私は、年上の精神科医が書いた、経験に裏打ちされたエッセイが好きだ。

そういうエッセイには、古い知恵やユニークな発想がたくさん埋まっていて参考になるからだ。

 

年上の精神科医の書いたエッセイの多くは、私からみると能天気にみえる。そう見えるのは私自身の問題かもしれないし、時代の違い・世代の違いによるものかもしれない。それだけに、私自身では見逃してしまいがちな発想が豊かで、ハッとさせられることも多い。

今回、調べ物をしているうちにたまたま読んだ『「普通がいい」という病』という本もそうだった。

 

 

一人の精神科医として読んでも、一人のブロガーとして読んでも、この本は興味深かった。

もともと、同業者方面向けの講義を書籍化しただけあって、平易な言葉で綴られているけれども内容はホンモノで、ゆえに、ちょっと“アブナイ”と感じた。

 

つまり、本書に書かれている内容は、読む人が読めばものすごく参考になる反面、誤った読み筋で読むと、とんでもない勘違いを生んでしまうリスクを伴っている。

けれども本書の価値は、そういう“アブナイ”部分にこそ宿っていると思われ、講談社現代新書のレーベルで、よくもここまで踏み込んだものだなぁと感動を覚えた。

 

 

1.一人の精神科医として読む 〜秀逸な言語化〜

この本は、主として神経症圏*1の患者さんの「とらわれ」や、「親や社会にインストールされて、内面化され、束縛している常識や価値観」を緩和していく際のアイデアを、バリエーション豊かに提供している。

私も神経症圏の患者さんが好きだから、その手の束縛や葛藤について話し合うことをライフワークにしているつもりだが、さすが先輩、手札のバリエーションがハンパないし、キチンと言語化されているのが凄い。

ですから、「愛情不足」と言われてきた点について、よく吟味してみると「愛情」とは 違うポイントがあることが見えてきます。

また、親の愛情を「不足」と感じたのもあくまで相対的なもので「心的現実」として子どもがそう感じたことだったということも分かってきます。

このからくりを理解するために 図7‐4を見てください。親がセンチ目盛の物差しの人で、子がミリ目盛の人だとしましょう。 図のように、ある同じものについてコミュニケーションをした場合に、親は「四センチ」だと言う。しかし、子の方からは、どう見ても三センチ九ミリである。子が親に「三センチ九ミリでしょう?」と問い返しても、親は「四センチ」だと譲らない。

泉谷閑示『「普通がいい」という病』

親と子どもで世界の見え方が大きく違えば、親子のコミュニケーションはそのぶん難しくなるし、愛情の交換も成立しにくくなる。

こういう、物差しの違いが生むディスコミュニケーションが、親子間の葛藤や対立を生むことは珍しくないし、ときには「毒親」問題の背景として無視できないこともある。

 

筆者の泉谷先生は、巷で流行の発達障害についてはとりたてて言及していなかった。けれども、たとえば上の物差しの比喩などをみていると、ああ、この先生なら発達障害の患者さんが相手でも、上手にやりとりするのだろうなぁと思えてくる。自他の物差しの違いに自覚的になれる人でなければ、こういう比喩は出てこない。

 

そういえば、別の先輩精神科医が

「認知行動療法も、精神分析も、それ以外の心理療法も、うまくいく時には、似たような過程と結果に落着するんじゃないか」

とおっしゃっているのを聞いたことがあるけれど、この本を読んでいると、そのことをやけに思い出す。

 

実際、本書にはこんな事も書いてある。

しかし、地下水脈にたどり着く前に、途中には緑の水や、赤い水などもある。赤い水が溜まった所にたどり着いてそこで止まっ てしまった人は、 「ここから掘ると赤い水が出てくるぞ」と言い、緑の水が溜まっている所で止まった人は「こっちは緑の水が出 てくるぞ」と言う。

井戸を掘った場所の違いで、違う色の水が汲み上がってくる。これが、いわゆる専門性ということがはらむ問題点なのです。

けれども、最も深いところまで掘り切った場合には、どの場所から掘ったとしても必ず同じ地下水脈に当たる。どこ から 掘ろうが同じ水を汲み上げてくることになる。

この地下水脈に共通して流れているものが、普遍的な真実であろうと私は考えます。「 経験」の質を高めるということは、すなわち「経験」を掘り下げていって、個々の専門性や個別性の壁を突き抜けて、普遍性にまで到達するということなのです。

泉谷閑示『 「普通がいい」という病』

この、「一芸に秀でる者は多芸に通じる」考え方は、心理療法の領域にはよくあることだし、もっと一般的なコミュニケーションの領域でもよくあることだと思う。

 

 

2.一人のブロガーとして読む 〜アブナイ本〜

一人のブロガーとしては、「メチャクチャ面白いけれども“アブナイ”書籍だ!」と感じずにいられなかった。

『「普通がいい」という病』というタイトルのとおり、この本は、いつの間にかインストールされた常識や価値観が、どんなに人間に葛藤をもたらし、どれほど不自然な欲望を抱かせているのかを説明している。

と同時に、そういった束縛から自分を解放するためのヒントを、詩人や文学者の言葉を引用しながらいろいろ教えてくれる。

 

