学生時代の話なのだが、当時ものすごくバレーボールに打ち込んでいた友人がいた。
彼のその情熱は傍からみていて異常な程だった。

試合中に網膜剥離を起こしたのに自分が抜けるとチームが負けるからと試合を強行させたといえば、なんとなくその異常さが垣間見えるだろう。

 

こんなプレイスタイルだからなのか、彼は本当にしょっちゅうテーピングやらアイシングといったものをやり続けていた。

痛み止めもバカスカ飲みまくっており、こいつは早死するなぁと思ったものだった。

 

ある時、その彼に「そういうのって、効くの?」と聞いた事があった。

これは自分自身がテーピングやアイシング、飲み薬といったものの効用がイマイチ感じにくかったが故の質問だったのだが、彼は即答で

 

「効くよ」

と答えた後に、続けて面白いことを述べた。

 

「けど、こういうのに頼ってると弱くなる。だから使わないに越した事はない」

 

先送りにしていいことは、あまりない

薬を使えば使うほど弱くなる。

当時はそのフレーズの意味する事がまったくわからなかった。

 

しかし何故かその言葉は自分の心のなかにずっと残り続けており、定期的に思い出し続けるという日々が続いて10数年がたった。

 

その後、僕は随分と合法的な薬物を日常生活の中に取り入れるようになった。

具体的にいえばカフェインやアルコールなのだが、好んで摂取していた当時は、そのポジティブな効用にしか目がいかなかった。

 

カフェインを飲めばパキッとするってんなら、カフェインはゴクゴク飲む以外に選択肢は無いとしか思えなかったし、アルコールでの酩酊は非現実的な浮遊感に加え、日常生活における苦からの逸脱を促進してくれるから、もう毎日飲む以外に選択肢は無いと思っていた。

 

「どうせ寝れば翌朝になれば全部もとに戻ってるだから、日中はカフェインでガンギマリして夜はアルコールでぶっ倒れればいいじゃんね。そうやって、人工的にオンオフ作って人生を楽しむのが最適解に決まってるじゃん」

 

しかし…これは大いに誤っていた。

カフェインの多量摂取は僕の身体から概日リズムの不調をきたしたし、アルコールは本当の問題に向き合うというツケを先延ばしにし続けた。

 

こういう生活が普通ではないというのは、そういう状態から離れてみれば当然の事としか思えないのだが、その当時は便利な道具を使って日常生活における最適解を抽出させているだけだとしか思っていなかった。

 

結果的に色々なツケを僕は支払う事になったのだが、その当時はそのツケが何の代償なのかが全くわからなかった。

不運やそれまでの業だろうぐらいの荒い解像度でしか物事を捉えておらず「今は厄年なだけ。まあ、またそのうち幸運が巡ってくるだろう」と、まったく真剣に考えずに生き続けていた。

 

依存症患者と自分がビックリするぐらいに似ていた

その後、たまたま<世界一やさしい依存症入門; やめられないのは誰かのせい? (14歳の世渡り術) | 松本俊彦>を読んで、椅子から転げ落ちるほどの衝撃を受けた。

この本はアルコールを始めとする様々な依存症行為について書かれたものなのだが、そこに出てくる依存症患者の行動原理が、どう考えても自分と同じだったのである。

 

つらいことがあるとリストカットをしてしまう方が、リストカットをするとスッキリして楽になるからリスカをやめられない。

やめようとするとイライラすると言っているのをみた時は

 

「これ、完全にワイの仕事の後の一杯やん…」

としか思えなかった。

 

依存症行為は自分自身と向き合わないと、治らない

依存症的な立ち振いは誰にでもあるものだ。

例えば仕事なら、どこかに属人的な性質を抱えるのは必然的な事だし、道具や趣味に人生の意義や意味のようなものを見出す事は、病的なものではない。

 

とはいえ、じゃあそれが依存的な行為が無害だという事にはならない。

日常生活を破綻させたり、誰かの迷惑に繋がるような行動がどうしてもやめられないというのなら、主従の逆転が生じている。

アルコール依存症はその代表的なものだが、その他にも様々なものに人間は容易に主従逆転を許してしまう。

 

よく依存症は否認する病であると言われている。

例えば「あなたはアルコール依存症ですね?」とアルコール依存症の患者さんに尋ねると、本当に様々な詭弁でもって、それを全力で否定するのである。

 

僕も割とアルコール依存症気味な部分があるので、最初は「アルコール依存症だって他人から言われるのが不快だから、こうしてゴリゴリに否定しにかかるのかなぁ」と思っていたのだが、いま思うとこの否認行為はもう少し複雑な要因を抱えているように思う。

 

本当の問題に目を向けるのは怖い

なぜ人は不快な現実を指摘されると、それをイライラしながら全力で否定しにかかるのか?僕が思うに、それは本当の問題に目を向ける事が、とてもとても怖い事だからである。

 

先に紹介した<世界一やさしい依存症入門>という本の中で僕が最も感心したのが、筆者である松本さんがリストカットをやめられない女の子に、自分の行動表を書いてもらうようにしてもらっていた部分である。

