この記事で書きたいことは下記のようなことです。

 

・私が知っている中で一番「整理整頓」「片付け」が上手い人は、昔居候していたバーのマスターです

・マスターに「片付けのコツ」を聞いてみたところ、「頭と手を同時に動かそうとするな」と言われて、以下のようなことを教わりました

・片付けというのは要は「カテゴライズ」であって、単純化すると物品を分類するだけの行為

・人間は複数のことを同時にやるのが苦手であって、「考えながら手を動かす」のは高いコストを要求される

・だから、「考えておけることは事前に考えておく」だけで片付けのハードルが下がる

・お前は片付けの時、手を動かしながら分類まで考えようとしているので全然片付けが出来ない、先に考えるべきことを考えろ

・その教えを後から思い出して、だいぶ(片付けに限らず)タスク処理が上手くなりましたので、片付けが苦手なひとはご参考まで

 

以上です。よろしくお願いします。

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。

 

昔私は、名古屋駅に程近い、小さなバーの二階に住んでいました。

昔生活創庫があった辺り、と言えば分かる人には分かるでしょうか。今では完全に様変わりしてしまったみたいですが。

 

そのバーは、カウンターと小さなテーブルが3,4席という席配置になっていて、人が10人も入れば満席になっていました。

昼時には定食屋みたいなこともやっていて、焼うどんやらチャーハンやらを出していました。

二階には店員の仮眠室か何かの為に作られた部屋があって、私はそこに結構な期間転がりこませてもらっていました。

 

私の人生には何人か、「後々の生活で強烈な影響を受けた人」がいるのですが、このバーのマスターもその一人です。

マスターがいなければ路頭に迷っていたかも知れませんし、考え方でも色々な影響を受けました。この人がいなかったら、私は今こんな呑気に暮らせていなかっただろうな、と思います。

この話は以前もちらっと書いたことがありますので、良かったら読んでみてください。

 

 

それはそうと、私は子どもの頃から、「片付け」や「整理整頓」というものが苦手です。私が使っていた勉強机には、大抵うず高くプリントの山やらペットボトルやらが積もっていましたし、床も三分の二くらいはなんだか分からないガラクタで埋まっていて、辛うじて出来た隙間にうっすいタオルみたいな布団を敷いて、テトリスのブロックの間で寝ているような状況でした。

 

マスターは基本私の生活には殆ど干渉しない人だったのですが、ごくたまーに私の部屋を覗きに来ては、「ちょっと床が抜けないようにしとこっか」と言って片付けを手伝ってくれました。

マスターが一時間くらい手伝ってくれるだけで、「ここは数時間前と同じ部屋なのか??」と思うくらい部屋が綺麗になって、そのおかげで私はなんとか人としての生活水準を保っていました。マスターに頭が上がったことは人生で一度もありませんが、これもその要因の一つです。

 

当時の私は、マスターのことを「天才的に整理整頓が上手い人」だと思っていました。なにせ名駅裏のバーですので酔っぱらった人も多く、バーが散らかることもしばしばあった筈なのですが、私は「散らかった状態のバー」を一度として見たことがありません。

客商売をやっている人というのは、多かれ少なかれ整理整頓が上手なのかも知れませんが、マスターはその中でも際立っているように思えました。

 

ある時、

「マスターってなんでそんな片付け上手いんですか?」

と聞いてみたことがあります。20年以上前のことですが、この時の問答はかなりはっきり覚えています。

 

マスターの答えは、

「いや別に大して上手くないよ。君があまりにも片付けヘタ過ぎるだけ」

でした。質問を変えました。

「じゃあどうしたらマシになりますかね?」

 

こういう抽象的な質問に対して、マスターは「答えに時間をとる」ということが殆どありませんでした。すぐにこういう答えが返ってきました。

 

「多分だけど、いっぺんに色々やろうとし過ぎ」

「はい?」

「君さ、片付ける時、手を動かしながら考えてるでしょ。人間はいっぺんに色々やれる生き物じゃないんだからさ、考えないといけないことは手を動かす前に済ませておかないと」

 

正直なところ、言われた時はピンときませんでした。「片付け」は「片付け」であって、別に思考労働ではなく、純然たる肉体労働だ、と私は考えていました。

そう言ってみると、マスターは「違う」と言いました。

 

