、ビジネス界というものから政治家への転身が望ましいのかどうかはわからない。わからないけれど、世襲よりましだよなって思うところはある。
まあそれはともかく、興味深いのは、現在与党である自民党が当選回数至上主義になっていて、当選回数が多い人間が党内で出世して上に行きやすいってとこだ。
そこで、たとえばビジネスで大成功した人間が50代や60代で政治家に転身して入ってきたところで、ただの一年生議員でしかない。それでは能力を発揮することもできないというわけだ。
逆に言えば、若いうちに政治家になりやすい世襲議員はすごく出世しやすいということになる。そして、世襲議員はすごく当選しやすい。
ますます、政治家のなり手がいなくなっていく。人々が政治に興味を失っていく。血統で語られる政治は、もはや民主主義じゃないだろう。
あれ、やばくねえ?
世襲じゃなくても、本当に彼らはおれたちの代表なのか?
というわけで、なんかこう、今の選挙システムよくないかもしれない、ということになる。
細かいところをあげれば、他国に比べて非常に高額な供託金、選挙にかかる金、小選挙区制の問題、まあいろいろあるだろう。
それよりおれが思うのは、政治家がこの国の国民の代表なんだろうか、ということだ。基本的すぎる。こう、すげえ単純に言えば、みんなの意見を集約した人たちが政治家みたいなもんだろう。
たぶん。そんでも、なんだ、政治家というものは本当に国民の代表なのか、代表的な国民なのか、国民的な、国民っぽい、国民なのか、そこがどうもあやしいように思う。
思うに、政治家というのは、政治家になりたいやつの代表なんじゃねえかということだ。人前に立ってものごとを主張し、党派を作り、権力を目指す、そういうやつの代表。
しかし、世の中の人間、そういうやつってそんなに多いか? 多くねえような気がする。すすんで人前に立ちたくない、人とつるんで集団を作りたくない、権力にも興味はない、そんな人のほうが多くねえか?
でも、選挙になると、そういう人はまず立候補しないので、結局のところ政治家になりたいやつから選ぶしかなくなる。
なんかそこに、国民と政治との乖離ができちまうんじゃないかと、おれはわりと真面目に、長いこと思っているんだけれど、どうだ。
くじ引きで決めたらどうよ?
と、おれの問題意識がどれだけ共感されるかはわかんねえけど、やっぱり世襲は問題だよな、とかいう意見は多い。
その処方箋として、たまに目にするようになったのが「くじ引き民主主義」というものだ。そして、たまたま一冊の本が目にとまったので、ちょっとこれについて考えたりしてみたい。
『くじ引きしませんか?―デモクラシーからサバイバルまで』
くじ引きしませんか? する、する! ……とはならない。
だいたい、くじ引き民主主義と聞いてどんなものをイメージしていたか。
本書を読む前のおれのなかでは、まあ単純に国民の中からくじ引きで「おまえ明日から国会議員」みたいに、まったくにランダムに代議員を決める、というものだった。本書にも出てくるが、裁判員制度みたいなイメージ。
が、まあそう単純でもねえし、いろんな前提や背景もあるし、歴史もあるし、一方で現在くじ引き的なことをやっているところもある。いろいろ勉強になった。
で、話は古代ギリシャになるわけだが、そこで行われていたものよりさらにさかのぼって話は始まる。
神話でゼウス、ポセイドン、ハデスがそれぞれの領地をくじ引きによって決めた、というところからだ。そこから、「くじ引きとはなんぞや」と論じる。いやはや、くじ引きの歴史は古い。「モイラ」と「ノモス」だ。意味は勝手に調べてくれ。
で、古代ギリシャ、アテナイのくじ引き民主制はよかったのかというと、たとえばプラトンとかいう人から否定されている。
プラトンは哲人政治、優秀者支配の人だからな。
彼によれば、徳を備えていない多数の市民による支配は、自分の上にいかなる主人も認めない放埒な社会をもたらし、市民たちは「最後には、書かれた法であれ、書かれざる法であれ、法律さえ顧みないようになる」。そして、度が過ぎた自由放任は反対の方向への大きな変化、すなわち僭主独裁制への変化を引き起こしがちだと彼は指摘する。「最高度の自由からは、最も野蛮な最高度の隷属が生まれてくる」というのである。
最高度のアナーキーはよい(個人の感想です)が、そこから隷属が生まれてくるのはノーだ。プラトンの言う通りだとしたらな。
だからまあ、プラトンにとっては投票もくじ引きも否定の対象だったというわけだ。
でも、現実問題として、徳を備えた哲学者みたいな優秀な指導者なんてものは、まあ望むのは難しい。
