「他サイトおすすめ記事」とは?
このページは、Books&Apps編集部メンバーが特にお気に入りだという記事を、ピックアップしたリンク集です。このキュレーションには3つのルールがあります。

1.個人ブログ、マイナーサイトなどからキュレーションする。大手メディアからはキュレーションしない。
2.個人が本当にオモシロイと思ったものだけを掲載する
3.記事が書かれた時代に関わりなくキュレーションする(古い記事もキュレーションする)

公式Twitter(@Books_Apps)でも毎日発信しています。フォローして頂ければ「他サイトおすすめ記事」を毎日受け取ることができます。

どうか楽しんでいただければ幸いです。
Books&Apps編集部

「すごいですね、私ぜんぜん勉強なんかしませんでした!」

先日、会社経営者の友人と飲んでいた時のこと、とても不思議な話を聞くことがあった。

 

お互いに、社会人になり最初に勤めたのは、大手証券会社だ。

営業マンとしての苦労を分かち合えるだろうと、こんな話を振る。

「営業マンになって最初の半年、どれだけ銘柄を勉強してお客さんにオススメしても、全く買ってもらえなかったんですよね…」

 

すると返ってきたのが、冒頭の言葉である。

「すごいですね、私ぜんぜん勉強なんかしませんでした!」

「じゃあやっぱり、営業成績も悪かったんですよね?」

 

「いえ、同期で1番になったこともあります」

「はあぁぁぁ・・・???」

 

平成初期といえば、株式投資はまだまだバクチのようなものと捉えられていた時代だ。

インフレ対策や資産形成といっても全く響かず、まして長期分散投資の有効性を頑張って説明しても、鼻で笑われてしまう。株式投資に興味があるのは、ごく一部のお金持ちでしかない。

そしてそういったセミプロのような投資家のもとに営業に行くと、いつも決まってこのように問われた。

 

「なんかおもろい情報あるか?」

「儲かる銘柄、なんかあるか?納得できたら買ってもええぞ」

 

もう随分昔のことなので記憶が曖昧だが、私は当時、三菱重工業や東京エレクトロン株について、一定の周期性を分析していた記憶がある。

そのためその周期を説明し、売り時、買い時などを説明するのだが、返ってくるのはいつも同じ答えだ。

 

「おもんない。それくらい知ってる、帰れ」

 

そんな思い出話をしたうえで、改めて彼に聞いた。

「銘柄や相場の勉強もせずに、どうやってトップ営業になれたんですか?」

 

すると彼から、全く予想もしていなかった思いがけない答えが返って来る。

 

「帰ろう、帰ればまた来られるから」

話は変わるがずいぶんと昔のこと。大手メーカーに就職した友人と飲んでいる時に、こんな相談を受けたことがある。

「聞いてくれ、俺…。営業から経理にまわされたねん」

「へ…、お前が?なんでやねん」

 

「そうやろ?ぶっちゃけ俺、簿記3級すら持ってへんのやぞ」

コミュニケーション能力も高く世話好きで、絵に書いたような営業向きの男だ。

一体なぜそんな事になってしまったのか。

 

「わからへん…。ただ、ウチの会社は基本的にこういう部門をまたぐ異動はないねん。営業から経理への異動が前代未聞やし、短期でまた営業に戻るような異動は、まあ期待できへん」

「そうか…。まあそういうこともあるやろう。で、経理での仕事は順調なんか?」

 

「順調なわけないやろ。損益計算書とか貸借対照表の基本くらいわかるけど、どの伝票をどの科目に仕分けるとか、こんなもん職人の世界やんけ」

 

そして彼はいつも、残業時間の上限まで職場に残り、土日も闇出勤して必死に仕事を消化しているという。

心身ともにボロボロの状況であることは、見た目からもあきらかだ。

 

「とてもいい状態と思えへんけど、今のまま仕事続けるんか?」

「そりゃそうやろ、まだ就職して5年やぞ。短期間で逃げるように転職したらキャリアに傷がつくし、キャリアダウンの会社にしか再就職できへんやんけ」

 

「それ、大和証券から数年で逃げた俺への嫌味か?(笑)それはともかくとして、なら経理で生きていくことにするんか?」

 

すると彼は、様子を見る、もしかしたら何かの間違いですぐに営業に戻れるかもしれないというような、優柔不断で根拠のない希望的観測を語る。

現実から目を逸らして、“宝くじ”を心の拠り所にしてしまっている状態だ。

 

「そうか、わかった。参考になるかわからへんけど、少し俺の話を聞いてくれ。俺はお前と違って、すぐに逃げる人間や。その“逃げの哲学”についてや」

「お前が?なにかから逃げるようなヤツに思えへんのやけど」

 

「お前の言葉を借りるなら、大和証券から数年で逃げてるやんけ(笑)まあ聞け、零戦って知ってるよな?」

「それくらい知ってるわ。いきなりなんやねん」

 

そこで私は、零戦は太平洋戦争の開戦当初、米軍がその戦闘報告を信じないほどの無敵の強さを発揮したこと。

現実が明らかになると、日本軍のパイロットの技量の高さ、零戦の運動性能の高さを正しく認識し、零戦と遭遇したらただちに逃げるよう命じたこと。

そして米軍は、わずかな期間で新たな戦い方とそれに適した戦闘機を開発し、程なくして零戦は型落ちになってしまったことなどを説明した。

 

「日本海軍のパイロットの技量はもうな、神業的に凄まじかったねん。ドッグファイト、つまり相手のケツを取って撃ち落とす戦い方では、米軍は勝てへんと理解したんや。その時、どうやって米軍は戦況をひっくり返したと思う?」

「軍事マニアや無いし、そこまで知らん」

 

「自軍が劣る土俵で戦わんかったんや。マニアックな事を説明してもしゃーないんで、すごく雑に言うぞ」

そう前置きし、米軍はドッグファイトのような高度な技量が要求される戦い方を放棄し、技量の劣るパイロットにも習得が容易なサッチ・ウィーブと呼ばれる戦法に切り替えたこと。

さらに一撃離脱(一発撃って逃げる)という戦い方も取り入れたことなどを、大まかに説明する。

 

「それからな、これが大事なんや。シャアの名セリフやないけど、零戦って『あたらなければどうということはない』やねん。逆に言えば、一発あてられたらすぐに墜とされてしもた」

「…米軍は?」

 

「『あてられても墜ちなければいい』や。クッソ頑丈な機体を投入した。その結果、いくら技量に勝る日本軍のパイロットでも、どんどん削られていった。すごく雑な説明で申し訳ないけど、お前はこの構図から何を学ぶ?」

「属人性の排除か?」

 

「大正解。けど、もうひとつあるぞ?」

「勝てへんフィールドで戦わへんってことか…」

 

「その通りや。だから俺は、自分が勝てへんと思ったフィールドからはすぐに逃げる。俺なりの“逃げの哲学”や。意地を張って死んでたまるかい」

 

そしてその話の延長で、友人は今まさに、強みを生かせる戦い方を封じられている状態にあること。

勝ちの見えないフィールドでストレスMAXの中、どんどん心身を削られていること。

その環境に適応して新しい能力の習得を目指すのか、それとも“いったん逃げる”のかを選択するターニングポイントにあるのではないかと、助言した。

 

「なんかわかった気がする、少し俺なりに考えてみるわ。“逃げる”って恥ずかしいことやないんやな」

「当たり前やろ。“逃げるが勝ち”って、本当に基本的な兵法やぞ。『帰ろう、帰ればまた来られるから』ってやつや」

 

「…なんやそれ??」

「なんでもない。でも、少しは歴史を勉強せえ」

 

“何もない”という強み

話は冒頭の、大手証券会社でトップ営業になった友人についてだ。

「銘柄や相場の勉強もせずに、どうやってトップ営業になれたんですか?」

それに対して、彼は何と言ったのか。

 

「買いたい銘柄があったら教えて下さい!その理由も教えて下さい!」

 

彼は営業先に行くと、いつも決まってそう言っていたと説明した。

「えええええ??お客さんのところに行って、何を買いたいのか、その理由も教えろと言ったのですか?」

「はい、これが意外にウケたんですよ(笑)」

 

「いえいえいえ、いくら新人営業とはいえ、プロとしてお客さんの前に立つわけじゃないですか。それで許されたのですか?」

 

すると彼は、人たらしの笑顔をさらにニコリとさせ、こんな事をいう。

 

「桃野さん、新人の武器ってなんだと思います?」

「証券1年生、新人の武器…。今から思うとなにもないですね。全くありません」

 

「はい、知識や経験など何一つありません。20年、30年の投資家に付け焼き刃の知識で買ってもらおうとするなんて、無茶ですよ」

「…確かに」

 

「だけど、“かわいさと素直さ”だけは許されるんです。1年生の特権です。なんでつかわなかったんですか?」

 

何から何まで納得だ。しかも彼のロジックには、さらに深い含蓄が含まれている。

 

1987年に出版され、世界20カ国以上で発売された営業の名著、『SPIN式販売戦略』という本がある。

おそらく昭和後期や平成初期に営業職にあった人であれば一度は手に取ったことがあるであろう、営業のバイブルのような本だ。

多くの学びがある一冊だが、そのエッセンスの一つをまとめると、以下のようになる。

 

「人は営業から商品を勧められたら反発し、買わない理由を探す。しかし自分から買う理由を口に出したら、意地でも買おうとする」

 

そう、友人はまさに1年生の“かわいさと素直さ”で相手の懐に入ると、「今買うべきもの」を相手に語らせたということだ。

 

すると相手は、「あれ?なんで俺、まだ買ってないんだろう」という心理状態になり、直ぐに注文を出してくれる。

天性の人たらしである彼はまさにこの“強みと真理”を生かし、トップ営業に昇りつめたということだ。

 

そして話は、営業から経理に“飛ばされた”友人についてだ。

彼は明らかに、自分に強みがないフィールドで自縄自縛し、勝ち目の無いフィールドと方法で“勝ち”を目指そうとしていた。

そう、まるでデキの悪い1年生だった時の、私のように。

 

その無茶さを悟った彼は程なくして転職し、新天地で活躍するのだが、本当に良かったと思う。

 

誰にでも参考になる話などと言うつもりは、全く無い。

しかし勝ち目のないフィールドで戦わないという選択は、本当に“逃げる”ことなのか。

 

私は、勇気ある勝ち方の一つだと思っている。

 

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

 

【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など

30回以上転職して、最後には起業して会社を上場させた経営者がいたような…。
誰でしたっけ?

X(旧Twitter) :@ momod1997

facebook :桃野泰徳

Photo:Sasha Freemind

トイレに行く時間もない日々をすごしている

ぼくには時間がない。

本当は、こんな文章を書いているヒマもない。

 

仕事はいくらやっても減らないし、子どもたちはいくら大きくなっても新たな問題が勃発するし、それ以外の家事、両親の介護、ついでに自分の腰痛の治療…とにかく、やらないといけないことがたくさんあって、いつも時間がない、時間がない、と嘆きながら暮らしている。

 

なんでこんなに時間がないんだろうかとふと考えるに、要はスキマがないのだと思った。

オンライン会議の予定が次から次に入っていて、トイレに行く時間がない、という経験をしたことがあるのはぼくだけではないと思う。

 

あるいは訪問先での話が長くなってしまって、建物を出るやいなやイヤホンをつけて、移動しながら次のオンライン会議に入る…なんてこともしょっちゅうある。

 

そんなこんなで仕事がひと段落して、さあ帰宅して家の用事をしなくては、と電車に乗り込む。

そうだ、そこで本当は、ふう…と心を落ち着かせて、車窓の先の移り行く景色でも眺めていればいいのだ。

 

なのに、ぼくはスマホを手にして今日のニュースやら何やらを見始めてしまう。

色々と心をざわざわとさせる情報が入ってきて、ぼくはあれこれ考えてしまって、休むヒマがない。

 

帰宅してからは子どもたちの対応をして、それ以外の家の用事をして、そのスキマの時間で夕方までに飛んできている色々なメッセージを読んだり返事したりして、早く風呂に入れとか、早く寝ろとか子どもたちにギャーギャー言ってる自分が嫌になったりしているうちに一瞬で時はすぎていく。
ようやく家族みんなが寝て、静かになって、さあようやく昼間にできなかった企画ができるぞと思ってPCを開きなおすと、また色々な通知が来ていて、それを見ていたら‥‥ほら、一日はもうおしまいだ。

 

自分以外の誰かのために身動きが取れなくなっている

いつからこんなに時間がないと感じるようになったのだろう。

 

ひとつは、家族ができたこと、これは大きいだろう。

結婚するということは自分以外の人のことについて考える時間を使う、ということなのだと今さら思う。

 

それでも二人だけの時は、結婚相手のことだけを考えればいいけれども、子どもが増えると状況は変わる。

ぼくはいつも自分以外の三人の人間のことを考え続けることになる。

それに加えて仕事に関する人たちや、そのどちらでもない人たちのことも考えていると、そりゃあ時間がないと感じるだろう。

 

そしてもうひとつは、やっぱりスマホだったりPCだったりのせいだと思う。

いや、端末のせいではなく、端末を通してずっと世界とつながり続けてしまうせい、と言ったほうが近いか。

 

今や、寝る時間以外、ずっと自分以外の誰か(それも一度に複数の「誰か」たちと)とつながりつづけている。

本当に、トイレに行く時間もないほど。

 

そしてその誰かのことを考え続けているのである。

それはオンライン会議の相手かもしれないし、急にチャットを飛ばしてきた人かもしれないし、Facebookに久しぶりに投稿した古い友人かもしれないし、その投稿を読み終えたあとにおすすめ記事として案内されたのでつい読んでしまったニュースで報じられていた海外の国の人々かもしれない。

 

ああ!!

ぼくはなんとたくさんの人たちと勝手につながり、勝手にモヤモヤし、勝手に時間を失っていっているのだろう!!

まさに誘蛾灯に群がる虫たちのように、スマホとPCを通した人工の光に吸い寄せられて、身動きが取れなくなっているのである。

 

目の前の現実だけがすべてだった思春期

それじゃ、スマホやPCがなかった頃はどうだったんだろう。

ぼくがPCを触るようになったのは周りよりも遅くて、大学生になってからだった。

スマホというか携帯電話も大学生になってからだ。

 

ただ高校生の頃もポケベルは持っていたし、家の固定電話を使ってよく電話はしていた。

……となると、そういったものとほとんどつながりがなかったのは、中学生の頃だ。

 

たしかにあの頃、時間はたっぷりとあった。

生徒会とラグビー部に所属していて忙しかったはずだし、中三になってからは猛烈に受験勉強をしていた。

なのに、なぜか大量の、消費しきれないぐらいの時間があった。

 

生徒会の部屋で、会長が吹くハーモニカに合わせて流行りの歌を熱唱していたこととか、

部活でひたすらキツいトレーニングをさせられているあいだじゅう、涼しげにラケットを揺らしているバドミントン部の女子たちの様子をチラチラと見続けていたこととか、

学校が終わってから仲のいい同級生たちとマンションの自転車置き場でずっとしゃべっていたこととか、

とにかく、目の前のことにだけ夢中になっていた(バドミントン部の女子たちを見ながらもトレーニングも必死にはやっていた)ことばかり思い出す。

 

あの頃はよかった、なんて話をしたいわけではない。

だいたい、当時ぼくが通っていた中学校は不良だらけで、入学した日にトイレに入ったら、不良たちが文字通りのヤンキー座りをしてタバコを吸っていて、便器も破壊されているものばかりだったのを鮮明に覚えている。

同級生たちもそれに影響されて、どんどん不良化していって、もうめちゃくちゃな中学校生活だった。

はっきり言って、消したい記憶ですらある。

 

それでも(それだからこそかもしれないが)時間はたっぷりあった。

なぜなら、何度も言うけれど、本当の意味での目の前のことだけが現実だったからだ。

その現実に向き合い続ける時間が、いくらでもあったのだ。

 

ぼくは自分にとっての「現実」を見失っている

今のぼくは、目の前以外のことばかり考えている。

実際にはこの場にいない東京の人たちと打ち合わせをし、この場にはいない顧客のことについて企画を考え、この場にいない株主のために利益を上げ、この場にいない見知らぬ誰かが起こした事件に対して腹を立てたりしている。

 

ひょっとしたら、昨今の働き方改革の成果として、少しは自由になる時間が増えているかもしれない。

それでもぼくが「時間がない」と感じるのは、ひょっとしたら、本当の意味での「目の前」のことに集中できていないからじゃないだろうか。

 

目の前の誰かと、じっくりと話ができただろうか。

その人の表情や様子や、そこにある感情の揺れや、言葉にはできないものを感じることはできただろうか。

 

あるいは電車に乗り込んだ時、そこに居合わせた人たちのことを覚えているだろうか。

昔はよく電車の中で人間観察をしていたものだ。

 

この人はどんな職業の人なんだろうかとか、何をするためにどこへ向かっているのだろうかとか、色々と妄想しながら観察をしていた。

今はぼくは電車の中でずっとスマホを触っている。

スマホを通して、ここではない、どこかの人たちとつながっては離れ、つながってはあっちへ行き、ずっとフラフラとさまよい続けている。

 

ぼくは今、いったいどこにいるのだろう。

ぼくにとっての現実とは何なのだろう。

 

「時間がない」と感じるのは命を完全燃焼できていないから

こんなことを言っているけど、ぼくはコロナ禍以降の急速なオンラインによるコミュニケーション方法の浸透については、すごくポジティブに取り組んでいた。

Zoomに慣れていない人たち同士でも手軽に参加できるワークショップの手法を開発したり、外部からゲストを招いての全社でのウェビナーもいち早く開催したりしていた。

 

ただ、あの時、Zoomの画面に現れる人々の映像は、ちゃんと「目の前の」できごとだったのである。

お互いに、なんとか連絡を取りたいし、情報を交換したいし、仕事もしたい。ちゃんと本気でお互いを求めていた。

 

今のZoomからはそういう切実な情念が失われてしまった。

あって当たり前、使えて当たり前、なんならいつでもどこでも会議ができてしまうせいで、人々の自由を奪い、トイレに行くスキマも与えない極悪非道の拷問ツールとなってしまった。

 

ここまで長々と書いてきて、なるほどなあと思ったのだけれど、結局はそこなのだ。

何をもってぼくは「時間がない」と思うのか、あるいは「時間はたっぷりとある」と感じるのか。

それは、そこに「限られた自分の命を使っている」と実感できるかどうかなのだ。

 

どれだけ使える時間があっても、あっちこっちに集中力が分散されてしまって、今日一日、一体何ができたのだろう、と思う日は「時間がない」日だ。

一方で、目の前のことにじっくりと取り組んで、ああでもないこうでもないと試行錯誤し続けたり、あるいは逆にその問題を解決するべく奔走し続けたりした日は、どうも満足のいく日だったなと感じることが多いように思う。

完全燃焼することができた日、と言うこともできるだろう。

 

ぼくは、今日という一日分の命を完全燃焼させることができただろうか。

そんな中年の切ない想いを成就させるのに、どうもスマホやPCによる過剰な情報干渉が妨げになっているような気がしてしかたがない。

 

それらに多大なる恩恵を受けてきたことは承知の上で言うけれども。

おまけに、こんな文章を書くことで、そんな妨害施策に加担していることも承知の上で言うけれども。

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

 

【著者プロフィール】

著者:いぬじん

プロフィールを書こうとして手が止まった。
元コピーライター、関西在住、サラリーマンをしながら、法人の運営や経営者の顧問をしたり…などと書こうと思ったのだが、そういうことにとらわれずに自由に生きるというのが、今ぼくが一番大事にしたいことなのかもしれない。

だけど「自由人」とか書くと、かなり違うような気もして。

プロフィールって、むずかしい。

ブログ:犬だって言いたいことがあるのだ。

Photo by:Kevin Ku

おれはかつてでかいペットボトルで焼酎を買う人間の末路になった人間である。

でかいペットボトルの焼酎を買う人間の末路

 

それでも減酒にチャレンジした。

減酒宣言した多量飲酒者の末路

 

減酒にチャレンジした挙げ句、また焼酎の大量飲酒にもどった。減酒に失敗したアルコール依存症の末路だ。

ただ、おれの中で減酒の意識は死んでいなかった。25度が多い焼酎のなかで、20度のものを飲むようにしていた。

……だめである。

 

が、そんなおれも禁酒に成功した。世の中に「わかっちゃいるけどやめられねえ」という人も多いだろう。そういう人のための一助になれば幸いである。

 

その1 がんになる

おれが禁酒の方法として実践しているものから紹介しよう。がんになる、これである。

おれはNETという希少がんになった。そして酒をやめている。「がんになった人間が酒をやめるのは当たり前だろう」という声も聞こえてきそうだ。

 

たが、待ってほしい。

おれは希少がんがほぼ確定しながらも、たくさんの検査を受けて最後の通告を受けるまでどうしていたか。

不安を打ち消すために酒を飲みまくっていたのである。不安、心配、恐怖、これらを打ち消すには酒しかなかった。

 

考えれば考えるほど精神状態が悪くなり、追い詰められるようだった。そこで、酒が効いた。酒を飲めば余計なことは考えなくて済む。

不安がまったくなくなるとは言わないが、大幅に軽減された。がんの不安に酒は効く。

 

いや、ちょっと、待ってほしい。

これでは逆効果ではないか。いや、俺が言いたいのはその先である。

CT、MRI、PET/CTなど、生まれて初めての気が滅入るほど疲れる検査の先のことである。

 

NET G1、一時的人工肛門造設確定のときのことである。手術可能か最後の確認で、初期に検査しなかった血液の何かを調べたときのことだ。肝臓の数値のみ悪い結果表を表示させて、外科の医師がこう言ったのだ。

「これ以上数値が悪くなると手術できませんよ。ギリギリですからね」

 

これだけである。懇々と説得されたわけではない。具体的に危険な数値を説明されたわけでもない。この一言だ。

「あれ、ちょっとしたおどしかな?」と思わなかったわけでもない。正直言ってそうだ。

 

だが、本当に手術できなくなったらどうなるのだ。

最初のクリニックでの大腸内視鏡検査の結果(癌疑い)から、その当日に市大病院に電話予約して、すべて最速でやってここまできた。病院が提案する最速の日程通りにすべてこなしてきた。

検査はおれを疲弊させたし、費用も馬鹿にならなかった。それがすべてリセットされたらどうなるのだ。延期になって最初からになったらどうなる。当然、その間にもゆっくりながら進行(おれの場合はそうだ)もするだろう。

 

それはもう、失うものが大きすぎる。だから、おれはそれを聞いたその日から、酒を一滴も飲んでいない。

週末だからとか、人とあって夜においしいものを食べるからとか、そういうのも全部なしだ。ノン・アルコール。これである。

 

その2 風邪をひいた日に禁酒を始める

先ほどの章がまったく役に立たないであろうことは認める。

ただ、医師がアル中の患者にとどめをさせる一言かもしれないので、お医者さんは頭の片隅に置いといたらいいかもしれない。世の中の酒飲みは医者より酒を愛している。まあ、ちょっと自分の病気話をしたかっただけだ。

 

というわけで、今度は役に立つかもしれないことを書こう。

酒をやめはじめるのは、風邪をひいた日がよい。これである。

先ほど、おれは医者に一言いわれたと書いたが、偶然その日、おれは風邪気味だった。いや、風邪を引いていたと言っていい。

 

病院では大丈夫だったが、アパートに帰ってからひどく咳が出た。頻度は少ないが、なにかこう、とても嫌な感じの咳だ。そして、咳をするごとに頭が痛くなってきた。要するに、夜にはかなり体調が悪くなっていた。

 

そんな日は、いくらアル中でも酒は飲まない。……とも言い切れない。しかし、おれはたまたま「酒をやめなくてはならないかも?」と思っていた。

じゃあ、とりあえず今夜は飲まないでおくか、となった。

 

「風邪をひいて体調が悪いときに酒を飲まないなんて当たり前じゃないか」という声も聞こえてきそうである。

でも、当たり前じゃないんだな。飲みますよ、そりゃ、普段の風邪なら。なんなら酒の効果でつらいのが飛んでいくかもしれないとか思いながら、ついつい飲んでしまう。それが悪い酒飲みというものだ。

 

だが、やはりそこには多少の無理がある。本当に風邪のつらさが忘れられるなんてことはない。

なにやら気分がよくなくなる。それはわかっている。わかっているけどやめられねえ勢でも、体調が良いときに飲む酒と、体調が悪いときに飲む酒の優劣くらいはわかる。もちろん、元気なときの方がうまい。普通のとき……も、うまい。

 

酒をやめるにあたって、酒がうまいのはよくない。うまいものを手放すのはつらい。つらいことはやりにくい。

逆に酒がまずいなならどうだろう。まずいものを手放すのはつらくない。むしろいい感じだ。

 

つまりは、「ああ、今日も仕事がんばったな。こんなときは一杯飲みたいな。ああ、でも自分は禁酒を始めるんだった。今日から飲めない……」

というタイミングで禁酒を始めてはならない。そんな日はうまい酒を飲め。そんな日からやめてもおまえの意思は続かない。

 

だが、「今日は鼻が詰まっているし、咳も出る。なにか頭も痛いし、熱っぽいぞ」というときがチャンスだ。悪ければ悪いほどいい。

そういう、酒を飲むのに適していない日に、酒をやめ始めるのだ。

そういう体調で、「いま酒を飲んでもいい気分になれない。むしろ悪い気分になる」とあえて強く思い、気分の悪い、まずい酒で頭の中をいっぱいにさせるのがいい。悪く、悪く想像を膨らませろ。

 

どうせそんな日の翌日も体調が悪いのだから、「今日飲んでもまずいだろう。気分も悪くなるのだろう。昨日と一緒だ」と思うことである。そうして一日、二日、三日……と過ぎていくと、気づいたらおまえは酒を飲んでいない。

 

どうだろうか。おれのように時間的な制約が特にない禁酒であれば、時機が来るのを待って始めてもいい。落ち着いた釣り人のように、魚がかかるのを待てばいい。え? 自分はめったに風邪なんかひかない健康体です? 知るかそんなの。

 

その3 ゼロコーラを飲む

「害の大きな依存をより害の少ない依存に置き換えていく」というのは依存症対策の基本的な話だろう。説明はいらないと思う。

おれはかつて、酒を低アルコール飲料に置き換え、さらに炭酸水やノンアルコール・ビールなどへ置き換えることを試みた。失敗に終わったが。合う人には合うので試す価値はある。

 

が、このたびもっとよい酒の代替品を見つけたので報告したい。かつて試したノンアルコール・ビールやノンアルコール・缶チューハイなどにはない中毒性がそれにはあった。

「それ」とはなにか。ゼロ・コーラである。
ノンシュガー、ノンカロリーのコーラを、ここではとりあえず「ゼロ・コーラ」と呼ぶ。

おれがたまたま例の禁酒開始日に、たまたま100円ローソンで見つけて、なんとなく酒の代わりになるかも? と思って買ったのがゼロ・コーラだった。具体的な銘柄を言えば「ペプシ〈生〉 BIG ZERO 600mlペット」、これである。

 

このところコーラが高い。具体的には普通のコカ・コーラが定価(自販機、コンビニなど)で500ml170円になった。

これは高い。ちょっとコーラを飲もうという気にはなれない。しかし、ペプシの生はなぜか安い。600mlなのに安い。悪くない。

 

そして、悪くないのはコーラの持つ中毒性、これである。いろいろな味付き炭酸飲料水があるなかでも、「コーラ」として独自の存在感を放っているだけはある。長い歴史があるだけはある。コーラには特別ななにかがある。おれはゼロ・コーラを飲み始めてそう感じた。

 

炭酸の刺激に、ジャンキーな甘み、独特の香り。無味無臭の炭酸水にはないものがある。ノンアルコール・ビールにもないものがある。なんなら、ノンアルコール・ビールよりも身体に悪そうな感じすらする。

 

……そこがよい。「なにか身体に悪いものを飲んでいるのではないか?」という感じが、酒を飲むときに似ている。そこがいい。逆に不健康そうなのがいい。われわれは毒を飲んでいたのだ。より軽い毒を飲むだけではないか。

 

ところがどうだ、ゼロ・コーラはカロリー0、糖質0、これはもう水を飲んでいるようなものではないか。水が酒の代わりになる。奇跡のような話だ。

 

え、なに、人工甘味料のリスク? 糖尿病になる? 脳卒中? 心筋梗塞? がん? 知った話か。

べつにそれらのリスクにきちんとしたエビデンスがあろうが、おれはこう言い返してやろう。「そのリスクはアルコールを大量摂取するよりも大きいのか?」と。あるいは、こうも言えよう。「砂糖を大量摂取するより害が大きいのか?」と。

 

人工甘味料<砂糖<アルコールの順に害が大きいはずだ。そりゃあまあ量にもよるという話になる。

話になるが、おれは話にならないほど大量のアルコールを摂取していたのである。そこと比べなくてはならない。大きな害をいきなりゼロにするのはむずかしい。だが、大きな害をとりあえず小さな害にするのは、ゼロにするよりは簡単だ。

 

なぜ、あえて害を求めるのか。それもまた人間だからだ。そうとしか言えない。そしてまた、がんの手術が受けられないという理由によって害を減らそうとあがく、これも人間だろう。

そんな人間にとって、ゼロ・コーラを害だという人がいるならば、むしろ歓迎すべきだ。酒に似ていると言ってくれているのだから。

 

そして、そういう目的でゼロ・コーラを飲むものは、ゼロ・コーラをそういう目で見るべきだ。

仕事終わりにはコーラの炭酸と甘さを思い浮かべよう。もう、コーラのことで頭がいっぱいだ。部屋にたどり着いたら、とりあえずグラスに氷を入れよう。すぐにゼロ・コーラを注ごう。

ただ、氷に直接コーラを触れさせないようにしよう。泡が多く出すぎる。いや、そんなことも気にしなくていい。とにかくゼロ・コーラをグビグビ飲もう。炭酸ですっきりする。甘ったるくて身体に悪い感じがする。いくらでも飲もう。いくら飲んでもゼロ・カロリーだ。

おかわりもいいぞ!