「例えばさ、君、プリント片付ける時、片付けながら「このプリントどうすればいいだろう」って考えてない?捨てていいのか、なんか書いて出せばいいのか、今は使わないけど後で必要になるのか、それともプリントに書いてある他のタスクをやる必要があるのか、そういうの一枚一枚考えながら片付けようとしてない?」

「…………あーーーーーー確かに」

言われてみると、という感じでした。

 

「片付けって、要は分類なんだよ。「捨てるもの」「今は捨てられないけど、何かした後に捨てられるようになるもの」「捨てるべきではないけど普段は使わないもの」「普段から使うもの」とかさ、まず分類を作って、その上で「どれがどの分類に入るのか」を判断して、その判断に基づいてそれぞれ必要な場所に動かすわけでしょ。捨てるものはゴミ袋に、使わないものは物置に、使うものは引き出しにってさ。だったら、先に分類とその条件は考えておいて、「あ、これはこの分類」って、いちいち考えないでも手を動かせるようにしとかないと」

「……なるほど」

「例えばプリントなら、情報だけ把握すればいいやつならA、提出期限が近いヤツはB、遠いヤツはCって感じで、事前に基準決めておけば、頭を使う部分は最低限になるでしょ」

「それを、「分類を作る」「どの分類に入るのか考える」「手を動かす」まで、片付けながら全部いっぺんにやろうとしてるんだから、そりゃ時間かかるし、片付け自体面倒くさくなるでしょ。考えるってすげー大変なことだから、片付けする前に考えることは終えとかないといけないんだよ」

 

要するに、マスターが言っていることは、

「思考と行動を分割しろ」

「手を動かすことと考えることを一度にやろうとすると行動のコストがやたら上がるので、「考える」は事前に済ませておけ」

ということでした。

 

本でもプリントでも道具でも何でも同じなんですが、片付けをする時は、「何に対してどういう処置をするか」という方針を必ず決めなくてはいけません。捨てるもの、とっておくもの、すぐ使うもの。それを決めてその通り処置をすること、つまり「分類」が片付けの本質だ、と。

 

その分類を頭の中でやりながら手を動かしてたら、そりゃ面倒くさいでしょ、と、マスターが言っていたのは要はそういうことだったのです。

後から意味が分かってくる類の言葉だったと思います。

 

「この教えでたちどころに片付けが上手くなりました」と言えれば、それはお話として非常に綺麗なのですが、もちろん現実は厳しく、私はマスターの言葉に「ほほーーー」と感心しながらも、その後しばらくは片付け下手のままでした。

 

認識一つで行動が改善されれば苦労はありません。私はその後も、数か月に一度「そろそろ人間が過ごせる環境ではなくなってきた」という頃にようやく片付けをしていましたし、片付けを進めながら「このプリントどうしよう……面倒くさ……」とやり続けていました。

 

私がマスターの言葉を思い出して、芯から納得できたのはそのずっと後、社会人になって仕事を始めてからのことでした。

それがどんなタスクであれ、「何をするべきか」を考えながらタスクを進めるのは、滅茶苦茶高コストだしハードルが高い行為です。PDCAサイクルで一番重要なのは「P(プラン)」であって、「何をどうするべきか」という、「事前に考えておけるパート」はやり尽くしておかないと、いざ「実行」となった時手がまったく動きません。

 

自分にせよ、部下にせよ、「考えられることは先に考えておけ」というのは、身に染みるくらい散々苦労させられて、ようやくある程度出来るようになってくることでした。

 

タスクを片付けながら、時々マスターの言葉を思い出します。

人生でままあることとして、「その言葉の意味が理解出来た頃には、もうその言葉をくれた人はいない」ということがあります。マスターはもう亡くなって久しく、私がしばらく身をおいたバーもとっくに取り壊されて、今は名駅裏の生活倉庫すらありません。

 

出来ることなら、「あれってこういう意味だったんですね」と、今までの人生で色んな示唆をくれた人たちともう一度ゆっくり話してみたいなあ、と。話せなくなってからでは遅いんだから、話せるうちに出来るだけの人と話しておこう、と。

そんな風に思う次第なのです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

 

 

 

【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

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