政治家が徳を備えていてほしいと思うが、まあまずそんな人間いない。いないし、探したところで偽物ばかり名乗り出てくるだろうし、現実的じゃねえよ。そんな支配者が歴史上存在しなかったかといえば、存在したんだろうけど、偶然だぞ。そんな支配制度からも野蛮な隷属は出てくる。
だから、民主主義とかいう不完全なものをやっていこうじゃねえかという話に、まあわれわれの国とかはなっている。権威主義的な政体とどっちが生き残るのかわからねえけど、独裁は嫌だよなというのはあるんじゃないのか。
だったら民主主義だ。でも、最初に述べたように、なんか機能不全みたいになりつつある。だったらくじ引きだ。
全部くじで決めなくてもいい
で、くじ引きだが、たとえば全部くじ引きでなくてもいい、という考え方もある。たとえば日本は二院制だが、参議院なんかカーボンコピーみたいなもんだから、いっそのことこっちを抽選制にしちまったらどうだ、みたいな話もあるだろうか。
……マレソンによれば、政治的平等(political equality)という点では、様々な人々が議員に選出されやすく、カネの影響を受けにくい抽選制のほうが優れているが、有権者による統制(popular control)という点では有権者が選挙で審判を下せる選挙制のほうが優れている。公平な熟議(deliberation and impartiality)という点では、政党や選挙民から自由な議員、しかも多様な議員が選出されやすい抽選制のほうが優れているが、能力(competency)という点では、無能な候補者が淘汰されやすく、かつ政治家が政党によって知的に支えられている選挙制のほうが優れている。これら四つの民主的価値を実現するためには、選挙制と抽選制という二つのメカニズムを組み合わせることが望ましいというのである。
なるほど、選挙制と抽選制を比べてみて、互いにいいところとおとっているところがあるんなら、その二院制にすればいいんじゃないかってのは悪くない案のように思える。
まあもちろん、「政治家が政党によって知的に支えられている」とかいわれて、「そのとおり」と思えない現状がないではないけれど。
いずれにせよ、なんつーか、今の日本における参議院の価値ってなんだろうとか、そのあたりは抽選制とまではいかないまでも、抜本的に考えてもいいようには思う。
抜本的に変えるとなると憲法改正しなきゃいかんのかもしれんで、そうとうたいへんな話になるとは思うが。もう、いっそのこと、参議院はAIで構成しちまうとかさ。近未来、いや、遠い未来か。
まあ、参議院はともかくとして、そういう考え方もある。一方で、これに対する抽選派内からの批判も紹介されていた。
プリシウスによれば、選挙制議院の利点とされるものは疑わしい。政党間の論争は市民の学習や熟議を促進するどころか、むしろ阻害する。利害対立を解消しようとする際にも、政党や政治家による交渉では力関係を反映した妥協になりやすい。また、選挙では自己中心的・権力志向的な政治指導者が選出されやすく、政治家の専門知識とやらも疑わしい。それどころか、選挙制議院があると抽選制の利点が失われかねない。議題は政治家が設定したものに偏るであろうし、抽選で選出された議員は政党指導者に追随するであろう。両院が対立すれば、選挙制議院は抽選制議院の正統性を失墜させようとするであろう。
かなり痛烈な選挙制批判だ。というか、「選挙では自己中心的・権力志向的な政治指導者が選出されやすく」ってのは、おれが最初のほうに書いた「政治家というのは、政治家になりたいやつの代表なんじゃねえか」という疑問に対応してくれるような気もする。おれの勘もあんがい悪くないような気もするぞ。
ま、ともかく、まだまだ空想的な話ですらある抽選制、そのなかでもいろいろな意見があるらしいということだ。
正味な話、たしかになんだろうね、個人的には、「やるんなら、とりあえず二院制で試したほうがいいんじゃないですかね」とか日和ってしまうところがあるのだけれど。
ほかにはたとえば、抽選制議院には「ジュニア枠」を設けたら、なんてアイディアも書いてあった。ジュニアといっても子供というわけじゃない、若者だ。
世襲でない限りかなり難しい若者の政治家、これが抽選で枠を設けておけばなれるってもんだ。いや、地方議員はなり手不足というけれど、国会の話として。そうすれば、抽選制ジュニアから選挙制の方へ進む人材も出てくるんじゃないかとか、そういう話だ。……そんなにうまくいくもんかわからんけど。
と、いま思ったんだけど、いっそのこと地方議員は全部ジュニア枠にしちゃって、そこで経験を積んだ人間だけが国会議員になれるってのはどうだ。