 

この行為を通じて、松本さんは患者に「どういう時にリストカットがしたくなるのか?」を具体的に意識化させる事に成功していた。

 

それまでは「どうしてリストカットするの?」と聞かれても「…よくわかんない…」としか答えられなかった患者さんが

 

「こうこう、こういう時にリストカットがしたくなってしまうんです」

 

と解像度をあげて回答できるようになる様をみるのは圧巻であった。

 

このとき、どうしてアルコール依存症の人が自分の立ち振舞いを否認するのかに対する自分の解像度がもう一段階あがった。

あの否認行為は単純に問題から目を背けたいという欲求以外にも、そもそも本当に自分が何で多量飲酒しているのかの理由を、自分自身が全く理解できていないからなのである。

 

醜い心と身体の声に向き合う

そう考えると、自分自身がイライラしてやってしまう行為の本当に多くが、何を端とするものなのかが実に無自覚であるという事に気が付かされた。

 

例えばコーヒーの多量摂取。これはアルコールで鈍った頭と、寝不足である自分にキチンと向き合えていないが故のものであった。

 

本当ならば…酔いが残っているのなら、最適解は「飲みすぎない」である。

しかし自分がアルコールを多量摂取しているという”現実”を否認、あるいは認知できていないと…ついコーヒーの消費量がかさんでしまう。

 

寝不足であるのなら…本来やるべきなのは「ちゃんと寝る」である。そしてキチンと寝れていないのならば、睡眠時間を確保するべく動くべきなのだ。

しかしその”現実”を否認、あるいは認知できていないと…やはりコーヒーの消費量がかさむ。

 

このどれもが自分自身の身体があげるメッセージに、キチンと声を傾けておらず、ドーピングのような裏技的なアイテムを使用して、日常生活を超越させようという下心が故のものである。

 

しかし改めて言うまでもなく、こういう人間の限界を超えるような行いというのは、そう長いあいだ継続できる性質のものではない。

 

ドーピングは最初の頃はまるで自分が超人になったかのような錯覚をもたらすが、それを継続使用していると出来上がるのは単なる廃人である。

 

ちゃんと身体の声を聞く

じゃあ継続可能な人生をやるにはどうすればいいのか。それは身体の声を聞き、薬と試行錯誤の上で付き合い続ける事だ。

 

例えば…僕は今はコーヒーは起きた瞬間、朝の一杯だけと決めている。試行錯誤の上、朝一杯のコーヒーは日常生活の開始を自分自身の身体に伝えるメッセージとして、最適だという結論に至ったからである。

 

もちろんこれだと過労や睡眠不足な時、午後はポンコツになる。それでいいのか?いいのである。だってポンコツになってしまったという事は、何よりの「休め。んで今日は早く寝ろ」というメッセージに他ならないのだから。

つまり日中の眠気覚ましとしてのカフェイン利用は、僕の中では禁忌である。

 

理想をいえばコーヒーを飲まない生活の方が、より身体の声に寄り添った理想の生活が送れるのかもしれない。しかしそこまで潔癖になってしまうのは、なんていうかちょっとだけ寂しいものがある。

 

なんていうか、これぐらいの距離感が自分には丁度いいのだ。だってコーヒー、好きだし。

 

マイルールにまで結びつけられさえすれば、良い距離感に結びつくはず

他にもアルコールやSNSがどうしてもやりたくなってしまった時は、それを禁止するのではなく、何に突き動かされてやりたくなってしまうのかを極力意識化させる事にした。

 

惰性で「こんなもん、やるもんじゃねーよなぁ」と言いながら時間をドロドロに溶かしていた頃は、それらと良い距離感を保つ手立てすら見えなかった。

最初は制限できても、そのうち際限なく時間が吸われるの繰り返しであり、何をどうしたらいいのかが全くわからなかった。

 

しかし面白い事にそれらを何でやりたくなってしまうのかの理由が見えてくるようになってから、どんどんそれらに使う時間が減っていった。

 

もちろん今後またスリップして元に戻ってくる可能性もそれなりにはあるが、恐らくなのだけどコーヒーのように自分なりのルールを決められる場所にまで自分の行動を結びつけられさえすれば、適切な距離感を保てるようになるんじゃないかなと思っている。

 

冒頭の友人が述べた事の真意を自分なりに補うと、薬は使いすぎると<身体の声を聞く力が>弱くなる。

そこで自分自身と向き合わずにツケを将来に回し続けて、よいことはあまりない。

 

ちゃんと困難の存在を認めよう。ちゃんとその真名さえ勘破できれば、それは打ち倒せるものでしかない。

古来より、魔女や吸血鬼といった存在がその名前を見抜かれる事を恐れるファンタジーが人気だが、その源泉はたぶんここにあるんじゃないかなと自分は思う。

 

問題は、正しく特定さえできれば解決は容易いのだ。まあ、それが一番難しい事なのだけれど。

 

 

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(文責-ティネクト株式会社 取締役 倉増京平)

 

 

【著者プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます