生涯で一番重要なアニメをひとつ挙げろ、と言われたら『新世紀エヴァンゲリオン』を挙げるしかない。
私が精神科医になった動機の約20%は、この作品に感化されたせいだ。感化され過ぎたせいで、「『新世紀エヴァンゲリオン』についてレビューをまとめなさい」と言われたら今でもまとめる自信がない。
しかし、『新世紀エヴァンゲリオン』に含まれていた心理学っぽさや精神分析っぽさを振り返ることはできる。
同作品は90年代の心理学ブームやメンタルクリニックブームを踏まえていて、同時代性が強い。だから『新世紀エヴァンゲリオン』を振り返ると、当時のそうした目線を思い出すことにもなる。
90年代は「モノより心」の時代
はじめに、90年代のメンタルヘルスを巡る雰囲気について思い出してみよう。
80年代から引き続いて、90年代は精神医療語り・心理学語りがとても流行っていた。「日本人は物質的には豊かになったが、心はまだまだ貧しい。これからは『モノより心』の時代だ」──当時の大人たちはそのように語ったものである。
そうしたなか、心理学ブームやメンタルクリニックブームが起こり、世間の人々が精神分析の言葉やロジックに親しむようになっていく。
それが起こった理由の一端は、80年代のニューアカデミズム流行期に精神分析が注目されたせいもあるだろう。だが、精神分析が本当にキャズムをこえたのは90年代に入ってからだ。
1991年から92年にかけてはバラエティ番組『それいけココロジー』が放送された。所ジョージが司会をつとめ、〆に美輪明宏が謎めいた笑みを浮かべるこの番組は、深層心理を暴く心理テストなるものをスタジオのタレント、ひいては視聴者に楽しんでもらう番組だった。
番組に登場する心理テストは、フロイトやユングといった精神分析の大家の理論に基づいていると紹介された。
『それいけココロジー』はヒットした。当時、この番組のイメージがそのまま心理学や精神分析のイメージになった人も少なくなかっただろう。
俗流心理学だと批判する人もいたが、ともあれ番組は視聴率を稼ぎ、関連書籍はミリオンセラーになった。世間の人々が、心理学的なものや精神分析的なものを受け入れる準備はできていると言って良かった。
90年代は、心理学の名のもと、精神分析的に社会や人間を語るよう期待された時代でもある。
この時代のベストセラーには、精神科医や心理学者がものしたものも多い。人間や社会を語る職業として精神科医や心理学者に集まる期待、ひいて精神分析への期待は、現在とは比較にならないほど大きかった。
『新世紀エヴァンゲリオン』より少し後の時代になるが、精神科医の齋藤環が著書『心理学化する社会』のなかで情況をまとめている。この本のなかで齋藤は、『完全自殺マニュアル』や『シックスセンス』や『永遠の仔』などを挙げつつ、大衆文化の心理学化、精神科医の精神分析化について紹介している。
カウンセラーが人気職業となり、精神科医がメディアのご意見番的なポジションを獲得していく、そんな「心のケア」の時代、ひいては「心の市場化」の90~00年代前半を振り返るにあたって、この本は示唆的だ。
精神医療の現場の雰囲気も少し紹介しておきたい。私は1999年に精神科医になったから、90年代前半のことは耳学問や文献をとおしてしか知らない。
また、私がトレーニングを受けた教室は教授の専門領域が精神分析だったので、他の大学教室に比べて精神分析に親しみやすい環境だったようにも思う。が、それらを差し引いても精神分析的に患者さんについて考える機会は現在よりもずっと多かった。
ちなみに、精神分析と同じかそれ以上に精神医療の現場に影響力があったのがドイツ系の精神病理学だけど、これは世間にあまり知られなかった。
ドイツ系の精神病理学は、圧倒的なエビデンスに裏付けられたグローバルな精神医学が台頭してくる21世紀まで、日本の精神医学にとって大黒柱のような存在だったけれども、精神分析ほど「心」や「深層心理」について饒舌ではなかった。饒舌ではなかったから大衆化しなかった、ともいえる。
