もう何年も前の話だ。
『クソ、貧乏だー』『仕事する』『仕事する』『仕事する』『お金をもらう』『借金を返す』『金を貯める』『生活が安定する』『周りを助ける』『みんな幸せ』という、妙に勢いのある、動画をネットで見た。
見たことのある人も多いと思うが、妙に残る。
見てない人はぜひ、見てほしい。
これは、『お酒をやめよう』というタイの啓発CMだという。
タイで放映されていた断酒を啓発するCM。2000年代前半に放映されていたらしい。
貧困のストレスを飲酒で解消していた男性が一念発起し断酒。農業に勤しみ金を稼ぎ、借金を返済。その後教育を受け、生活が安定すると家族関係も修復し、幸せな家庭生活を送るようになる。更には人々に教育する立場となり社会の向上に貢献……というサクセスストーリーを通じて断酒することの重要性を説いている。
2015年と2019年頃に極東の島国で再発見され、30秒のCMの中でこのストーリーを収めたことによる勢い・スピード感がどこかシュールであると話題となった。
(ピクシブ百科事典)
なぜこれが『残る』と感じたのか。
いろいろあるが、一つの理由は、『真っ当なことを言っている』からだ。
酒をやめて、真面目に働いて、貯金をして、教育を受ける、そして人のためになることをする。
それが、大事であると。
太古の昔から、何万回も語られてきたであろう、『まともな話』。
回りくどくない、それが、妙に新鮮に感じた。
金払っているうちにまともな人間になるんだよ
そしてもう一つ『残る』のが、下の動画。
代ゼミの講師が、授業に遅刻してきた生徒に対して、皆の前でガチ説教をかます動画だ。
最近は生徒に向かってこのようなしかり方をする先生は少ないと思うから、貴重な映像だ。
『生徒は客じゃない』
『周りのために遅刻をするな』
『金を払っているからワガママが通るが、稼ぐ立場になったら誰にも相手にされない』
『金払っているうちにまともな人間になるんだよ』
『能力低かったら人より早く起きろ』
など。
この動画も、上と同じ理由で「残った」。
言い方はキツイが、言っていることが、きわめて真っ当だからだ。
だから、この動画のコメント欄は、この先生を称賛するコメントにあふれている。

実際にこの先生に習ったことがある人が、書き込んでいるコメントもある。
「よい先生」は、人生にも影響を及ぼすのだろう。
自分に都合の悪い話をする上司は、全部パワハラ
しかし、内容が真っ当だろうと、なんだろうと、
「自分に都合の悪い話をする上司は、全部パワハラ」
という人が、世の中には存在している。
信じられないような話だが、本当にいるのだ。
そして、もめごとを嫌う会社が、それを認めてしまう。
このような状況では「少数決原理」が働き、最も不寛容な人(最も騒ぎ立てる人)に合わせて、マネジメントが行われる。
だから、今では上のように厳しく叱る上司や先生が、少なくなってしまった。
社会における道徳的価値観は、民意の進化によって形成されるわけではないと予想できる。むしろ、不寛容であるというただ一点の理由だけで、ほかの人々に道徳を押しつけるもっとも不寛容な人によって形成されるのだ。同じことは公民権にも当てはまる。
結果として現在は、
やる気がない、ルールを守れない、約束したことをやらない、そういう人に対して、
『ちょっと言って無駄なら、黙って見限る』がデフォルトとなった。
声を荒げることも、まず、ない。
だれが、面倒で不誠実で、ちょっと説教すると「パワハラ」と騒ぎ立てる部下の育成に、責任を持ちたいと思うだろうか。
『勝手にすればいい。こういう奴はそのうち、誰からも相手にされなくなるだろう』と、何も言わない。
それでおしまいだ。
イチローが言うところの、「指導する側が厳しくできないから、自分で自分に厳しくしないといけない」
そういう世界となった。
『パワハラ』と『真剣に叱る』の差はどこにあるか
ただ、「真剣に叱ってほしい」という人も、なお存在していると聞いた。
学校でも、先生に
「遠慮なく𠮟ってください」
という家庭と、ほんのわずかでも子供が叱られると、学校に親が怒鳴り込んでくるという家庭とが、分かれてきているという。
でも、ここで疑問が浮かぶ。
真の意味での「パワハラ」と「真剣に叱る」の差は、いったいどこにあるのだろうか。
私が知る上司は、「愛情があるか、ないか」だと言った。
結局、言葉が荒くても、愛情があればそれは相手に伝わる、というのだ。
だが、叱る相手が自分の子供であればともかく、そんな簡単に、他人に愛情なんて持てるだろうか?
