功利主義に向き合う

いきなりだが、どうもおれは功利主義者らしい。反出生主義などの持論を述べていたら、そう指摘された。

なるほど、反出生主義論者のベネターの考え方は功利主義的かもしれない。

 

とはいえ、おれは功利主義をよく知らない。「最大多数の最大幸福?」くらいのものだ。なので、おれは本を読んでみることにした。

たとえば、有名なJ.S.ミルなどはなんといっているのだろう。『功利主義』の冒頭はこんな文章で始まる。

正と不正の判断基準をめぐる論争は、解決に向けた進展が少しも見られない。人間の知識の現状を作り上げている環境要因のうちで、これほど期待はずれなものはほとんどない。

最も重要なテーマに関する思索でありながら、長いあいだ立ち後れたままであり、期待はずれという点でここまで際立っている環境要因はほとんどない。

哲学が誕生して以来、最高善に関する話題、あるいは同じことになるが、道徳の基礎になる問題は、抽象的な思想の中での主要問題として考えられてきた。才能に最も恵まれた識者たちがこの問題に没頭し、教派や学派に分かれて活発に戦い合ってきた。

二千年以上を経た後でも同じ議論が続き、哲学者たちは依然として、相変わらずの旗印の下にそれぞれ陣取っている。思想家も世間一般の人々も、この問題に関する意見の一致には近づいていない。

なんとまあ、正・不正の問題は長年論じられてきたが、期待はずれでしかないという。教派や学派に分かれてきたという。それはなんだろう?

 

……とか、白々しく書いてみたが、この本より先に功利主義についての本を一冊読んだ。

『功利と直観 英米倫理思想史入門』、これである。功利主義の初心者が読む本なのかはわからない。わからないが、入門と書いてあるのだからいいだろう。というか、ちょっと読んでみて、「これはおもしろいぞ!」と思った。

 

この本の「はしがき」はこう始まっている。

現代英米の論争では、功利主義と義務論という二つの理論が大きく対立していると言われる。

功利主義(utilitarianism)とは、行為や政策が人々に与える結果を重視する立場であり、最大多数の最大幸福に役立つ行為が倫理的に正しいとする考え方である。一方、義務論(deontology)は、そのような結果の善し悪しにかかわらず、世の中には守るべき義務や倫理原則があるという考え方である。

 たとえば、「政治家は公約を守るべきだろうか」と質問されたとしよう。一般的に言えば、政治家が公約を守ることは正しく、公約を守らない政治家は非難されるだろう。

では、なぜ公約を守るべきなのか。この質問に対しては、「人は自分がした約束を守るべきだから」と答えられるだろう。では、なぜ人は約束を守るべきなのか。この問いに対しては、功利主義者と義務論者で答え方が異なる。功利主義者は、「人々が約束を守るべきことによって初めて協力関係が成り立つ。そこで、人々が約束を守らず協力関係が成立しない場合よりも、約束を守ったほうが、社会全体の幸福が増すからだ」と答えるだろう。

一方、義務論者は、「約束を守るという行為が正しいのは、それがまさに人の守るべきルールだからだ。約束を守ることによって社会の幸福が増えるかどうかという結果の善し悪しには依存しない」と応えるだろう。

したがって、功利主義では、(たとえば政治家が数年前に発表した公約が現在の実情に合わなくなった場合など)約束を守ると社会全体の幸福量が減ってしまうと考えられるならば、約束を破った方がよいことになる。それに対して義務論では、たとえどのような結果が生じるとしても、約束は約束であるがゆえに果たされるべきことになる。

タイトルにある「直観」はいろいろあって「義務論」と現代では呼ばれるようになっている。二十世紀に入る前は、「功利と直観」であった。

 

この本では、近代における直観主義のはじまり、それに対するベンタム、ミル親子による批判からはじまり……。それぞれの陣営で百家争鳴というか、いろいろな理論が主張され、批判され、あるいは調停されようとする現代までの流れが書かれている。