強く内面化されてしまった常識や価値観を緩めるための処方箋として良い内容だと思うし、おそらく、本書を読んだだけで葛藤が緩和できる人もいるだろう。

 

けれども、書いてあるとおりのことを独りで実行するべく、「普通」を逃れて「あるがまま」を目指そうとして、まずいことになる人もいるんじゃないかとも思う。

本書の内容のうち、常識や価値観に疑問を持ち、内面化された束縛を自覚するところまでは、たいていの読者がやってのけられるだろう。しかし、いざ「あるがまま」を目指しながら社会適応のバランスを維持しようとすると、これは簡単ではない。

臨床心理士や精神科医やメンターがついているなら何とかなるかもしれないが、読者一人では相当やりづらいのではないか。

 

たとえば、この本を読み誤ってしまうと、「「普通」は悪くて「あるがまま」が良い。あるがままを抑圧する社会が悪いのであって、私はなんにも悪くない」と居直るための書籍に終わってしまうかもしれない。

なまじ、本書に迫力があり、突き詰めたところまで突き詰めた人の気配が感じられ、過去の偉人や詩人からの引用が多いだけに、金科玉条と化してしまうおそれもある。

ともすると、「普通がいい」という病を脱して「ありのままがいい」という病にかかってしまう読者もいるのではないだろうか。

 

断っておくと、筆者の泉谷先生は、「ありのままならなんでも構わない」とは言っていない。常識や価値観にとらわれた神経症的葛藤を脱することを良しとはしているが、それで周囲とコンフリクトを起こして構いませんといった調子で筆は進めていない。

 

だが、本書が出版された2006年は、まだ、「ありのままの自分」という言葉が多くの人を惹き付けていた時代だから、「普通」を忌避するための大義名分として、本書に溺れてしまった読者もいたことだろう。

冒頭で私が“アブナイ”ところがあると書いたのはそういうことだ。本書の指し示す地平があまりに大きく、魅力的なので、誰かと一緒に読むならともかく、独りで読み込むと本に溺れてしまいそうだな、と感じたからだ。

 

 

3.普通がいい人こそ、本書を参考にすべき 〜「普通」をよく知る生き方〜

 私はスケールの小さい人間なので、“人間は、みんながみんな、詩人や文学者になれるわけでなく、大半の人は常識や価値観に囚われながら、それらを所与のものとして受け入れて生きていく”と思っている。

これは、実に「普通」なモノの考え方だ。私という人間は、そのような自覚を持ちながら世の中を眺め、書き記していくだろう。

 

「ありのまま」であろうとするのは気持ちの良いことだが、その度合いが、その人の力量を越えるほどになると仇となる。

常識や価値観から距離を取るのに十分な力量を持っていなければ、「ありのまま」ではいられない。詩人や文学者は、常識や価値観から距離を取れるほど強靭な力量を持った人々だ。だから、彼らの言葉を参考にする時には、よくよく注意しなければならない。

 

なにより、「普通」を巡る社会状況は、この本が出版された頃とはずいぶん違ってきているようにみえる。

今日の社会は、プライベートな生活のうえでは多様性を称え、個人の自由な選択を保障しているようにみえる。だが、就活状況などが示しているように、常識や価値観の束縛が十年前よりきつくなり、それと折り合っていくノウハウが今まで以上に求められているようにも思う。

 

そういう情勢だから、私としては、いかに「普通」を逃れて「ありのまま」であるべきかよりも、いかに「今日の「普通」なるものの正体を把握して」「そこに折り合いをつけて生きていくか」について考えたくなる。

 

ただ、そのためにも、この本に書かれている「普通」を疑ってかかるモノの見方はあったほうが良い。

常識や価値観を捨てるのでなく、うまく付き合っていくことを目標とする場合でも、常識や価値観がどのようにして自分自身を束縛しているのか、そのメカニズムを把握しておかなければうまくいかない。常識や価値観とより良く付き合っていくためには、常識や価値観に囚われている自分自身と世間とに対する、醒めた目線が必要だと思う。

 

今の時代、「ありのまま」に重心を置いて生きるのは困難だし、こういってはなんだが、そういう生き方は流行るまい。けれども、常識や価値観のなかで「普通」に生きていきたい人にも、『「普通がいい」という病』は良いアイデアを提供してくれているし、「普通」の内実をフレキシブルな方向に変えてくれるようにも思えた。

 

2017年において、この本の最適な読者は「ありのままでいたい」という人ではなく、「自分は普通に社会適応しているつもりだ」という人だと思う。お勧めです。

 

 

*1 現代精神医学ではあまり考えられることの無い、病態水準という分類法で言うと一番軽い水準を指す。

精神病圏やパーソナリティ障害圏ではない患者さんと、神経症に相当する患者さんと、特に精神疾患にかかっているわけではないとみなされる人々すべてが該当する。より詳しく知りたい人は、「神経症圏 病態水準」でgoogle検索してみてください。

 

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(2024/1/22更新)

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)など。

twitter:@twit_shirokuma   ブログ:『シロクマの屑籠』

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(Photo:Max Braun)