 

……というわけで、おれは酒を飲むためのおつまみにゼロ・コーラ、ペプシの600mlをおかわりする。

二本目で1.2リットル。リットルいけるぞ。まだものたりないか? だったらもう一本いってやれ、どうせ0カロリーだ。1.8リットル。ここまでいくと、もう酔ったときと同じように頭がへんになっている。そしてお腹は膨れて、「ちょっと酒を飲もう」という気にもならない。

あとは飯を食え。飯とコーラが合うとはさすがに主張しない。まあ、合う食べ物もあるだろうが。ピザとか。

 

が、一応、ここでおれは警告しておく。ゼロ・コーラにもある物質が含まれている。カフェイン、これである。ペプシの生では、100mlあたり約10mgとある。そこそこの量だ。これが、二杯、そして三杯となるとどうなるか。カフェイン180mg。

それはもう、夜になってエナジードリンクを一本飲むのと変わらない。寝られなくなる可能性はある。まあそのあたりは各自勝手に工夫してくれ。一本だけ単なる炭酸水にするという手もある。

 

あるいは、おれがペプシの生を箱買い(そのあとコカ・コーラ・ゼロも箱買いした)する前に気づかなかったが、コカ・コーラにはノンカフェイン・コーラがある。700mlのペットボトルで売っている。コンビニやスーパーでは見かけないので知らなかった。ノンカフェイン、これは無敵なのでは?

 

が、無敵かどうかはわからない。カフェインにも依存性が存在する。

あるいは、「ほかのノンアルコール飲料にはないものがコーラにはある」と言っていたときの「もの」とは、カフェインそのものかもしれない。

ただのカフェイン中毒。しかし、やはりこう言うことができるだろう。「アルコールとカフェイン、どちらにより大きな害があるか?」と。もちろん、ノンカフェインのコーラも試してみるつもりではある。

 

それでおれは一生禁酒するの?

このようにして、おれは山から降りてきておまえたちに禁酒の方法を告げた。禁酒をしたいビジネス・パーソンをはげました。しかし、おれ、おれ自身は問題の手術を終えたあとも禁酒を続けるのだろうか?

 

あ、そういえば、手術前の最後の診察で、血液検査もなければ、医師からの酒の話も一切なかったな……。

まあいい、手術までは飲まないことにした。おれはゼロ・コーラをごくごく飲む。そう決めた。コーラ・ジャンキーだ。では、手術が終わったらどうする? ……どうするのだろう。

とりあえずおれはストーマ(人工肛門)付きの人間(オストメイト)に一時的になることは決まっている。オストメイトの飲食は基本的に自由だ。とはいえ、やはり食品によって向き不向きもある。それがおれにはよくわかっていない。

 

アルコールによってストーマに悪影響があるなら避けたい。おれはストーマのトラブルをおそらくは必要以上に恐れているので、なかなか酒を飲む勇気が出ないかもしれない。

ちなみに、炭酸を飲むとガスがすぐ出るとかいうので、コーラもどうなのかわからない。まあ、だれもいない部屋で一人ガスを出す分には問題ないが。

 

ストーマを閉鎖したあとはどうだろう。閉鎖したあとも排便などに障害が起こると言われている。酒を飲んだらどうなるのか。頻便になるがさらに増加する。それも怖い。

それらを理由におれは酒を飲まなくなってしまうのか? ちょっとわからない。

正直、おれは酒を飲みたい。飲みたいが、「もうがまんできない!」というような強い渇望は感じない。脳に溜まったストレスが洗い流されなくて、不機嫌がつづいているくらいだ。酒を飲まなくなって一ヶ月、なにか体調がよくなったという気はいっさいしない。

 

すぐにおれはでかい焼酎の紙パックを買う人間に戻るかもしれないし、戻らないかもしれない。

飲みかけの焼酎は部屋のそこらに転がっている。高級なシングルモルトウイスキーもある。いまのところ、それらを捨てる気はない。まったく、ない。それだけである。

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

 

【著者プロフィール】

黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :Stanimir Filipov

「コミュニケーションが苦手」という人にも色んなタイプがあると思うんですが、しんざきは「エレベーターの中でそれ程親しくない知人と二人っきりになるのがとても苦手」なタイプのコミュ障です。

皆さんあの時間、平気ですか?何話せばいいんでしょうね、ああいう中途半端な待ち時間。未だに分かりません。

 

この記事で書きたいことは、大体以下のようなことです。

 

・人間は、基本的には「自分に興味・関心をもってくれる人」に好感を抱きやすいようです

・だから、円滑な人間関係を築く為には、「私はあなたに関心を持っています」ということをきちんと表明することが大事です

・ただし関心量にはバランスが大事で、状況によって、相手によって、ちょうどいい関心の量は変わってきます

・親子関係では特に、「関心量の調節」って難しいですよね

・子どもが大きくなるにつれて、「受け身の関心」「子どもが関心をもっていることに対しての関心」に軸足を移すような感じで調整してみています

・ちょうどいい親子の距離感が築けると素敵ですよね

 

以上です。よろしくお願いします。

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。

 

私が昔いた職場に、もの凄くコミュ力が高い人がいました。

やたら顔が広くって、色んな人と話を盛り上げることが出来て、しかも相手を選びませんでした。職場でちょっと浮きがちな人でも、あまり周囲と会話をするのが得意でなさそうな人でも、その人と会話するとちゃんと話に参加出来るのです。

 

まさに冒頭書いた、「エレベーターでの会話」で彼と話した時に気付いたことなんですが、彼、「自分が相手に興味を持っている」と伝えることと、「そのバランスの調整」がもの凄く上手いんですよね。

天気の話でも、仕事の話でも何でも、まず「相手の考え」に軸を置いた反応をして、「自分はあなたに興味がある」と伝える。

 

一方、相手が積極的には自己開示したくなさそうな場合、相手の話に深くは立ち入らず、むしろ相手が聞きたそうな話に応じて、相手の反応を確認する。それでも距離を置きたそうな場合、話をさらっと流す。

どんどん自己開示したい人と、あまり突っ込んで欲しくない人、それぞれに応じた距離感の管理ができているわけです。

 

この辺の距離感の調整がすごいなーと。これ、本人的には考えてやっているわけではなく素なようで、

「根っから他人に興味があり」

「かつ、興味をもって欲しくない場合それを感知できる」

という人なんだなーと感心したんですが。

 

コミュニケーションって、基本的には「興味のやり取り」です。「私はあなたに/あなたの言うことに興味があるよ」という意思表示の交換が、コミュニケーションの根幹です。

 

私、いわゆる「コミュニケーション術」的なものに対してちょっと不信感を抱いていた時期があるんですが、その原因のひとつがこれなんですよね。

「相手に対する興味」を置いてけぼりにして、話し方とか、伝え方とか、小手先の技ばっかり磨こうとしても仕方ないと思うんですよ。

 

以前も書いたんですが、「相手に対する興味」を欠いたまま相手とコミュニケーションをとろうとするのって、お湯がない状態でコーヒーをいれようとするような不毛な行為ですよね。

まず相手自身に興味を持つところからなんだろうなあと、そう思います。

 

***

 

ところで、育児をする上でも、この「関心量の調節」って滅茶苦茶大事だし、難しいよなあ、と思っています。

以前から何度か書いていますが、しんざき家には子どもが3人います。長男が高校三年で、長女と次女は中学生の双子です。

 

子どもって小さい頃は、「親からの視線」「親からの関心」をもの凄く欲しがります。

何かというと親の気を引こうとする。何かする度に「パパ、見て見てー!」って寄ってきたり、自分が作ったものを見せてくれるの、滅茶苦茶可愛いですよね。

まあ、ダンゴムシとかセミの抜け殻とか拾ってこられるとちょっと難儀ですけど。

 

つまり、小さい子は非常に大量の「親からの関心」を必要としている。

もちろん親の保護を受けないと生きていけないから当然なんですが、まさに「親の関心を食べて成長する」って言っていいくらい、「私を見て!」って気持ちでいっぱいなわけです。

 

もちろんこの時期、子ども自身も親に対して大きな関心をもっています。

パパ、ママのやること、なんでも真似したがったり、やたら興味を持ったりしますよね。

子ども自身にとっても、自分の世界に常にいる他者って親だけですから、関心を持つ対象も集中するんです。

 

だから、子どもが小さい頃は、親が子どもに関心を持てば持つほどバランスが良くなるわけです。

 

ただ、成長するに従って、子どもの「関心の必要量」は徐々に下がっていきます。

もちろん精神的な成長もありますし、子ども自身の世界も広がって、関心を持つ対象も広がっていきます。

友達のこととか、学校のこととか、ゲームのこととか、遊びのこととか、色んなものに対して関心を抱くようになります。うちの場合、小学校中学年くらいから、急に世界が広がり始めたように見えました。

 

誰しも記憶にあることだと思うんですが、子どもってある年代になると、親からの視線、親からの関心が、急に重荷になったり、鬱陶しくなったりしていきますよね。

そういう状況で、子どもが小さい頃と同じ感覚の関心を親が注ぐと、ともすると過干渉になったり、子どもの独立心に負の影響を及ぼす気がするんですよ。

 

この辺のバランスって非常に繊細で、環境によっても変わるし、子どもによっても変わるんですよね。

もちろん関心をもち過ぎるのも居心地悪そうなんですが、子どもが成長したからといって、関心を持たなすぎるのもまたよろしくない。

 

しんざき家でも、長男長女次女の「関心量のバランス」はそれぞれでして、長女はまだまだ「親からの関心」をたくさん必要としている様子である一方、長男は割と早くから親と一定の距離を保とうとしていたように思えます。

次女はその間くらいで、関心をもって欲しそうな時も、持って欲しくなさそうな時もあります。

 

育児もまだ道半ばで、しかも3人分の事例しかない状況で「正解」なんて全く分からないんですが、しんざき家では、

「能動的な関心から、受け身の関心にシフトする」

「関心の対象を、徐々に子ども自身から「子どもが興味をもっていること」にシフトする」

という方向で調節しようとしています。

 

つまり、子どもがやることに関心を持ちつつも、こちらから積極的に「私はあなたに関心がある」ということを表明はしない。

子どもが何か言い出したら「自分もそれに興味がある」と開示はするけど、こっちからはあんまり「何してるの?」とは聞かない。

 

一方で、「子どもが関心を持っていること」については、同じ目線で会話が出来るといいなあ、と思っており、ある程度ちゃんと追いかけるようにしています。

例えば、うちの長女次女はどちらも漫画や小説が大好きなのですが、ちょくちょく「これ面白いよ!」と本をオススメしてくれたりするので、それは喜んで読むし、「面白かった」「あんまり合わなかった」とちゃんと伝える。

 

念のためですが、飽くまで「方向」なので、厳密にこう出来ているわけでもありませんし、杓子定規にやってるわけでもありません。

育児ってケース別の試行錯誤でしかないので、正解なんて一生分からないのかも知れません。

 

とはいえ、今のところは、好きな漫画やらアニメやら小説やらについて楽しく話せているし、普段は普段でそんなに居心地悪くはなさそうなので、まあ当面はこのまま続けてみようかな、と。

 

将来的に、ちょうどいい親子間の距離が維持できるといいなあと考えていると、そんな話だったわけです。

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo:K Munggaran

「話の上手さの本質って、こういうことか…」

少し前のことだが、そんなことを思い知った出来事がある。

 

陸上自衛隊の元最高幹部を大阪にお招きし、経営者団体の会合で講演会をしてもらった時のことだ。

お名前や経歴をご紹介し、さっそくマイクをお渡しすると元最高幹部は開口一番、こんな事を言った。

 

「まず最初に、皆さんに知って頂きたい自衛隊の基本概念があります。『必成目標』『望成目標』という考え方です」

 

要旨、幹部自衛官はあらゆる任務・仕事で「必ず達成する必要がある目標」「可能であれば達成を目指す目標」の2つを意識するのだという。

その上で、例えば以下のような用例で部下に問いを立てると説明する。

 

“この仕事の必成目標と望成目標は?”

 

このような価値観と概念を共有し、仕事や作戦目標の意識合わせをするのだという。

「その上で、講演に先立ち私の本日の必成目標を皆さんにお伝えします。皆さんが私の話を『明日から使えるネタがいくつかあり、話を聞いた甲斐があった』と評価して下さること。それができなければ私の敗けです」

 

ともすれば講演会では、謙遜が行き過ぎて先に“逃げ”を打つ人も少なくない。

そんな中、“成果物”を先に約束し、それができなければ自分の責任であると、これ以上ないわかりやすい覚悟を示した形だ。

この前フリで講演会は一気に締まり、最後には大好評の盛会となった。

 

そんな元最高幹部と親しくお付き合いさせて頂き随分になる先日、とても驚きのオファーを頂く。

「来月関西に行きますが、生駒まで足を伸ばすこと可能です」

 

生駒とは私の住む奈良県生駒市のことであり、その意図するところは明らかだ。

将来自衛官になりたいといっている、私の小学校6年生の息子と会って、いろいろ教えて下さるという示唆である。

望外の喜びであり、さっそく田舎町のお蕎麦屋さんに元最高幹部をお迎えする。

 

元最高幹部と私、息子の3人で夕方から蕎麦前をつまみながら、“息子一人のため”のぜいたくな講演会が始まる。

そして元最高幹部はノートパソコンを取り出すと息子に向け、パワーポイントでプレゼンテーションを始めた。

 

「今日はわざわざ、来てくれてありがとう。おっちゃん、今はもう仕事を辞めたそのへんの人なんで気にしないでね」

そんな導入で息子の緊張をほぐして下さる元最高幹部。

 

「まずはじめに、今日のお話に先立ちどうしても知ってほしいことをお伝えします。他のことは忘れても良いので、これだけは必ず覚えて帰って下さい」

(今日も、必成目標と望成目標の説明から始めるのだろうか…。小学生には難しくないかな…)

 

しかしこの後、元最高幹部は全く予期していなかったことを言い出す。

 

“社員を拘束したほうが利益になる”

話は変わるがもう随分と昔のこと。大阪の中堅メーカーでCFO(最高財務責任者)をしていた時の話だ。

着任当初、とにかく数字の可視化が全くできていない状態に苦しむことがあった。

 

そんな中、状況を整理して最初に気がついたのは不正らしき痕跡の多さだった。

正確に言えば、不正な経費精算や備品の持ち出しであろう、不自然な数字である。

 

とはいえ、数字を把握する手段が無ければ証明・改善する手段などない。

そのため、経費精算や消耗品・備品の支給について細かなルールを決めるのだが、すると今度は新設ルール外のところで、不自然な数字が増加する。

(あかん…イタチごっこや…)

 

従業員は800名超であり、本社以外に多くの事業所がある事業形態だ。

経費精算や消耗品の持ち出しルールを過剰に設定し運用するのは、正解なようで間違っている。なぜか。

悪意のある極めて少数の社員による不正を排除するための仕組みが、99%のまじめな社員のやる気と利便性を失わせるためだ。

 

「社員のことなど一切信用していない」

ルールの細分化と行き過ぎた管理は、そんなメッセージ性として社員に敏感に伝わる。

言い換えれば、100円の損失を防止するために1000円のコストを費やすようなものであり、手段を目的化させてしまう。

 

とはいえ社員は、誰がどんな方法で悪いことをしているのか、不正をしているのか、だいたい知っているのが会社組織というものである。

状況を放置したらまじめな社員ほどやる気を失い、経営陣も愛想を尽かされ信用を失うだろう。

 

そんなことに思い悩んでいたある日、中堅以上の社員からの要望を取りまとめ、役員会に就業規則の改訂を提案することがあった。

選択的な短時間就労制度の導入と、それに伴う給与体系の見直しである。

 

要旨、6時間労働や週休3日などの選択肢を用意し、それに応じ給与も調整するという働き方の提示だ。

女性社員が8割を占め、またママさん社員も多かったので要望が多かった上に、本音を言えば労務費の削減手段としても非常に有効な手法でもある。なぜか。

 

人は就労時間の中で、めいっぱい集中していることなどありえない。

有り体に言って、8時間の勤務時間が6時間になったところで、多くの職種の成果など大きく変わらないものだ。

「これだけの成果を出せば、なんなら毎日、午前中に帰っていいよ」

 

もしそんなルールなら、おそらく多くの社員が本気で成果にコミットして集中し、決して18時まで席に居ることなどないだろう。

もちろん、適用できない業種や職種もたくさんあるが、その会社では成果の可視化と適用が容易であった。

そんなこともあり、労務費の削減見通しとあわせて役員会に諮ったのだが、思いがけない結果に終わる。

 

「労働基準法の上限まで社員を使える就労規則になってるんに、変える意味ないやん」

そんな経営トップの反対意見に一蹴され、他の役員も賛同する。

 

“法律の上限いっぱい社員を拘束するほうが、利益になる”

その時やっと、理解できた。

 

(不正行為が横行する本当の理由は、これか…)

 

「三方良し」は寓話ではない

話は冒頭の、自衛隊元最高幹部との飲み会についてだ。

「まずはじめに、今日のお話に先立ちどうしても知ってほしいことをお伝えします。他のことは忘れても良いので、これだけは必ず覚えて帰って下さい」

そう前置きしたうえで息子に、何を言い出したというのか。

 

「キミのお父さんは、本当にすごい人です。自衛官は力で国と平和を守りますが、キミのお父さんは筆の力で守っています」

(クソっ…やられた…)

 

油断していたところの初撃に、思わず目が…ムズムズする。

ギリギリでこらえ息子の方に目をやると、なんとも言えない誇らしい顔をしている。

あかん、しばらく顔を上げられそうにない…。

 

そんな前置きの後、元最高幹部は自衛官という働き方の魅力を説明し、様々な働き方や可能性があること。本気の挑戦に応える組織であることなどを1時間も語って下さり、最後にこう締めくくった。

「今はまだ、自衛官になろうと決める必要はありません。勉強や運動を頑張って、国や社会のために役立つ人になって下さい。その上で、もし御縁があれば自衛官という働き方を選んで下さい」

元最高幹部のお人柄や人間力については、十分に知っていたつもりだった。

しかしまさか、第一声からこんな形で話を進めるとは、完全に不意をつかれた…。

 

この日の出来事から、改めて理解したことがある。

元最高幹部の「人生における必成目標」とはきっと、“一人でも多くの人を幸せにすること”なのだろう。

だからこそ「自衛隊の説明」という手段を通じ、「一組の親子の幸せ」を必成目標として、この日の”マイクロ講演会”をお話して下さったということだ。

改めて、大組織のトップに立つ人のすごさに鳥肌立つ出来事になった。

 

そして話は、昔役員を務めていた会社での出来事についてだ。

“法律の上限いっぱい社員を拘束するほうが、利益になる”

そんな経営トップの言葉のどこから、不正行為が横行する本当の理由を悟ったというのか。

 

「社員は、会社の利益と対立する存在」

先の言葉には、そんな経営思想が色濃く滲んでいる。なぜか。

社員の幸せや待遇改善は利益にならないからやるべきではないと、そういっているに等しいからだ。

そんな経営者や会社が、うまくいくわけがないだろう。

 

どのような言葉で言語化するのかは、人それぞれである。

しかしリーダーにとって何よりも大事にすべき“必成目標”は明らかだ。

「従業員、お取引先、顧客の幸せ」である。

人の不幸の上に成り立つ利益など、長続きするわけがないのだから当然ではないか。

 

そして従業員の幸せや福利厚生を“敵視”すれば、従業員も必ず会社を敵視する。

献身的に組織に貢献しようなどと思うわけがなく、やがてこう考えるようになる。

 

「いつも搾取されてるんだし、バレない範囲でやり返して当然」

 

このようにして、不正行為のモグラ叩きがあちこちから噴き出す。

 

「三方良し」という近江商人の言葉があるが、これは決して寓話ではない。

元最高幹部が大組織で頂点まで昇り詰めることができた理由。

不正行為が絶えなかった中堅企業の事例。

 

リーダーと呼ばれるポジションにある人には改めて知ってほしい、印象深い出来事だった。

 

 

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

 

【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など

人間力に溢れる人とお酒をご一緒すると、いつも飲みすぎてしまいます。
仕方がないんです…。

X(旧Twitter) :@ momod1997

facebook :桃野泰徳

Photo:Michał Bożek

今回は、とても個人的なことを書きたい。

 

親戚の伯母が亡くなった。正確には、元伯母が亡くなっていたことを、私はつい最近知った。亡くなってから二年も経っていた。

「せっちゃんが死んだことを知らされていなかったのは、うちだけだったみたいよ」

と、母が言った。

 

亡くなっていたのは、私の父の次兄の元妻・セツコさんだ。

私の父は4人兄弟の末っ子で、一番上がトシコ伯母さん、次が長男のトシオ伯父さん、次男のトオル伯父さん、そして三男である父。

 

父方の祖母は教育熱心な人で、息子3人を全員大学へ行かせた。けれど実は、4人の中で一番頭が良かったのは長女のトシコ伯母さんだったという。

祖父の頭が古く、「女に教育は不要だ」と言ったため、トシコ伯母さんは高校までしか行かせてもらえなかったそうだ。

 

長男は関西大学、次男は一浪して慶應へ。

大学進学者が少なかった時代に息子が慶應に受かったことで、祖母は鼻高々だったらしい。

だが現実は、神戸に暮らす普通のサラリーマン家庭。息子を東京の私立大学へ行かせるのは無理の連続だったという。

 

次男にかかる学費と仕送りが家計を圧迫する中で、祖母は父にこう命じたそうだ。

「浪人は許さない。家から通える国立大で、医学部なら進学を許す」

 

父は言いつけに従って神戸大学の医学部へ進み、医者になった。祖母にとっては、これもまた自慢の種だった。

進学を諦めて就職したトシコ伯母さんは、早々に結婚して実家を出たあと、主婦として家庭を切り盛りしながら書家として成功し、大金を稼ぐようになった。

 

一方、私の母を含めた3人のお嫁さんたちは、子供達が大きくなるまで専業主婦として家庭に仕えた。

長男の妻・ユウコさんはおとなしくて優しい女性。

次男の妻・セツコさんは世話焼きで、下町出身の江戸っ子。

二人とも人柄が良く、良い妻であり母であったけれど、祖母とトシコ伯母さんにひどく虐げられた。理由はほとんど言いがかりだ。

 

ユウコさんには、

「男に養ってもらわないと生きられない無能」

と言い放ち、セツコさんには、

「下町の女で家柄が悪い」

と言って見下した。

 

