しばしば、「お金の多寡で幸福かどうかは決まらない。お金があるから幸福とは限らないし、その逆も真なりである」と言われる。逆に、「そんなことはない、お金がなければ不幸だ」という人も多くいる。なぜこのような見解のちがいが生まれるのだろうか。

 

この対立の本質は、「幸福」と「快楽」の解釈のちがいにある。

「お金の多寡で幸福は決まらない」という人は、「幸福」≠「快楽」と考える人が多いのに対して、「お金がないと不幸だ」という人は、「幸福」=「快楽」と考える人が多いのではないだろうか。

アメリカの高名な心理学者であるミハイ・チクセントミハイは、「フロー体験、喜びの現象学」という本の中で、

 

「快楽(睡眠、休息、食事、娯楽、セックスなど)は生活の質を構成する重要な要素だが、それ自体は幸福をもたらさない。

均衡を取り戻すためのホメオスタティックな経験を生む。ただし自己を成長させることはない。それ自体で意識に新しい秩序を作ることはできない。」

 

と述べている。お金で買えるのは「快楽」であり、それは単純に「肉体と精神の疲労回復」のためのものである。本当に「幸福」を手に入れようと考えれば、自己を成長させる体験が必要であるということだ。

 

さらに、チクセントミハイはこのようにも分析する。

不幸な幼少時代を送った子供は、「快楽」を十分体験できなかったが故、成人した後、複雑な楽しさを求める代わりに、生活からできるだけ多くの快楽を得ることに満足するようになる。

すなわち自己の成長よりも、より多くの「お金」によりたくさんの「快楽」を手に入れようとするのだ。

 

 

似たような話は、立身出世物語にもよく見られる。かつて貧乏だった若者が「金持ちになりたい」という一心で一生懸命働き、やっと成功した時に人生を振り返る。

「お金」がようやく手に入り始めた頃は仕事も楽しかった。やればやるだけ儲かった。

 

しかし、たとえ成功して「お金」をたくさん手に入れ、いかに多くの「快楽」を得ても、いつか、自分が幸福でない事実に気づき、愕然とするのである。

「私は一体何をしてきたのだろうか」と。

 

 

仕事をすることで「幸福」を作り出したいのであれば、「お金」を目的にしてはならない。「快楽」は手に入るかもしれないが、「幸福」は自己成長と努力によって得られるものである。

すなわち、幸福感の鍵は、「結果よりプロセス」だ。

多くの人が知るように、「プロセス」がつらく、長い道のりであればあるほど、達成した時の喜びや幸福感は大きい。

 

 

そういう意味では、辛いことからすぐ逃げてはいけない、というのは当たっている。結局は幸福感を自ら放棄することになる。

ユダヤ教の話題を取り上げたことがあったが、彼らの戒律の厳しさは、生活が貧しくとも、迫害されても「幸福感」を失わないための壮大な仕掛けだったのかもしれない。