「正直者は得をする」という言葉がある。
素晴らしい言葉だし、事実でもあろう。
「正直」の対義語は「うそつき」だろうが、少なくともうそつきは世渡りの大敵であり、これは是が非でも避けなければならない。極端な例外を除いて、うまく世渡りを続けている人は皆、正直さを大切に思っていると私は確信している。
ただし、「正直」はただ積み重ねれば得をするものではないとも思う。むしろ、無思慮に正直を積み重ねてまずいことになったり、社会的に損をする場面も多いように思う。
では、どう「正直」であるべきか?
私は、正直ってやつはそのままではロクなもんじゃないと思っている。
いわば、「加工」してないと「正直」は食えたものじゃない、という側面もあるように思うのだ。まずは以下をご覧いただきたい。
とある日の生放送中、5分休憩から戻ってモニターに目をやった瞬間、寒気がするほどの罵詈雑言の数々が、殺意を持って画面上から這い出てきた。
『生きている価値ないよ』『はよ消えろ』『ゴミクズ』『存在価値ないよ』
5分足らずで100件近く、この類いのブラックワードが立ち並び、僕に襲い掛かった。
中には通報したら逮捕されるのではないか、という度を超えたものも存在したため、数人をその場でBAN制裁した。
上掲は、子どもを相手取ってネットの実況をやっていた方の記事からの抜粋だ(残念ながら、この方のブログは消滅してしまって、私の手元に残った文章はこれだけである)。
ここに書かれている子どもたちの反応は、きわめて「正直」なものだ。子どもの正直はときに残酷で、誰からも咎められるおそれがないとわかった時、その残酷さが剥き出しになる。
しかし、このような反応は世間で許されるものではない。たとえ「正直」でも、こういう物言いを繰り返している人は損をするし、子どもはそのことを学んでいかなければならない。
小中学生が動画の荒れたコメント欄に書き込む時の「正直」と、社会人が世間で期待される「正直」には大きな違いがある。
これは、何かを非難する時に限ったことではない。「カネが欲しい」「異性が欲しい」「承認欲求をみたしたい」といった欲求はどこにでもあろうが、その「正直」を無加工でゴロンと目の前に差し出された時、人はしばしばドン引きする。
プリミティブな欲求に正直であることは決して悪いことではないが、アウトプットする時、世間や第三者に受け入れられやすいかたちで「加工」できなければ、その正直さが仇になることもあるだろう。
ちなみに、「正直」の「加工」とは、「嘘」をつくことではない。
嘘をつけば、他人に対して嘘を貫かなければならなくなる。嘘がばれなくても、隠しとおすために精神的負荷や記憶的負荷がかかり続けるのは大問題だ。だから「正直」を「加工」したつもりで嘘をついてしまう人は、じきに行き詰まる。
もちろん、「正直」の「加工」が自己欺瞞であってもならない。
自己欺瞞は、自分自身に対して嘘をつく所作である。これにも精神的負荷がかかるし、(精神分析でいう)防衛機制のメカニズムから考えて、自分自身の認知や認識に盲点をつくってしまうおそれが高い。
だから、自分の内心にある「正直」の一番似つかわしい部分を点検したり、社会的に最も似つかわしい姿にフォルムチェンジさせたりして、自己欺瞞に陥らず、なおかつ自分自身と「正直」が喧嘩しないような均衡点を探さなければならない。
人のなかの「正直」とは、必ずしも一面的ではない。たいていは多面的だ。そのことを利用すれば、「正直」の「加工」は決して無理ではない。
たとえば「カネが欲しい」の場合、カネが欲しいという正直を無加工でゴロンと差し出すのでなく、カネを稼ぐ過程でやりたいことや、自分が得意なことと関連付けて語ったり考えたりしたほうが良い場面がある。
そうした関連づけを自分の内心と矛盾しないかたちでできる人と、関連づけできずに無加工で差し出してしまう人では、主観的には同じ正直者でも、社会や第三者に受け入れられる確率、その正直が報われる確率は違ってくる。