つまり、この時代の人々は「心」を知りたがっていた。精神分析や心理テストをとおして深層心理がわかる、そうすれば「心の問題」も治る、といった期待もあったろう。
『新世紀エヴァンゲリオン』がブレイクした時代とは、そんな風に「心」に対する期待が高まっている時代だった。
『エヴァンゲリオン』に残る「心の時代」の痕跡
そうした意識に立ったうえで『新世紀エヴァンゲリオン』を振り返ってみよう。
まずは第四話、『雨、逃げ出した後』。第四話には、近づきたいけれども近づきすぎるとお互いを傷つけてしまう心理状態をあらわす「ヤマアラシのジレンマ」という言葉が登場する。
主人公の碇シンジは、他人との接触と他人からの承認を欲しがっているけれども、親しくなることに臆病になってしまう。そんな、引っ込み思案な碇シンジを物語る際に科学者の赤木リツコが持ち出してくるのが「ヤマアラシのジレンマ」だ。
「ヤマアラシのジレンマ」の言い出しっぺは哲学者のショーペンハウエルとされているが、精神分析の始祖・フロイトがこの言葉を用いて「近ければ近いほど克服しがたい反感が生じる心の動き」についてあれこれ書き残した。
『新世紀エヴァンゲリオン』において、赤木リツコは最新の科学に通じたブレイン的キャラクターで、彼女の周囲では生物学や情報工学のテクニカルタームが頻出する。そのなかに、さも当たり前のように精神分析のボキャブラリーが紛れ込んでいるのは、今から見ればちょっとおかしく、古臭い。しかしこの古臭さが「心の時代」の刻印なのである。
それからしばらく、『新世紀エヴァンゲリオン』は碇シンジが綾波レイや惣流アスカラングレーらと力を合わせて使途と戦う、表向きは楽しげな作品に転じる。
「表向きは」と書くのは、そうしたなかでも秘密組織ゼーレ、および碇シンジの父親である碇ゲンドウの人類補完計画は着々と進行していたからだ。
そんな楽しげな雰囲気にターニングポイントが訪れるのが、第捨五話『嘘と沈黙』だ。ここでは碇シンジの周囲の人間関係に変化の兆しがみられ、特務機関ネルフがセカンドインパクトと深い関係を持つ何かを隠していることが示される。
続く第捨六話『死に至る病、そして』では、碇シンジは使徒の生み出したディラックの海に閉じ込められ、エヴァンゲリオンシリーズではお馴染みの「電車のなかで自分自身の内面と向き合うシーン」が描かれる。碇シンジはこのディラックの海からは比較的穏便に生還するが、碇シンジの周囲では不協和音が目立つようになる。
そして迎えた第弐拾話『心のかたち、人のかたち』。碇シンジは再びエヴァンゲリオン初号機に取り込まれ、そのうえで碇シンジの深層心理が描かれる。父親への攻撃衝動はエディプスコンプレックスを連想させるし、母親に取り込まれるという状況とアルカイック(太古的)な他者との融合願望は、口唇期的退行を連想させる。
実際、碇シンジが”出産”された後、カーラジオからは口唇期について云々する内容が流れていたし、第弐拾話の英語タイトルも「oral stage」 なのである。
こんな具合に、『新世紀エヴァンゲリオン』には精神分析を連想させる表現がついてまわる。
惣流アスカラングレーが使徒に心を読まれ、精神汚染を受ける第弐拾弐話や、綾波レイが使徒に融合を仕掛けられる第弐拾参話もそうだ。
「心」を閉ざして自分を守る。
「心」を開いて誰かと繋がる。誰かとわかりあう。
新世紀エヴァンゲリオンには「ATフィールド」なるものが登場し、作中では心の壁だと語られている。
エヴァンゲリオンや使徒は、そのATフィールドを展開することで自分自身を守り、と同時に、そのATフィールドを用いて対象を浸食し、攻撃に用いることもできる。『新世紀エヴァンゲリオン』の前半では、このATフィールドが戦闘を彩るフィーチャーのひとつとして注目された。
ところが後半話では、そのATフィールドが碇シンジらの「心の壁」であると同時に「他者と繋がりあうための心理的機構」といった風に描かれている。
後半話において、ATフィールドの正体は自我境界──作中に登場するこの言葉は、フェダーンというフロイトの弟子が深堀りした概念で、自他の心の距離を適切に取り仕切れない病態を精神分析的に考察するのに適したテクニカルタームだ──そのものと言っても良いものだ。