同じ派でも意見の相違はある。なので、おれは功利主義どころか、高卒の無学なので本書を十全に理解した、覚えたということはできない。

 

ただ、「功利と直観」という根底の対立というものは現代までありつづけているものだとなんとなくわかった。わかったうえで、どうしてもおれは、やはり「功利主義者」だな、と思った。

 

しかし、どうも、「功利主義」というのはある種の汚名のようなものであり、先の子ミルの翻訳者もイメージの悪さから『効用主義』というタイトルにしようかと考えてみたとあとがきで書いている。本書でも「功利的」とか「功利主義」は誤解を受けやすい言葉であり、「公益主義」、「公利主義」、「大福主義」などの訳語が提案されていると指摘している。大福主義?

 

おれにはあまりそんな意識がなかったが、そういうところもあるのだろう。そんなのは知らないおれは、自分を「功利主義者(の見習い)」くらいの自己規定をしたといっていい。

 

そこに正義はあるんかい?

精神の外にある真実が、観察や経験の力を借りることなく直観あるいは意識によって認識できるという考えは、現在、誤った諸学説やよからぬ諸制度の大きな知的な支えになっていると私には思われる。

こういう理論の力を借りて、起源もはっきり思い出せないような根深い信念や強烈な感情の一つ一つが、道理によっておのれの正当さを立証する義務をまぬがれることができ、おのれの正当さの証人はおのれ自身だけで十二分だとばかりに傲然とおさまりかえっているのだ。

『功利と直観』より子ミルの『自伝』

道徳的真理がア・プリオリなものかどうか。すごく雑に言えば、功利主義はそれを認めないし、直観主義はそれを認める。

 

すごく雑にいえば、おれは直観主義が主観主義にすぎないと感じるし、外的な基準なしに正・不正が決められてたまるかという感じがする。

 

いきなりシジウィックという人の話になるが、こういうことだ。

その一方でシジウィックは、(功利主義と対比される倫理学の一方法としての)教義的直観主義は、倫理学の方法としては不十分であると主張した。善意、正義、約束、誠実など、常識道徳が支持する様々な道徳概念は、一見すると自明な(prima facie)道徳規則を提示しているように思われる。

だが、科学的な公理が満たすと考えられる四つのテスト(明白で正確な言葉で述べられている、注意深く反省しても本当に自明である、他の真理と衝突しない、「専門家の意見の一致」が十分に得られている、の四つ)をクリアできるほどの自明性は持たない。

『功利と直観』

このあたり、もう西洋哲学はよくわからないが、子ミルのカント批判に乗ってしまうところもある。むずかしいのでカントなど読めないが。

 

どうもおれは、ア・プリオリな道徳を信じていない。「道徳器官」のようなものはない。「本当に大切なことには説明が必要ない(説明ができない)」という立場には立てない。心底そういうところがある。

 

上タン功利主義

おれがこのような功利主義者だな、と思った具体例が先日あった。ネット上の論争みたいなものだ。

 

もう、忘れている人も多いだろうが、「焼肉屋の食べ放題で上タン50人前頼んだら止められた」問題だ。

これは一部のネット上で賛否両論の意見がたくさん出た。曰く、「食べ放題なのだからいくら注文してもよい」。曰く、「品がないし、他のお客さんのことを考えていない」。

 

おれはこの、どうでもいいといえばどうでもいい話題に、非常に敏感になった。そして、二度も自分のブログで記事にした。

上タンばかり頼んでなにが悪い? 暗黙の了解があるというなら見せてみろ / 関内関外日記

こんな話題があった。おれはこれは完全に店側の落ち度だと思った。それが食べ放題というものだろう。店と客との契約だろう。

そう思ってはてなブックマークを見てみたら、賛否両論というか、ひょっとしたら客を批難する声が多いようにも見える。

要約する。おれの立場は「食べ放題なら上タン50人前注文しようが問題ない」派ということになる。一度に50人前頼んだわけでもない、他の注文もしている、ちゃんと完食している。そういう前提ならば、なにが悪いのか、ということだ。

