ところで私は陶磁器が好きだ。

 

好きと言っても、別に詳しい訳ではない。全然ない。

製造工程も通りいっぺんにしか知らないし、ブランドも瀬戸焼と伊万里とマイセンとロイヤルコペンハーゲンと景徳鎮くらいしか知らない。自宅にずらっとローゼンタールの皿が並んでいる、という訳でも無論ない。

 

ただ、店先で綺麗な陶磁器を見つけると綺麗だなーと思って暫く眺めたり、時には陶磁器展に行って何時間かぼーっと陶器を眺めたり。

ふと町中で見つけた店で、色合いが気に入った陶器を見つけて、あれこれ悩んだ末に買って帰ったり、買わずに帰ったり。

そういう、子どもが綺麗な貝殻を「好き」というのと同じ類の「好き」だ。

 

たまーに旅先で、土産物屋に綺麗なお皿があると、しばらく眺める。たまに買う。

こういうのがあるので、私は土産物屋にふらっと入るのを楽しみにしている。琉球ガラスみたいなガラス器も好きなので、陶磁器を含む、食器一般が好きなのかも知れない。

 

***** 

 

それは好きというのか、と言われたことがある。知人と会話したときのことだ。

会話の流れは正直よく覚えていないのだが、焼き物か何かについて話していた時に、ちらっと上記のような話をしたのだと思う。

 

陶器が好き?自分で焼いたりすんの?と彼は言った。

いや全然、と私は答えた。

 

ブランド集めたりすんの?アウガルテンとか、カルパネリとか。

いや全く、と私は答えた。ブランドは殆ど、知らん。陶磁器の知識とか、殆どない。ただ綺麗な陶器を探したり見るのが好きなんだ。

 

いや、好きっていうならもうちょっと詳しくなるもんなんじゃないの、と彼は言った。それは別に好きって程のもんじゃないんじゃないの、とも言った。

 

そうかなあ。そういうもんだろうか。

「好き」っていう言葉は、そんなにハードルが高いもんだろうか?

 

これだけであれば、別段なんてことない会話の一つに過ぎないのだが。実際のところ、「好き」という言葉に対して、妙に高いハードルを求められるところを観測することはかなり多い。

「好きっていうからには、これくらいのことは知っておいて欲しい、これくらいのことは抑えておいて欲しい」といった発言だ。

 

例えば、少し前のアニメの話で、こんなやり取りがあった。「アニメ好きっていうなら、何故これくらい知らないんだ」という意識の話だ。

 男「俺、超アニメ好きだから酔っ払ったら超熱くアニメの事語る」→ただしまどマギは知らないと言う男について憶測が飛び交う

男「俺、超アニメ好きだからさ、酔っ払ったら超熱くアニメの事語ってみんな引かしちゃうだよね。」 女「へぇ~じゃあ、まどか★マギカとか知ってるんだ?」 男「それは知らない。」 あまりの衝撃に非常停止ボタン押しかけた。

 

これは私の言及も入っているが、「本屋が好きという人程、本を読んでない」というツイートを観測したこともある。

「好き」って口に出して言う人ほど… 

「本屋が好き!」って声高に言う人ほど、がっかりするくらい本を読んでないというか、カルマが足りないひとが多い現象。いい加減、どうにかなりませんかね。。ぼくが、世界に期待しなければ、それでいいのかな……。

 

ツイートをあげつらうことが目的ではないし、いわゆる「半可通批判」と判別しにくい部分もあるのでこまごまとは挙げないが、「好きっていうのにその程度なの?」という意識というか感覚は、かなり一般的に見られるような気がするのだ。

これは、時として知識量マウントと結びついて、言ってみれば「好き」という発言に対する抑圧として動作することがあると思う。

 

確かに、例えば「俺マニアなんだぜ、こんなに色々知ってるんだぜ」と主張している人が、実際には何も知らなかった、ということなら、それは批判されていいかも知れない。

だが、ただ「〇〇好き」といっただけで、それについてそこまで詳しくないというのが、そんなにあげつらわれるようなことなのか。

 

それはまるで、「好きと表明した」という罪に対する、罰のようだ。

一言で言ってしまうと、「好き」という言葉を発する時、求められるコストが妙に大きい。「好き」という言葉に対する期待値が妙に高い。

 

これは「好き」という言葉に対する感覚の問題なので、別にそれが悪いというつもりはないが、私自身は「何も考えずに〇〇が好きと言える世界」の方がずっと好きだ。

好き、という言葉を表明する時、何らかのハードルを求められる世界はとても息苦しい。好き、という言葉をめぐって、知識勝負でマウントを取り合うような世界は大変疲れる。

 

本当に、「なんとなく好き」という程度の好きでも、気軽に表明出来る世界であって欲しい。これが私の希望だ。

 

何故かというと、「好き」というのは世界を広げる言葉だから。

 

誰かが「〇〇が好き」という言葉から、他の誰かが〇〇に興味を持つかも知れない。何がいいんだ、と調べるかも知れないし、ほんの少し興味を持って〇〇を見たりするかも知れない。

 

「〇〇が好き」ということを明確に表明するところから、例えばその〇〇を作っている側の人にその言葉が届いて、何かの意欲になるかも知れない。

その「〇〇が好き」ということを表明した人自身、言ったからには、ということをスタート地点として、更に深くその〇〇に対して「好き」を深めていくかも知れない。

 

「好き」というのは、多分出口ではなく、入り口だと思うのだ。そこで終わりではなく、そこから始まる何か。

そこに対して、「〇〇好きならこんないいものもあるよ!こんなのもお勧めだよ!」と言ってもらうのは、いい。むしろいい。とてもいい。それは、世界を広げる行為の一つだ。

 

ただ、「〇〇好きなのにその程度のことも知らないの?それ〇〇好きっていうの?」と言うのは、少なくとも私は好きではない。それは、世界を狭める行為だ。入口を閉じる行為だ。

門戸は広い方がそのジャンルは発展する。ハードルは低い方が、皆が幸せになれるのではないか、と私は思う。

 

だから私は、多少コストを求められることがあったとしても、「なんとなく好き」程度のことであっても、なるべく「好き」を表明していこうと思う。

 

「好き」を表明するハードルが、全ての人に対して、可能な限り低いものでありますように。そんなことを考えながら、今日も「なんとなく好き」を発信する。

 

今日書きたいことはそれくらい。

 

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【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

 

(Photo:matthew venn