後半話でエヴァンゲリオンパイロットらが体験したのは、この自我境界を侵される体験だった。もともと親子関係に恵まれずに育った彼らが、高ストレスな環境下で、自我境界を浸食される体験を受けたわけだから、彼らが精神的におかしくなっていったのは当然である。
たとえば第四話『雨、逃げ出した後』には、碇シンジが幻覚とも解離とも離人症ともつかない異常な状態を呈する場面が登場する。これが、精神医学でいえばどの症候に当てはまるのか本当のところはわからないが、自我境界を矛と盾として取り扱う生体兵器に乗っていれば、そうした異常な状態に陥るのは不思議ではあるまい。そして人類補完計画は、この自他の心の距離を取り除いてしまい、巨大な母と融合する計画だった。
『新世紀エヴァンゲリオン』のATフィールドは、自我境界理論と親和性が高く、精神分析のアイデアに基づいて「心」にまつわる諸問題を描く際の道具立てとして見事に機能している。
このATフィールドに限らず、『新世紀エヴァンゲリオン』という作品には精神分析的なアイデアがこれでもかと登場していて、それは『ココロジー』が流行し、「心」の語り手として精神科医やカウンセラーに期待が集まっていた時代ともよく合致していた。実際、エヴァンゲリオンの総監督である庵野秀明は、『庵野秀明 スキゾ エヴァンゲリオン』のなかで以下のようにインタビューに答えている。
(碇シンジについての問答のなかで)
それは、僕が大人になるってことと同じですよね。シンジ君って昔の庵野さんなんですかって聞かれるんですが、違うんですよ。シンジ君はいまの僕です(笑)。十四歳の少年を演じるくらい僕はまだ幼いんです。どう見ても精神医学的に言うならオーラルステージ(口唇期)ですよね。メランコリーな口唇依存型。まあ、これは否定しようのない事実で、しかたがないことなんです。それから前に進もうと思ってたんですが、それは結果として自己への退行になってしまった。袋小路ですね。
1990年代をリアルタイムで生きた人には、庵野秀明の、この精神分析的な自己分析にも違和感がなかろうし、当時の雰囲気が蘇るだろう、しかしそれより後に生まれた人には、彼が喋っている言葉の意味がよくわからないのではないだろうか。
同書のなかで庵野秀明はこんな風にも述べている。
(碇ゲンドウについての問答のなかで)
スタンスとしてはそこになりますね。そんなに投影しているかと思うと、そうでもないと思うんですよ。シャドウであるのは確かですね。
ここでいうシャドウとは、ユング心理学の集合無意識のアーキタイプのひとつとしてのシャドウである。このほか庵野秀明は、「精神分析を学んだ」といったことをインタビューの複数個所で答えている。
今ではあまり引用されることのない精神分析とその用語だが、この頃はリベラルアーツとして通っていたことがうかがえる。
新劇場版との比較
『新世紀エヴァンゲリオン』が「心」の物語だと言い切ってしまうなら、それは言い切り過ぎだと私は思う。あの作品にはもっと色々なものがギュッと詰め込まれていて、玉手箱のようだからだ。
しかし『新世紀エヴァンゲリオン』が「心の時代」につくられた兆候として、随所に埋め込まれた精神分析的なアイデアを挙げるのは、それほど筋違いではあるまい。
それは、2007年からスタートし2021年に(唐突に)終わった新劇場版『ヱヴァンゲリヲン』との比較をとおして一層浮き彫りになる。
新劇場版『ヱヴァンゲリヲン』にもATフィールドは登場する。
しかしここではもう、ATフィールドの心の壁らしさは乏しく、ほとんどただのエネルギーシールド扱いである。使徒とエヴァンゲリオンパイロットが溶け合うシーンもないわけではないが、精神汚染はあまり掘り下げられなかった。そして生体兵器としてのエヴァンゲリオン自身がアルカイックな母の象徴として顕現することもない。
新劇場版でも、碇シンジが精神的にやられてしまう場面はある。が、そこでも「心」の問題に焦点が当たることはなく、ましてや深層心理を精神分析のテクニカルタームで深堀りすることはない。危険人物とみなされた碇シンジに大人たちが施したのは、身体拘束やチョーカーに仕掛けられた爆発物といった、ハードウェアをとおして行動を制御する方法だった。