うーん、単なる思いつき。地方がむちゃくちゃになるか。でも、七十代、八十代が牛耳るよりはなんかよくなりそうじゃない? 若者に期待しすぎか。でも、なんかデストロイは必要な気がする。
あと、すごく関係ないけど、競馬の騎手も若手はみんな地方競馬からスタートして、頭角を表したやつが賞金の高い中央で乗れるようになるってのはどうだろう。
小さい競馬場からキャリアをスタートさせる国もあるという。いや、これもなんか良し悪しあるか。話がそれた。
トロッコ問題みたいなやーつ
ほかにこの本で面白いなと思ったのは、「公平確率説」という考え方だった(たしか)。
沖で溺れている人が2人いる。2人の人間にとくに属性の差はないものとする。で、距離が離れていてどちらか1人しか助けられない。その場合くじで決める。どちらか1人を助ける。どちらかは運悪く死ぬ。この場合、くじ引きというものが有効であると考える人は少なくないだろう。
では、離れた距離に2人組と1人がいるとする。助けられるのは2人組か1人のどちらかだ。となると、より多く救えるということで、2人組を助けに行き、一人を見殺しにするのが正しいとされる。
これが10人対1人、100人対1人、あるいは101人対100人の場合はどうなのか。
やはり、1人でも数が多い方を助けに行くのが正しい。……というのは本当か、という話。
え、どういうこと、と思ったら、助けられる人数に差がある場合でもくじ引きすべきではないのか、という話だ。
とはいえ、100人と1人で、50%のくじではさすがに話がおかしい。では、どうするのか。100人を助けに行く「当たりくじ」の当選確率が、1人を助けに行く「当たりくじ」の100倍にする、というものだ。
うーん、さすがに100:1ではどうかとなるが、もしもそういう装置があるのであれば、100:90の場合はそのオッズでくじを引くほうが平等のようにも思えないだろうか。おれはちょっとそんなふうに思った。
で、これがくじ引きの選挙制度になにが関係あるかというと、得票数に応じて「当選確率」が配分されるのはどうかという考え方だ。
10,000票対1票の得票差でも、ほんのわずかに1票のやつ(自分で自分に入れたんだろうな)にも当選の可能性がある。
ま、それは極端すぎるにしても、51対49の場合、49が確実に死票になるよりも、その確立でくじ引きしたほうが民意が反映されるといえるのではないか、という。
現に、この今の日本の公職選挙法でも、得票数、惜敗率が同じならくじ引きが用いられている。だから、あながちありえない話でもない……か?
これは正直よくわからん。よくわからんが、多数決だけが唯一の正しさ、公平なのか、というあたりに面白い疑問を投げかけてくれてるんじゃないかとは思う。
くじ引きがいいのかどうか、正直わからんが
というわけで、ちょっとくじ引きによる民主主義について読んで、考えた。まだあまり大きく注目はされていない考え方かもしれない。
とはいえ、事前くじ(というものもあるのです)で選ばれた人が、ある議題について資料や専門家の助言を与えられたうえで討議して、最終的にアンケートする、なんていうアイディアもある。討議型世論調査というらしいが、こういうのは、たとえば小規模な地方議会に取り入れられてもおかしくないような気はする。
「議員をくじで決める」なんていうと、なんか途方もなく現実的でないように思えるが、しかし司法では日本でも取り入れられている事実もある。
裁判員制度だ。これもくじ引き司法と言えないこともない。アメリカなどの先進国でも行われている陪審制や参審制ならもっとくじ引き感が強い。
だから、政治でも、という話には直結しないかもしれないが、ありえなくもない話くらいに考えてもいいだろう。なんなら、行政、役人になるのもくじ引きで決めてもいい、なんて話にもなるだろうか。
いずれにせよ、なんというか、どうもあれだ、やっぱりなんかちょっとそろそろ議会制民主主義もアップデートしてもいいかもしれねえ。なにせ「最悪の政治形態」だ。改善の余地はある。そういう気もする。
その選択肢の一つとして、まあ一つくじ引きという方法もあるんじゃねえのか、くらいには心にとどめておこうと思った次第である。
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【著者プロフィール】
著者名:黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
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