「パパゲーノ」という言葉をご存じだろうか。

ひとつの人生観を表す言葉である。

 

人間、いつどこで不幸の渦に巻き込まれるかなんてわかったもんじゃないし、人生の「前提」なんて、あっという間に壊れた。

 

エリートだった。しかしある時崖から落ちるように崩れた。一度は持ち直したのに、再び不幸のどん底に叩き込まれた。

正直、生きていることに未練はない。それでもわたしは、日々息をしている。

 

限りなく普通っぽいわたし

「清水さんって、全く『そういうふう』には見えないですよね」。

よく、そう言われる。

 

「そういうふう」=「精神障害者」のことである。

 

まあ、障害と20年も付き合っているうちにこなれてきたというのもあるだろう。完治の見込みはない。「寛解」という落ち着いた状態のなかにいるだけのことだ。

 

「障害があっても希望を持って生きている人がいる」的な話をマスコミなんかで目にする。

そういう意味では、音楽という趣味もある。野球観戦も好きだ。大切に思えるパートナーもいる。収入面でもそこまで困ってはいないのだから、外面としてはそれなりに充実している部類だろう。

 

しかし正直、生きることに未練はない。

 

西新橋の交差点

10代のとき、未来はかなり明るかった。

 

中高一貫進学校で、高校に上がるときは授業料タダの特待生。そこから猛勉強して現役で京都大学に合格。

アルバイトも楽しかった。むしろアルバイト先がテレビ局だった影響でTBSに入社した。キー局行きはエリートである。

 

報道記者として1年目から大きな仕事に携わり誇らしく思っていた。

激務ではあったが20代にして1000万円程の収入があった。うわー、かっこいい。すごい。

 

2年目に警視庁の担当記者として引き抜かれた。社会部員の花形とも呼べるところだが、実は筆者の肌に合う仕事ではなかった。

 

「1年目の働きがあったから、警視庁行きの切符をやる」。

そう言われたが、これ以上ないほど欲しくない切符を受け取るのは社命だから仕方ない。

 

レポートや現場中継で全国に放映されている姿を親族も喜んで見ていた。

そして、あえなく崩壊した。

 

右も左もわからないうちに放り込まれる場所ではない。6年も上の先輩の後任など、ろくに務まるわけがない。

いや、正確に言えばそれなりに務まっていたのだが、その代償はあまりにも大きすぎた。

 

申告上だけ36協定ギリギリの勤務時間。泊まり勤務の日は40時間以上の連続勤務。

何よりも毎日が他社とのスクープ争いという緊張感。いや、とてつもない圧迫感。

 

警視庁の記者は担当が分かれている。全てを取り仕切るキャップが1人。その元に殺人、傷害などを扱う捜査一課担当が当時は3人、大型詐欺など知能犯を扱う捜査二課担当が2人、あとは公安担当が1人、そして「それ以外全て」と言っていいほど色々な範囲の事件を扱う「生安(=生活安全課)」担当が1人。交通課も同時に担当する。芸能人の交通事故などはスクープ合戦である。

 

1人担当の孤独さもあった。

それでも1年と少し踏ん張った頃、精神が壊れた。

 

日中「ちょっと出てきます」とだけ言い残して、何も思考できない頭であてもなく近くの道を彷徨うことが増えた。

当時の勤務先は桜田門の警視庁本部である。そこからふらふらと歩き、西新橋の交差点を通るたびに「飛び込みたい」とばかり考えるようになった。

 

これはもう壊れている。心療内科に足を運ぶのには何の抵抗もないくらい疲れ果てていた。

 

2度目の絶望から希望、そしてまた絶望

鬱病の診断はすぐに下され、投薬治療が始まった。

 

しかし、20年前のことである。

今とは大きく違い、心療内科や精神科に理解のある時代ではない。

なかなか言い出せるものではなかった。

 

自分の手首に剃刀を充てがう日が増えてようやく、背に腹は変えられないと決断した。

上司に事情を全て話してようやくお役御免となり、残業の比較的少ない内勤へと移った。

お疲れ様、と高級寿司を奢ってもらった。

 

通院先を自宅の近くに移し、病欠として認められる数ヶ月休み、今度は文部科学省担当記者へと配置転換してもらった。他省庁の先輩が全力サポートするという体制のもとである。

 

それでも2度目の限界が来て、社会部を離れることになった。

CSニュース担当として「ゆるく過ごす」よう配慮がなされた。

その担当での仕事は楽だったし、多くのスタッフさんとご縁ができた。なんとか堪えられるようになっていったが、別の問題が発生していた。診断名が変わっていたのである。

 

「あなた、鬱病じゃないよ」。主治医の一言である。

 

「色々振り返ったけど、躁鬱病だね」。

大きなショックを受けた。

 

というのは、数ある精神疾患の中でも、統合失調症と双極性障害(躁鬱病)は「2大精神疾患」とよく言われる。

両者に共通するのは「完治」という概念がないことだ。投薬などで症状を抑え込み「寛解状態」として普通の生活のようなものができるようになっても、治療そのものは生涯にわたって継続しなければならない。意味合いが全く違うのである。

 

ただ幸いなことに、治療薬を躁鬱病のものに変えることで症状はおさまっていった。そして今度は、経済部記者として復帰した。

 

そこからは比較的安定していた。時間が不規則になる宿直からは外してもらい、不調もすぐに申し出られる環境があった。

そのおかげで、経済記者として多くの経験、知識を積んでいけたし、調子の良いときには自分の力を発揮し広く認められた。

先輩からも「清水さんが一番、この部を支えてるよね」とまで言われた時は素直に嬉しかった。それも、わたしが泊まり勤務のシフトに入っていないこと、その事情をみんな知った上である。