 

まず、契約の問題。店側に上限を設ける自由も上タンを食べ放題から外す権利もある。

それをあえてしないでおいて、客側に非があると考えるのは不当だ。

 

次に、マナー、常識、暗黙の了解について。これについておれは「暗黙の了解があるなら見せてみろ」と書いた。

だれも「常識的には3人前(5人前、10人前……)である」と言わない。あえて口をつぐんでいるかのように、ただただ50人前の非をあげつらう。

 

後者だ。おれは、この後者の物言いに、大きな疑問を持った。

たとえば、朝日新聞が「エビデンスがないと駄目ですか?」という記事を出したときは、大きな批判が巻き起こった。

「エビデンス」がないと駄目ですか_ 数値がすくい取れない真理とは/朝日新聞デジタル

 何をするにも合理性や客観性が求められ、数値的なエビデンス(根拠)を示せと言われる時代。そのうち、仕事でもAI(人工知能)が導く最適解に従うことになるのかもしれない。

それなのに、なにをエビデンスに50人前を非常識とするのか。マナー違反とするのか。

この件については、焼肉屋の内情から推論するでもなく、ただただ、「品がない」だ。

なので、おれは、あえて自分の日記でも煽り気味に「出してみろ」と書いた。それなりにコメント(ソーシャルブックマーク)が寄せられたにもかかわらず、これに答える人は皆無に近かった。

 

おれは、根拠のない「マナー、道徳、常識、暗黙の了解」、これによって人が人を叩く行為が気に入らなかった。そこに敏感になった。おれはそれを批判した。 

むやみに救急車を呼ぶなって明文化されている。そして、人はいつどこで最悪の無知蒙昧になるかわからない弱い存在だ /関内関外日記

了見があるなら、それを述べろ。あいまいな空気に委ねるな。金がないというなら、金がないといえ。金がほしいというなら金がほしいといえ。おためごかしはやめろ。「察して」ちゃんはやめろ。それはおれがずっと思ってきたことだ。

先の記事を読んで、単にルールに書いてないことはなんでもやっていいと思っている野郎だと思われたので、その誤解も解いておいた。ルールは書かれるべきだと。明示されることにより、世界の風通しはよくなると。

どうもこれは、直観的に「上タン50人前」を「道徳的でない」とする人と、そういう感覚のない人の対立ではないかと思った。おれは後者に属するというわけだ。

 

上タン問題まだ擦る

……「擦る」って言葉、なんなんだろうね。「同じ話題を繰り返す」という用法での「擦る」。

たぶん、芸人の業界用語が流れてきたものだと思うが、まあいい。まだ続ける。

 

で、功利主義的に見てみると、おれの考えでは「暗黙の了解を前提とした世界」より、「ルールが明示されている世界」のほうが不幸は少ないということになる……のだと思う。

 

「だれかが過剰な注文をすることで、他の人が食べられなくなるのでは?」

「焼肉屋が食べ放題をやめてしまい、他の人の迷惑になるのでは?」

という意見もある。

そういった意見は、単なる「暗黙の了解の強制」ではない。考えるに値するし、正しい面もある。そういう批判はあってよい。

 

だが、おれはこう考えた。究極的なところで客と店との契約の信頼性が損なわれることは社会にとって不幸である。

それにともなって客と店、客と客の間に疑心暗鬼と不信感、憎悪の感情が増えることも社会にとって不幸である。

 

ゆえに、この条件で上タン50人前を注文する行為を批難することは、社会の幸福を増やすことではない。

解決策は、店が困るのであれば、店の自由な権利によって困らないようにシステムを設定すればよい。それだけのことだ。おれはそうジャッジした。

 