いや、実際の理由はもっと単純で醜い。

美人が嫌いだったのだ。

祖母もトシコ伯母さんも自分の容姿にコンプレックスがあり、ユウコさんのように可愛い女性や、セツコさんのように華のある美人を見ると嫉妬が疼いたのだろう。母の見立てはそうだった。

 

私の母は大卒で薬剤師免許があり、実家も医者の家系だったため、一目置かれていじめを免れた。

父が母親に冷淡で、「うちに迷惑かけたら縁を切る」とまで言ったのも功を奏した。おかげで祖母は父に逆らえず、私たち家族にはほとんど干渉しなかったのだ。

 

また、トシコ伯母さんは弟たちに多額の援助をしていたが、父だけはトシコ伯母さんからお金を受け取っていない。

トシコ伯母さんは弟たちが家を建てるときに頭金を出し、特に生活が不安定だったトオル伯父さんには、くり返しお金を渡した。それを背景に、彼らに偉そうにふるまっていたのだ。

 

私は、セツコさんには恩を感じている。

大学受験のとき、1週間ほど家に泊めてもらい、世話をしてもらったのだ。

セツコさんは江戸っ子らしくチャキチャキしていて、面倒見がよく、よく働く人だった。

 

でも、朗らかな笑顔の裏で、どれほどの我慢を重ねていたのだろうか。

当時から、セツコさんは不定愁訴に苦しんでいた。心労の蓄積が不調の原因だったのではないだろうか。

夫であるトオル伯父さんは、40代で大手企業のサラリーマンを辞め、山師のようにさまざまな事業を始めては失敗し、ついには50代で自己破産した。

 

家計は火の車で、しまいにはどうやりくりしても食べていけなくなり、トシコ伯母さんを頼ることになった。

トシコ伯母さんから生活費の援助を受け、自立できずにいた次女に見合い相手も世話してもらったのだ。

 

背に腹は変えられないとはいえ、自分を長年いじめてきた相手に頭を下げるのは、セツコさんにとって屈辱に胸が焼ける思いだったろう。

一方のトシコ伯母さんにとっても、はらわたが煮える思いだったようだ。弟にいい顔をしたいがために、気前の良いフリをして援助を続けたが、

「私の稼いだお金があの女(セツコさん)の生活費に消えていると思うと、腹がたつ」

と、陰口に余念がなかった。

 

トシコ伯母さんの世話により次女が結婚して家を出ると、セツコさんはついに離婚した。けれど、熟年離婚の決定打は夫の破産ではない。

姑(私の祖母)に勝手に名前を使われて、身に覚えのない借金を作られていたのだ。

 

私の祖母は、子育てを終えた後に買い物依存症になっていた。

92歳まで長生きしたが、半世紀の間に総額で億を超える借金をしながら浪費を重ね、その尻拭いを子供たちにさせていたのだ。

祖母は自分の名前で借金をするだけでは足りず、ユウコさんやセツコさんの名前も使ってクレジットカードを何枚も作り、借金を膨らませていたのだった。

 

人の優しさや我慢には限界がある。

我慢に我慢を重ねてきたセツコさんも、ついに糸が切れたのだ。

 

離婚してS家を去った後も、セツコさんからは、ずっと年賀状が届いていた。

祖父母が亡くなって以降は親戚とも疎遠になり、次第に頼りが途絶えていくなかで、彼女だけは私に宛てた年賀状を欠かさなかった。

 

しかし私は、一時期それを返さなかった。

当時の私は、結婚生活が破綻し、二人の幼い子供を抱えて必死に生きていた。

人生がうまくいかず、卑屈になり、昔の自分を知っている人と関わることが辛かったのだ。

 

思い返せば恥ずかしい。

セツコさんのほうこそ、私よりもっと苦しい人生を送っていたのに。

 

連絡を無視しつつも申し訳なさが心に引っかかっており、今の夫と再婚して暮らしが落ち着いた頃、私は年賀状に近況を綴ってセツコさんに送った。

すると返事が来た。

「よかった。もう私とは関わりたくないのかと思った」

 

違う。そうじゃない。私の心が未熟だっただけなんです。

けれど、再び年賀状のやり取りが始まった矢先に、今度は年賀状仕舞いの連絡が来た。寂しかったけれど、年齢のこともあるのだろうと受け止めた。

最後に、これまで優しくしてもらったお礼に手紙を書いた。すると、温かい返事が送られてきた。

「この先どんなことがあっても、あなたなら大丈夫よ」

 

それが二年前のこと。そして、その頃もう、セツコさんは死につつあったのだ。

死因は頭蓋内出血。脳腫瘍があったらしい。

優しい人は、静かに、あっけなく逝く。それは、心身をすり減らしながら生きてきた証でもあるけれど。

 

年末が近づくと、私はよく昔のことを思い出す。

私が二十代前半まで、父方の家族は毎年、神戸の祖父母宅に集まって大晦日とお正月を過ごした。

お嫁さんたちは三人そろって台所に立ち、祖母に指図されながらおせちを作り、お雑煮を用意した。私はその光景を「正月の風景」としか思っていなかった。

 

でも今なら分かる。

あの場は、お嫁さんたちの我慢で成立していたのだ。

自分を嫌っている義両親の家に毎年通わされるのは、どれほど辛かっただろうか。

その積み重ねは深い恨みになり、祖父母が死んでも、夫と離縁しても、消えなかったのだろう。

 

「私が死んでもS家の人たちには知らせないで」

と言い残したと聞いているが、ひょっとしたら、そう決めたのは母親の苦労を知っている娘たちだったかもしれない。

 

そうは言っても、セツコさんと同じ苦労を味わったユウコさんには連絡が来たらしく、トシコ伯母さんにはトオル伯父さんから報告があったらしい。

普段交流もなく、遠く離れた地に住む私たちだけが、何も知らされなかった。

 

今の時代、家族関係は昔より希薄になった。

正月に必ず夫の実家へ行く必要もない。でもきっと、そのほうが健全だ。

 

最後に、セツコさんに言いたい。

血のつながった祖母よりも、トシコ伯母さんよりも、血のつながりのないあなたが私は好きでした。

 

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

 

【著者プロフィール】

マダムユキ

ブロガー&ライター。

リンク:https://note.com/flat9_yuki

Twitter:@flat9_yuki

Photo by :Emil Karlsson

少し前のbooks&appsで、桃野泰徳さんが「娯楽も遊びも休息も、仕事の一部」という記事を書いてらしたのを覚えているだろうか。

 

私はよく覚えている。なぜなら働いていくうえでとても重要な考えだと思うからだ。

機械にメンテナンスが必要なのと同じく、人間には娯楽や遊びや休息が、つまり桃野さんの記事でいう「戦力回復」のフェーズが必要になる。それを怠っていれば仕事能力は次第に低下し、ときには健康を損ねてしまうかもしれない。

 

だからマトモな組織や指揮官は「戦力回復」に十分な注意を払い、メンバーの福利厚生に努める。2004~2006年の陸上自衛隊イラク派遣に際し、厚生センターが現地に設営されたのもそのためだと桃野さんは書いてらっしゃる。

 

牟田口廉也のインパール作戦

ところが戦史を振り返ると、その「戦力回復」に注意を払っていないリーダーや指揮官が案外いたりする。太平洋戦争における旧日本軍は全体的にそうだが、海上補給ルートが寸断されてしまった太平洋戦争後半にはむごい話が多い。

そうした旧日本軍のなかでも、特別にひどい人物と言われがちなのが牟田口廉也だ。

(写真:wikipediaより)

牟田口廉也は佐賀市の士族の家に生まれ、陸軍士官学校を平凡な成績で卒業したという。尉官時代には与えられた仕事をよくこなし、佐官時代には軍内の政治遊泳にも、部下の統率にも優れていたようだ。その後も出世を重ねて、運命のインパール作戦においては中将の職に就いている。

 

牟田口廉也以外にも言えることだが、後世に「無能なリーダー」として後ろ指を指される人物も、そう評されるエピソードが巡ってくるまでは優秀であることが多い。

そもそも、なんらかの優秀さがなければリーダーや指揮官の地位を獲得できないわけで、実力や実績や交渉力などがなければ「無能なリーダー」や「愚将」にすらなれない。

 

他方、人には最適な器のサイズというものもある。平社員の時が一番輝く人、係長の時に一番輝く人、課長の時に一番輝く人、部長の時に一番輝く人がいる。

自分の器をこえた役職は、その人自身にも、周囲の人や組織にも不幸な転帰をもたらすだろう。牟田口廉也という人物と旧日本軍という組織にとって、中将という彼の階級、さらにビルマ方面の司令官という彼の役職が好ましい結果をもたらしたようには見えない。

 

その牟田口廉也が立案・指揮したのがインパール作戦だった。

牟田口は、戦局を打開するといってインドとビルマの国境地帯に侵攻した。補給困難な熱帯雨林を通り抜ける作戦は失敗し、大量の餓死者や病死者を出す結果で終わっている。

このインパール作戦を象徴する言葉としてしばしば引用されるのが以下のセンテンスだ。

皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは、戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。

こんなことを本当に牟田口が言ったのか、私は知らない。がしかし、「牟田口廉也は補給や戦力回復について考えの足りない将官だった」という世評を象徴しているセンテンスだと思う。

牟田口廉也みたいな作戦を立てる親がいっぱいいる

で、ここからが本題である。

世の中には、牟田口廉也みたいな親がいっぱいいると思いませんか。

 

子どもを逆境にさらす親にもいろいろあって、狭義の虐待やネグレクトをやってしまう親はその典型と言える。

それとは別に、子どもに熱心すぎる親、子どもにあれこれさせ過ぎる親もいる。やれ勉強しろ、やれヴァイオリンを練習しろ、やれ英会話を経験しろ……。

 

伸び盛りの子どもにさまざまな経験を提供すること、それ自体は悪くないだろう。勉強だってできるにこしたことはない。

しかし子どもには娯楽や遊びや休息が、つまり桃野さんの記事でいう「戦力回復」のフェーズも必要だ。

 

なかでも遊びは軽視できない。本来子どもは遊ぶのが仕事みたいなものであって、そこからも技能も習得し、自律性や自発性をも獲得していく。

子どもにとってのそれらは「戦力回復」という言葉以上の重要性を含んでいる。

 

だから、子育てをうまくやるにあたっては、「戦力回復」や補給やメンテナンスに相当するもの、それから「遊び」に相当するものへの目配りはどうしたって必要だ。

それらを軽視して子どもに勉強や稽古事を強いているなら、それは牟田口廉也のインパール作戦に似たことを、我が子に強いているも同然である。餓死者や病死者は出ないかもしれないが、子どもの心身の健康な発達にも影を落とすだろう。

 

にも拘わらず、実際には多くの親がインパール作戦のごとき、牟田口廉也のごとき子育てをやってしまっている。

やれ、有名私立学校だ、SAPIXだと高みを目指す一方で、補給や戦力回復を軽視し、子どもから「遊び」の機会を剥奪することが効率的なことだと思いこんでいる親は未だ多い。

そうした親は「我が子のためを思って」と思い込んでおおり、自分のやっていることは虐待やネグレクトの正反対であるとも確信している。

 

だけど、それって「子育てのインパール作戦」じゃないです?

誰も「あなたは今、牟田口廉也をやっている」とは教えてくれない

問題は、そうした戦力回復や補給や「遊び」を軽視しきった親でも、親権があり、そうそう誰も口出し・手出しできないということだ。

 

食事を与えない・身体的虐待を行っているといった、狭義のネグレクトや虐待が行われているなら児童相談所が動くこともできようが、そうでない場合、どんなに子育て指揮官としての親が無能でも、子育てがインパール作戦じみていても、それをどうにかすることはできない。

そして、誰かの子育てを無能であるとかインパール作戦であるとじかに指摘することは、現代社会のシステム下では不可能なことなのである。

 

そういえば最近、そうした「子育てのインパール作戦」に戦力回復を提供する体裁をとった、新しい商売も生まれている。

それは「『受験うつ』にはTMS療法を」といったものだ。TMSとは正式名は経頭蓋磁気刺激法といい、脳の左背外側前頭前野をターゲットとして磁気刺激を生じさせるような療法だ。この療法の進化版であるrTMS療法は、厚労省からうつ病に対する保険適用のお墨付きももらっている。

 

うつ病に対して新しい療法が提供されるようになったのはいい。だが、子どもを受験勉強漬けにして、元気がなくなってきたら「受験うつ」と称して脳に磁気刺激をおくるというのは、なんだかディストピアめいていると私には思える。そもそも「受験うつ」とは一体何なのか? そんな病名や概念は、精神医学の世界のいったいどこにある?

 

厚生労働省の委託を受けて日本精神神経学会が作成したrTMS療法に関する資料によれば、この治療法の対象者は中等度以上のうつ病の患者さんで、十分に薬物療法を実施しても効果が認められない患者さんであるとされている。そして機材とプロトコルも定められている。

 

一方、「受験うつ」に対して行われるそれは、そうした資料内容から逸脱しているようにみえる。

自由診療の領域だからはみ出していて構わないということだろうが、それで本当に補給や戦力回復が期待できるのか、ましてや「遊び」の代用品になるのか私にはよくわからない。

 

誰の指図も受けなくて構わないかわりに、誰からも忠告や警告をもらえなくなった今日の子育てにおいて、自分の子育てがどこまで間違っているのか、どう間違っているのかを自己モニタリングするのはとても難しいことだと思う。

その際には、牟田口廉也とて尉官時代や佐官時代には無能ではなかったことも思い出していただきたい。

人には向き不向きや器の大小がある。たとえば職場では最優秀とみなされている人が、子育てでは最低であることはよくあることだ。

 

だから子育てにおいて「インパール作戦」をやってしまうこと、親として牟田口廉也になってしまうこと、それ自体が恐ろしいだけでなく、それについて誰からも指図を受けないで済むかわりに誰からも忠告や警告をもらえなくなっていることが、また恐ろしい。

 

だから親はたえず自己モニタリングを試みなければならないし、そうしてもなお、自分はそんなにうまくやれるものじゃないと自戒したほうがいいのだろう。

それから何事も極端に走りすぎないこと。少なくとも私は「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」という言葉は子育てにおいても金言だと思う。そうしたうえで、自分の子どもに必要な「補給」や「戦力回復」について常に考えておくことが大切だ。

 

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

[amazonjs asin="B0CVNBNWJK" locale="JP" tmpl="Small" title="人間はどこまで家畜か 現代人の精神構造 (ハヤカワ新書)"]

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo:Darwin Boaventura

「グエー死んだンゴ」ニキ

少しまえに「グエー死んだンゴ」ニキが話題になった。末期がんで闘病を続けていた人が亡くなったあと、Xに予約投稿であろう「グエー死んだンゴ」という一文がポストされたのだ。

それに対して、ネット民たちは「成仏してクレメンス」と応えた。自分の本当の死をネットスラングにしてみせる姿は、まさしくインターネットの人だった。

 

話はそれだけでは終わらなかった。新聞の訃報欄で事実が確認され、亡くなった人がまだ22歳の大学生であったこと、希少がんであったことなどがわかったのだ。

だれかのポストをきっかけに、「香典」として国立がん研究センターなど、がん対策の研究機関などに寄付が相次いだ。

 

そこには、なにかインターネットのよいところが現れているようにも見えた。

誹謗中傷や分断煽り、儲け主義がはびこる中で、ひさびさに見たヌクモリティだ、泣き笑いのある話だ。AIにはできないことだ。人の死は人にこんな反応をもたらす。

若い人が死ぬこと自体は悪い話だが、こんなネットは悪くない。たまにはこんなことがある。

 

この件は全国紙やNHKなども報じることとなった。とうぜん、ネットを眺めて生きているおれも早い段階で知った。生前のニキのことはしらなかったが、Xのまとめですぐに知った。

おれはどう思ったのか。「こんなネットは悪くない」どころではない。ただ泣きそうになった。

 

希少がん患者が見た「グエー死んだンゴ」ニキ

人工肛門の一時造設で希少がんと休戦した話

おれも死んだニキと同じく、希少がんの患者である。ニキの「類上皮肉腫」も、おれの「神経内分泌腫瘍(NET)」も国立がんセンター希少がんセンターのさまざまな希少がんの解説コーナーに記載されている。

が、もちろん、その病状は大きく違う。希少がんと診断されたおれはいま、死というものに直面しているだろうか。いま現在、直面していない、というのが正直なところだ。

 

まだ診断が未確定の初期段階では、「予後がよくない可能性がある」と言われて、死を意識したこともあった。

だが、二度目の大腸内視鏡、CT、PET/CT、MRIなどの精密検査を経た上で、「NET G1」が確定した。あまり重くはない。リンパ節には転移しているが、ほかの臓器に転移もしていないし、進行の速度も遅い。

手術して切除してしまえば、とりあえずの安心は得られる。手術の代償として、一時的な人工肛門造設も確定しているが、命を取られるわけでもないし、肛門を取られるわけでもない。

 

おれはおれの希少がんにそれなりのショックを受けたし、動揺もした。いま、入院、手術を控えた身として、必ずしも心が平穏かというとそうではない。

そうではないが、それは

「人工肛門での生活とはどのようなものだろう」

「もし術中、術後の結果から永久人工肛門になったらどうしよう」

「仕事にはすぐに復帰できるのだろうか」

と、生死に比べたらずいぶん軽いものといっていい。手術自体への心配もほとんどない。おれは今どきの最新技術というものも信頼しているし、ロボット支援下手術をしてくれるということに感謝すらしている。……少し強がっている。

 

ただ、ぶっちゃけてしまうと、おれは、おれの希少がんが治ると思っている。

もちろん、手術ではいろいろな神経が入り組んでいる直腸付近のリンパ節をごっそり切除する。場合によっては排尿や射精に関する機能が損なわれる。その可能性は低くない。

また、人工肛門を閉鎖したのちは、排便に障害が残る。無傷ではいられない。ただし、この希少がんによって命まで奪われるわけではないと思っている。

 

それに比べて、「グエー死んだンゴ」ニキの場合はどうだったろう。

……あ、さっきから「グエー死んだンゴ」ニキと書いているけれど、ネット上のハンドルである「なかやま」さん、のほうがいいだろうか。それとも、公開情報となっている本名? いや、それはなにかなれなれしい感じがしてどうもしっくりこない。ニキで書かせてもらう。

 

まあとにかく、自分が彼のnoteとXで見られるかぎり、かなり早い段階で背中の筋肉と肋骨を失っている。進行も早くステージ4の診断もすぐに下されている。

ベッドの上から動くこともなかなかできず、最後には緩和ケアからの書き込みになっていた。

あまりにも重さが違う。大きな意味では「同じ希少がん」かもしれないが、その重さには天と地の開きがある。どちらが天だかはわからないが。

 

なので、「おまえ、そんなんで一緒の希少がん顔するなよ」という声も聞こえてきそうだ。

というか、書いていて、自分の中からその声は止まらない。

それでも、だ。こんな病気に自分がなったからこそ、このニュースを見て感じることがあったとも思えるので、こうして書いている。こうなっていなかったら、泣きそうにならなかったかもしれない。

こうなっていなくても、泣いた可能性はあるが。

(念のため書いておくが、同じ神経内分泌腫瘍でも重症度や悪性度は千差万別であって、おれのG1より悪いG2もG3もあれば増殖力が高く悪性度も高いNECもあって、それらは命にも関わる。もちろん、自分だって発見があと何年か遅ければ取り返しがつかなくなっていたかもしれない。「今回、おれに見つかったNETは比較的軽かった」という話である)

 

がんで病気に対する解像度が変わった

おれはこういう「解像度」という言葉の使い方が正しいかわからない。サイズが大きくなったとか、画素数が増えたとでも言ったほうがいいような気もするが、まあいい。

とにかく、自分が希少がんになってみて、身体の「病気」、とくに「大病」に対する意識に変化があったように思う。

 

これを理屈で説明するのは難しい。心情の変化として説明するのもやはり難しい。まだ変化をたしかに実感していないというのが正しいのかもしれない。

ただ、やはりおれは「グエー死んだンゴ」ニキのニュースを知ったときに、今までとは違う動揺の仕方をしたと思う。それは確かだ。

 

そもそも「病気」というもの、それも「大病」、死に至るような病はドラマになりやすい。

だから、古今東西さまざまな作品の主題として扱われてきた。歴史的な名作とされるものもあるだろうし、ありがちなお涙頂戴ものの恋愛作品とされるものもあるだろう。

 

おれは今まで、そのどちらを見ても、なんにも感じていなかったのではないかとすら思う。

「大切な人を病気で失う。それは悲しいということである」という情報を食べてきたにすぎない。

あるいは、余命を宣告された人がショックを受けて人生観が変わる、などというのもそうだ。「自分の余命が長くないとわかってしまう。それは衝撃だということである」と。

 

が、いざ、これが我が身にふりかかってくると、そうも冷静ではいられない。たぶん、そうなるに違いない。とくに、がんで余命宣告を受けた人物に対しては、今までにはない動揺があるに違いない。

「違いない」などというのは、まだそのような作品に接していないからだ。なにせ手術すらまだなので。

 

そういう意味では、入院して手術してみて見えてくるものもあるだろう。人が大病を患うとか、その結果できていたことができなくなるとか、いろいろだ。

あるいは、おれは数カ月間人工肛門になることが決まっているが、その期間中は永久人工肛門の人と変わらない生活を送ることになる。その間は身体障害者になる。オストメイトになる。

おれは『罵倒村』のアンジャッシュ渡部建を見て大いに笑ったが、病気がわかったあとだったら笑えたかわからない。看護師さんは立野沙紀さんみたいな人がいいけれど。

 

もう体験していることもある。大病院での大掛かりな検査がそれだ。CT、PET/CT、MRI……。このていどで大掛かり? 痛くも痒くもないだろう? と、思われるかもしれないが、45歳を過ぎて胃カメラも大腸内視鏡検査もしたことがなかった人間にとっては、すべて初めてのことだ。

そして、そのどれもが、ひどく疲れるということを知った。他の人がどうかしらないが、少なくともおれは疲れる。疲弊する。不安や緊張感、煩雑な手順などから、どうにも疲弊してしまう。

 

そのせいで、他の人が書いた闘病日記など読んで、たとえ簡単に「この日はCTとMRI検査をした」とだけ書いてあっても、大変だったろうなと想像するようになった。勝手な想像かもしれないが、そうなってしまった。

そのようなおれが、「グエー死んだンゴ」ニキの書きのこしたものを読むと、記述の簡潔さと内容の重さの差にすさまじいものを感じ、言葉を失ってしまう。

 

病を書き残すということ

病気は人生につきものでもある。仏教では生老病死をして人間の四苦という。

この苦しみのなかで「生」を先頭に置いたのは釈尊の慧眼であったとシオランが書いていたと思うが、今は置いておく。

 

自分ははっきりいって、この中の「病」の苦しさにはピンときていなかった。

いや、おれは双極性障害(II型)という精神の病を抱えてはいる。手帳も持っている。とはいえ、それはなにか、きっかけとなる事はあったとはいえ、本来のおれというものの性質に病名がついたという感じで、今回のような希少がんの発見とは違うものだった。

 

今回は、精神とは違って、内臓の問題だ。精神障害には病院へ行く自覚症状があったが、今回はない。

大腸内視鏡検査をして、一個のポリープが見つからなかったら、あと何年も、場合によっては十年以上だって平気で暮らしていたかもしれない。

痛みや不調を伴っていないのに、手術までして人工肛門を造る。それはそれで不思議な感覚ではある。なにか理不尽な気がする、というところも少しはある。

 

そしておれは、この病気について調べることもやめられない。

自分がどのような状態にあり、どのような手術を受け、その術後はどうなるのか。もちろん、病院やがんについての団体の情報発信を第一に調べる。

しかし、それだけでは足りない。当事者がどういう目にあったのか、それについて、当事者の声が聞きたい。

 

自分の場合は希少がんだったので、情報は限られていた。それでも、参考になった。

次になにが起こるのかまったくわからず、病院で言われる通りにされているだけでは、不安が大きすぎる。

むろん、素人が下手に情報を受け取ったり、そもそもよくない情報に触れたりして、誤った不安を抱くこともある。しかし、同じ不安なら、知ったうえで不安になりたい。

 

だから、おれはこの自分の病気について書いている。そういう面もある。

この病気について書くときは、同じような大腸NETになってしまった人に少しでも届けばいいな、と思っている。

 

おれはもとより、日常のなんでもないことでも書きたがる性質の人間だ。そんな人間が、希少がんという非日常が我が身に降り掛かったら、それについて書かずにはいられない。

ただ、今回はそればかりではない。そういうつもりはある。

 

実際に役に立つのか、そんなことはわからない。しかしたとえば、NETについての情報は少なくとも、大腸がんの手術をした人の体験談はけっこうある。人工肛門を造設した人の話もある。

この間ははてな匿名ダイアリーで人工肛門について「そんなに心配しなくてもいい」と自身の経験を書いた人も見た。

 

それらはみな、ありがたい。中には不正確なものもあるだろうし、余計な心配をあおるものもあるだろうし、逆に安心させすぎるものもあるだろう。

とはいえ、なにも情報がないよりはずっとましだ。いや、情報というと少し違う。声とか言葉とかいったほうがしっくりくる。おれはおれのような状況になってしまった人の声を聞きたいのだ。

 

だれもが「グエー死んだンゴ」ニキにはなれないけれど

だから結局おれが何を言いたいかっていうと、それはもうみんな自分の経験を書いて、ネットに放流してくれよ、ということだ。

「はじめて大腸内視鏡検査を受けたけど、なんの異常もなかった」というなら、それを書いてほしい。

 

ただ、できたら大腸内視鏡検査のとき腹が空気でパンパンになって苦しいのかそうでないのかとか、ちょっとしたディテールを加えてくれるとなおうれしい。

病は多くの人が通る道だから、きっとだれかの役に立つ。べつにだれに読まれず役に立たなかったとしても、それはそれでどうでもいいじゃないか。

 

それに、副次的なことか、こちらが重要かわからないが、病気なら病気で、自分の病状や不安、調べたこと、医者から言われたこと、今後のことなどを文章にするのは、気持ちの整理にもなる。

今回の件になってから、長く抑うつ状態に陥っているおれが言っても説得力はないだろうが、整理しないままよりはましだろう。もちろん、整理できないなら、整理できないと書こう。それがリアルだし、ひょっとしたら、だれかの共感と安心になるかもしれない。

 

おれによし、おまえによしなら言うことはない。おれによし、だけでもいい。

だれもが「グエー死んだンゴ」ニキのようになれるわけがない。多くの人の行動、それも善業とされるものを呼び起こすなんてのは奇跡の一つだ。

 

そんな奇跡を起こした「グエー死んだンゴ」ニキも、病については奇跡を起こせなかった。だから残念なことに、奇跡になってしまった。

病とは違って、死は誰もが通る道だ。死に直面した人間の言葉もまた、だれかの生にとって影響を与える。おれはニキの残した、決して多くはない言葉(Xを一度凍結されたらしいので、遡れるものは限られている)のなかにも、生や死について考えさせられるものを見つけた。

 

「今を生きてるんだから
えらいえらいだよ」

というメッセージに、こう答えたのだ。

「生きてて偉い段階は終わった」

 


この言葉がどれだけのものを意味するのか、今のおれにはわからない。

ただ、これから「生きているだけでえらい」という言葉を見るたびに、その段階を終えてしまったと自覚した人のことを思い出すだろう。

人は生きて、ときに老い、ときに病み、そして死んで、どうなるのだろう?