現代の精神科医なら、ここからいろいろな連想を広げることもできよう。そして傷ついた碇シンジを実際に回復させていったのは、カウンセリングでも精神分析でもなく、友人たちに囲まれて村でゆっくり休むことだったのである。
新劇場版『ヱヴァンゲリヲン』の碇シンジも傷つき、回復しなければならなかった。『破』から『Q』にかけて碇シンジが理不尽な体験を繰り返していく流れは20世紀のエヴァンゲリオンに似ていたし、創作上の都合から言っても、主人公がいったん傷つき再び立ち上がったほうが見栄えが良いように思う。
しかしその回復過程において、「心」の取り扱いは新劇場版において非常に軽い。いいや、碇シンジの傷つきと癒しは、精神分析のボキャブラリーや深層心理の描写をとおしてではなく、そうではないボキャブラリーや描写に置換された、と表現すべきだろうか。
『エヴァンゲリオン』と「心」の時代のエピローグ
このように新劇場版『ヱヴァンゲリヲン』と比較すると、90年代の『新世紀エヴァンゲリオン』は「心」に拘泥していて、当時の世相もそのようなものだったことを思い出さずにいられない。
前述の『心理学化する社会』では、そうした「心の時代」が00年代前半まで続いていたと記されているが、実際問題、そうだったように思う。同時代のビジュアルノベルの傑作とされる『One』や『Air』にも、こうした「心」に拘泥した時代ならではの爪痕が残っている。
だが『新世紀エヴァンゲリオン』をはじめ、「心」の時代の盛期に、時代に寄り添うようにつくられた作品の、その時代ならではの魅力は、それゆえ後世の人にはわかりづらい。今ではもう、解説者が必要になっているのではないだろうか。
最後に、新世紀エヴァンゲリオンのなかで私が好きな台詞のひとつを引用させていただき、この文章を終えたい。それは、第七話に登場する脇役(時田シロウ)が述べた以下のものである。
新世紀エヴァンゲリオン7話で、時田シロウが「心などという曖昧なものに頼るから、ネルフは、さきのような暴走を許すのです」という台詞を吐いているが2010年代から見ると、作中で一番まっとうな見識のひとつに見える。
— p_shirokuma(熊代亨) (@twit_shirokuma) March 9, 2013
「心」にフォーカスを当てて「心」に多くを期待した時代は結局何を残したのか? カウンセリング、深層心理、そういったものは多くの人のメンタルヘルスを向上させたのだろうか?
正直、私はそれがよくわからない。ただ、間違いないのは、21世紀に入ってからこのかた、精神分析のプレゼンスは日本の精神医療のなかで低下し続けていて、今日の主流は、認知行動療法も含めエビデンスに基づいた、「心」よりも「認知」や「行動」にフォーカスを宛てたものに変わってきている、ということだ。
世間がメンタルヘルスに向ける目線も変わった。かつては「心」の理解や癒しを期待していた世間も、2010年代以降は発達障害(神経発達症)に目を向けている。「心」の時代がそうだったように、精神医療のトレンドと世間のメンタルヘルスに向ける目線は相変わらずよく似ている。
こうして「心」の時代とその時代ならではの作風は過去のものになった。
これからも「心」が物語のテーマになることはあろうが、それは、精神分析のテクニカルタームを介したかたちにはならない。『新世紀エヴァンゲリオン』のような「心」の物語りは、今後、90年代の指標化石のように振り返られるのである。
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(2024/12/6更新)
【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
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ブログ:『シロクマの屑籠』
Photo:Dick Thomas Johnson