まして、やる気がなく、ルールを守らず、約束を平気で破るような人間に。
さすがにそれはないだろう。
では、何が違うのか。
松下幸之助が、次のように書いていた。
おたがい人間、叱られるということは、あまり気持ちのよいものではない。自分に非があったと認めていても、叱られるということはやはりいやである。だから、叱られるよりも叱られないほうを好みがちで、これは一つの人情でもある。
また叱るほうにしても、あまり気持ちのよいものではない。うれしい思いはしない。だからできれば叱らないに越したことはないわけで、これもまた一つの人情といえよう。
しかし、人情と人情とがからみ合って、マアマアのウヤムヤにすぎ、叱りもしなければ叱られもしないということになったらどうなるか。神さまならいざ知らず、おたがいに人間である。知らず知らずのうちに、ものの見方考え方が甘くなり、そこに弱さと、もろさが生まれてくることになる。
もちろん、私情にかられてのそれはいけないけれども、ものの道理について真剣に叱る、また真剣に叱られるということは、人情を越えた人間としての一つの大事なつとめではあるまいか。叱られてこそ人間の真の値打ちが出てくるのである。叱り、叱られることにも、おたがいに真剣でありたい。
できれば、叱る、叱られるというのは、やりたくない。
ただ、「道理」にかかることだけは、つとめとして、それをやらざるを得ない、と述べている。
しかし、「道理」とは何だろうか。
「日本国語大辞典」には、『人間として守らなければならない道』とある。
また、松下幸之助は、対義語として『私情』を置いた。
私情、つまり個人的な感情で叱るのは、ダメだということだ。
道理に従って、つまり『普遍的なあり方』についてのみ、叱ってよいということになる。
つまり、叱ってよい時というのは、こういう時だ。
個人の感情からではなく、普遍的に「人としてなすべきこと」をやっていないときに、叱る。
*
これは、「叱る側」についての示唆を含んでいる。
特に、普遍的、というところがポイントで、これを解釈すると、叱るときには
・自分もそれを体現していなければならない
・(叱られる人も含めて)みんなのためになることでなければならない
・家族や自分の子供にも言えるようなことでなければならない
などということになる。
経営者だけに都合のいいように叱る
本人もできていないようなことで叱る
本人のイライラをぶつけて叱る。
すべてダメだ。
そうなると、昔の経営者たち、松下幸之助や稲盛和夫などが、「人格」というものに行き着いた理由が少しだけわかる。
結局、叱る側も、その時自分が逆に問われているのだ。
『お前はそれができているのか?』
『お前にそれを言う資格があるのか?』と。
『完ぺきではない、だができるように目指している』
という回答を自信を持って言えるようであれば、「本気で叱る」ことは、相手にも伝わるだろう。
しかし、そうでないならば、「私情で叱っている」と、見透かされるだけである。
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安達裕哉
生成AI活用支援のワークワンダースCEO(https://workwonders.jp)|元Deloitteのコンサルタント|オウンドメディア支援のティネクト代表(http://tinect.jp)|著書「頭のいい人が話す前に考えていること」88万部(https://amzn.to/49Tivyi)|
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