 

おれも「グエー死んだンゴ」と書き残して死ねるだろうか? 「グエー死んだンゴ」ニキはどうなったのだろう?

おれにはわからない。

せめて、成仏してクレメンス。

 

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

 

【著者プロフィール】

黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :Arseny Togulev

つい先日、Amazonがリストラを始めたと報道があった。

Amazon、約1万4000人の削減を発表 AI時代に対応すべく組織再編で

米Amazonは10月28日(現地時間)、約1万4000人の従業員を削減すると発表した。この削減は、同社のコーポレート部門全体に影響を与える見込みだ。その内容は従業員に向けて共有したメッセージの中で詳細が明らかにされており、組織全体にわたる組織変更の一環として行われる。(ITmedia)

 

別に驚くには当たらない。

最近では、企業は黒字でもリストラを敢行する。

もちろん、米国企業だけではなく、世界各国で同様の動きがあり、日本企業も例外ではない。

例えば明治ブリジストンパナソニック第一生命三菱電機…… 少し調べただけでも、本当に多くの企業が、社員を希望退職という名の解雇をしている。

 

まあ本当のところ、大手企業には「いてもいなくても良い人」が大量に存在しており、上手にリストラをすれば業績も上がる。

マイクロソフトなどはうまくやっていると言えるのだろう。

Microsoft7〜9月最高益 クラウド4割増収、リストラ効果も寄与

【シリコンバレー=山田遼太郎】米マイクロソフトが29日発表した2025年7〜9月期決算は売上高が前年同期比18%増の776億7300万ドル(約11兆9000億円)、純利益が12%増の277億4700万ドルだった。人工知能(AI)向けのクラウドサービスが4割の増収となり、大規模なリストラ効果も寄与した。3四半期連続で最高益を更新した。(日本経済新聞)

 

「解雇」は経営の正当な手段

私は以前、人事の仕事に関わっていたことがある。

 

その仕事の中で知ったのは、「解雇は必要な手段だ」と認識している人が結構多かったことだ。

「絶対に雇用を守る」としている会社は少数であった。

たしかに、国連機関であるILO(国際労働機関)は「能力」と「行為」は、解雇の正当な理由だとして位置づけている。

 

企業は、社会的な機能を担うための機関である。

解雇は、その機能を担うための手段であるから、「従業員」が機能を果たせなくなれば、必要に応じてそれらを行使する。

 

例えば、ピーター・ドラッカーは、組織において「働く人の意欲」を非常に重視していた。

「意欲のない人間」は組織と本人の双方にとって大きなリスクになると指摘しており、本人に意欲があり、チャレンジを望めば雇用を続けるべきだが、そうでないなら解雇せよ、と言っている。

この問題についてはここでもう一度シンプルな原則を繰り返させていただきたい。挑戦してくるならばチャンスを与えるべきである。挑戦してこないならば辞めてもらうべきである

 

だから、ここで問題となるのは解雇の是非ではない。

真に問題となるのは、「誰にやめてもらうべきか」だ。

 

どのような人を「解雇」すべきか?

一般的には、「無能」が解雇されると考えている人が多い。

しかし、日本では、能力によって解雇される人はむしろ少ない。

 

では何を持って解雇されるのか。

少し古い文献だが、「クビにした会社と、クビにされた社員の紛争」の調停事例を扱った研究書籍「日本の雇用終了」には、企業が解雇を決定するときの事例が数多く書かれている。

[amazonjs asin="4538500046" locale="JP" tmpl="Small" title="日本の雇用終了: 労働局あっせん事例から (JILPT第2期プロジェクト研究シリ-ズ no.4)"]

これを見ると、日本人が「誰を辞めさせるべきか」についてどのように考えているのかが、よく分かる。

 

具体的には、「態度が悪いやつ」が最も解雇されやすい。

・労働条件変更といった中間形態をとることなく、直接「態度」を理由にした雇用終了に至っているケースが、168件(実質166件)と全雇用終了事案の中で実質的に最も多くなっている。(第一節)

・狭義の「能力」を理由とする雇用終了では、具体的な職務能力の欠如や勤務成績の不良性を理由とする事案はそれほど見られず、むしろ「態度」と区別し難いような「能力」概念が一般的に存在していることが大きな特徴である。(第二節)

 

それは、日本企業がは基本的に「やる気があって真面目な人」を解雇できないからだ。

メンバーシップ型の雇用である日本では、従業員の能力が不足したとしても、仕事が遅かったとしても、それは会社側が「教育・訓練」を施すなり、「環境を整える」なりして、本人の能力を引き上げる義務を負っている。

 

しかし、逆に言えばこれは「従業員の義務として、会社の期待水準まで、自分の能力を上げるための努力をしなければならない」ということでもある。

したがって、

・何度もチャンスを与えたのに努力をしない

・そもそもやる気がなく、勤怠が最悪

・反抗的態度をとって、他の従業員のパフォーマンスを下げる

という授業員に対しては、解雇が認められた判例が多数、存在している。

 

納得して辞めていく社員

実際、そのように社員を解雇する会社を見ていたことがあった。

 

その会社はサービス業だった。

社長はワンマンで、非常に仕事ができる。

会社は右肩上がりで成長していたため、社員の給与水準は高めだった代わりに、当然のように成果が厳しく求められていた。

 

そして、この会社は、解雇をうまく使っていた。

「うまく」というと語弊があるかもしれないが、皆、納得して会社を辞めていくので、大きな問題にならないのだ。

 

ではいったい、社員をどのように解雇していたのか。

 

実は、成果が出ない人をいきなり解雇することはしない。「成果があがらないだけ」は解雇の理由にならない。

逆にその場合、徹底して「行動すること、マニュアル通りやること。」を求める。

 

なぜなら、そのとおりやれば、大半の人は成果が出るから。

忠実にマニュアル通りやればいいだけ。工場の流れ作業と同じだ。

 

しかし中には、「行動しない人」「マニュアル通りやらない人」がいる。

 

例えば、

電話しない。(電話するルールがある)

お客さんに会いにいかない。(定期的にお客さんを訪問するルールがある)

ミスを防ぐために必要なチェックをしない。(チェックリストをつかうルールがある)

アンケートを取らない。(アンケートの回収率を100%にするルールがある)

セミナーの練習をしない。(セミナーの練習をするルールがある)

 

そういう人には、まず上司から、このままだと「評価が下がる、給与が下がる」ことが告げられる。

そこで行動が修正されれば、めでたしめでたしだ。

 

だがそれでもなお、社員が働かない場合、つぎに希望を聞いて「仕事の変更」をする。

例えば

接客からバックオフィス

営業からマーケティング

品質保証から購買

などといった、配置転換だ。

ただし、この配置転換はだいたい、評価が一旦リセットされるので、給与が下がる。

 

ただ、実際には、働く場所によって、人は大きく能力を変える。

ある場所では無能だったが、他では素晴らしく活躍する、ということが普通にある。

そのようにして、配置を変えた結果、また評価のあがる人もたくさんいた。

 

しかしそこでも仕事をきちんとしない人が、どうしてもいる。もう、これはどうしようもない。

 

その場合、会社は「もうあなたのできる仕事は、この会社にはない」と告げる。

合わせて、「他社であれば、あなたの活躍できる場所があるかもしれない。」とも告げる。

 

これで殆どの社員は納得して辞めていく。

中には「これだけ面倒を見ていただいたのに、会社の期待に応えられず、申し訳ない」

といって辞めていく人もいる。

 

重要なのは「尊厳」

この会社が気をつけていたのは、やる気がある限りは、クビにしないこと。

そして、仕事ができないからといって、社員を馬鹿にするような態度を決して取ったりしないことだった。

人は、バカにされれば、むしろ「やり返してやろう」と思い、会社と険悪な関係になってしまう。

 

企業は福祉を担うことはできない。だから、無用の人物は解雇せざるを得ないが、しかし、その場合であっても、人としての「尊厳」は守る。

ウチではだめだったが、ほかでは活躍できるという可能性を告げる。

(努力を怠っていたとしても)あなたは、あなたなりに確かに努力していたと認め、ただし、ウチが社員に求める水準には達していないということを素直に告げる。

 

会社が何度もチャンスを与えれば、結局、彼の適性は本人の知るところとなる。

あとは、どのように送り出すか。

それだけの問題だ。

 

だが、そういうささやかなプライドを踏みにじると、「法廷」で争うハメになり、結局誰も得をしない。

 

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

 

【著者プロフィール】

安達裕哉

生成AI活用支援のワークワンダースCEO(https://workwonders.jp)|元Deloitteのコンサルタント|オウンドメディア支援のティネクト代表(http://tinect.jp)|著書「頭のいい人が話す前に考えていること」88万部(https://amzn.to/49Tivyi)|

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯note:(生成AI時代の「ライターとマーケティング」の、実践的教科書

〇まぐまぐ:実務で使える、生成AI導入の教科書

[amazonjs asin="4478116695" locale="JP" tmpl="Small" title="頭のいい人が話す前に考えていること"]

Photo:Gadiel Lazcano

先日、高市総理を映すニュース動画を観ていて、とても驚くことがあった。

 

総理就任後、外交デビューとなるASEAN首脳会議に向かう時のこと。

政府専用機に乗り込む高市氏は、タラップを昇ったところで足を止め、敬礼で出迎える航空自衛官に答礼を返した。地上のカメラに向かって手を振るよりも前にだ。

さらに機内で待ち受ける、おそらく接遇役であろう空曹(現場の中核となる自衛官)の女性、接遇の責任者であろう空将補にも頭を下げ、機内に消えていった。

 

「何だそんなの、人として当たり前じゃないか」

そう思われるだろうか。その通りであり、こんなことは人として当たり前のことだ。

自衛隊の最高指揮官として、軍人から敬礼を受けたなら指揮官は答礼を返す。当然のことである。

 

しかし実は政府専用機に乗り込む時、平成・令和の総理の多く、おそらくほぼ全員が、敬礼で待ち受ける航空自衛官を一瞥もせず機内に入るのが普通だった。

唯一、故・安倍元総理がそのような所作をされているのを見たことがあるくらいだ。

 

思えば高市総理は、就任後初の記者会見の際にも記者が所属と名前を名乗った際、一人ひとりに必ずこう返していた。

「お疲れ様です、どうぞよろしくお願いします」

 

時にやや強引さを感じるくらいであったが、それくらいに「礼を尽くす」ことにこだわりがあるのだろう。

それを政府専用機に乗り込む際にも、自然体で示した形だ。

そんな出来事をみて、もう6年以上も前の、苦々しい記憶を久しぶりに思い出した。

 

「心からのお祝いを申し上げます」

もう6年以上も前の話、陸上自衛隊のある最高幹部の退任記者会見に出席したことがある。

防衛大学校時代から通算し、40年もの長きに渡る自衛官・自衛隊員生活の最後の日だ。

18歳で国防を志し、以来誰よりも努力し汗をかき最高幹部にまで昇りつめた日々を思うと、取材する立場であっても胸にくるものがある。

 

そんな感慨を覚えつつ記者会見が始まると、やはりというか案の定というか……。

全国紙やテレビの記者たちは、こんな質問をぶつけはじめた。

「〇〇の問題はまだ解決してないと思うのですが。未解決で離任する心境をお聞かせ下さい」

「先日発生した、XX駐屯地での不祥事について、どのようにお考えですか」

 

口調はケンカ腰であり、怒らせようとしていることが明らかな言葉選びだ。

自衛隊批判、自衛官批判、最高幹部への個人攻撃など、記者個人の“お気持ち表明”に近く、およそ退任記者会見で聞き出すべきバリューのある質問など、一切ない。

そんな空気感にややイラつきつつ、記者会見は進み所定の時間になる。

 

「他に質問のある方はいらっしゃいますか?」

進行役の自衛官がそう会場に問いかけたところで、どうしてもこのまま終わらせたくなかった私は最後に挙手をした。

 

なお小規模な記者会見ではあらかじめ、質問をする記者は主催者側から割り当てられていることが多い。

式典の時間も限られていることから、その役目は全国紙の記者やテレビ局などの、メジャーな立場の人ばかりだ。個人やフリーの記者はその役目をもらえないし、挙手をしても発言の機会はない。

 

そんな事はわかっていたが、どうしてもこのまま終わらせたくなかった私は、横紙破りなことはわかりつつも挙手し最高幹部を見詰める。

一瞬キョトンとする進行役の自衛官。最高幹部は、進行役の方をみると軽く頷くような素振りを見せた。

おそらく「質問させてやれ」という意味なのだろう。

指名を受け、立ち上がりマイクを握る。

 

「総監、ご質問に先立ち、ご退役に際してのお祝いを申し上げます。そして、40年もの長きに渡り国防に捧げられた人生に、心からの敬意と感謝を申し上げます」

 

時に総監の目を見つめながら、時に会場にいる“クソメディアのクソ記者”の方にも目を向ける。

(お前ら、厳しい質問をするのは当然にしても、まず人としての礼儀くらい尽くせ!)

もっとも、どいつもこいつもカエルのツラにションベンであったとは思うが。

 

質問に立った記者の誰一人として、この程度の礼も尽くさなかった。ただそのことが、腹立たしかった。

だからこそそう前置きし、一呼吸空け、改めて質問を始める。

 

「自衛官のなり手不足が深刻な問題になりつつあります。国防に深刻な影響を与えかねない事態になる可能性もあるかと思います。どうすれば若者が自衛官を目指してくれるようになるとお考えか。ご退役の日にあたり、自衛官という職業の魅力とあわせてお聞かせ下さい」

 

総監は少し意外そうに、しかし柔らかな笑顔を作りながら話を聞き終わると、予定外の質問にもかかわらず丁寧に応えた。

「まずは、お祝いのお言葉に感謝申し上げます。国民の皆様のご理解とご協力があってこその任務でした」

 

一呼吸置き、本題に移る。

「自衛官のなり手不足について、深刻に捉えております。若者にお伝えしたいこと、お伝えしたい魅力はたくさんありますが、時間も限られているので簡潔にお答えします。自衛隊には、本気の想いに応える仕組みがたくさんあります。やりたいと思えること、やりたい仕事が、必ずあります」

 

心做しか、先程までの鋭い目力が消え去り、柔和にさえ感じられる。

あるいは、長かった自衛官生活に思いを馳せながら、お話しして下さっているのだろうか。そして思いのほかたくさんのことをお話しされると、こう締めくくった。

 

「ひとことで言うと『自衛隊は良いぞ!興味があるなら、まずは飛び込んできて下さい!』です。私自身、本当に幸せな自衛官生活でした」

 

そして記者会見を終え栄誉礼・離任式に移り、音楽隊の演奏などを経て、見送り行事が始まった。

もうここまでくれば、記者など誰ひとりいない。私だけだ。

栄誉礼の会場には一人だけ地元紙の記者が来ていたが、式典が始まると興味なさそうに、すぐに出ていってしまった。いったい記者たちは何を取材して、何を読者に伝えたいのか。

 

見送り行事も終わると、特別に許可を頂いていた総監の最後の公式行事、「殉職自衛官の慰霊碑参拝」まで同席させて頂く。

先程までのたくさんの自衛官・自衛隊員の見送りと違い、慰霊碑の参拝は副官だけを携えた、総監と令夫人お二人だけによる行事だ。夏の終わり、蝉の声だけが聞こえる厳かな空間で、背筋を伸ばしながら写真を撮り、遠くから取材させて頂く。

 

そして全ての行事を終えて専用車に乗り込まれようとしたその時、突然副官がこちらに駆け寄ってくると、こんなことをいった。

「総監が少しお話ししたいそうです。来て頂けますか?」

 

一体何事なんだと、慌てふためき走り寄る。

この時あまりにも慌ててしまい、総監のおそばまでいったところで足を滑らせ盛大にすっ転んでしまった(泣)そんな私に手を伸ばし、笑いながら引っ張り起こすと総監は短く一言、こんな事を言った。

 

「桃野さんのこと、以前から存じ上げています。これからも自衛隊をよろしくお願いします」

 

そして握手を求めて下さり、車に乗り込んで慰霊碑を後にした。

残された私の右手には、なにやら違和感。手のひらをみると、そこにあったのはチャレンジコインだった。

チャレンジコインとは、高位にある軍人が親愛の情を込めて、部下や友人に渡す記念コインだ。おそらく総監の、自衛官生活最後のチャレンジコインだろう。ただただ深く感動し、目から汗があふれる。

 

それから6年以上の月日が経った。

今、元総監は私にとって自衛隊に関したくさんのことを教えてくださる、かけがえのない飲み友達だ。

 

何を見せられてるのか

特別なことなど、何一つしたことはない。

基本的に自衛隊を応援する立場ではあるが、だからこそ自衛隊の不祥事を厳しく批判することも少なくない。

しかしそんな時にこそ、礼儀や礼節、品位を欠くようなことは絶対にしない。

 

ひるがえって今、高市政権を批判するメディアと野党はどうか。

聞くに耐えないヤジを正当化する、野党第一党の議員。

「(高市総理に)死んでしまえと言えばいい」と言い放った、有名ジャーナリスト。

 

そんな野党議員やメディアなど、多くの国民から嫌悪感を持たれて当然だろう。ロジックや知性に基づく議論ではなく、感情的に喚くだけの批判は、共感や納得に程遠いからだ。

言ってみれば、モンスタークレーマーが飲食店の店員さんにブチギレているのと同じレベルの行為を“報道”と称し、“政治”であると開き直っている様を国民は見せられているのである。

ただただウザイに決まってるではないか。

 

批判という行為は、知性と知識、品位があってこそオーディエンスの納得と共感を得られるものだ。

そしてそれ以上に大事なのは、立場や役割が違う人に対するリスペクトに他ならない。敬礼で出迎える自衛官に、カメラに手を振るよりも先に答礼を返す “人として当然”の礼節である。

 

この程度のこともできない野党やメディアこそが今、日本の民主主義を危うくしている。

意味のある権力批判をすべき勢力として、まったく機能していないからだ。

大株主や取締役、監査役が無能であれば、経営トップは間違いなくロクでもない事をやり始める。

 

同様に、メディアや野党など権力を監視すべき勢力に知性や知識、品位が無ければ、政府はやりたい放題になるだろう。

高い支持率を得ている政権と対峙するためにこそ、その重い役割を再認識して欲しいと願っている。

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

 

【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など

ガラにもなく偉そうなことを書いてゴメンナサイ!
> <;
仕方がないのでお酒を飲んで寝ます!
> <

X(旧Twitter) :@ momod1997

facebook :桃野泰徳

Photo:Therese Garcia

今更ながら映画の国宝をみた。

序盤は正直退屈だったが、中盤以降は予想を超える展開がどんどん続いていき、目が釘付けになってしまった。

 

この映画で最も印象的だったのが、人間国宝である万菊さんだ。彼のセリフは、一つ一つが実に重い。

例えば最初の登場シーンで主人公・喜久雄に言うセリフが凄い。

 

「喜久雄さんでしたっけ?ちょっと」

「ほんと、きれいなお顔だこと」

「でも、あれですよ、役者になるんだったら、そのお顔は邪魔も邪魔。いつか、そのお顔に自分が食われちまいますからね」

 

である。

最初にこのセリフを聞いた時には、あまりにも何をいいたいのかがサッパリわからず、当惑した。

「顔に自分が食われる?いったい何を言ってるんだ?」と、ずっと引っかかりを覚えていた。

 

しかし最後のシーンで、主人公の顔が実に深みを増し、インタビューでは言葉は少ないものの、顔で明らかに言葉以上のものを語るシーンをみてから、やっと「ああ、そういう事だったのか」と納得した。以下で考察を重ねていこう。

 

こいつらイケメンすぎて、何も面白くない

これは単に僕がイケメンの顔に全く興味が無いからなのかもしれないが、自分は最初にもう1人の主人公である俊介と、喜久雄をみた時、あまりにも両者の顔と雰囲気が似すぎていて区別がつけられなかった。

 

なんとなく気質の違いから見分けはつけられるのだが、顔だけみてると、どっちがどっちなのか、全然わからない。

そういう事もあって「コイツら、ぜんぜん面白くないなぁ」と、序盤は退屈であった。

 

それが急に面白さを感じるようになってきたのが俊介が歌舞伎から逃げ出し、8年もの歳月が過ぎてから帰ってきてからである。

帰ってきた俊介に対し、一座の人間は極めて誠実に対応をする。そうしてまた厳しい稽古が始まるのだが、そこで万菊さんが俊介に対して言い放つ言葉がまた凄い。

 

久しぶりの歌舞伎の稽古だったからか、あまり上手に演技ができなさそうな俊介に対して、万菊さんの指導は大変に厳しい。

 

僕は「そりゃそうだよなぁ。久しぶりの演技なんだろうし」と同情する中、万菊さんは唐突に俊介を突き刺すような一言を言い放つ。

「あなた、歌舞伎が憎くて憎くて仕方ないんでしょ」

 

上手な演技ができない俊介に対して、お前は歌舞伎を憎んでいるから、そんな程度の低い演技しかできないのだと言いたげな台詞である。

僕は「万菊さんはいい演技がしたいのなら、憎しみを乗り越えろとでもいうのかな?」と次の台詞を予測していたのだが、続く言葉が

「でもそれでいいの。それでもやるの。それでも毎日舞台に立つのがあたしたち役者なんでしょうよ」

 

で、僕は打ちのめされてしまった。

 

辛いことは乗り越えるもの。それでようやく、人になる

僕らは必死になってこの世の中を生きている。

世情は荒波に満ちており、心地よい時も確かにあるが、自分の思うように世の中が上手く運ばず、辛い日に合う事も多い。

 

そういう風に辛い目にあうと、つい

「なんでこんな嫌な思いをしてまで、頑張って生きなくちゃいけないんだろうなぁ」

 

とメランコリックな気持ちになる。あ

まりにも辛すぎる日々が続く時なんて、それこそ希死念慮を抱くまである。

 

言うまでもなく、辛い気持ち・死にたい気持ちというのは、決して消せるようなものではない。

ある程度の誤魔化しや緩和はできても、それでも問題の本質が解決しない限り、症状は改善しない。

 

あまりにも強靭で終わりが見えない暗黒の日々が続くと、それが永遠に続くような苦しみに感じられてしまう事もあるが、それでも淡々と日々を過ごしていくと、そういう日もいつか終わってしまう。

そして困難を乗り越えてから振り返ってみると、自分自身が確かに成長したなと感じるのである。それが人生というものだ。

 

そうやって何度も何度も厳しい試練を乗り越える度に、僕は自分の顔に独特のタフさが交じる事に最近気がついた。

なんていうか、いい顔つきになるのである。

 

コイツら、ちゃんといい顔になったなぁ

物語はその後、主人公の転落も入り混じりつつ、共に苦難を乗り越えた俊介と喜久雄が、再び東半コンビを結成し、大団円を迎えるように見せかけて、再び思い通りには決していかない様相を呈していく。

 

この頃になると、役者の顔に明確にがある。

俊介も喜久雄も、どちらも思ったとおりには決していかない人生を、異なる種類の困難とはいえ乗り越え、それでも毎日いい演技をするために舞台に立つ。

 

役者にとっての寿命は、舞台に立てなくなる日である。

 

俊介は、舞台を降りて養生すれば、もっと長く生きられただろう。

しかし、彼はそれこそ命がけで舞台に立つ。なぜなら、役者にとって、舞台に立たないという事は、生きる意味の喪失にも等しい事だからである。

 

別に僕はサディスティックな気質はないが、それでも俊介が苦悶にまみれた顔をしながら舞台に立つ姿をみて「ああ、いい顔してるな」と思わされてしまった。

そして冒頭にも書いた万菊さんの「役者になるんだったら、そのきれいなお顔は邪魔」という台詞が、ようやく自分の中で納得できてきた。

 

ああ、確かにきれいな顔なんて保つ事だけ考えてたら、役者になんてなれないな体裁だけ整えるようになっちゃったら、役者が役に、食われてしまうのだろう。

 

いい顔ができなくちゃ、生きてる意味もないわな

心穏やかに日々を過ごしたいという願いは、誰もが持っている。

しかし世の中はそう簡単ではない。誰かにとっての都合のいい展開は、誰かにとっての都合の悪い展開である。

 

欲望に満ちたこの世界において、自分に都合のいい展開ばかりが続くという事はありえない。

だから仏教ではそういう執着を手放し、何事も諸行無常であるのだからと、日々を淡々と過ごせと説く。

 

しかしこの話を聞く度に、僕は「じゃあ何で人はそもそも、生きなくてはならないのか?」とずっと疑問だった。

 

生きる意味とはそもそもなんなのか?それが見えない限り、仏教の高尚な教えは何の活用方法も無い。

脳内を快楽物質で埋め尽くすのが生の目的なのか?それとも権力を手にしてこの世を我が物とするのが生きる目的なのか?これが全然わからなくて、辛い思いを抱えている人は多いだろう。

 

生きる意味。この問いに万全たる回答は無い。しかしそれでも私達は産まれてきたのだから、何らかの意味が欲しい。

だが、このとても難しい深淵なる問いに対して、直接的な回答を作成する事は、とても難しい。

 

しかし間接的な回答ならどうだろうか?僕はその鍵は、やはり人の顔にあるように思う。

外来で日々診療し、病院を歩いていても、やはりそこには特有の見ていて気持ちのいい顔つきをしている人間というのは、やはりいる。

 

そういう気持ちのいい顔をした人間は、純粋な知性や能力のような指標では推し量れない何かが確かにある。

何らかの境地に到達した人間にしか作れない表情というのが、どうもあるのではないかと自分は感じている。

 

そこに至る事で初めて見える景色というのが、恐らくある。

 

映画・国宝で流れた最終シーンは、その一つのモチーフなのではないか?と自分は思っている。「あそこに何かがある」と俊介と喜久雄は舞台の奥を眺めて劇中で語っていたが、それが見えるのは、至った顔を作れたものだけなのだろう。

その風景がみえるようになった時、たぶん生の意味がようやく具体的な形で実感できるようになるのだと思う。

 

「歌舞伎が憎くて憎くて仕方ない。でも、それでいい。それでもやる。それでも毎日舞台に立つのが、役者である」

改めて、実に味わい深い台詞だなと思う。

 

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

 

【著者プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by:Art Institute of Chicago

今日はまず、以下の文章を読んでみていただきたい。

(高市)首相は会談で、両国が今年、国交正常化60周年の節目を迎えたことを踏まえ、「日韓関係を未来志向で安定的に発展させていくことが両国にとって有益だ」と述べた。「今の戦略環境のもと、日韓や日米韓の連携の重要性は一層増している」とも強調し、「シャトル外交」の活用に意欲を示した。

一方、李氏も「日韓両国はいつにも増して未来志向の協力を強化していかなければならない」と語った。

これは、10月30日のyahooニュースに記載されていた、日韓首脳会談のやりとりを報じたものだ。上掲引用文には、どんなことが書いてあるだろうか?

