「おもしろい」ってなんなんだろう?

おれはあるテレビ番組を見て、「おもしろいってなんなんだろう?」と深く思った。なにを見たのか? 漫才師の日本一を決めるM-1グランプリか。いや、違う。日本で一番すべっている芸人を決めるS-1グランプリだ。

 

S-1グランプリは、テレビ番組「水曜日のダウンタウン」の企画だ。

地下芸人に詳しい売れっ子が、それぞれに「一番おもしろくない」と考える芸人を推薦し、戦わせる。

 

架空の「S(シングル)-1」というピン芸人の大会だと思わせ、その実は「S(スベリ)-1」というわけだ。

トーナメント式で戦い、より「ウケなかった」方が勝ち上がる。参加芸人はもちろん、お客さんもそのことは知らない。勝ち抜いた人間が一番つまらないということになる。

 

あまりにも残酷な企画であるとは言えるが「芸人は名前が知られてなんぼ」という視点からすれば、ほとんど日の当たっていない、無名の芸人が、人気テレビ番組に出られる。

「逆に」おもしろいということになって、場合によってはプチブレイクすることすらあるかもしれない。

 

一方で、本人たちが「おもしろい」と思ってやっていることを徹底的に踏みにじることにもなる。優勝してしまったエンジンコータローはこう語っている。

エンジン:マジで膝から崩れ落ちそうになるくらい嫌でしたね。自分が面白いと思うことを全力でやって優勝したのに、一番スベっていたと言われて……。もう感情がグチャグチャになりました。

――とはいえ、これまでにないほどに名前が知れ渡り、注目されたことは間違いありませんね。

エンジン:他の出場メンバーや芸人仲間らは、どんな姿であれ有名番組で大きく取り上げられて喜べるようなんです。いい意味での芸人気質を持っているから「これはチャンスだ!」と言ってくれます。でも僕はこの状況を「オイシイ」と思えなかったんですよ。単純に、「スベる=芸人としてダメ」という考え方がこびりついているので、とにかくしんどかったですね。

トップ エンタメ 『水ダウ』スベリ-1GP優勝芸人を直撃。決定の瞬間「膝から崩れ落ちそうになった」

優勝者は、しんどかった。そう言っている。なので、ひどく残酷な見世物だったといえるだろう。

 

だが、おれはそんな残酷な見世物から目が離せなかった。だれに無理やりやらされているわけでもなく、自らお笑い芸人という道を選び、短くない年月をそれに費やしてきた人間のすることが……ほんとうにおもしろくないのだ。

 

なにをやっているのかわからない。なにをいっているのかわからない。それらはときに笑いにつながることもあるが、笑えない。あるいは、なにをいっているかはっきりわかるのに、笑えない。そちらのほうがやばいのか。とにかくおもしろくない。

 

優勝したエンジンコータロー、その他出場者に、そんな言葉を使ってしまうのは失礼なのだろうか。そうかもしれない。

しかし、おれは本当におもしろくなかった。番組の構図とかそういう意味じゃない。ただ、そこで繰り広げられたネタが、本当におもしろくなかったのだ。

 

ぜんぜん笑えない。そんなことがあっていいのだろうか? おもしろいってなんだろう? 笑うってなんだろう? おれはそのことで頭がいっぱいになるくらいだった。

 

その後、年末の風物詩といってもいいM-1グランプリも見た。見て、自分なりに採点して、ネットに晒した。

ある人をおもしろくないと書いてしまった以上、自分がおもしろいと思うものがなにか晒す義務があるように感じたのだ。むろん、おれになんの影響力もないので、自己満足に過ぎない。

 

そして、また思った。M-1グランプリが厳密に日本で一番おもしろい漫才師を決める大会かどうかはわからない。わからないが、そうとうにおもしろいトップクラスの人たちであることは確かだ。

それでも、笑えるネタと笑えないネタがあったのだ。敗者復活戦から見ていたが、やはりどうも「自分は」笑えないものもある。

 

笑いには好き嫌い、ハマる、ハマらないがある。そんなことはわかっていた。当たり前だ。

どんな人気芸人でも自分にはつまらないことはあるし、あまりテレビで見かけることはないけれど、たまに見かけては「おもしろいのにな」と思う芸人もいる。そういうものだ。

 

ただ、スベリ-1を見たあとのおれは、やはりM-1でも「おもしろいってなんだろう?」という疑問があたまに浮かんでしまった。

 

ちなみに、それと同時に浮かぶ漫画があって、ギャグ漫画家の相原コージの『なにがオモロイの?』だ。

この漫画はギャグという笑いを突き詰めていって病んでしまう極北が描かれている。自傷行為のような漫画だ。

メタな前衛的ギャグ漫画と読むのが正しいのだろうか? しかし、相原コージはその後、本当にうつ病になってしまう。今はそれを漫画にしている。

 

笑いの思想史

ともかく、おれも「おもしろいってなんだろう?」という疑問を抱いてしまった。

疑問を抱くとおれは本を読む。べつにネットで調べたりしないわけじゃないんだが、なんか一冊あたってみることにしている。

 

