会社の中に一人くらいいるだろう。

「代案は出さないけど反対する人」が。

鬱陶しいことこの上ない、と思う人が多いのではないかと思う。

彼らは「無能」とみなされていることも多い。会社は「発案しない人物」に対して軽蔑の目を向けるからだ。管理職がこのタイプだったりすると、おそらくモチベーションを刈り取る天才として部下から恐れられているだろう。

 

そんな蛇蝎の如く嫌われている「代案なしの反対」について、先日、ある場所で議論となった。それは

「代案なしの反対」に存在価値はあるか

というものだ。

 

そこでは、数名の方が「代案なしの反対には、存在価値はないよね。腹が立つし」と言っていた。

私は「そうだなぁ……」と思いながら、話を聞いていた。

ところが一人の人物が、「ちよっと逆張りで考えてみよう、うっとおしいが、それなりの価値はあるかも」と言ったのだ。

「そりゃ、何でもかんでも反対する、というやつはダメだけど、「代案なしの反対は全てダメ」というのも、何か行き過ぎている気がする」

 

まわりの人間は

「いやいやw」とあまり取り合おうとしないが、その場の責任者が「面白いじゃないか、少し考えてみよう」と言った。

「代案なしの反対は何が悪いのかね?」

 

「話が前に進まないですよ」

「ソイツが単に反対したい、というだけだったら時間の無駄ではないですか?」

「周りの雰囲気を悪くしますよね」

 

辛辣な意見が続く。

責任者は「代案なしの反対に価値がある、という側の意見は?」と聞いた。

すると、先ほどの人物が口を開く。

「相手が一通りの思慮深さがあるという前提ではありますが……、すこし感じたのは、対案を出すための知識や技術と、違和感を感じるセンスは別物なのではないか、と思ったのです。」

「それだけだとよくわからない。具体的には?」

「例えば、人事評価制度を変えようと「成果主義の導入」を検討していたとする。でも今の会社の状態からして成果主義はなじまない。今のままではダメだけど、成果主義もダメな気がする。そんな時、おそらく代案はないけど反対、ということになりそうな気がします。」

「ふーむ。」

「でも代案は?と聞かれても、誰も人事のプロではないから代案は思いつかない。思いつきようもない。当たり前です。本質的に代案が出せるという状態は、かなり知識を有していて、かつ課題が明確になっている時だと思いますが、結構限られていると思うんですよ。」

 

皆、真剣に聞いている。どうやら反対意見を真剣に吟味しているようだ。

「なるほど、素人に代案は出せない、ってことね。」

「当然、最初に案を出した人間は知識がありますよね。でも、それを言われた方は、最初に案を出した人間に比べて知識が少ないのは当然です。だから、「反対するなら代案を出せ」と言うのは、実際には不公平な取引であり、最初に案を出した人間が「知識を持っている」という有利な立場を濫用しているだけでは、という懸念があります。」

「逆に言えば、同じくらいの知識を持っているのに、代案を出さないのはダメってことだよね。」

「そうかもしれません。でも、それは確かめられないでしょ?」

 

責任者は言った。

「なるほど、「代案なしの反対をするな」と相手に言うのは不公平、と言うのはそれなりに説得力があるな。気をつけよう。たしかに私も「すぐに言語化できない違和感」を感じることはかなりある。相手の言うことは理路整然としているのだが、なにか引っかかる、というやつだな。」

「そうです。」

「案を出したほうは、早く話を進めたいからな。確かに反対のための反対は時間の無駄だが、ちょっと立ち止まる癖をつけても良いのかもしれないな。」

 

なかなか勉強になった小一時間だった。

 

 

 

書き手を募集しています。

安達裕哉Facebookアカウント (安達の最新記事をフォローできます)

・編集部がつぶやくBooks&AppsTwitterアカウント

・最新記事をチェックできるBooks&Appsフェイスブックページ

・ブログが本になりました。

Luca Rossato