 

もし、この文章を読んで「日本と韓国は仲良くなった」と読みとった人がいたら、「それは違うんじゃないの?」と私なら指摘したくなる。

 

確かに両首脳はこれからの日韓関係についてポジティブな発言をしているし、日韓関係の重要性にも言及している。高市首相はシャトル外交の活用への意欲もにじませている。

しかし、ここには「日本と韓国は仲良くなった」とは書かれてない。

書かれているのは、せいぜい、「これからの日韓関係を重視していかなければならない」こと、「そのための努力の必要性や意欲について」までだ。ここから「日本と韓国は仲良くなった」と読み取ったら深読みのし過ぎだ。

そんなことはこの文章には書いてない。

 

米中の首脳会談にも似たことが言える。以下も、10月30日のyahooニュースから引用したものだ。

トランプ氏はこの日までのアジア歴訪を終え、大統領専用機内で記者団に対応。「素晴らしい会談だったと思う」とし、「10点満点中12点だ」と評価した。   

習氏が米国へのフェンタニル流入阻止へ全力で取り組むと約束したとし、「彼らが本当に強力な行動を取っていると信じているため」関税を引き下げると述べた。

中国のレアアース輸出については、今後1年間の継続で合意し、おそらく延長されるだろうと指摘。「全て解決済みだ」とし、「これは全世界的な問題だ。米国だけの問題ではない」と述べた。中国はレアアース輸出規制を4月に導入し、今月に入って強化を表明していた。ただ、今回の合意が規制対象となる全てのレアアースをカバーしているかは不明だ。

またトランプ氏は、中国が米国産大豆やその他の農産物を「直ちに、膨大な量」購入するとも述べた。

さきほどと同様、この文章には「アメリカと中国は仲良くなった」とは書かれていない。

トランプ氏が会談を高く評価していること、アメリカが関税を引き下げるつもりであること、中国のレアアース輸出が一年間は継続するだろうこと、中国がアメリカ産農産物を購入すること、までは書かれているが、それらが事実だとしても、これらをとおして「米中関係が仲良くなった」と読み取るのは深読みのし過ぎだ。

少なくとも、このニュースにはそんなことは一言も書かれてない。

 

引用したふたつのテキストは、それぞれの首脳会談で語られたこと、首脳たちが語ったことの一部、または要約を紹介したものである。

人間には省略や要約をしたがる性質があるから、もちろん、こうした文章を自分なりに更に要約することはあっても構わないだろう。

 

しかし、その要約にあたって書かれていることに忠実に要約できるか、書いてないことまで勝手に要約してしまうのかは、また別の問題である。

もし、これらの文章を読んで書いてないことまで勝手に要約してしまったなら、読み方が雑だったか、読み書き能力に問題があるか、その両方かである。

 

社会は「正しく読む」前提でつくられている

ニュースに限らず、現代社会では重要な情報の多くが文章で授受されるから、読む能力と書く能力はひときわ重要だ。

 

国際政治についてのニュースなら、多少の読み違いがあっても生活には響かないかもしれない。

だが、お金にかかわる文章や契約にかかわる文章を読み違ってしまうなら深刻である。

スマートフォンの通信料についての契約、各種チケットの購入にあたっての契約、自分が被雇用者や被保険者としてお金を受け取るにあたっての契約、等々では、契約書に書かれていることを書かれているとおりに読めるか、読んだうえで理解できるかが問われる。

 

その際、書かれていることを書いてあるとおりに読まず、読みたいように読み、書かれていないことが書いてあるかのように思い込んでしまったら、後でがっかりしたり憤慨したりするかもしれない。

人間は、ともすれば自分が読みたいように文章を読んでしまい、読みたくないことから目を逸らしてしまいがちだ。

だが、契約社会においてそれは危ない。書いてないことを読み取ったつもりになった挙げ句、後から「だまされた!」と思っても救われない。こういう時、嘘をつくのは書面よりも自分の記憶や認知や認識のほうだ。

 

まともな契約書では珍しいが、ときに、書面に微妙な事柄が微妙な調子で書かれている場合がある。

何かあった時にどこまで保証するのか?

誰がどこまで責任を負うのか?

それとも責任を負わないのか?

そうした時も、書かれていることが第一に重要で、書かれていないことを勝手に読み取ってはいけない。

書かれていないのがわざとなのか、たまたまなのかはケースバイケースだろうし、その理由については思案すべきだろう。ともあれ、書いてないことは書いてないこととして読み取り、注意を払い、必要ならば対処しなければならない。

 

SNSなどを眺めていると、「書いてないことを、書いてないこととして読む」ができていない人がものすごく多いことに気付く。

これは、SNSを片手間に読んだり酔っ払った状態で読んだりする人が多いせいだろうか? どうあれ、書いてないことを読み取る人、言ってもいないことを読み取る人は珍しくない。

 

それよりもずっと多いのは

「書いてあるとおりに読まず、拡大解釈して読む」

「書いてあることを自分の願望に沿ってアレンジメントして読む」

人々だ。

 

たとえばSNSのインフルエンサーが

「今年の○○の新作に私はちょっと乗れませんでした」

とメンションした時、そのインフルエンサーが○○を嫌いなったと解釈する人がいる。

そう解釈してしまう理由は、読者の早とちりかもしれないし、読者がもともと○○のことが嫌いでインフルエンサーにも嫌いになって欲しかったからかもしれない。

 

もし、そのインフルエンサーが本当に○○のことを嫌いになり、嫌いになったことを正確にフォロワーに伝えたいなら、

「今年、○○のことが私は嫌いになりました」

とちゃんと書くはずである。

メンションは、雰囲気で読むのでなく、一字一句を噛みしめるように読むべきなのである。それが、正確なコミュニケーションというものだ。

 

正確なコミュニケーションを心がけた結果、相手の言っていることが意味をなしていないと判断するしかない場合もある。10月31日のヤフーニュース に掲載されていた、小野田大臣に対する記者の質問などがそうだ。

小野田先生はハーフから日本の国籍を取られた。日本の旗は共生社会に必要であるとされるならば、旗を大事にしようという法律があっても私は当たり前だと思う。考えを聞かせてほしい

この質問は、前節と後節の間に脈絡が無い。脈絡がないからうまく意味を成していない。

まず、「理解できない」と読まなければならない文章の典型である。

 

実際、小野田大臣は

「ご質問の内容と私がハーフで混血であることの何の関係があるのか私にはよくわからない。ただ私にとって日本国旗はとても大切なものだ。」

と回答したという。

前節と後説の脈絡が無いことを踏まえたうえで、国旗に対する考えだけ回答したのは模範的なことだと私は思った。

 

必要なことだけ書くこと、不必要なことを書かないこと

ちなみに、正確に読み取ることが大切なのと同じくらい、伝えたいことだけを正確に書くことも大切だ。

 

さきほどのインフルエンサーの

「今年の○○の新作に私はちょっと乗れませんでした」

という文章を振り返っていただきたい。

 

このインフルエンサーのセンテンスは、「今年の」「〇〇の」「新作に」「ちょっと」「乗れませんでした」という語彙から成っている。

これらの語彙を精確に読み取るなら、「別に○○のことを全部嫌いになったわけじゃない」とも「来年の新作はそうとも限らないかもしれない」とも読み取れる。

そのインフルエンサーが十分に思慮深い人なら、そうした読みの余地を残したメンションをわざわざ選択したと思っておいて間違いないだろう。

 

逆に、こうした読みの余地について考慮せずに語彙を選択していたとしたら、そのインフルエンサーは良いメンションができていなかったことになる。

 

尤も、インフルエンサーになるような人は、語彙の選択に鋭い意識を持っていることがほとんどだ。

有名タレントのアカウントを運営している人や、大企業の公式アカウントを運営している人なども同様だ。

 

彼らのポストするメンションは、語彙の選択にかなり意識的であると想定して構わない。

できるだけ似つかわしく好ましい語彙を選んでメンションを構成していることだろう。

解釈の余地のあるセンテンスも、解釈の余地のないセンテンスも、たぶんそうである。

 

それだけに、普段、そうして語彙の選択をきっちりやっているはずのアカウントが不用意なメンションをポストすると非常に目立ってしまい、唐突に炎上したりする。

アカウントの規模が大きくなればなるほど、伝えたいことだけを伝えて伝えたくないことは伝えないメンションが期待されがちだ。

 

だが、それが難しいのもまた事実で、人はしばしば口や筆を滑らせてしまう。

 

たとえば私もウェブ上で長く文章を書き続けているが、精確な語彙の選択や過不足のない記述のメンションは今でも難しいと感じる。

同じ内容を、もっと簡単な語彙で・もっと短い文字数で書けたはずだと後で気づくこともあるし、簡素な表現を意識しすぎた結果、誤解や誤読を招く余地が大きくなってしまったと反省することもある。

だから、推敲の余地がほとんどない精緻な表現を出し続けているアカウントを見かけるたび、うまいな、と思わずにいられない。

 

同じことを、文系エリートな職業の人からのメールにも感じる。

丁寧で、気遣いに溢れ、無駄なことが書かれておらず、解釈違いの余地が非常に少ないメール。

それは、読む側からの心証を良くするためのオフェンシブな戦術であると同時に、余計な言質を与えないためのディフェンシブな戦術でもあろう。

 

SNSなどが普及したため、令和の日本社会では職業や年齢に関係なく、文章を読むことや書くことが非常に当たり前のことになっている。

しかし、読み書きが当たり前になったからといって、誰もがうまくそれができているわけではない。昭和時代などに比べてより多くの人が日常的に読み書きするようになったにもかかわらず、読み書きの巧拙に個人差がまだ残っている社会である。

 

ということは、令和の日本社会は読み書きの巧拙によって社会適応がより大きく左右されやすい社会でもあるはずで、読み書き能力が高いことによるアドバンテージや読み書き能力が低いことによるハンディキャップが無視できない社会でもあるはずだ。

書いてないことを読み取ったり、書かれていることを読み損ねたりしていては、今日日の渡世は危うい。

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

[amazonjs asin="B0CVNBNWJK" locale="JP" tmpl="Small" title="人間はどこまで家畜か 現代人の精神構造 (ハヤカワ新書)"]

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo:Darwin Boaventura

皆さん、「タスクが遅れている時」の対処法って、いくつくらいお持ちですか?

この記事で書きたいのは、大体以下のようなことです。

 

・昔、「タスク遅れ解決のための手札をどれだけ持っているかがマネージャーの価値」と教わりました

・タスク遅れは必ず発生するものですし、必ず対処しなくてはいけません

・タスク遅れの解決方法は色々ありますが、ざっくり分類すると「人的リソースでなんとかする」「調整でなんとかする」「プロセスをなんとかする」の三つになります

・ただし、タスク遅れに対してどんな手を打てるかは組織次第、状況次第で変わります

・「タスク遅れ解決のための手札」をなるべく増やすように、普段から立ち回りを意識するのが良いような気がします

よろしくお願いします。

 

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。

前から何度か書いていますが、しんざきはシステム開発の会社で管理職をしています。元々の専門はDB屋で、特にPostgreSQLとかOracleとかMongoDBあたりで色々やってることが多いんですが、最近はマネジメントがメインです。

 

いきなり話がそれるんですが、先日のラスベガス、Oracle AI Worldでいきなり「Oracle Database 26ai」とかいうものが発表されたのはびっくりしましたよね。

あれ、中身見てるとどう見ても23aiのマイナーバージョンアップで、リブランディングよりも早いとこオンプレ版出してくれないかなと思うんですが……

 

で、最近後輩の子がマネージャーに昇格しまして、若干疲れている様子だったので飲みに誘ったところ、チーム内のタスク遅れについて相談されました。

その時話したことが、本人的には結構参考になったようなので、ちょっと記事にしてみようと思います。

 

新人マネージャーさんの悩み

彼の悩みは、簡単に言うと

「チームのタスクが遅れがち」

「それについて、マネージャーの自分が解決しないといけないのに、なかなか解決できず遅れが膨らんでいる」

というものでした。とてもまっとうな悩みだと思います。

 

昔、同じようなことは私自身にもあって、その時先輩マネージャーの人に教わったのが「タスク遅れの手札の増やし方」という話だったので、私もその話をしました。

 

まず前提として、それがどんなプロジェクトであろうと、「タスク遅れ」というものは絶対に、確実に発生します。これはどうしようもありません。

工期の見積もりというものは、あくまで「見積もり」でしかありません。完璧な見積もりをすれば完璧な工数が算出されるはずですが、言ってしまうと絵に描いた餅です。

 

プロジェクト遂行中に発生するトラブルはエスパーでないと予知できませんし、メンバーが人間である以上は体調崩すこともありますし、サボっちゃうこともあります。「このタスク難しすぎてわけわかんないんですけど」とか、「依存関係が複雑過ぎて手がつけられません」なんてことだってあるでしょう。

なので当然タスクごとにリスクを計ってマージンを作るわけなんですが、存在するマージンは基本的に全て食い潰されるものなので、大抵それ以上にタスクは遅れます。ここまではごく自然なことです。

 

問題は、

「タスク遅れに対して、マネージャーはどれだけ打てる手を持っているか」

ということでして、これは実のところ環境と状況と経験次第と言ってしまっていいです。

まず、「タスク遅れに対する手札の種別」の話をします。

 

タスク遅れに対する手札

もちろんタスク遅れに対処する方法は様々にあって、対処する人の立場でも、仕事の種類でも、組織のあり方によっても異なるんですが、すごくざっくりと分類してしまうと、

 

1.人的リソースでなんとかする

2.調整でなんとかする

3.プロセスをなんとかする

 

の、大きく三つくらいにカテゴライズできると思います。

もちろん、お互いに関連したり、複数のカテゴリーにまたがったりもします。

 

まず、「人的リソースでなんとかする」。これは分かりやすいですよね。

要は「やる人の手を増やしたり、費やす時間を増やすことでなんとかする」というものです。

 

端的に「残業時間を増やしてタスク対応をする」というのもここに含まれるし、

「対応メンバーを追加する」

「誰かに手伝ってもらう」

「出来る人を連れてきてもらう」

というのもこれでしょう。

もちろん、メンバーを一人から三人に増やしたからといって、即対応能力が三倍になるわけはない(場合によってはむしろ対応能力が下がったりする)んですが、ここでは一旦それは置いておきます。

 

一番分かりやすいが故に、マネージャーにとっては安易に頼ってしまいがちな方法でもあります。

端的に「頑張る」でしかない対処法もここに含まれており、マネージャーが「頑張る」しか手札をもっていない人である場合、時々悲劇が発生することもあります。

「人的リソース」以外の手札を何枚持っているか、というのは、マネージャーの有能さを示す一つの指標である、といってもいいでしょう。

 

次に「調整でなんとかする」。

ここにも様々な方策が含まれるんですが、分かりやすいのは

「他の担当チームやクライアントと相談してスケジュールを延ばしてもらう」とか、

「実装する機能のスコープを見直してタスク自体をスケールダウンする」とか、

「機能を簡易化してタスクの難易度を下げる」といった辺りは代表的なところでしょう。

「上にエスカレーションする」というのもこれに含まれるかも知れないですね。

 

一般的に、「人的リソースでなんとかする」よりは、この「調整でなんとかする」方が、マネージャーにとっての難易度は高い傾向があります。

組織によっても仕事の質によっても、ここでどれだけの選択肢がとれるかは変わってきます。

とはいえ、一般に「タスク遅れ」と言われた場合、この辺の選択肢がマネージャーに期待される部分は大きいでしょう。

 

三つ目、「プロセスをなんとかする」。

これにも色々あるんですが、分かりやすいところで言うと

「レビューや事務手続きで時間を食い過ぎているので、リスクをとったり簡略化したりでプロセスを改善する」であるとか、

「メールのやり取りで時間食ってるので拠点を移して対面で話せるようにする」

みたいな方策はここに当たると思います。

 

他にも、例えば開発手法を変更したり、ツールでテストを自動化したり、作業を分割して開発を並列化したり、なんて方法もあるでしょう。

クリティカルパスの見直しや、後工程を前倒しで始めることで全体としての遅れを吸収する、というのもよく使う手です。

 

まあ、炎上してる最中にそんなことできるかって方策もあり、むしろ遅れが顕在化してからより普段からの準備が重要って部分でもあります。

もちろん「プロセスをなんとかする」にも調整が必要になる場合は多いですが、一般的には、ここが一番難易度が高いケースが多いように思います。

マネージャーにとっては腕の見せ所でもあり、「プロセスの改善で工期遅れを取り戻しました」なんて言えたら超かっこいいですよね。

 

まあ、下手にプロセスをいじると逆効果で、実際にはメンバーが超頑張ってフォローしてくれていただけ、なんてケースもあったりするんですが……。

 

今の自分は、「タスク遅れ対応の手札」を何枚持っているか

ここまでで問題になってくるのは、「実際にタスク遅れをどう解決するか」以上に、

 

・マネージャーとしての自分は、タスク遅れの対応策を幾つ知っているか

・そのうち、現在の環境、現在のプロジェクトで、実際に取り得る対応策はどれか

・そのうち、もっとも効果的で、なるべくコストを低減できる対応策はどれか

 

ということを把握しているかどうか、ということです。

 

上でも書きましたが、タスク遅れの対応策は、環境によっても、仕事の種類によっても、選択できるものが変わってきます。

例えばクライアントとの関係次第では、スケジュールの調整なんてやりたくてもできないかも知れません。

品質は絶対厳守でテスト工数は絶対に減らせないかも知れませんし、有識者を連れてこようにも他チームも全部炎上しているかも知れません。

 

そんな中で、「頑張る」以外の手札をどれだけ用意できるか。

少なくとも、「調整で何とかする」「プロセスで何とかする」からも、それぞれ二枚、三枚の手札を選択できるだけの余地を確保できているか。

 

要は、常に「使い得る手札」を把握しておいて、できることならその枚数を増やせるように立ち回っておく、というのが、マネージャーとしては非常に重要、という話なんです。

 

例えば、常日頃から他チームといい関係を築いておいて、いざという時にはヘルプを求められるよう恩も売っておく、とか。

スコープの見直しの可能性やリスクについて、事前にクライアントと調整しておいて、いざという時は切り捨てても良い機能、品質の落とし所について確認しておく、とか。

 

もちろん、こういうリスク計画ってプロジェクトの立ち上げ時点で個別に考えておくべきテーマですが、一方「普段からの立ち回り」で事前準備が必要な部分でもあります。

「タスク遅れ」という分かりやすいピンチでどういう手札を持っているかは、マネージャーとしての一番の価値でもあって、この「手札を増やす努力」自体が、会社での自分の立ち位置を向上させていくための努力とほぼイコールになると言っても言い過ぎではないと思うんです。

 

まあ、冒頭書いた新人マネージャーさんの場合、今回彼が悩んでいたタスク遅れって環境由来の部分で、一つの開発環境内で全部解決しようとしていたから色々引っかかっていたわけで、

「あれ、それもう一つ環境作って、そのリソース使えば解決できるんじゃ。使ってないの融通できるよ」

というようなアドバイスを出したら解決に向かったわけですが、そういった「解決できそうな人に事前に渡りをつけておく」というのも、マネージャーとしての価値を高めるための一つの方法なのかも知れません。

 

タスク遅れの対処、大変ですよね。

皆さんが、できれば炎上などとは無縁に、平和なプロジェクトを進められることを祈念しつつ、この記事を締めたいと思います。」

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

 

【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo:Olha Sobetska

先日まで北海道の真ん中にいました

先週、友人に誘われて、北海道上川町という、北海道の真ん中あたりに位置する人口3000人の小さな町に行った。

上川町役場の人たちは「役場をベンチャー化する」と宣言して、役所らしからぬ面白い取り組みをし続けている。

 

庁舎の中にテントを張ったり、ゲーミングチェアを置いたりしていて、そこに色んな人たちがやってくる。

上川町、東京、それ以外の地域…と多拠点生活をしている連続起業家。

M1に出たり、コミュニティマネージャーをしたりしながら、日本中を動き回っている人。

有名コンサルティングファームからやってきている超優秀な若い人。

それ以外にもなんだかよくわからない面白い人たち。

そんな動きに惹きつけられて、また新たに人がやってくる。

 

夜に、上川町の人たちと、来訪している人たちが混じって、みんなで飲んだり食べたりする会が開かれた。

そこで仲良くなった人は、ぼくが住んでいる大阪の町の、隣町の人だった。

大阪から北海道の真ん中まで来て、隣町の人と意気投合する。

なんだかもったいないような、よくわからないことが起きている。

しかし、最近ぼくが経験的に学んでいることは、そうやってあちこち動き回って出会った人とのほうが、長い付き合いになりがちだということだ。

あるいは、自分で足を運んで出かけた先で触れたできごとのいくつかのほうが、脳の中の記憶を司る部分に深く刻まれがちだということだ。

 

クマについてあまり考えていなかった

色んな地方でクマが人を襲い続けているという記事は読んでいたが、大阪に住んでいる自分にも関係あるとはまったく思っていなかった。

上川町に行くことが決まったあとも何も考えていなくて、日々バタバタしているうちに出発の日が近づき、さすがにちょっとクマに関する心配が頭をよぎった。

ただ、出発直前に仕事でちょっとしたトラブルというか考え直さないといけないことが出てきたり、家庭でも色々と対応することがあったりして、とにかく忙しかったせいでまた忘れてしまっていた。

出発前日の夜中にあわてて荷物を詰めているときですら、クマのことを考える余裕はなかった。

現地に着いてからも、空港から上川町役場まで車で向かったし、その後もほとんど車での移動だった。

徒歩での散策もしたけど、山に囲まれたまちの中心地は道路も広く、おしゃれなカフェや年季の入ったスナック、うまそうなラーメン屋などのお店がいくつもあり、案内してくれる人も合わせて十名ほどでうろうろしていたので、この時もクマのことを少なくとも脅威の対象として思い出すことはなかった。

ひょっとすると雑貨とかお土産のモチーフにクマが使われていたような気もするが、まあ北海道だし、山の中のまちだし、特に気にならなかったのだろう。

 

そしてクマのことをすっかり忘れる

翌朝、早起きして層雲峡(そううんきょう)という峡谷を訪れる。

層雲峡は石狩川の上流にある峡谷で、柱状節理(ちゅうじょうせつり)という、山を切り裂いたような断崖絶壁が続く名所で、北海道屈指の温泉街としても知られている。

紅葉シーズンは終わったと言われたけれども、絶壁の向こうの山々は赤やら黄やら茶やらの色を散らしてまだまだ鮮やかだった。

南西には大雪山という巨大な山の集合体があるそうで、その一部である黒岳(くろだけ)がこちらを見下ろしている。

上方の様子は雲に隠れて見えない。

 

じゃあ今からロープウェイで五合目まで行きましょう、ということで、ガイドを務めてくださっている連続起業家の方についていく。

ロープウェイが上っていくあいだじゅう、やれあっちには何があるとか、こっちにはどうのこうのと録音されたアナウンスの音声が流れていて、なんだか旅情を邪魔された気になって、ちょっとつまらない。

だけど、五合目駅に到着して、展望台に出たらそんな気持ちもすっかり晴れた。

というのも、ぼくらは雲の上にいるのである。

足もとには見渡す限り、真っ白な雲海が広がっていて、それ以外は何も見えない。

ぼくはここに来るまでの、出発直前までバタバタと仕事をしていたことも、家庭での悩みも、さっきの余計なアナウンス音声のこともすっかり忘れて、この異世界を楽しんでいた。

もちろんクマのことも。

 

だけどクマはいる

せっかくなので少しだけ五合目駅付近を散策してみよう、ということになった。

舗装された道をみんなで歩く。

すると大きな看板があって、環境省によるクマへの警戒を最大限にするように呼びかけが書かれている。

かなり古い看板で、ところどころ塗料がはげてしまって読みづらい。

そのリアルな感じが、最近のクマに関するニュースの記憶とあいまって、あ、やっぱりいるんだ、とぼくらの背中をひやりとさせるには十分だった。

 

そういえばロープウェイ山麓駅の展示スペースで「ヒグマ展」なる展示をしていて、あら、こんなにニュースになっているのに堂々とやるのね…と思ったような気がする。

クマは、いるのである。

帰り道はみんな、心なしか身を寄せ合いながら歩いて駅まで戻った。

 

温泉街まで戻ってくると、雲はすっかり晴れてしまって、とてもいい天気である。

さっきまでの神妙な気持ちも早々と解けてきて、ひと仕事終えたような気分になった。

付近を散策したあと、今度は車で「大雪 森のガーデン」という庭園まで少し遠出をする。

上川の森の自然を生かしながら、さまざまな花や高山植物を育てていて、ガーデンというだけあってどちらかというと洋風の庭園である。

案内してくれる館長さんのトークが軽妙で楽しい。

 

みんな陽気な気持ちになってきて、ふとメンバーの一人が、この辺にクマは出るんですか、と聞いた。

すると館長さんは特に表情も変えずにこう言った。

「クマは、いて当たり前」

だって、こんな山の中なんだもん、周りはクマだらけだよ。もうね、野良猫よりもクマのほうが多いから。

クマがいっぱいいるところに人間のほうが勝手に来てるだけだから。

だからクマはいて、当たり前だよ。

 

クマがいるところに人間が来るだけ

そりゃそうだよなあ、と思った。

こんな森だらけの大自然の中にいると、そりゃクマもいるだろうし、それ以外にも色々な危険があるだろうなと感じる。

人間のほうがイレギュラーな存在なのである。

都会にいてクマ被害に関するニュースを読むと、うわあ大変だと思うけれども、自分からクマだらけの森にやってきておいて、うわあ大変だなんてどの口が言うんだということなのだろう。

 

ところが人間はやってくるのである。

わざわざ東京や大阪や福岡からやってきて、みんなで集まって飲んだり食べたりするのである。

そこから何か(人間にとっては)新しいことが生まれていったりするのである。

クマからすれば、なんだかうるさいやつらがやってきたなということかもしれない。

あるいは、何かうまそうなやつらが来たぞということかもしれない。

とにかくそこにハレーションが生まれないほうがおかしい。

 

ぼくは別にどっちの味方でもない。

ただ、一定時間、大自然のど真ん中にいると、クマやら何やらの存在のほうが圧倒的だと感じるようになってくる。

人間のほうが断然マイノリティなのである。

となると当然のように身を守らなければという気になってくるし、一人で山道を歩く時はよっぽど警戒しなければとも思うようになる。

クマはいて当たり前だし、自然は脅威であって当たり前なのだ。

そんなことを思った。

 

結局、クマには遭遇しませんでした

これだけ書いておいて申し訳ないのだが、結局、今回の道中で誰もクマには遭遇しなかった。

予定していた行程はすべて順調に進み、ぼくは人間たちでごった返す新千歳空港にたどり着き、満席の飛行機に詰めこまれて帰ってきた。

大阪に帰ってきてからもクマ被害のニュースは絶えない。

そのたびにぼくは、クマはいて当たり前、と呪文のように唱えている。

 

よくわからない。

何が正しいのか、ぼくらはどうするべきなのか。

自然との共生とか、そういうことでもないような気がする。

とにかく圧倒的な大自然というものはいまだに存在する。

人間も自然の一部だなんていうけれども、あんなに圧倒的な存在の一部であるとはとても思えなかったりする。

 

そういえば上川町の人たちからも、静かな迫力のようなものを感じる気もする。

あの圧倒的な大自然に挑みにやってきた、ちょっとやそっとではなく度胸のすわった人たちの子孫だからだろうか。

あるいは、ああいう状況の中で長い時間をすごしていると、みんなそうなっていくのか。

そのあたりもよくわからない。

 

そして、ぼくがそうやってモヤモヤ考えていようがいなかろうが、今でもあの雄大な山々の中にはたくさんのクマがいて、せっせと食べるものを集めては、冬眠の準備をしているのだろう。

 

今頃、若いクマたちも長老のクマから「山の外に行けばヒトはいる。いて、当たり前だから」なんてたしなめられているのだろうか。

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

 

【著者プロフィール】

著者:いぬじん

プロフィールを書こうとして手が止まった。
元コピーライター、関西在住、サラリーマンをしながら、法人の運営や経営者の顧問をしたり…などと書こうと思ったのだが、そういうことにとらわれずに自由に生きるというのが、今ぼくが一番大事にしたいことなのかもしれない。

だけど「自由人」とか書くと、かなり違うような気もして。

プロフィールって、むずかしい。

ブログ:犬だって言いたいことがあるのだ。

Photo by:Federico Di Dio photography

「桃野さん私、あの人のことは嫌いですが、とても仲が良いんです」

先日、陸上自衛隊の元最高幹部と話していた時のこと。とても印象に残る、そんな不思議な言葉を聞くことがあった。

 

一体何を言っているんだ…?