して、今回は、笑いをクリエイトする当事者による実践的な「お笑い論」ではなく、哲学とか心理学とか方面で「おもしろい」はどう扱われているのかについて読んでみた。まず次の本である。

『笑いとユーモアの心理学:何が可笑しいの?』だ。まさにおれが知りたいことが買いてありそうなタイトルだ。

 

まず「笑い」と「ユーモア」とはなにかというところからはじまって、笑うときの表情筋の動きとか(デュシェンヌ・スマイル)……なかなか、なにがおもしろいのか、という話に行くまでが遠い。

そりゃまあ、笑うということを考えるとすると、迷走神経緊張や呼吸性洞性不整脈の話にもなるのだろう。

 

というわけで、おれが読みたかった感じなのは「第4章 ユーモア理論を概観する」あたりからになるか。

プラトン、アリストテレス以来、多くの哲学者や思想家が人はなぜ笑うのか、可笑しいと感じるのか、様々な説明を試みてきた。たとえばクレイグ(1923)は88の理論を紹介している。しかし、大きく分けると、これらは優越理論、不一致理論、エネルギー理論の3つの流れのどれかに位置づけられる(ラスキン、2008)。

笑いのパターンどころか、説明の仕方だけで88パターンもあるんか。でも、3つに分けられるなら見てみるか。

優越理論は、最も古くからの理論で、笑いを対人的な優越の快としてとらえる。

不一致理論は、ズレの把握に焦点を置く理論で、アリストテレスも簡単に言及しているが、本格的な展開はイギリス経験哲学以降で、現在主流になっている理論である。

エネルギー理論は、放出理論ともよばれるが、可笑しみと笑いにおける快を内的なエネルギーや覚醒水準と関連づけて説明しようとする理論である。これはエネルギーの概念が登場してからの考え方で、近代になってからの理論である。

優越理論の流れにはプラトン、ホッブス、不一致理論の流れにはアリストテレス、ロック、カント、ショーペンハウアー、ベルクソン、ケストラー、エネルギー理論の流れにはスペンサー、フロイトと西欧の知の歴史における錚々たる面々が、理論の提唱者としてその名をつらねている。

ほえー、そんなにみんな笑いのことを。笑いといえばベルクソンくらいしか名前思い浮かばなかったわ。

 

そんでもって、こんな感じにさまざまな理論があって、まるで笑いを論ずるのは群盲象を撫でる(この言い回しはコンプライアンス的にどうなんでしょうか?)のごとしと著者は述べている。

でもって、本書はこれらの3つの理論をさらに思想家ごとに紹介していくのだが、それをここに書くことなどできない。

 

優越理論は、笑いを基本的に他者への優越感や攻撃性があるものとみなす。ゆえに、そういったことを正義の欠如と劣悪さとみなすプラトンなどは「笑いの敵」などと書かれている。

優越理論。これを現代日本のお笑いに当てはめてみようとすると……、なんとなくもう「いじり」の話にすぐつながりそうだし、ちょっと前は「誰も傷つけない笑い」なんてものが「逆に」評価されたりもした。

 

不一致理論は、ショーペンハウアーによれば「抽象的表象と直観的表象のズレ」で……よくわからんな。ベルクソンは「生命の持つしなやかで柔軟な働きへの機械的なこわばりの混入」とかいってるらしい。

そして、笑いは悪で悪を矯めるものという「ほろ苦い結論」で終わっているらしい。よくわからん。

 

少しわかるのは、現代の不一致理論者ヴィーチの「正常逸脱理論」だろうか。

ヴィーチ(1998)は、可笑しみの必要十分条件を、以下の3条件すべてが満たされることだとした。

①ある出来事がこうあるべきだとの基準から逸脱していると評価される。

②同じ出来事が正常であると評価される。

③①と②の評価が同時に生ずる。この3条件がすべて満たされれば、必ず可笑しみが生ずるし(十分条件)、1つでも満たされないと可笑しみは生じない(必要条件)。

これはずいぶんと言い切った感じがする。果たしてどうだろうか。いろいろ思い浮かべてみてほしい。

 

最後にエネルギー理論は……近代的な理論で、前の二つとはちがって脳においてなにが起きているかというしくみにまで踏み込んでいる。これはもう一番あれだ、理系のわからぬおれにはむずかしいので本を読んでください。

 

というわけで、ざっとではあるが、この本では15の説が紹介されていたわけだ。そのあとに感情としてのユーモアについて心理学的な話や、笑いの効用の話などが出てくるが、まあいい。とにかく、「おもしろいってなんだろう」ってとてもむずかしい話だ。

 

そして、もう一冊読んでみた。

『ユーモア解体新書: 笑いをめぐる人間学の試み』、これである。こちらの本は、笑いについてさまざまな著者による11の論考が集められている。先の本で読んだ理論についてももちろん触れられているので、復習にもなった。

 