加工に失敗し、嘘をつかざるを得なくなってしまうのは厳しいことだ。つい、他人や自分自身に嘘をついてしまう人のなかには、正直の加工がうまくないせいでそうなっている人が一定の割合でいるように思う。
「異性が欲しい」「承認欲求をみたしたい」なども同じだ。これらの正直を、無加工で出して構わない場面が無いわけではない。とはいっても、多くの社会関係のなかでは、適切に加工ができていなければその正直はひんしゅくを買うだろう。
自他に嘘をつかないかたちで・これらの正直をうまく加工して出せる人ほど、異性や承認にかえって手が届きやすい。
たとえば嘘をつくことなくモテている人は、だいたい正直の加工やフォルムチェンジが上手い。彼らが正直を積み重ねて得をしているのは事実だが、その正直とは、まるで精密機械部品のようにしっかり加工されていて、しかも、社会関係のなかでの正直の積み重ね方も上手いのである。
逆に、どれほど正直を積み重ねていても、無加工の欲求を無分別に言い散らかしているだけの人は、絶対にモテない。異性や承認がどんどん遠ざかってしまうだろう。世の中は、だいたいそんな風にできている。
「正直」の社会化
ここまで、正直を加工するという表現を使ってきたが、もう少しそれらしい表現をするなら、正直の社会化、ということになるだろうか。
プリミティブな欲求やエモーションを生のまま出すのでなく、場面のTPOや相手の立場や理解力などに即したかたちで加工してはじめて、正直は人間関係のなかで受け入れられるものになる。あるいは、受け入れられる確率の高いものになる。社会的動物としての人間は、そうやって正直の適切な加工を幼少期から学び始めて、生涯をかけて学び続けていく。
こうした正直の社会化は、年齢が高くなったり社会的立場が変わったりすると求められる度合いが高くなるため、小中学生に求められる度合いと就活中の若者に求められる度合いとアラフィフの中年に求められる度合いはかなり違う。SNSなどでも、フォロワー数が1000人と10000人と100000人では違うだろう。
正直を適切に加工する技量が年齢や社会的立場に追随できなくなると、正直をとおして得をするのは難しくなり、損をしやすくなる。
社会人の生え抜きコミュニティでは、えてして、そういう正直の加工がハイレベルに行われ、それが当たり前になっていたりする。
なるほど、彼らは正直を積み重ねて得をしている。だが単に正直だから得をしているわけではなく、正直を精密機械部品のように加工し、社会関係のなかで注意深く運用しているから得をしているのである。
「正直者が馬鹿を見る」という言葉もあるが、馬鹿をみやすいのは、正直の社会化がうまくやれない人や、正直の社会化に失敗したあげく嘘をつかざるを得なくなってしまう人ではなかったか。
正直の社会化の程度や技量が、絶えず、皆に問われているのだと思う。
コミュニティの背景をよく読み、節度を守って。
なお、正直を加工すると言っても限度があるし、どんな加工がどの程度まで許容されるのかは、コミュニティの背景によってかなり変化し得る。
たとえばBlueskyのタイムラインで許容されやすい正直の加工と、X(旧twitter)のタイムラインで許容されやすい正直の加工は、おそらく異なっている。時代や政治情勢によっても左右されるかもしれない。だからコミュニティの背景や状況をしっかり踏まえておくのも、正直の加工に際して大切なことだと思う。
とはいえ、そうやって周りをキョロキョロ見渡しながら、自分のうちにあったはずの正直に加工を加えすぎてしまうと、やがて、自己欺瞞や嘘とどこが違うのか、甚だ怪しい境地にたどり着いてしまうかもしれない。
過ぎたるは猶及ばざるが如し。やりすぎて嘘になってしまっては元も子もありません。
――『シロクマの屑籠』セレクション 2018年11月31日投稿 より
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』
Photo:Giulia Bertelli