かつて、「老人は敬うもの」という価値観が日本にはあった。いや、そういった価値観が残っている地域も残ってはいるけれども、老人への尊敬全般は目減りしているように思える。
“老人を敬う”という価値観が、前提ではなく限定へ、そして衰退へと向かっている背景にはどのようなものがあるのか?価値観の変容を促した要因にはどんなものがあるのか?この文章では、“老人が持つvalueの低下”という視点から、幾つかの要因を考えてみる。
老人一人あたりのvalueが低下している時代
私は人間にvalueという言葉をあてがう事には抵抗感があるが、かつて老人が尊敬されていた時代においては、老人は無条件に敬われる存在というより、共同体・家族などに大きな貢献をする存在とみなされていた。
キリスト教文化圏ではどうだか知らないが、儒教文化圏であれ、ポリネシア文化圏であれ、老人には老人ならではのvalueがあったし、平均寿命の短さから老人には希少性もあった。だが、現代社会においてはそういったvalueや希少性は無い。それはなぜか。
【要因1】平均寿命が延びまくった
まず、平均寿命が大幅に延びたことを挙げないわけにはいかない。かりに老人がなんらかのvalueを持ち合わせていたとしても、希少性が失われれば相対的に一人あたりの“おばあちゃんの智慧”の価値は低下する。
九十歳の老人が村に一人だけなら、その老人の知識は代替不可能な希少性を帯びることになるが、九十歳の老人が百人になれば、その老人の知識と経験の価値は百分の一に低下する。
医療技術や公衆衛生の進歩、生活インフラの整備によって、日本人は極めて高確率で老人になれる、いや、なってしまう。たとえば、「戦前の事を知る人間が減った」と言う人がいるが、私はむしろ逆だと思っている。
もう昭和91年になったというのに、まだ戦前の記憶を語れる老人がそれなりに生きている。戦後から七十年以上も経ったのに戦時を知る世代がこれほど生き残っているというのは驚異的だが、老人一人あたりが蓄積した知識・経験のvalueは(数によって)希釈されている点には注目しておこう。
【要因2】老人固有の知識が役立たずになってしまっている
昔、あるポリネシアの島を嵐が襲った時、島の作物が全滅してしまった。餓死が避けられない状況を救ったのは、島で一番長生きの老婆だった。老婆は、先祖から伝え聞いた、遠い昔の飢饉に食用にしたという、飢饉の時だけ食するジャングルの植物を知っていたのである。老婆ひとりが保有していた知識のお陰で、かろうじて島の民は生き残ることができた……。
このポリネシアの老婆に限らず、先祖から伝え聞いている知識が地域住民の助けになる場面は少なくない、はずだった。農耕・漁撈・天災・儀礼などに際して、過去の様々な経験を蓄積させてきた老人は、知識や経験を後続世代に継承する“生きた知識の結晶”としての機能を有していた、はずだった。
しかし現代社会では、老人から知識や経験を継承する必要性はほとんど無い。都市部では農林水産業は極めて限定的なものだし、農耕の盛んな地方でも、先進的な農耕テクノロジーが幅を利かせているので老人の知識・経験が生きる余地は小さくなってしまった。
祭事や儀礼や村の風習に関しても、そもそもコミュニティが希薄化していたり、(大規模ニュータウンやオートロックマンションのように)もともと機能的コミュニティを有さない都市空間で過ごす老人が増加していたりしている。のみならず、老人当人が引っ越してしまうと、これまで蓄積させてきた地域に関する知識・経験が役立たずになってしまうわけだが、人的流動性の高まりによって転居を余儀なくされる老人は少なくない。
伝統芸能といった文化資本で“武装”した老人はいざ知らず、単にコミュニティの知識だけを継承した老人の持っている知識・経験のvalueは、このような形で奪われている。現代的な都市や郊外に住んでいる老人のなかには、若者に継承すべき知識も文化も持ち合わせない人が多くいることだろう。
【要因3】知識や学習の普及
しかも学習手段や知識の流通手段が進歩したため、それまで老人が独占してきた知識・経験を若い人が素早く吸収できるようになった(なってしまった)。とりわけ、伝統的な村社会ではなく現代の都市や郊外で暮らすための知識は、老人の古い記憶に頼るよりも確実で効率的に学ぶ方法がいくらでもある。知的教養、という点でも、特別な修練を要する伝統分野でもない限り、書籍・インターネット・カルチャーセンターなどを介していくらでもアクセスできてしまう。
特別な時間と修練を要する、伝統的で特権的な教養・職能分野でもない限り、老人が知識や教養を誇ることは困難になった。むしろ昔の知識が時代遅れになっていて、スマホで検索した知識に打ち負かされることすら珍しくない。こういう状況も、老人固有のvalueの相対的低下を促進している、と私は考える。
【要因4】時代の流れが早くなりすぎている
一般に、老人は(若者に比べて)新しい事物を学ぶ・追随することが不得手だ。だが時間の流れが比較的ゆっくりしていた時代においては、それが決定的なディスアドバンテージとなるよりは、知識・経験の蓄積によるアドバンテージのほうが大きかった。