もちろん、分類が違ったりもする。この本の第4章「ユーモアはなぜ愉快なのか」では、フロイトの説を「安堵説」としている。

ヒトがユーモアを感知するのは、精神的な抑圧や緊張から解放されたときである

「緊張と緩和」はお笑いの話としてよく見聞きするものだ。二代目・桂枝雀が記し、明石家さんまなどもこの考えをよく述べているようだ。フロイトによるといかのようになる。

ユーモアの快楽は緊張や抑圧をはじめとする「心的消費の節約」によって生じ、我々は笑うことでその余ったエネルギーを発散する

エネルギー出てきた。そっちに注目するとエネルギー理論の先駆ということになるのか。

 

いや、しかし、むずかしいね笑い。もちろん、こっちの本でもこれが結論だ、みたいなことはあまり言われていない。

いろいろな理論があるが、どうも一つでは説明できなさそうだ、という具合に見える。「ユーモアの愉快さは感情か?」ということすら論争になっている。

 

とはいえ、たとえば「優越説の逆襲」では、優越説(優越理論)が単にシャーデンフロイデ的なもの、嘲笑的なものだけではないとして、文字通り「これでいけるんやないか?」と逆襲している。

 

たとえば、ただの優越説では説明しにくいものに、優れた芸や大喜利の答えがある。たしかに、よくできた大喜利などは大笑いしつつ、感心や尊敬すら抱いてしまう。優越感ではないのでは? 優越理論では説明がつかないのでは? となる。

が、優越感には二種類あるとする。

(1)特定の個人や集団、社会に対する自らの相対的優位(下方比較)にもとづく優越感

(2)他の特定の対象との比較ではなく、自分や自分を取り巻く誰かの卓越性に端を発する優越感

でもって、この(2)の方の優越感であれば、大喜利の回答に対する笑いも説明できるという。それによれば「自らの卓越性を感受する契機となり、ある種の優越感を我々にもたらすのである」ということだ。「ズレの発見に伴って生じる優越感」。

 

さて、どうだろうか。すぐれたボケを笑うことによって、自分が優越感を感じる。そのネタを理解できた自分、そのセンスに笑える自分、それがある。そういうことだろうか。

 

そういう見方もできるかもしれない。そして、ある芸人なら芸人のファンが、その芸人で笑えない人間を「センスがない(卓越性を感受できていない)」と見下したりするのにつながったりするのかもしれない。わからんが。

 

まあ、なにがおもしろいかはわからんよな

……と、なにやら歴史があり、なおかつ結論の出ていない「おもしろいってなんだろう?」という世界、笑いの世界について、おそろしくざっくりと見てきた。

もちろん、「お笑い」は身近にあるもので、「ザコシのネタは正常逸脱理論に適合しているだろうか?」とか考えてみることもできる(正常から逸脱しているのは確かだが)。

 

しかしまあ、理論をいくら読んだところで、おもしろい人間になれるわけでもない。

ひょっとしたら、芸人のなかにはこういうことを研究しているうえで演っている人もいるかもしれない。令和ロマンとかそういうタイプなのかもしれない。

まあしかし、人間への興味、学問への興味以外で、素人が読んだところでおもしろくはなれない。せいぜい、事例としてあげられているいくつかのジョーク(おもしろいとは限らない)を覚えることくらいだ。

 

もっとも、『笑いとユーモアの心理学』にはこんなことが書いてあった。

笑いというと気の利いたジョークを想定しがちだが、日常生活における笑いでジョークによって生ずるケースは少ない。マーチン&カイパー(1999)による日誌法を用いた調査によると、毎日の笑いのうち11%だけが会話中のジョークを聴いての反応で、17%はメディアの視聴、残りの72%は日常の平凡な会話での笑いである。平凡な会話はテキスト化すると、「そこにいたらよかったのに」など面白くもなんともない内容である。

まあ、そんなもんだろう。いや、11%も会話にジョークが出てくるのか? オヤジギャクへの愛想笑いとか含まれているのだろうか。

 

まあしかし、おれ自身はというと、見知らぬ人を笑わせるどころか、話すのも怖いタイプだが、親しい人には笑ってもらいたいと思うタイプだ。

女の人と一緒にいれば、つねに笑えるネタを探しているし、会話が弾まないと落ち着かない。テキスト化したらおもしろくもなんともない内容でいい。そういうのはどこで学べるのだろうか。ユーモア会話教室とかだろうか。

 

……って、そんなものが実在するのかどうか調べたら、話し方教室なんていくらでも出てくる。どんな人が行くのだろうか。話下手な人だろうか。なにか仕事でスピーチしなくてはいけない人だろうか。

 

「笑わせなくてはいけない」という義務感があったら、それはもうホラーだろう。いや、相原コージ以外にも、ギャグ漫画家に病む人は多いという。お笑い芸人もそこに落ち込む人はいるのだろうか。見えないだけで、いるのだろう。

 

悲劇より喜劇のほうが狂気に近い。この記事では触れなかったが、不道徳にも近い。

それでも、われわれは笑ってなきゃやってらんない。笑いをもたらそうとしてくれる、すべての人に感謝しなくてはならないのは確かだろう。たとえそれが見事にすべっていたとしても。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

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