たしかに、細かい部分を見ると、問題となった書き込みは露悪的な部分もあって、それに品があるかないかといえば、ないと思われてもしかたない表現だった。

それならそれで、単に「おれはこの人が嫌いだ」、「この書き込みが嫌いだ」と気持ちを表現するだけにすればいい(もちろん、「したほうがいい」とは思わない)。

 

そこに暗黙の了解の衣をかぶせたり、それを武器にして叩いたりすることに対して、おれは批判的になる。おれが根拠のない(根拠を設定すべきでない)とする「正義」を信じていないがゆえであろうし、それは危険ですらあると思うのだ。

 

人間は不完全なものだから

いずれにせよ、おれはア・プリオリな道徳、あるいは真理というものを信じていない。

なにか信心でも持っていれば、その宗教の教えによってそれを得ていたかもしれないが、そういうこともない。

 

人間という愚かな存在、愚直に、試行錯誤していくしない。そう思っている。たとえば、焼肉上タン50人前をチートやハックだという意見もあるだろう。

だが、そんなレベルではなく、法律の隙間をついてグレーゾーンをついて巨万の富を得たベンチャー、現大企業なんてものもあるだろう。

 

その行為そのものは、批判的に見ることはできるだろう。しかし、愚かな人類の流れとしては、バグの発見者であり、システムの改善のきっかけであると言えるかもしれない。あるいは、旧来のシステムの弊害が大きくなりすぎていたのかもしれない。

 

上タンでいえば、ほかの焼肉屋が「上タンには制限をつけよう」とか考えるきっかけだ(まあ、どんな大食いの人がふらりと現れるのかわからないのが食べ放題のリスクであると、わかっていないでやっているとしたら、それは店の責任と言わざるを得ないが)。

 

このように、「人間は過去、現在、未来、バカ」という立場で物事を考えていく、社会を成立させていくのを中島岳志は「リベラル保守主義」と言った。

保守主義って、本来どういうものなのだろうか。/ Books&Apps

 

功利と直観においては「理性」を直観より信頼するが、まあそのあたりはズレがあるかもしれない。でも、おれは、愚直に効用を考えていく理性を信用する。ベネターの反出生主義、ピーター・シンガーの安楽死論、一見自明に「おかしい」と思うことも、考えていくべきだ。一歩一歩。

そもそも、いろいろな文化、文明、宗教、人種、言語……多様性の時代だ。グローバルな社会だ。わかりあえないのは前提だ。そんな中で、「普遍的な道徳」というものを前提とすることは難しい。暗黙の了解は成り立たない、と考えたほうがいい。

……すべての個人を保護する道徳は、各個人が最も気にかけている道徳でもある。それとともに、各個人は、この道徳が言葉と行為を通じて周知され、きちんと遵守されることに、最も強い関心を寄せている。

J.S.ミル

(強調は引用者による)

たとえば、かなり同質的な人間集団である日本人の間でも、牛タンを巡って一つの普遍的な常識を示すことすらできない。

 

一見自明なことがら。これについて、一呼吸おいて考える必要がある。

たとえば、おれが思い浮かべるのは、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という話題だ。少年が発したこんなテーマが話題になったことがあった。

 

これについて、いろいろな識者がいろいろな意見を述べた。

なかにはこんな自明なことは、問題ですらないとはねつけた人もいた。

だが、それは誠実な態度とはいえない。そんな「自明」は存在しない。なぜならば、この国には死刑という「人を殺すこと」が倫理の先の法律として成立している。そして、それを八割の人間が支持している。

 

この現状で「人を殺してはいけない」とは、常識でもなんでもない。社会の道徳判断ということはできない。

「人を殺してはいけない」なんて一見自明な道徳(自明であることに「圧倒的多数な例外」なんてないですよね?)も成立しない。

ゆえに、自明の顔をしたことには疑いを持たなければいけない。面倒くさいが熟慮が必要だ。おれは直観的にそう思うが、あなたはどうだろうか?

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

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