現代社会はどうだろうか。ご存じの通り、世の中は目まぐるしく変化していて、昭和後期に“激動の時代”などと言われていたのを鼻で笑いたくなるような情勢が続いている。時代の変化が早ければ早いほど、そしてそれに追随することが有益であればあるほど、時代の変化に弱い人間の生産性や適応性は相対的に低下する。そして一般論としては、老人は若者より変化に弱いのである。現代社会は、同じような毎日が繰り返されるポリネシアの孤島とは違う。
【要因5】能力が低下しても老人が生き残りやすくなっている
昔は「人生は五十年」と言われていたという。今はその影もなく、還暦を迎えて「人生はこれから」などと言う人もいる程である。要因1とも関係した話だが、現代の老人は抗生物質・高栄養・疫学・安楽な生活空間などによって身体的危機から遠ざけられており、そう簡単に死ぬことはない。
昔の老人が70歳80歳になるには、身体的な好条件と幸運が必要だった。ちょっとした骨折・ちょっとした認知機能低下・ちょっとした感染症、そのいずれもが還暦以降の人々を容易に死に至らしめたわけで、八十歳九十歳まで生き残っている老人は強靱だったし、強靱でない者は速やかに死亡していた。能力の低下した老人は生きることを許されなかった、とも言い換えられる。
今はどうか。ちょっと認知症になったぐらいではビクともしない。介護保険制度で言えば要介護1ぐらいの老人でも、かつては長期間生き残ることが困難だっただろうが、現代は進行したアルツハイマー型認知症の老人でも相当な期間生き残ることが出来る。
良くも悪くも、かつて尊敬された老人達は、老境にあっても機能の衰えない、ある種の身体的/認知機能的エリートであった、といえよう。老人の尊厳を復活させたいと思っている人達は、この点を肝に銘じておく必要がある。
抗生物質にも降圧薬にも抗認知症薬にも守られず、一度の脳梗塞でも容易く死んでいったが、逆にそういった厳しい生存上のハードルがあっても矍鑠としていた老人だけが存在し得た、のである。五十年前に生存していた八十代と、現在生存している八十代の身体機能/認知機能の平均を比較してみればいい。五十年前の八十代のほうが圧倒的に数が少なく、圧倒的に高い身体機能/認知機能を保有しているはずだ(賭けてもいい)。こうした事象も、老人valueに影響を与えていることは想像に難くない。
老人のvalue低下は他人事ではない
このような諸条件によって、相対的に、老人ひとりひとりのvalueは低下した、と私は考える。そればかりでなく、老人や年配者に対する尊敬のまなざし全体も衰えたのだろう。このような状況のなかで、老人が以前ほど尊敬のまなざしでみられない事に、何の不思議があろうか。
しかし、老人valueの低下によって老人が軽んじられる状況というものは、おそらく好ましいものではないし、若者にとっても他人事ではない。
まず、老人達自身においては、尊敬のまなざしに囲まれずに長期間を生き続けることは、辛く寂しいこととなるだろう。幸運と強健さに恵まれて生き続けた昔の老人は、コミュニティのなかで尊敬され、一定のステータスを保持しながら往生を迎えることが出来た。だが、今そのような往生を迎えられる老人はどれぐらいいるだろうか。己の能力の低下を持て余しながら、厄介者扱いされがちな余生を過ごすというのはどんな気持ちだろうか。メンタルヘルスという視点からも、尊厳や人生観の視点からも、“歳をとるほどvalueが下がる”という意識の蔓延は大きな問題を孕んでいると思われる。
若い人々にとってもこれは他人事ではない。こうした情勢のなかで膨大な数の老人を抱えていかなければならないのだ。尊敬の対象を介護していくならいざ知らず、「老人に価値を見出せない」「老人に対して感謝すべき何者も持たない」といった気持ちを抱えながら、あまたの老人をケアしていくことは精神衛生に堪えるだろう。老人valueの低下は、それを支える人達の気持ちにも暗雲を立ちこめさせる。
そして、どんなに若いとは言っても、私達はいつか必ず老人になるのだ。自分自身が老いれば老いるほどvalueが下がっていく、という意識を、果たして私達は何歳ぐらいまで直視できるだろうか?
二十代の人には想像すら出来ないかもしれない。三十代の人にもピンと来ないかもしれない。だが、「老い」は確実に足元から迫ってくる。今、「老害」を声高に叫んでいる若い人々は、自分だけは老人にならずに済むと思っているのだろうか。老人valueの低下とは、つまり将来の自分自身のvalueの低下に直結している事を思い起こさなければならない。老人が尊敬されない時代とは、将来の自分自身が尊敬されない時代である。
平均余命が延びれば延びるほど、老人が尊敬されにくくなるという皮肉。この悲劇的現象もまた、命のためならテクノロジーの適用を惜しまない人間達に対する、ひとつの報いなのかもしれない。
――『シロクマの屑籠』セレクション(2007年3月10日投稿) より
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)など。
twitter:@twit_shirokuma ブログ:『シロクマの屑籠』