仕事上の付き合いやしがらみなどで、表面的にだけ付き合っているというようなニュアンスではない。

“利用価値がある”というような、下卑な話でもない。

本当に仲良さそうにされているのでお聞きしてみた時に、返ってきた言葉である。

 

元最高幹部は、人の悪口など一切言わない人だ。

それどころか、明らかに前任者のために苦労したであろう任務についてメディアから質問された時ですら、このように返した。

「とても優れた指揮官の後を(力不足の私が)継いだので、大変でした」

 

つい最近まで、そのような立ち居振る舞いは“武士の矜持”というような精神論なのだろうと思っていた。

リーダーとしての美学であり、あるいは軍人としてそうすべきという価値観なのだろうと。

しかしそれは大変な誤解だったことをつい最近、理解する。

 

「なぜその程度のこともできないのですか?」

誤解に気がついたのは、それからだいぶ経ったある日のこと。一杯ご一緒させて頂きながら、こんな会話をしている時のことだった。

「大部隊を率いる指揮官にとって必要な人心掌握術とは、どのようなものでしょう」

「こうすれば成功する、というような魔法はないと思います。しかし高い確率で人心掌握に失敗する指揮官の特徴なら、あると思います」

「ぜひ教えて下さい」

「そうですね…具体的な事例でお話ししましょう」

 

そう言うと元最高幹部は、師団長時代のある出来事を話し始める。

「例えば通信科という職種は、演習場にファーストイン、ラストアウトします」

北海道の広大な演習場で、長期に渡って行われる演習は過酷だ。

その中でも、通信を担う部隊は最初に演習場に入り、撤収も最後というもっとも大変な職種の一つであると説明する。

 

「そんな通信をはじめとした後方部隊にこそ、演習終了の最後に必ず顔を出すことにしていました。皆のおかげで良い訓練ができたと、ねぎらうためです」

「師団長が突然現場に顔を出し、若い隊員に直接お声掛けをするのですか!? それは喜ぶというよりもビビる気がします…」

「はい、驚きますがしかし皆が喜んでくれました。士気の高揚とは、実はこの程度のことなのかもしれません」

 

納得がいくような、しかし余りにも単純で“自己満足じゃないの?”と言いたくなるような話だ。

訝しむ私の顔を見透かしたかのようにニコリと笑うと、元最高幹部は続ける。

 

「そんな師団長時代から10年以上も経った、ある日の話です」

元最高幹部は、自衛隊OBとしてある駐屯地の記念行事に招かれた時のことに話を転じる。

 

「師団長、お久しぶりです!」

突然の声に振り向けば、そこに立っていたのは30代なかばになる陸曹(現場の中核となる自衛官)の女性。

師団長時代の隷下部隊の隊員であることに気がつき、昔話が弾む。

 

「私、正直に申し上げますと他の師団長のことは名前も顔も覚えていません。しかし、師団長のことだけは今も記憶に残っているんです」

「ありがとうございます、嬉しいですね!」

 

「演習が終わったら、歴代の偉い人たちは皆、すぐ帰っちゃいました。しかし師団長は、必ず全員のところを回ってご苦労さんとお声がけをしてくれたんです。本当に嬉しかったです」

「そんなこともありましたね」

「はい、現場の私たちにまで親しく声を掛けて下さったのは、師団長だけでした!」

(いやいやいや、俺はそんな美談なんかに納得しねえぞ…)

ますます出来すぎたスキの無い話に逆に反発を覚え、酒の勢いもありこんなツッコミを入れる。

 

「とても良いお話だと思いますが、しかし疑問があります。師団長や方面総監に昇るような最高幹部であれば誰でも、そのような心遣いはするし、できるものではないのですか?」

「どうでしょう、できる人もいれば、できない人もいると思います」

 

「できない人は、なぜできないのですか?というよりも、その程度のことすら、なぜできないのでしょう」

「桃野さんは、どう思いますか?」

 

「“地位が人を狂わせる”のですか?それくらいしか、理由を思いつきません」

「それもあると思います」

 

そして、役職そのものが偉いのに、自分が偉いと勘違いする人が一定数いること。

自分が偉いと思ってしまうと、これくらいの気遣いすら難しくなる人もまた少なくないと話し、こう締めくくった。

「役職が偉いのです。私など、何一つ偉くありません。そこを勘違いするとリーダーとして、人心掌握に失敗する可能性が高まるのではないでしょうか」

 

「お言葉ですが、それは間違っています」

話は冒頭の、「大変な誤解」についてだ。

“あの人のことは嫌いですが、とても仲が良いんです”

この言葉は決して精神論などではないと、なぜ思えたのか。

 

「役職が偉いのです。私など、何一つ偉くありません」

(…この人は、自分に与えられた役割と任務の最適解で行動している)

 

その役割とは決して、自衛官・元自衛官としての立場だけではない。

まして師団長や方面総監と言った巨大組織のリーダーという、時限的な立場での“あるべき姿”の話でもない。

生まれ持った個性や身体的・知的能力、特性などから、自分は何を成すべきか(為すべきか)という意味での、人生における“必成目標”の話だ。

 

言うまでもなくチームや組織は、さまざまな個性や能力の組み合わせで強くなる。

同じようなタレント、価値観、感性の人しかいない組織は、環境や前提条件の変化に極めて脆弱だ。

だからこそたった2名のチームですら、「嫌いだからこそ頼りになる」はあり得る。

自分に与えられた役割から立ち居振る舞いを導く人にとって、「嫌い」はむしろ、魅力ですらあるということだ。

 

リーダーシップに溢れる人は、“必成目標”を為すために、好きな人、同じような能力の人、同じ感性の人で周囲を囲むようなことなど決してない。

冒頭で、元最高幹部は人の悪口など一切言わない人とご紹介したが、「嫌い」すら魅力なのだから、「悪口」を言う必要もなく、そもそもそんな発想すら無いのだろう。

 

とはいえ、このような解釈は筋が通り過ぎており、キレイすぎる。

そんなこともあり、どうしても元最高幹部のボロを引き出したい私は、さらに意地悪な質問を重ねた。

 

「まだ納得できません!ではなぜ、そのような境地に至ることができ、“俺はエライ”という勘違いを免れることができたのでしょう。勘違いしても当然のようなポストを歴任されています」

「桃野さん、白状しますと実は私、若い頃に素晴らしい上司に恵まれたんです。大隊長時代の師団長がまさに、現場に顔を出し若い隊員をねぎらう人でした。現場の士気も大いに高揚しました。私はその背中をみて学んだのです。運が良かっただけです」

(…よっしゃ、ボロを引き出したぞ。これでドヤ顔できる!)

 

「お言葉ですが、それは間違っています」

「嬉しいですね、ぜひお聞かせ下さい!」

 

「私が敬愛する、ある大学教授から教えてもらった言葉があります。『人は、その人の器で学べることしか学べない』です」

そして、若き日の上司が素晴らしい人であったことに疑いの余地はないと思うこと。

しかし、その上司の部下であった人が皆、その人の背中から学べたわけでは無いこと。

学びの取捨選択の中からその価値観を選び学んだこその結果であり、“運が良かっただけ”というのは謙遜が過ぎると“批判”した。

 

「…なるほど、これはやられました。一理ありますね」

「ですよね、過度な謙遜は誤解の元です。おやめ下さい(ドヤッ!)」

 

「しかし桃野さんも、間違えています」

(…どこが?)

「おっちゃんは、ただ嬉しかったんです。師団長という“偉いポスト”時代の現場の自衛官が退役後にも、気軽に声を掛けてくれたんです。そのことが、素直に嬉しかったんです(笑)」

 

クッソ…やられた。

やっぱりこの人はどこまでいってもチャーミングで、リーダーとして人として雲の上の人だ(泣)

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

 

【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など

言語化すると、改めて泣けてきます。
すげえ人って、やっぱり本当にすげえ。

X(旧Twitter) :@ momod1997

facebook :桃野泰徳

Photo:Red Shuheart

これまでのあらすじ

軽い血便が一回あって、「40歳半ばになるのに一回も胃カメラも大腸内視鏡もやったことないな」というお気楽な気持ちで検査。結果、大腸にやや大きめのポリープが一個あり、生検検査送りになったところ、「癌疑い」の結果。すぐに市大病院送りに。

中年の異常な執念、あるいは私は如何にして大腸内視鏡検査を受けるようになったか

お気軽に大腸内視鏡検査受けたら癌疑いの診断が出た話

希少がんがほぼ確定して地獄のなかにいる

 

市大病院であれこれの検査をしたところ、NET(神経内分泌腫瘍)ではないかということになった。

ほぼ、そうなった。NETは「希少がん」(国立がん研究センター希少がんセンターではそう分類している。「人口10万人あたり6例未満」らしい)の一つで、希少ながんだ。

希少だからといって即悪性度が強いわけではない。とはいえ、ふつうのがんと同じように悪性度が低い場合もあれば、高い場合もある。高ければ死ぬかもしれない。

 

CTもやった、PET/CTも検査専門病院でやった。最初のクリニックの病理検査で「カルチノイドではない(なので「癌疑い」)」とされたサンプルも、大学病院で取り寄せて再度検査された。

その結果が10/20に言い渡される。それと同日に、手術のことも言い渡される。おれはその日を非常におそれておかしくなってしまった。そんなことを前回に書いた。

 

希少がん宣告

おれははじめ、早く10/20が来てほしいと思っていた。とっととおれの希少がんの進行具合や転移について知らせてくれ。どんな手術をするのか、人工肛門になるのか、それとも手術も手遅れの状況なのか知らせてくれ。早く終わらせてくれ。そう思っていた。

が、10/20が近づくにつれて、だんだん気持ちが逆になってきた。ようするに話を聞くのが怖くなってきた。想像はより悪い方へ悪い方へ進むことは多くなったし、抑うつの感覚はより強まっていった。正直に告白すれば、酒を飲んでいなければやっていられなかった。

 

が、当日は意外に落ち着いていた。朝、起きることもできた。コーヒー一杯飲んで、自転車で市大病院に向かった。少し寒くなってきていた。おれはユニクロのロングTシャツに、ユニクロの黒いジャケットを着ていたと思う。

ずいぶん早く到着した。ずいぶん早く到着するのも予定通りだった。病院内のカフェコーナーで、またコーヒーを一杯飲んだ。朝から市大病院は人でいっぱいだった。このなかにはおれよりもずっと軽い人もいるだろうし、おれと同じくらいの人もいるだろうし、おれよりもはるかに重い病気の人もいるのだろう。傍目にはわからない。

 

トイレに行ったあと、診察室近くの待合席に行く。ほとんど埋まっている。今日はやけに人が多くないか? ここで待っていて、ポケットベルが鳴ると中待合というさらに診察室に近い席へ移動する。

予定の時刻は11時。ぜんぜん鳴らない。まあ、混んでいるし。iPhoneを見ながら時間を潰す。少し緊張はある。だが、「いつ呼ばれるのか」というおれならではのどうでもいいことに対する緊張も大きかった。

 

そのまま30分が過ぎた。この日は2つ予約が入っていて、11時から内視鏡科で結果を聞き、11:30から外科で手術の話という段取りだった。が、外科の時間がきてしまった。「もし、先に外科のコールが入ったらどうしよう」などと、また余計な心配を始める。

それからさらに15分後くらい、ようやくアラームが鳴った。順番通り。中待合に行く。

 

中待合に座っていると、廊下の方から男性の怒鳴り声が聞こえてきた。完全にブチギレている人間の声だ。院内放送で「2階◯窓口でV案件発生」と流れる。V案件だったかな? なにかヴァイオレンスを感じさせたと思う。

すると、診察室から男の医師などが出てきて、そちらに向かう。廊下の方を見ていると、警備員が向かうのも見えた。病院にはこういうこともありがちなのだろう。少ししたら、また放送で「2階案件解除です」と流れた。

 

そんなことは、どうでもいい。中待合でもしばらくまった。ようやく、呼ばれる。ノックしてドアを開ける。中田翔に似た医師が座っている。「こんにちは」と、荷物を置く。

ここからは言われたことの内容も、口調も、順序も再現できない。やはり聞くことで精一杯で、記憶にまで気が回らなかった。

 

最初に言われたのは、クリニックで採った最初の生検についてだったと思う。

「うちで調べたら、やっぱりただのNETでした」という。

これでMiNENとかいう超レアで予後もよくないやばい混合状態ではないということになった。そして、診断書を渡されながら、「NET G1」という診断だと言われた。G1は悪性度を示す。ほかに小さな字で「Ki-67陽性率は3%未満」というのも見えた。なにかWHOの基準だったはずだ。あまり重くないのではないか?

 

が、医師は重いとも軽いとも言わなかった。

「というわけで、このあと……外科の予約とってあるね。時間過ぎているけど、向こうも遅れているから大丈夫」と言われた。

 

「じゃあ、こういうことで」。

「はい、わかりました」。

おれは部屋を出た。こちらから「これからどうなるのですか?」などは聞かなかった。聞けなかった。いずれにせよ、すぐにわかる。

 

部屋を出て、とりあえず書類をバッグに入れてトイレに行った。我慢していたのだ。おれが用を足していると、隣に一人立ったのだが、どうもそれは先ほどの中田翔似の医師ではないかと思ったのだが、とくに待って声を掛けることもなかった。

所見をメモしておこう。

Rectum
Neuroendocrine tumor, G1

所見
直腸Rbからの生検検査2個が提出される。
組織学的に、いずれの検体においても、類円形核を有する腫瘍細胞が充実胞巣状あるいは管状、リボン状に増殖している。核分裂像は目立たない(0個程度/2mm^2)。免疫組織化学的に腫瘍細胞はSynaptophysin(+)、Chromogranin A(-)、CD56(+)を示す。Ki-67陽性率は3%未満(hot spot)である。Neuroendocrine tumor(G1)である。

ん、これはなんというか、正式ながんの告知というものではないだろうか。格式張ったというか、ドラマチックに「あなたは、希少がんです」、「(リアクション略)」、みたいなものはなかった。

現実とはそういうものだろう。人によっては「先生、ちょっとドラマっぽく言ってください」とか頼む人もいるかもしれない。いや、いないか。

 

手術の方向性

さて、また待合に戻ったおれは、iPhoneを取り出すと「NET G1 予後」、「NET G1 手術」、「NET G1 人工肛門」などで検索しまくった。

しまくったところでわかりはしない。ただ、読んでいないと落ち着かない。読んだところで落ち着かない。しばらくすると、いったん飽きた。そのくらい待った。

今日は患者の多い日だ。「なにかのミスで予約が忘れられているのではないか」などとまた余計な心配にも襲われる。それでもコールが鳴らないので、今度は「ストーマ(人工肛門) 援助」、「ストーマ 身体障害者手帳」、「ストーマ 費用」などと検索を始めた。

 

すると、ようやくコールが鳴った。中待合。こんどはわりと早く呼ばれる。ノックして室内に。「失礼します」。

また同じことを書くが、やりとりの詳細については覚えていない。こういうとき、録音などしていいのだろうか。病院ルールとしてアウトだろうか。まあいい。

 

外科の医師とは初対面だった。若くてさっぱりした印象を受ける。

何面かのモニタにはおれの電子カルテ的なものや、腸内の画像が映し出されていた。

 

「最初はなんで?」というようなことを聞かれた。最初というと、最初の最初のことだろうか。

「軽い血便がありまして、この歳になって一度も胃カメラも大腸内視鏡もやったことなかったので、ちょっと受けてみようと思ったんです」と言う。

 

すると、医師は「自分も45歳なんですけど、このくらいの歳になって受けて見つかる人いるんですよ」とのこと。

ほぼ同世代だった。そうか、このくらいの年齢が大腸でなにか見つかるお年頃なのかと思う。

 

診断はつづく。なにやら決定したことを告げられるだけかと思っていたら、モニタにいろいろの資料を映し出したりしつつ、考えているようにも見える。

おれが人工肛門になるのかどうか、まだ決まっていないのか? とはいえ、いまからおれがなにか言ったところで結果が変わるわけでもない。医師とサポートする看護師のやりとりを聞くだけだ。

 

ポリープの画像が映し出される。

「写真だと大きく見えますが11mmなんですよね」。

おれは核心に近いことを聞く。

「肛門からの距離はどのくらいですか?」。

肛門から近ければ人工肛門の可能性が高い。その目安は6cmのはず。「うーん、画像だとわかりにくいですが、3~4cmくらいですかね」。「近いですね……」。

 

医師は診断書の紙になにやら手書きで書き出す。字はおれくらい汚い。「神経内分泌腫瘍」と書いた。

「G1」「G2」と書いて、「G1」に矢印を書いた。神経内分泌腫瘍でG1です、とのこと。それは知っている。

さて、その次だ。「リンパ節に転移しているので切除します。切除はロボットを使います。うちの手術はだいたいこれです」。ロボットとはDaVinciのことだ。あれを使うのか。いや、使うのだろうけど。

 

そして、大腸の絵を描いて、「こことここを切ります。一時的に人工肛門を作ります」。……人工肛門の一時造設!

人工肛門か否かはひたすらに考えていたが、一時造設というのは正直考えていなかった。そういうものがあるのも、一時造設した人が閉鎖したとかいうブログも読んだことはあったが、自分のケースに適応されるとは思っていなかった。完全に抜け落ちていた。

 

「閉鎖の手術はあまりたいへんではないのですが、閉鎖のあと頻便になります」。

なんと、閉鎖後(人工肛門を閉じて普通にもどったあと)の話を始めた。

 

「自分、今でも普通に一日4、5回くらいのお通じがあるので」などと言ってみる。

「いや、一回行ったら何度も行きたくなるようなもので。でも、これも三年後くらいにはおさまる傾向にあります」。

 

いや、これ、「三年後」だったか自信はない。三ヶ月後だったかもしれないし、半年かもしれないし、一年かもしれない。ただ、自分の記憶では三年とかいうものだった。動揺は否めない。

 

その後、「ちょっと触診してみますね」ということになった。「え? いきなり」と思った。

診察室にベッドがあって、お尻を出して横になってくださいと言われる。そのようにする。「入れますよ」と言われて、なにかぬるぬるが塗られた手袋の指が入ってくる。

こちらはなんの用意もしていないし、なんなら少し便意があったくらいだ。かなりの緊張があった。ずぶずぶ尻の入口を触られる。苦しい。

 

が、終わったあと、カーテンを閉められて、医師のこんな声が聞こえた。

「この距離なら肛門温存できそうです」。なにかこう、心から救われたような気になった。

 

そのあと、よその検査病院でMRIを受けることなど聞いて、手続きをしてこの日は終わった。10/24にMRI。11/5に手術前の最終診察という予定になった。

 

今の心境

おれは死ぬということよりも、具体的に人工肛門が怖かった。そのことは書いてきたとおりだ。死へのイメージが足りなすぎるかもしれないし、人工肛門を恐れすぎているのかもしれない。でも、そのあたりは人それぞれの感覚、価値観だろう。

 

結果、人工肛門の一時造設となった。これはなんなのだろうか。聞いた瞬間は「九死に一生を得た」と思った。が、一時とはいえ三ヶ月から半年は人工肛門で過ごすことになる。閉鎖後も、頻便などいままでどおりとはいかないかもしれない。

 

それに、手術もある。開腹手術ではなく、ロボット支援によるものとはいえ、腹になにかが突っ込まれて、切ったり貼ったりする。人工肛門も作る。おれは基本的に病院を信頼しているが、なにかがないとは言えない。

あるいは、「実際に中を見てみたら、永久人工肛門です」という可能性もある。まだまだ安心はできない。

 

このようなことになった思い浮かんだイメージは、「休戦協定」というものだ。

こういうことに戦争を比喩に使うことが適切なのかどうかわからないが、他の比喩が思い浮かばなかった。おれの体内でNETという反政府勢力が活動を始めていた。リンパ節の一部なども支配下におさめていた。そこに、大腸内視鏡検査などの偵察が入った。NETの活動が発見された。

 

できることなら、NETの勢力を武力攻撃によって一掃したかった。が、NETもそれなりに育っていた。ここで、医師という仲介者による交渉が始まった。結果として、「一時的な人工肛門の造設」というところを条件として、休戦した。

休戦。そういう印象がある。再発、というものもある。終戦ではない。がんとの戦いは死ぬまで終わらない。いや、五年で寛解だったかもしれないが、そのイメージはまだ抱けない。

 

自分の知らない間に、自分の身体の中で戦争が起こっていた。自分の身体のなかのことなのに、まったく気づいていなかった。一度の血便があったとは言ったが、べつに「痔だな」といってやりすごしていた可能性もある。

たまたまそんな話をLINE通話でしていたら、相手が自分の会社の近くのクリニックを調べて、「今すぐ予約入れなさい」と言わなかったら、今、このときも、おれは大腸についてなにも考えずに過ごしていただろう。たまたま、あのとき、ノリで、「じゃあ予約するか」とならなかったら、こうはなっていなかった。

 

「こうはなっていなかった」という言い方にはやや自分の迷いがある。

大腸内視鏡検査を受けていなかったら、通院も検査も手術もなく、普通に過ごしていたかもしれなかった。普通に過ごして、なにやらべつの原因でさっさと死んでいたかもしれなかった。そういう思いがないわけではない。

 

おれは、おれの事情をもって、「ある年齢になったら大腸内視鏡検査を受けたほうがいいです」、「できるだけ早めにがん検診はしたほうがいいです」と言う気は「ない」。逆に「がん検診なんてしないほうがいいですよ」と勧めないという気も「ない」。それぞれが自分の価値観にしたがって行動すればいい。そこは考えてほしい。

 

ただ、おれの事情を読んで、受けようと思った人がいれば、なんとなくうれしい、というのは否定できない。

なにやら最悪の状態で無条件降伏するよりは、条件付き休戦のほうがましではないか。そのように思う。おれのような独り者はどうでもいいが、養う家族などがいる人にとっては大きな問題だろう。

 

まあ、というわけで、診断の結果と手術の方針という一応の一区切りはついた。しかし、これはなにか? 終わりか? 終わりではない。始まりだ。治療への始まりだ。できることならば、このあとも、入院、手術、人工肛門について書いていきたい。

それも、おれと同じような目にあっているやつの参考に少しでもなれば悪くない気がするからだ。この世にはおれ程度に苦しんでいるやつもいるだろうし、そういうやつにはおれ程度の体験談が助けになるかもしれない。そのように思いたい。

 

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

 

