「この薬とこの薬は高すぎます。退院は、安い薬に切り替えてからにしてください。それが先方の受け入れ条件です。」
ソーシャルワーカーから渡されたカルテには、「この薬とこの薬が切り替え対象です」とわざわざ付箋が添えられていた。どちらも効果と安全性に定評のある、非常に良い、しかし薬価の高い薬だ。
それらをやめてしまったら、患者さんの認知機能も、情緒の安定も、悪化してしまうかもしれない。
だが、その介護施設をご本人もご家族も切望していた以上、薬を切り替えないわけにはいかない。似たような効果の、もっと古くて安い薬を選んでみて、もし症状が悪化するようなら、施設入所はご破算になってしまうかもしれないが、やらないわけにはいかないのだ。
【介護保険制度では、老健施設で高い薬が使えない】
これまでにも、薬を処方する際にいろいろな制約を意識することはあった。
MRSAを防ぐために、みだりに抗生物質を出さないこと。
療養型病棟で検査や処置を乱発しないこと。
厚労省が定めた用法・用量どおりに処方すること。
これらは今までの医師の課題だったし、これからもそうだろう。
そして近年、そこにもうひとつ課題が加わるようになった。 それは、冒頭に記した「高齢者が老健施設に入所する際には、安い薬で済ませなければならない」だ。
たいていの場合、似たような効果の古くて安い薬に切り替えても患者さんの病状は大きくは変わらない。だが、すべての患者さんの処方切り替えが無事に済むわけではない。
とりわけ認知症になるようなご高齢の患者さんは、薬の効果や副作用には敏感なことも多い。新しくて高価な薬でおおむね安定していた患者さんが、古くて安い薬に切り替えた結果、身体の動きが少し悪くなったり、情緒は安定しているけれども表情が乏しくなってしまったり……といった問題がしばしば起こってしまう。
こういう事を書くと、「患者さんの命と身体機能を最優先にすべきだ、けしからん!」 と憤る人も出てくるだろう。「医師に安い処方を期待する施設なんて、とんでもない!」と言う人もいるかもしれない。
だが、施設側に相応の事情があるのもわかる。
一般に、そういった施設は医療保険制度にもとづいて薬を出しているのではなく、介護保険制度にもとづいて薬を出している。その関係で、施設に入所している患者さんに用いる薬のコストは患者さん自身の負担になるのではなく、そっくりそのまま施設の負担になってしまうのである。
老健施設に限らず、一般に、福祉に携わる施設はお金が全然足りていない。ぎりぎりの経営状況のなかで、職員が精一杯がんばってどうにかやりくりしているのが通例だ。
そういった事情を無視して「あなたのところでも、この、最新の薬をかならず処方してくださいね」と頼んでみたところで、「じゃあ、うちには入所できません。他を探してください」と断られるのが関の山である。
病院の医師にできることは、せいぜい、できるだけ安い薬でできるだけ病状を安定させて入所までもっていくことだけである。言うのは簡単だが、実行するのはすこぶる難しい。
【「ジェネリック医薬品」では済まないことも多い】
精神科領域でも、新しくて使い勝手の良い薬は薬価が高い。
高齢者の精神症状に好んで選ばれる新世代の抗精神病薬の薬価は、たとえばリスパダール(2mg錠)は薬価が50.3円、同じくセロクエル(25mg錠)は38.3円だ。
それに似た効果の旧世代薬の場合は、それぞれセレネース(3mg錠)が11円、コントミン(25mg錠)が9.2円だから、薬価は3倍以上違う。旧世代の薬は薬価が安いかわりに、副作用や安全性などの点で新世代の薬に劣るといわれている。
「それならジェネリック医薬品を選べばいいじゃないか」という人もいるかもしれない。
だが、ジェネリック医薬品といえども新世代の薬は薬価が高めに設定されていて、たとえばリスパダールのジェネリックはセレネースよりも高い。なにより、新薬の幾つかはジェネリック医薬品が発売されていない。
たとえば抗認知症薬メマリー(20mg錠)は、精神科周辺で出会う認知症の患者さんに対してとても使い勝手が良い。ところが、この薬の薬価は一錠あたり427円もしてしまう。
たった一種類の薬で約13000円/月のコストを「持ち出し」として負担し続けるのは、今の老健施設の事情を考えると困難だろう。そして認知症の高齢者はたいてい内科の病気も患っているので、そちらの薬代も負担しなければならないのである。
結局、メマリーがすごく効いた患者さんでも、老健施設に入所する前にはメマリーを中止して、もっと安価な薬に変更せざるを得ない。それでも大丈夫なケースもあるが、メマリーが独特の作用メカニズムを持っているせいか、なかなかうまくいかないケースも多い。
なので私は、これから老健施設に入所しそうな患者さんに高価な薬を処方する際には、こういった事情をかならず説明するようになった。だが、「老健施設では高価な薬は使えません」という話をすると、不満や不信感を表明するご家族も多い。
なにせ、ここは日本なのである。アメリカや発展途上国ならいざ知らず、この日本で「高い薬は使えません」などと医療関係者から言われれば、患者さんやご家族が驚き、不満を抱くのは無理ならぬことだろう。
だが、介護保険制度の領域については、「高い薬は使えません」は現実のものになっているのだ。少なくとも現場に携わる者は、そのような前提で薬を取り扱わざるを得ない。
【早かった「古くて安い薬」のニーズ】
私が研修医だった2000年頃は、抗うつ薬や抗精神病薬の新製品が次々に発売され、新しくて高価な薬剤を用いた治療法がゴールドスタンダードとして持て囃されていた。
しかし、すべての患者さんが新しくて高価な薬を使える時代がいつまでも続くとは、私にはどうしても思えなかった。
いつか、日本の保険医療制度が崩壊しても困らないようにと思い、私は研修医時代から古くて安い薬の解説書を探したり、老齢なドクターの“古い処方箋”を読み漁ったりした。安くて古い薬でも、ひととおりの治療がこなせるようになりたいとも思った。
そして今、私は高齢者の治療に際して「古くて安い薬」のニーズに直面している。
もちろんこれは、医療保険ではなく介護保険が適用される状況だから起こっているニーズではある。しかし、介護保険制度が続く限り、このニーズはなくなりそうにない。
むしろ逆に、今は老健施設の高齢者だけがこうした問題に直面しているが、いずれは在宅の高齢者にも、同じような“縛り”が適用されるようになるかもしれない。
医療費削減がますます課題となるこれからの時代において、高い薬を高齢者にフリーハンドで使わせてもらえるように制度が変わるとは、私にはどうしても想像できない。医療をおこなう側も、医療を受ける側も、そのことを覚悟しなければならないのかもしれない。
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)など。
twitter:@twit_shirokuma ブログ:『シロクマの屑籠』