 

しかし、そこから何年経った頃だろうか。

きっかけは忘れたが、休みがちになってしまった。それでもなんとか部署的には許容範囲として受け止めてもらえていた。

 

ただ、ことは次第におかしくなっていった。躁状態に入ってしまい、目に余るところがあったと今ならわかる。

せっかく現場に戻れたのに。再び認めてもらえるようになったのに所詮は限界持ちか。

そして再びわたしは壊れた。

 

久々に死ぬことを考えるようになった。

酒を飲みながら大量服薬をしては、しかし自分で救急車を呼び胃洗浄を受けていた。

救急車が来る時には近くの交番から警察官も来るのだが、その警察官が救急隊員に

 

「あ、この人ね、鬱持ちなのよ」

と面倒臭そうに伝えたことがあったのは覚えている。

 

いつもなら数十錠でじゅうぶん「ラリった」状態になれるのだが、150錠ほどを飲んだこともある。その時もいつものように救急車を呼んだ。乗せられたところまでは記憶があったが、目が覚めると何故か遠くに住んでいるはずの友人、それどころか九州にいるはずの母親がいた。

 

「みんな、一晩でなんでそんなに遠くから来られたの?」

不思議に思っていたが、なんということはない。わたしは3日間ほど昏睡していたのだ。

そしてご丁寧にも、友人らにお別れのメールまで送っていた。

 

メールを見て仰天した友人が、あの手この手で搬送先を特定したらしい。

 

空前絶後と言われたドキュメンタリー

その日もわたしは休んでいた。

夕方あたりから、父から大量の不在着信があったことは知っていたが、話す気力はない。

 

しかしお世話になっていた産業カウンセラーから電話が来て、

「すぐにお父さんに電話してあげて!」

という。

 

そして父が放った言葉は

「お母さん、亡くなったよ・・・」。

 

母がすこしこころの不調を抱えて通院していたことは、父から聞かされていた。しかし、ここまで重いものだったことは隠していたのだ。

壊れかけた父を見て気丈すぎる振る舞いをしていたわたしも自宅に戻ってからまた壊れ、長い入院生活に入った。

 

しかし、普通ではない一念発起をする。

「これをドキュメンタリー番組にしよう」。

 

「自殺」はわたしにとっては、ずっと隣り合わせの存在だった。大きなテーマだ。しかし他人の生々しさをカメラに収めるのは難しい。

 

1年かけて父を取材した。

こんな取材、普通の人でも精神的にタフである。

のちに聞いたところ、編集マンも「家に帰ってお笑いDVDを見ないと辛かった」という。

 

毎月、病棟から地元に帰った。原稿も病室で書いていた。

放送が終わってそこからまた休み続けていたが、ある日限界が来た。ふたたびの飲酒オーバードーズで救急病棟である。

 

父が九州から来た。

「お前、おれになんちゅったか?お父さんより先に死なんちゅったやろが!」

 

ぐうの音も出ないが、でも自分だってきつい。

しかしこれをきっかけに少し思い直したのも事実だ。

 

「パパゲーノ」という生き方

実のところ、このドキュメンタリーが放送されて以降、わたしは記者という職業に対する未練を失っていた。

悪い意味ではない。

 

「これ以上ここにいても、これ以上のものを作れる気がしない」。

だからいずれ退職することは視野に入っていた。

 

そこから管理部門を経験し、それもまた貴重な勉強になったが、腑抜けになっていたのは事実だ。

こうなってしまうと、どれだけ周囲の優しさを受けても、良い反応はあまりできない。

 

そして退社して、数年が経つ。

 

今の仕事にやりがいがないわけではない。ただ、「やりがい」を過度に背負うことをやめた。物事に期待しすぎると、その通りに行かなかったときのダメージは大きい。そのことをもう一生分味わってきたと思う。

 

「6割の力で生活をすること」。

 

精神科医からそう言われ続けたし、そのことに慣れてきた。

かといって生きがいがないわけではない。音楽はわたしの大きな支えになっている。

 

しかし。

「生きがい」って、無理をしてまで探すべきものなんだろうか?

「ひとつのことのために生きてる」「多趣味」そういうの、なんかかっこいいよね、と思ってるだけじゃんじゃないか?

 

わたしは少し前から「諸行無常」の心地よさに気づいた。

最低限の目標として、父より先には死なない。それだけのために息をしている。両腕に刻まれた無数の傷跡と一緒に、時には路地裏に身を潜めながら。

 

「パパゲーノ」と呼ばれる人たちがいる。

 

死にたい思いを抱えながらも、さまざまな事情で生きている人たちのことだ。

言い換えれば「生きる」「死ぬ」という2つの選択肢のなかで、積極的かそうでないかは別として「生きる」という方の選択肢をとりあえず選んで命を繋いでいる人たちだ。

 

いま、わたしはそこにいる。生きることに未練はないけれど、まあ、今じゃなくてもいいし、痛いのは嫌だし。とりあえず生きておくか。

それも案外、悪いもんじゃない。

 

 

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【プロフィール】

著者:清水 沙矢香

北九州市出身。京都大学理学部卒業後、TBSでおもに報道記者として社会部・経済部で勤務、その後フリー。

かたわらでサックスプレイヤー。バンドや自ら率いるユニット、ソロなどで活動。ほかには酒と横浜DeNAベイスターズが好き。

Twitter:@M6Sayaka

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Photo:Road Trip with Raj