【著者プロフィール】

黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :Piron Guillaume

「無知の知」という言葉がある。

古代ギリシャの哲学者、ソクラテスの言葉と言われているが、「自分が知らないことについては、そのまま、知らないと思っている」という意味だ。

「あの人よりも私の方が知恵があるなあ。たしかに私もあの人もたぶん善美の事柄については何ひとつ知らない。だけど、あの人が知らないのに自分は何か知っていると思っているのに対して、私は自分が知らないのをそのとおりに知らないと思っているんだから。どうやら、自分が知らないことを知らないと思っているというほんの小さな点で、私はあの人よりも知恵があるらしい

[amazonjs asin="B00BOYSHSI" locale="JP" tmpl="Small" title="ソクラテスの弁明 叢書ムーセイオン"]

これは、人間にかかわる洞察の中で、最も普遍的、かつ本質的なものの一つだろう。

 

この対局にあるのが「私だけがわかっている」「私に反対する人間はみんなバカ」「私は間違わない」という主張である。

 

そしてこれは、愚か者の象徴ともいうべき発言だ。

実際、仕事においても、

「私だけが、よくわかっている」

という主張をする人は、社内でもよく問題を起こしていた。

 

例えば、こんな具合だ。

「私だけはこの部署の課題に気付いている。皆何も言わないけど。」

「みんなは気づいてないけど、部長の「うちの部門の業績は好調」は、嘘だ。実際にはかなりマズいらしい。」

 

こういう発言は、大体は思い込みと推測であり、実際に裏を取ったり、確認をしてみたりすると、ほとんどは事実無根なのだ。

 

逆に、もし事実であれば、「実はみんなもすでに知っている」ことがほとんどだ。

この人だけが知っているわけではなく

「あー、あの話ね」

と、みんなが思っている。決して彼が特別なわけではない。

 

これは投資や不動産取引をやっている方であれば、よくわかるだろう。

「あなただけに教える、お得な話」

「私だけが知っている、この物件の価値」

は、たいてい詐欺か、よく言って勘違いで、だまされてしまう人が大勢いる。

 

*

 

ではなぜ、この類の人にとって、「他人がバカに見える」のか。

それは、他者の思惑を類推する能力が低く

「他者の賢さ」

「世の中の知見」

をうまく想像できないからだ。

 

だが実際に、頭をきちんと働かせようと思ったら、他者に対して

「同程度には賢いし、少なくとも自分と同じくらいは、物事を知っている」

と仮定しなければならない。

 

実際、詐欺師や、悪意があり他人を操作しようとする人は、そうした

「能力を客観的に見ることができない人間」

を見抜いて、そこに付け込んでくる。

 

だから、「そんな良い情報を、私だけが知っている、という状態は明らかにおかしい。裏がある」

と考える人でないと、知性を活用できない。

愚かな人間ほど、「私は間違わない」と勘違いする理由は、そこにある。

 

「自己修正メカニズム」が働かなくなったら、「知性」は終わり。

イスラエルの歴史学者であるユヴァル・ノア・ハラリは

「無知を認めることで、科学革命が始まった」

と言っている。

[amazonjs asin="B0DGT2C21C" locale="JP" tmpl="Small" title="NEXUS 情報の人類史 上 人間のネットワーク"]

 

無知を認めること、知らないものを知らないと認めること、失敗を認識することは、

「自らをただす」

「自らを修正する」

ことにつながるからだ。

 

現代社会が全体主義、宗教、計画経済のくびきを捨てて、民主主義、科学、市場を採用したのは、自己修正メカニズムが、それらよりはるかに強いからである。

 

全体主義の指導者は自分を修正できない。

むしろ、自分を修正しようとするメディアや大学、裁判所などを攻撃して、自らの無謬性をアピールする。

でも、民主主義はすぐに元首をクビにできる

 

宗教の聖典は、決して間違わない。

現実が聖典と異なる場合、間違っているのは現実であり、それに逆らうものは異端として排除する。

でも、科学は前説を否定しないことには価値がない。

 

計画経済は非効率や労働者の意欲の減退を認めない。

官僚は決して間違わず、異を唱える者は強制収容所に送る。

でも、市場はすぐに失敗したプレーヤーを退出させる。

 

そうやって「間違い」や「無能」を、自己修正メカニズムによって退出させることで、人類は繁栄を手にしてきた。

 

 

「知性」は憎まれる。

現実はあまりに厳しいので、「知性」の指摘に耐えられない、という人が多いのも、納得がいく。

知性はむしろ、憎まれる、と言ってもよいくらいだ。

 

「謝ったら死ぬ病」は、その表れだ。

 

「謝ったら死ぬ病」に罹患している人は、世が世なら、魔女狩りを嬉々としてやるだろう。

過ちを認めるよりも、相手を殺すほうがはるかに簡単だからだ。

出典:チ。地球の運動について(2)

そして、この傾向は「知能」とは別の軸である。

実際、知能が高いほど「愚か者になりやすい」傾向がある。

 

イェール大学にこんな研究がある。

知能も教育水準も高い人は、自らの優れた知能を常に等しく活用するわけではなく、自らの利益を追求し、重要な信念を守るために「日和見的に」使う。

 

つまり、知能も教育水準も高い人は、賢さを

「自分の信念を正当化するときだけ使う」

あるいは

「自らの考えを補強するような事実を集めるためだけに使う」

傾向があるというのだ。

 

さらに、失敗を犯したときには、小賢しい言い訳を考えるのが得意であるため、ますます自らの見解に固執するようになる。

これらは「合理性障害」と呼ばれ、賢い人ほど陥りやすいことが知られている。

[amazonjs asin="B08D926BQQ" locale="JP" tmpl="Small" title="The Intelligence Trap(インテリジェンス・トラップ) なぜ、賢い人ほど愚かな決断を下すのか (日本経済新聞出版)"]

 

立派な学歴の人であっても、簡単に詐欺に引っかかる。

高い知能が、かえって目を曇らせるからだ。

 

愚かさは、知能の低さによるものではない。

むしろ知能を使いこなせない、マインドの問題である。

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

 

【著者プロフィール】

安達裕哉

生成AI活用支援のワークワンダースCEO(https://workwonders.jp)|元Deloitteのコンサルタント|オウンドメディア支援のティネクト代表(http://tinect.jp)|著書「頭のいい人が話す前に考えていること」88万部(https://amzn.to/49Tivyi)|

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯note:(生成AI時代の「ライターとマーケティング」の、実践的教科書

〇まぐまぐ:実務で使える、生成AI導入の教科書

[amazonjs asin="4478116695" locale="JP" tmpl="Small" title="頭のいい人が話す前に考えていること"]

Photo:Zanyar Ibrahim

私のウォッチャーライフも、そろそろ終わりが近いのかもしれない。
少し前に、元人気ブロガーの立花岳志さんが、生活保護を受けるに至るまでの経緯を語ったインタビュー記事が東洋経済オンラインに掲載され、話題になっていた。

「年収5500万円から生活保護へ」元人気ブロガーが"どん底"で見た景色

2011年3月、立花さんは会社を辞め、プロブロガーとして独立した。

わずか1年で『ノマドワーカーという生き方』を刊行し、独立から7年で年収は5500万円。赤いアルファロメオ、六本木の144平米の自宅、鎌倉を含む4拠点の多拠点生活――成功の速度は速かった。

「好きなことで生きていく」「ブログで飯を食う」。そんな時代の象徴のような人物が、社会のセーフティーネットに助けを求めることになった。

そのニュースに、驚きを覚えた人が多かったようだ。

 

元プロブロガーと言えばイケハヤくらいしか思いつかないので、私は立花さんについて詳しく知らなかったが、その転落劇には既視感を覚えた。

なぜなら、私がこの12年ほど観察を続けている「子宮系スピリチュアル」の教祖たちが、今まさに立花さんと同じような道をたどっているのだから。

 

たとえば、壱岐島で活動をしている「吉野さやか」という人物は、かつて子宮系スピリチュアルの開祖「子宮委員長はる」として、圧倒的な発信力と人気を誇っていた。

破天荒を地で行く彼女のブログは、型にはまった人生に生きづらさを覚える女性たち(主に主婦層)から熱烈な支持を受けた。始めは風俗嬢として働きながら発信していた吉野だが、やがてセミナーやグッズ販売で莫大な収入を得るようになる。

 

ポリアモリー(複数恋愛)を宣言していた結婚生活が破綻した後、一度は引退を望んで東京から長崎県の壱岐島へ移住。けれど、静かな暮らしには腰が落ち着かなかったのか、移住後も精力的に活動を続けている。

地元である青森から親兄弟を呼び寄せると、農業を始め、カフェを開き、JAから島の駅「壱番館」の経営を引き継ぎ、ファンから“投資”を募っては事業を拡大させていく。

 

湯水のごとくお金を使って成功者を気取り、「億女」を自称していたが、実のところまったく利益は出ていないようだった。

スピリチュアルという虚業の世界では上手くやれても、実業の世界では成果がでない。そこで、次から次へと新しい夢を描いては「私はもっとすごいことをする。だから、みんなもっとお金を出して!」とファンに呼びかけ、集金を続けた。

 

あのまま突き進めば破綻する。それは分かっていた。

事業で利益を出して、それを元手に次の事業に投資するのではなく、いつまでもファンの財布を当てにするクラファン方式に頼り続ければ、やがて限界が来るのは自明の理だ。

 

何より、吉野が新しい夢を描くたび事業が増えて、経費も増えていくので、雪だるま式に支出が膨らんでいく。

これでは、いくら集金しても出ていく一方で、支出に収入が追いつかない。

 

羽振りが良かった頃に壱岐島の土地を買い漁っていたので、資産はある。しかし、離島の負動産は現金化が難しい。案の定、資金がショートしたようだ。

彼女は今、運営する施設の電気代すら払えなくなり、ファンに「少額でもいいから助けてほしい」と泣きついて、寄付を募っている。

 

そして、同じく子宮系の教祖であった假屋舞も、行き詰まりを見せている。

壱岐島に建てた豪邸の建設費(1億6,000万円)の支払いを期日までに完了できず、物件が競売にかけられそうなのだ。

 

どちらも、一時は「女性性を楽しむことで宇宙と繋がり、豊かになれる」と説き、多くの信者を集めていた人たちだ。

羽振りの良かった頃には、豪華な家に高級家具を揃え、外車を乗り回し、頻繁に海外へ出かけるなど、贅沢な暮らしぶりを見せつけていた。

しかし、今や彼女たちのビジネスと生活は破綻寸前だ。

 

「まあ、そりゃそうだろうな」と思う。だって、世の中の空気がすっかり変わってしまったのだから。

スピリチュアルビジネスは、かつて主婦のあいだで一世を風靡した「キラキラ起業」と地続きにある。

・好きなことで起業する
・ブログとSNSで生き様を発信して共感を得る
・ファンとつながって収益化する

この構造はブログ飯とも同じだ。つまり、ブログを書いて読者やフォロワーに「あなたも自由な生き方ができる」と“夢”を見させ、その夢を信じてもらうことで、高額な情報商材やセミナーに誘導するビジネスモデルだった。

 

けれど、その夢を見続けるための「空気」がなくなってしまった。気がつけば、人々の顔つきが変わっている。

かつては「会社を辞めて自由になりたい」と叫んでいた人たちが、今では「もう一度、会社員に戻りたい」と言うようになった。

フリーランス→会社員に…なぜ?回帰願望の当事者「収入が増えれば税金が上がり、長期休みを取ったら自分の席がある保証がない」「ずっと同じ仕事を繰り返している」

先日、新入社員を対象とした調査で、「成果主義」より旧来の「年功序列型」を望む声が初めて上回った。背景には、若者の仕事観が“競争”から“安定”へと変化したことにあるが、働き方にも「フリーランスからの会社員回帰」の変化があるという。

 

子どもたちのなりたい職業ランキングでは、YouTuberより公務員が上位だ。

男子中学生がなりたい職業「公務員」が初めてトップに 先行き不透明な経済状況が影響か

中高生を対象にソニー生命保険(東京)が行う「中高生が思い描く将来についての意識調査2025」の結果が公表され、男子中学生が将来なりたい職業のトップは「公務員」だったことが分かった。平成29年の調査開始以来初めて。

社会全体が“自由の代償”に疲れてしまったかのように、“自由”よりも“安定”が選ばれはじめている。
ブログ飯やノマドワーク、キラキラ起業に子宮系スピリチュアル。

それらが隆盛を誇ったのは、まだほんの10年ちょっと前のことなのに、ずいぶん遠い昔に感じる。

当時のプロブロガーは「答え合わせは10年後」なんてよく言っていたものだが、実際に10年経ってみると、個人で稼ぐことの難しさが露わになった。

凡人は、好きなことだけでは食べていけないのだ。
子宮系スピリチュアル教祖たちの没落も、プロブロガーの転落も、同じ事象の別の断面にすぎない。

“語ることで生きる”というビジネスモデルそのものが、もう時代に合わないのである。

 

世界が不安定になり、日本という国そのものが貧しくなっていく実感の中で、誰しも無駄なお金は使えない。

インフルエンサーの暮らしを支えていたのは、「自由になりたい」と願う人々の欲望であり、庶民の経済的なゆとりだった。

 

一昔前は、不景気と言いつつ「覚悟を決めればどうにかなる」という言葉がまだ通じていた。

その空気がなくなった今、元プロブロガーやスピリチュアル教祖たちは、立っている場所の脆さを思い知っているはずだ。
かつては女王様気取りで、傲岸不遜が服を着て歩いているようだった子宮系スピリチュアル教祖たちだか、今ではファンに向かって「お願いします」「ありがとうございます」「ごめんなさい」とペコペコ頭を下げている。

 

人気があった頃の彼女たちのブログには、歯切れ良く、力強いメッセージが並んでいた。

それが、今では言い訳ばかりが並び、キレが悪くてダラダラ長い。文章は長いくせにメッセージ性がなくなっている。

彼女たちが魅力を失ったのは、もはや語るべきことを思いつかず、語る言葉をなくしてしまったからだろう。言葉を失った瞬間に、すべてを失うことが決まったのだ。
破滅までのカウントダウンは始まっている。

「語ることで食べていく」時代の終わりを最後まで見届けたら、私のウォッチャーライフも静かに幕を閉じるのだろう。

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

 

【著者プロフィール】

マダムユキ

ブロガー&ライター。

Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。最近noteに引っ越しました。

Twitter:@flat9_yuki

Photo by :OPPO Find X5 Pro

今日は、オフラインでは何人かにお話したことがあったけれども文章化するチャンスが無かったことを、オンラインの読者の方にも伝えたくなったのでまとめてみます。

 

アイデンティティには他者が必要。しかし趣味は例外たりえる

いわゆる「何者かになりたい」問題などもそうですが、現代社会を生きる私たちは自分にふさわしいと思えるアイデンティティを求めがちです。

なぜなら、そうした自分自身を規定してくれる構成要素がなければ、たちまち心理的カオナシになってしまうからです。

 

では、心理的カオナシである私達にふさわしいカオとは? そのカオのパーツに相当するのがアイデンティティです。

アイデンティティの主な構成要素は、私の仕事・私の家族・私の友達といった自分に関わりがあり、かつ、自分自身を他人とをアイデンティファイしてくれる諸々になるでしょう。

 

前近代社会では、そうしたアイデンティティの大半は生まれながらのものによって構成されていました。

どういうイエや身分に生まれついたのか、どういう地域の人間なのか、どういう社会関係のメンバーなのか。

 

そうした構成要素は私のものであると同時に地域のもの、イエや身分のもの、ひいてはゲマインシャフトのもので、わざわざ求めるまでもない反面、そう簡単に捨てることのできないものでもありました。

私たちは個人としてはカオナシだったに等しく、他方、イエや地域の一員としては生まれつきカオアリで、アイデンティティに匹敵する立場や身分を持って生まれてきていたのでした。

 

しかし近代以後、とりわけ個人主義が全国に浸透して以後はこの限りではありません。

個人主義社会で暮らす私たちの場合、アイデンティティはあくまで個人的なもので、その多くは誰かからの承認、または社会からの承認を必要とします。

アイデンティティは個人主義の産物であり、どこまでも個人のものであるはずなのに、たとえば友達、たとえば自分の所属組織といったものは自分だけでは決められないのです。

 

ですから、友達みんなにそっぽを向かれたとき、交友関係に根ざしたアイデンティティは成立困難になってしまいます。

仕事にしても、クビになったまま「私の天職」「私に合った仕事」と思い込むのは通常は不可能です。家族でさえ、最近は離婚など珍しくなくなり、誰もイエのような旧来のシステムを省みなくなりましたから流動的で、あてになりません。

 

こんな具合に、アイデンティティの成立には意外なほど他人または社会からの承認が必要で、それ抜きでアイデンティティを強引に成立させようとするなら、現実を無視し常人離れした思い込みの強さが必要になってしまいます。

 

他方、他者からの承認が(比較的)薄くてもアイデンティティにできるかもしれないものもあります。

趣味領域のアイデンティティ、それからコンテンツ自身をアイデンティティとする場合です。「推し活」をアイデンティティのよすがとする場合もそうでしょう。

 

よほどひどいことをやらかしてファンクラブから追放されるとか、他のファンすべてから総スカンを食らうとかでない限り、趣味領域やコンテンツのアイデンティティは、他者からの承認を必要としません。

いいえ、他のファンすべてから総スカンを食らっていてさえ、自分がファンだと思いこんでしまえばなんとかなるでしょう。

「同人作家」や「web小説作家」といったアイデンティティを獲得しようとする場合、趣味領域といえども他者からの承認がなければ成立困難かもしれませんが、単に何かのファンであるだけなら自称するだけで自分自身の構成要素の一部にできます。

 

長い付き合いのコンテンツは、もう人生の一部じゃないか

そうしたうえで、『ガンダム』シリーズのファンや、『ポケモン』シリーズのファンのことを考えてみてくださいよ。

アイデンティティについてまともなことをまともに語る人は、たぶん、こうした趣味領域のアイデンティティ、とりわけIPとして名前が挙がるようなコンテンツをアイデンティティとしてあまりあてにしないというか、真面目に取り合わないんじゃないかと思います。

 

しかし、私のSNSのタイムラインなど眺めていると、『機動戦士ガンダム』シリーズのことを延々と、それこそインターネットの黎明期から今日までずっとずっと話し続けている人がけっこういるわけです。

最新作である『ガンダムジークアクス』が放送された今年の上半期などは、大変な騒ぎでした。

この国には『機動戦士ガンダム』シリーズのことをずーーーっと追いかけてずーーーっと愛好している人が相当な数、実在していると言えます。

 

『ポケットモンスター』シリーズだってそうですよね。初リリースから四半世紀以上の歳月が流れ、親子でポケモンという家庭はまったく珍しくなくなりました。

『ガンダム』同様、『ポケモン』をずーーーっと追いかけてずーーーっと愛好している人の数は相当なものです。

しかも『ポケモン』はガンダム以上にグローバルなIPです。10月16日に発売された最新作『Pokémon LEGENDS Z-A』もきっと売れるでしょう。

 

アニメや漫画の世界でも、ゲームの世界でも、ロングランシリーズを思春期から何十年も追いかけている人はどこにでもいる存在です。

それを言ったら昭和時代からずっと読売ジャイアンツや阪神タイガースの応援をしている野球ファンだってそうですし、芸能活動の応援だってそうでしょう。

そうした息の長いファンたちにとって、ファン活動の対象、趣味の対象はどう見ても人生の一部ですし人生を駆動させるクランクシャフトの一部として機能してきたでしょう。

ファン活動や趣味活動をとおして友達をつくったり、伴侶と巡り合ったりすることも今日日はよくあることです。

 

そういった影響まで考えた時、私は「ガンダムがアイデンティティ」とか「ポケモンがアイデンティティ」といった物言いはそれほどおかしくないように思うのです。

 

ガンダムやポケモン、芸能やプロスポーツが掬っている心理-社会的役割は大きい

今日は、そこからもう一歩先も考えてみましょう。

そうしたアイデンティティの宛先になるようなコンテンツ、活動、活躍を引き受けている人達が社会のなかで果たしている役割って、実はすごく大きくありませんか。少なくとも私はそのように考えます。

 

この個人主義社会において、誰もが絶対に他者からの承認を介したかたちで自分自身の輪郭を定めなければならず、自分自身のアイデンティティをそうして組み立てなければならないとしたら、それは結構つらいことだと思うのです。

それができる人もいらっしゃるでしょうし、そういう人は「簡単じゃん」ってうそぶくでしょう。

でも、いつでも誰でも簡単に……ってわけにはいかないと思うのです。

 

ところがガンダムやポケモンやプロスポーツ団体などは、他者からの承認ぬきでアイデンティティを提供してくれるのです。

そのために必要なのは、コンテンツを選ぶこと、あるいはファン活動や推し活や応援を行うことです。

もちろん、それらは商品でもあるので大小のお金をファンに要求するでしょうし、「商品なんてアイデンティティの宛先としてはダメだ」と指摘する人の声も聞こえてくる気がします。実際、あこぎな商売をしているとおぼしきコンテンツがないわけでもありません。

 

他方、良心的なコンテンツやIPはそこまで多くの経済的対価を搾取することなく、たくさんの人に夢を与え、娯楽を提供し、そうしたことをとおしてアイデンティティの構成要素まで提供してくれています。

世に広く知られ、何十年にわたって永らえているコンテンツやIPは、基本的にはそこまであくどくないと思っています。

あくどくないビジネスをとおしてたくさんの人にアイデンティティの構成要素を提供してくれている、あの会社とかあの会社とかは、実はすごく社会に貢献していると思いませんか。

 

夢を与えるとか、楽しみを与えるとか、そういう仕事は軽んじられることも多く、コロナ禍の最中には「なくてもいい仕事」だなんて言う人もいました。

ですが、そうしたコンテンツ産業やエンターテインメント産業が私たちに提供してくれる心理-社会的価値は本当はかなり大きく、それで救われている人は少なくないのです。

私自身も含めて、ずっとガンダムに生かされてきた人、ポケモンに救われてきた人が今の日本にはたくさんいます。いや、世界じゅうを見渡してもそうした人はたくさんいるでしょう。

 

今の日本にはそうしたコンテンツがたくさんあり、ときにはコンテンツに耽溺しすぎだという批判が集まったりしますが、人は、食料や医薬品だけを消費して生きているわけではありませんし、アイデンティティは仕事や肩書きや人間関係だけから構成されているわけでもありません。

アニメでもゲームでもプロスポーツでも芸能でもそうですが、長く愛され、長く話題になって、永らえているってことは経済的にすごいだけじゃなく、心理-社会的にみてもすごいことだと思うのです。

 

私たちは個人それぞれがアイデンティティを獲得・確立しなければならない社会を生きていて、なおかつ、誰もが十全に仕事や肩書きや人間関係だけをとおしてアイデンティティを獲得できるわけでもないのですから、こうした領域が人間を支えている要素、ひとりひとりがひとりひとりであるために貢献している側面は、もうちょっと真剣に検討されてもいいと思うのです。

今日は、こうしたことを伝えたい人の顔が頭に浮かんだので、ガンダムアイデンティティやポケモンアイデンティについての話を言語化してみました。

たかがユースカルチャー、されどユースカルチャーですよ。

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

[amazonjs asin="B0CVNBNWJK" locale="JP" tmpl="Small" title="人間はどこまで家畜か 現代人の精神構造 (ハヤカワ新書)"]

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo:Michael Rivera

希少がんらしいです

「たいしたことないだろう」と思いながら、お気楽に大腸内視鏡検査を受けたら、がん疑いの結果が出た。

お気軽に大腸内視鏡検査受けたら癌疑いの診断が出た話

 

上の記事は、市大病院に行くことになった、というところで終わっている。

つづきを書きたい。

 

なお、最初に断っておくが、おれは自分のがん(今回の記事から「癌」ではなく、より広い範囲を示す「がん」という言葉を使う)についていろいろと調べたが、そのソースへのリンクは貼らない。

用語などについても自分の言葉でいちいち説明することはできるだけしない。

 

あくまで自分は一患者の素人であり、下手に書いて誤解が広がるのはよくない。いや、おおいに誤解しているのに違いないし、間違った思い込みを書くのだから、あえてリンク先を巻き込むようなことはしたくない。

あくまで、がんに巻き込まれた一人の患者の気持ちを書く。それ以上の情報は、自分で検索して、調べてほしい。

 

閑話休題。上の記事を書いてすぐに、おれは市大病院に行った。市大病院という表記は正確ではないが、おれのなかでは市大病院なのでそう書く。

 

市大病院で最初に診察してくれた医師は、内視鏡部の部長であった。ドアを開けた瞬間、「若いな」と言われた。

そういうあなたは……年齢がよくわからない。どこかで見たような雰囲気だと思ったが、あとになって「元プロ野球選手に例えるなら中田翔だな」と気づいた。

 

その医師が、クリニックからの紹介状を開く。おれがコピーを渡された病理検査の原本も入っている。

が、医師はこう言った。「あれ、写真とか渡されてない?」。「いや、紹介状はそれが全てです」。

 

なんと、クリニックの医師は「御侍史」の紹介状に写真を入れ忘れたらしいのだ。「あの先生よくやるんだよな……」などと言う。

が、おれはバッグの中を整理しない人間である。「あ、でも、検査後にもらった写真持ってます!」といって、問題のポリープ写真を渡した。

 

渡したら、医師の顔色が変わったような気がした。なにやらまずいという雰囲気を醸し出した。

「これ、クリニックの先生は脂肪腫の可能性とかいってるけど、ぜんぜん違うよ。これはNETというやつの可能性が高くて、がんと混じっているとかなりよくないことになります」。

かなりガツンと予後不良と言われた気になった。

 

が、そんなことを深く考える間もなく、「今日のこのあとの予定は?」などと言われて、すぐにその日のCT検査の予定などを入れてくれる。

そして、「明後日来られます? 内視鏡、自分が見るので」。

 

そのほか、同居している家族はいるのか、重要なことは自分ひとりにつたえるだけでよいのかなどを聞かれた。近くに母親が住んでいるが、おれはひとりだ。ひとりで決めなくてはならない。

診断が終わると、その日はできる限りの検査をした。採血、心電図、レントゲン、そしてCT。CTを受けるのも初めてだった。造影剤を流されると下半身がフワッと熱くなった。

 

ついこないだもらったばかりなのに、またモビプレップのセットなどをもらって帰った。

モビプレップをもらうときに、「食事制限は前日からでいいんですか? このあいだは四日前からやりましたが」と言ったら、変な顔をされた。

 

NETとはなにか?

さて、その日、検査と検査の合間に、おれはさっそくiPhoneで「NET」について調べ始めた。これについては多少説明しておかなければいけない。

NETとは「Neuroendocrine tumor」という言葉の略で、日本語にすると神経内分泌腫瘍、ということになる。以前はカルチノイド(がんもどき)と呼ばれていたが、悪性度への誤解などがあるとのことで、呼び名が変わったという。

 

カルチノイド……。

「カルチノイド腫瘍が疑われましたので、免疫組織学的にクロモグラニンAの検索を行いましたが、陰性でした」

とは、最初のクリニックの病理検査の結果に書かれていた言葉である。

 

病理検査でカルチノイド(=NET)が否定されているのに、NETに見える? これはよくわからない。よくわからないし、あとあと問題になってくる。

 

が、その時点で「がんと混ざっていると」みたいな話をしていたなと思う。そうなると、MiNENというかなりレアな状況なのではないだろうか。

おれはかなりまずいことになったな、と思った。死ぬのかもしれないと思った。自分でも意外なほどにすんなり、そう思った。そう思いながらも、押し寄せてくる検査などの流れにとりあえずは身を委ねた。

 

大腸内視鏡検査、再び

最初の市大病院の受診の次の次の日、おれはまた市大病院にいた。また、モビプレップで腸内を洗浄して、だ。

ただ、ほかに飲んだ薬は違った。前日の夜にマグコロール散というのを飲んだ。これがかなり強烈だった。さらに朝からモビプレップ。今回は準備期間が短かった(というか当たり前だろうか)のもあり、全量を飲んだ。もうこれ以上は液体以外出ないという状態だ。

 

また、大腸内視鏡検査。着替えなどの準備をし、点滴の注射をミスされるなどして、尻を突き出して横たわった。今回はモニタが遠くて見えない。

「そろそろ先生が隣の部屋の検査を終えて来ますので」と言われる。おれはできるだけ心穏やかにと、目を閉じていると、先生がやってきって、腕をバンバン叩いた。「後で話があるから」。

 

今度の内視鏡検査は……なんというか、すごく楽だった。隅から隅まで見るわけではないのだろうが、一応は奥の奥までカメラは進んだと思う。曲がり角では少し違和感があるが、たいしたことはない。なにより楽だったのは、空気を入れてこないことだった。

前回の内視鏡検査は、腸の中に空気をバンバン入れられて、お腹が張って苦しいことこの上なかった。

ちなみに、お腹に空気を入れられた体験を、内視鏡体験者に話すと、「なにそれ?」という対応が多かった。おれが最初に行ったクリニックは、なにかこう、特殊なのか?

 

それよりも、今の内視鏡だ。問題のポリープに立ち戻ると、生検を二つとった、感じがした。

医師が「どう見てもNETなんだよなあ」と言うのが聞こえた。カメラが腸から出ていった。

 

すると、医師がおれに向かってこう言った。

「手術、手術!」

手術。内視鏡でチョキンと切るわけにはいかないということだ。予想はしていた。

「ポリープの大きさは11mmで、手術になるから」。

 

少し虚ろな頭で「はい、大腸NETですか」などと答える。

さらに畳み掛けるように、今後の日程の予定を聞いて、

「一昨日のCTの結果でも出ているから、PET/CTっていうのを受けてもらうから、このあと、べつの先生のところに行って」という。

それと同時に、「看護師さんに「◯◯(最初のクリニックの名前)さんのプレパラート回収して!」というのが聞こえた。

 

「次は11/20、自分と、外科の先生の話になるから」というので、「11月ですか?」と聞き返した。そのくらいの余裕はあった。

 

その後おれは、車椅子に載せられ、リカバリールームというところに連れて行かれた。

リラックスできるチェアがカーテンで仕切られており、内視鏡検査を終えた人間たちが一時間休む。指先に心電図みたいなのを計測するやつを挟まれて、チェアの右後ろで「ピッ、ピッ」と音がする。部屋の中の複数の心音が重なって聞こえてきた。

 

リカバリールーム。リカバリーするどころではなかった。休まるどころか、眠るどころか、目も頭もガンガンに冴えた。

「手術? 手術するのか? となると、やはりNETの根治手術ということになる。ということは、肛門に近いおれの腫瘍位置からしても、人工肛門が避けられないだろう。血便一回、ポリープ一つで人工肛門になるのは割に合わない気がする。とはいえ、ちらりと言われたCTの結果ではリンパ節への転移とも言われていた。切るしかないのだろう。どのくらいの手術になるのだろう。もちろん入院も必要だろう。いくらお金がかかるのだろう。人工肛門の生活とはどのようなものだろう。自分にも扱えるのだろか。これまでと同じように生活できるのだろうか。もちろん、できないことも多くなるだろう。それにしても、なにか割に合わない気がするが……」。

そんなことを一時間、ぐるぐるぐるぐる考えていた。

 

リカバリーを終えると、次に向かったのは消化器科の先生のところだった。なんの話だろうかと思ったら、PET/CTの予約の話であった。

おれは隙があれば「人工肛門ということになりますか」とだれかに聞きたかったのだが、そういうチャンスは本当になかった。

その先生には、PET/CT検査はこの病院ではできないので新横浜に行ってもらいますと言われた。そして、紹介状のようなものを、市大病院のなかの他病院と連携する窓口に持って行くように言われた。

 

その窓口は、モビプレップを渡されたのと同じ窓口だった。おれが入るとすぐに、「□□病院(さきほど言われた検査専門の病院)の件ですね」と言われた。

話が早い。すぐに日程の話になる。その日は10/3の金曜日だった。すべての検査結果を聞き、手術の話を聞くのは10/20だ。早ければ早いほどいいだろうというか、すべて早く終わらせてしまいたいという気持ちから、一番近い日程である10/6月曜日を選んだ。なんとおれには双極性障害という持病もあるので、朝起きられない可能性もあるので午後にしてほしいと頼んだ。

 

その方向で話が進んでいたが、さきほどの医師の書面になにか問題があったらしく、カウンターの向こう側に三人の事務員さん(看護師さん?)が集まって話を始めた。

「……これだと保険適用にならないんじゃないですか?」とか言っている。

結局、先程の先生に電話を入れて、なにかチェック項目など書き換えて予約が決まった。

 

あとから知ったことだが、PET/CT検査はがんの診断がついている人間にしか保険が適用されないらしい。

考えてみたら、おれははっきりと「あなたはがんです」と宣告されていない。だが、知らない間にそういうことになっている。意外にそういうものかもしれないし、自分の場合はがんはがんでも希少がん、直腸NETだからそうなのかもしれない。

 

ちなみに、いつの間にか渡されていたCTの検査報告書にはこう書かれていた。

画像診断:直腸癌の疑い/ひだり傍直腸結節:リンパ節転移の可能性を否定できません。PET/CTなどでもご確認ください

所見:直腸のRbひだり側に造影増強効果を示す1cm程度の領域があり、直腸腫瘍を見ている可能性があります
その他、結腸に憩室を散見します
ひだり傍直腸に径2cm程度の結節があり、内部は淡い高濃度を示します。リンパ節転移を否定できず、PET/CTなどでもご確認ください

 

長い長い診断の日まで

月曜日、おれは北新横浜駅という聞いたことのない駅まで行った。検査専門病院でPET/CT検査を受けた。

PET/CTとはなにか。陽電子放射断層撮影のことである。放射線を出す薬を体内に入れて、身体の中を見る。自分の人生に陽電子が関係することになるとは思いもしなかった。

薬が体内に平穏に行き渡るよう、検査前に一時間、まったく無の空間で過ごさなくてはならなかった。意外に短く感じられた。支払いは保険適用で3万円であった。おれの手取りは19万円である。

 

PET/CTの検査結果は市大病院に直接行く。これにて、おれの検査はすべて終わった。

最初のクリニックで採取した生検の再検査、市大病院でとったサンプルの検査、CT、PET/CTの結果。これらの結果がすべて合わさって、おれの手術内容が決まる。

PET/CTの検査が10/6。結果を聞くのが10/20。それまでおれは、なにか宙ぶらりんの状況に置かれる。

 

がん、おそらくは希少がんであることはほぼ確定している。手術が必要なことは告げられている。だが、どのような手術が行われ、その結果、おれの身体がどうなるのか、まったくわからない。

正直言って、おれはかなり怯えている。怖がっている。かなり辛い思いをしている。そのことで頭が一杯で、ほかになにも考えられず、身体は動かず、動いてもスローモーションで、朝も満足に起きられない。

それでも、頭になにかを考える隙間があれば、がんのことばかり考えてしまい、その考えが止まることはない。

 

……というようなことを、月に一度の精神科クリニックで言った。水曜日のことだった。

「それは人間の正常な反応だから」と言われた。おれはそう言われると思っていたので、「そうですよね」と応えた。

おれには抗精神病薬と抗不安剤と睡眠薬が出ている。これ以上出す薬もない。精神科医が魔法の言葉を持っているわけでもない。そんな言葉があれば、あらゆる医師も、あるいはそこらの人もそれを口にしていることだろう。

 

というわけで、おれは頭のなかがぐるぐるしてとまらない。少し整理させてほしい。

まず、「たいしたことなかったから、ちょこんと切って終わりだよ」という可能性。これは低いように思われる。

NETはそういかないし、もうCTでリンパ節転移が指摘されている。ないわけではないだろうが、可能性は低い。

 

もうひとつ極端なことを想定すると、「もう転移しまくっていて手遅れだから、抗がん剤と放射線治療になります」ということだ。

これは楽観になるが、あまりないのではないだろうか。市大病院の内視鏡医も「一刻を争う状況ではないから」というようなことを言っていたように思う。

手遅れで一刻を争う必要がないという可能性もないではないが、CTの診断報告書からもそこまでたくさんの転移は無さそうに思えた。もちろん、PET/CTでたくさんの転移が確認される可能性もあり、手術すらできないという段階も考慮に入れておいたほうがいいだろう。ちなみに、Xではがんの経験者の方から「切って手術するというのは、治る可能性があるということだから」というような言葉をいただいた。

 

一番可能性が高いのが、手術により、人工肛門になることだろう。おれはそのように考えている。

「それにしてもこいつ、人工肛門にこだわるな」と思う人もいるだろう。それについては、最初の大腸内視鏡検査を受ける前に書いたおれの一文を示したい。

中年の異常な執念、あるいは私は如何にして大腸内視鏡検査を受けるようになったか

おれが大腸がんから連想したのは、まず人工肛門だった。人工肛門を使用している人やその家族には悪いが、「人工肛門は嫌だな」と思った。病気を望む人間などいないだろうが、具体的な形としてイメージされた。

おれが軽い血便で大腸内視鏡検査を受けてみようと思ったのは、「人工肛門は嫌だな」というところがあった。

ところが、現在はその人工肛門に向かって一直線だ。すでにおれは「オストメイト」、「ストーマ」などでいろいろ検索して勉強している。

 

とはいえ、「もう大腸を切除して人工肛門しかないです」と言われたら、それをどうすることもできない。「しかたないですね」と言うしかない。

問題は、「人工肛門にして根治する方法もあるけれど、転移の可能性を許容して温存する方法もある」と言われたときだ。それが何%と何%なのか。どのくらいの確率であれば、おれは人工肛門を選ぶのか。あるいは温存に賭けるのか。その結論が出ない。

 

身近な人をがんで失った人からは、「抗がん剤によるQOLの低下はものすごい。ストーマをつけることのほうがはるかに楽なことだ」と言われた。そのようなものかとも思う。

むろん、これは仮定の仮定であり、悩んだところでどうしようもないことはわかっている。それでも、おれは上に書いたすべての可能性を想像しては、想像して、考えて、考えて、果てしなく弱っている。

いくら考えたところで、現在の材料からなにか答えが出る、結論が出る、ということはない。それはよくわかっている。わかっているが、頭の中の思考は止まらない。身体も動かない。

 

どうしておれはこんなに弱いのだろう。おれは人に迷惑をかけられるのは嫌いなので、人に迷惑をかけてはいけないとも思っている。

おれは今回の検査費だけでも保険医療に迷惑をかけている。今後、手術や人工肛門などでさらに迷惑をかけることになるかもしれない。高齢の母にも入院について手伝ってもらうことになるだろう。

術後、人工肛門になったら周りの人に迷惑をかけるかもしれない。そんなことも考えては止まらない。

 

この世にはもっと深刻な病もあるだろうし、悩みもあるだろう。しかし、これはおれにとっての地獄であって、おれはおれの地獄のなかで苦しんでいる。

精神病になったときもここまでの悩みに襲われたことはなかった。おれは自分の弱さを直視し、しかし、弱さを克服することもできず、ただただ苦しむしかない。10/20に結論が出たら、そのときはそのときでまたあらたな苦悩が始まる。

今まで人生の苦悩から逃げ回ってきたすべてのつけがまわってきている。そのように感じている。楽な方に生きてきた罪の、すべての償いをしなくてはならない。

 

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

 

【著者プロフィール】

黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :Marcelo Leal

少し前の本だが、知人に勧められたので、橘玲氏の「幸福の「資本」論」を読んでみた。

 

結論から言うと、面白い本だったが、思うところもあるので書いてみたい。

[amazonjs asin="B072FNR1DS" locale="JP" tmpl="Small" title="幸福の「資本」論――あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」"]

 

主張はとてもシンプルで、幸福に生きるためには、

 

1.自由を得るための「金融資産」 (≒お金)

2.自己実現をするための「人的資本」 (≒実績を生む能力)

3.絆を得るための「社会資本」 (≒家族友人知人のネットワーク)

 

この3つが必要である、という主張だ。

当然、3つを高いレベルで持っている人は少なく、また年齢や環境によってもそれぞれの割合は変わる。

 

例えば、「リア充」は、お金はないが、能力が高く、友人が多いという人々だ。

一方で、能力が高く、お金はあるけど友達がいない「金持ち」がいる

 

あるいは、「友達だけはたくさんいるけど、お金と能力は低い」(プア充)ということもあり得るし、すべてない人は「貧困」と呼ばれる。

 

 

「お金もち」は共働きのまじめな会社員なら誰でもなれる

さらに、同書の中では、確実に幸福度を上げる方法の一つが、お金持ちになって「経済的独立」を勝ち取ることなのだとデータで紹介される。

①年収800万円(世帯年収1500万円)までは、収入が増えるほど幸福度は増す。

②金融資産1億円までは、資産の額が増えるほど幸福度は増す。

③収入と資産が一定額を超えると幸福度は変わらなくなる。

 

しかし、お金持ちになるには、いったいどうすればよいのだろうか。

 

橘氏は、「特別な才能がなくとも、勤勉と倹約、それに共稼ぎだけで誰でもお金持ちになれる」という。

ただし、それが実現できるのは多くの場合65歳以降で、残りの人生はそう長くはない。

欧米や日本のようなゆたかな社会では、特別な才能などなくても、勤勉と倹約、それに共稼ぎだけで、誰でも億万長者になって経済的独立というゴールに到達できます。

もっとも、あなたはこうした説明にきっと満足しないでしょう。徹底した勤勉と倹約が幸福な人生をもたらすとはかぎらず、65歳でミリオネアになったとしても残りの人生はそう長くないからです。

 

だから、多くの人々は「できるだけ早く」金持ちになろうとする。

そのために必要なのが、実績をつくる能力である「人的資本」だ。

 

 

「やりがいがあり」「高給で」「楽しい」仕事に就くには?

一般的な生涯年収(3億円)から算出される、社会人になったばかりの若者の人的資本は約5500万円と計算できる。

したがって、ほとんどの人にとってもっとも重要な「富の源泉」は人的資本となる。

 

最も確実に儲かる方法は、まずは会社員になって働くこと、という結論が、ここから得られる。

 

ただし、ここから幸福を得るために、「やりがいがあり」「高給で」「楽しい」仕事にありつこうとすると、これは漫然とサラリーマンをやるだけではダメだ。

 

あらゆる分野でエキスパートになるのは不可能であるから、結局、どんな人であれ「自分の得意分野」を能力を磨いて極めていくほかは、生き延びる道はないというのが結論となる。

知識社会というのはその定義上、知能の高いひとが大きなアドバンテージを持つ社会です。知識社会化が進むということは、仕事に必要とされる知能のハードルが上がるということでもあります。

あなたがまだ20代だとして、35歳までにやらなければならないのは、試行錯誤によって自分のプロフェッション(好きなこと)を実現できるニッチを見つけることです。

 

「人生は金じゃない、つながりと評判だ」

しかし、お金の話ばかりしていると、「人生は金じゃない」という反論を生みやすい。

 

実際にその通りで、橘氏は、「「幸福」は社会資本からしか生まれない」としている。

カネをいくら持っても、家族も友達も、知人もご近所さんもいない、全くの孤立無援では、人間は幸福を感じにくい。

 

しかし、最近の日本人は、「濃い人間関係」を嫌い、「一時的な、うすい人間関係を好む」ということだ。

橘氏は、こうした人間関係の面倒さを断ち切った「ソロ充」の増加が、それを示しているという。

 

こうした生き方を、橘氏は「フリーエージェント」と呼ぶ。

米国においても、フリーエージェントは新上流階級とみなされており、「BOBOS(ボボズ)」と名付けられている。

[amazonjs asin="4334961304" locale="JP" tmpl="Small" title="アメリカ新上流階級ボボズ: ニューリッチたちの優雅な生き方"]

 

しかし彼らにも明確な欲求がある。

それは、「知的コミュニティの中での評判を獲得すること」だ。

BOBOSたちはすでにじゅうぶんなお金を持っているので資産の額にはあまり関心がありません。高級ブランドではなくユニクロの服を着て、銀座の料亭ではなく近所のビストロで家族でのんびり食事をするのを好むようなひとたちでもあります。

そんな彼らがこころの底から手に入れたいと願っている希少な宝石——彼らにとって真に価値あるもの——は、知的コミュニティのなかでの評判です。

 

「人生は金じゃない、つながりと評判だ」とでもいうべきか。

少し前の話題で「評価経済社会」と重なる部分もある。

[amazonjs asin="B00DVN2VEQ" locale="JP" tmpl="Small" title="評価経済社会・電子版プラス"]

 

 

しかし「お金」「自己実現」「評判」は独立変数ではない

ここまで見てきたように、

・それなりのお金

・自己実現

・仲間からの評判

は、幸福を実現するための3つの柱であることは間違いない。

 

しかし、思うところもある。

問題は、これらが独立変数ではなく、実は人的資本に含まれる「能力」に制約されているということだ。

 

稼ぎや実績は、長期的には「運」にあまり左右されない。学歴も関係ない。「能力」がものをいう。

実際、それは追跡調査によって確かめられている。

入学できる能力がありながら一流大学に進学しなかった生徒も、一流大学の卒業生と同じように有名企業に就職し、同じくらいの収入を得ていました。

アメリカでは(そして日本でも)、一般に思われているよりも、会社は社員の学歴を気にしていないからでしょう。

学歴だけは立派でも、ぜんぜん仕事ができない社員がいることは、誰でも知っています。 入社してしばらくたてば、「あいつは思ったより仕事ができる」とか、「エリートのくせにぜんぜん使えないな」という評判が、会社のなかでつくられていきます。学歴よりも、一緒に働いた上司や先輩、同僚からの評判のほうが、ずっと正確に人的資本を予測できます。

このようにして、受験のような人生における「小さな失敗」は、最終的にはなんの影響も与えなくなるのでしょう。

[amazonjs asin="B0DL54D7ZV" locale="JP" tmpl="Small" title="親子で学ぶ どうしたらお金持ちになれるの? ――人生という「リアルなゲーム」の攻略法"]

 

日本や欧米などの豊かな社会で、幸福が得られれない、というのは

・試行回数がたりない

・やり方がわるい

・環境に問題がある

ケースがほとんどで、そういう状況を回避・修正することも含めて、能力の結果と言える。

 

これに名前を付けるとすれば、「能力資本」主義とでもいうべきだろうか。

営業も、エンジニアも、士業も経営者も、事務員も、スポーツ選手も、幸福な人生は「能力資本」を要求する。

 

仮に相続などで能力と関係なくお金を手に入れても、それの維持に知的能力は必要だし、人的資本や社会資本は、仕事の遂行能力やコミュニケーション能力に依存する。

まして、自己実現に必要な仕事の実績やクリエイティビティなどは純粋な「能力資本」の産物だ。

 

「高い能力の獲得」が現代人の中心課題

当たり前の話だろう、という方は多いと思う。

しかし、「中流」とか「人並みの幸福」とか「平均的な生活」を目指す場合、これは深刻な問題となる。

 

人並み以上の能力を持っていれば、人並み以上の幸福があり、

人並み以下の能力であれば、人並み以下の幸福しか得られない。(つまり不幸)

そういうことになってしまうからだ。

 

まして、「人並み」という言葉のイメージは実際には「人並み以上」を指している。

埼玉で人並みの生活、月収50万円必要 県労連が調査

埼玉県内で人並みに暮らすには月約50万円の収入が必要で、子供が大学に入ると支出が急に増え、奨学金がないと成り立たないとする調査結果を、県労働組合連合会(埼労連)と有識者がまとめた。

埼玉県の労働者の年収中央値は380万円で、ほとんどの人が「人並み以下」の生活をしているという結果は、「人並み」という言葉が「人より良い」を意味しているよい例だろう。

 

もちろん、「人と比べた幸福に意味なんかない」という言説は、何千年も前から言われている。

にもかかわらず、多くの人はそれを無視できない。

したがって「高い能力を得る」(高い学歴ではない)ということが、現代に生きる人々の中心的な課題となっている。

 

幼児教育や中学受験が過熱し、自己啓発書に人気があるのは、その表れだ。

また、「転生した主人公が、偶然授かったチート能力で無双する」というコンテンツが、急に増えてきたのも、その願望の一端と言えるだろう。

高い能力=幸福 という、最もわかりやすい図式を提供しているからだ。

 

橘玲氏の「幸福の「資本」論」は、そういうコンテンツに近い。

この書籍は、「能力資本」主義に賛同する人、あるいは「能力主義には反対」「幸福は人と比べるものではない」と反感を覚える人、いずれも読んでおいて損はないと思う。

 

なお、能力主義そのものの議論をしたい人は、サンデル先生の本が詳しい。

[amazonjs asin="B0CGTVP2TT" locale="JP" tmpl="Small" title="実力も運のうち 能力主義は正義か? (ハヤカワ文庫NF)"]

 

ただし、「能力主義に変わる何か」についての解決策は、いまだに誰も持っていない。

社会は能力の高い人を必要としているし、仕事が正確に遂行されなければ世の中が回らない。

 

「人と比べた、相対的な幸福」が目につく限り、なかなかこの問題は解決しないのだろう。

 

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

 

 

【著者プロフィール】

安達裕哉

生成AI活用支援のワークワンダースCEO(https://workwonders.jp)|元Deloitteのコンサルタント|オウンドメディア支援のティネクト代表(http://tinect.jp)|著書「頭のいい人が話す前に考えていること」88万部(https://amzn.to/49Tivyi)|

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯note:(生成AI時代の「ライターとマーケティング」の、実践的教科書

〇まぐまぐ:実務で使える、生成AI導入の教科書

[amazonjs asin="4478116695" locale="JP" tmpl="Small" title="頭のいい人が話す前に考えていること"]

Photo:Zack Dowdy

先月末、私は幕張メッセで開催された東京ゲームショウを見てきました。この文章は、そこで見てきたゲームショウやゲーム産業を舞台裏から支えている諸活動についてのものです。

 

豪華絢爛! 東京ゲームショウ2025

その前に、一人のゲームプレイヤーとしての私が見た東京ゲームショウの景色も少し紹介します。

「遊びきれない、無限の遊び場」をテーマにした東京ゲームショウ2025は、47の国と地域から1136の企業・団体が参加する一大イベント。プレスリリースによれば、今年は26万人超が訪れたといいます。コンピュータゲーム(以下ゲーム)が好きで40年以上遊び続けてきた私としては、いつかは訪れてみたいイベントのひとつでした。

ついに東京ゲームショウの会場に着いたぞ!

驚いたのは、人、人、人、人、の大洪水だったこと。体感人口密度は文学フリマよりずっと上、コミックマーケットとそんなに変わらない程度ではないでしょうか。外国人参加者の数にも驚かされました。さまざまな言語が飛び交い、各企業ブースのスタッフさんはしばしば多言語で対応されていました。

ちょっと薄暗い会場にはゲーミングPCのごとくキラキラとしたデコレーションがひしめいていて、とてもきれいでした。どの企業もデコレーションには力を入れており、ひときわ目立っていたのは、最近8兆2千億円での買収が報じられたエレクトロニック・アーツ社のゲーム『バトルフィールド6』の巨大な戦闘ヘリコプター模型でした。この模型の周辺はすごく混雑していて、通行を妨げてもいけないと思って写真を撮るのは控えましたが、たくさんの人が注目していました。

最新ゲームやこれから発売されるゲームがそこらじゅうに展示されているので、ゲーミングPCを新調したくなる場所です! さまざまなゲーミングデバイスや周辺アイテム、エナジードリンクのレッドブルなども出展されていて、ゲーム愛好家の物欲を刺激してやみません。

スクエアエニックスやコーエーテクモといった日本の有名メーカーだけでなく、もっと小さな外国企業のブースもありました。これは、私が愛してやまない『ヨーロッパユニバーサリス』というゲームの最新版、『ヨーロッパユニバーサリス5』の展示です。このゲームはスウェーデンのパラドックス社というメーカーの作品で、本当に発売されるのか私は心配で仕方がなかったのですが、進捗しているようでホッとしました。

国策としてゲーム産業を支援している国のブースも目立ちました。ゲーム産業の国家的支援というと、私は真っ先に韓国を思い出しますが、ロシアやマレーシアでも国策としてゲーム産業が推されていることを知りました。聞くところによれば、今年の東京ゲームショウに出展している企業・団体のうち、過半数の615社は海外からの出展なのだそうです。前述の『バトルフィールド6』のほかでは、すでにゲーム大国となっている中国の企業がド派手な演出と人海戦術で人気を集めていました。力の入れようは、半端ありません。

 

華やかな舞台を、縁の下から支える活動があった

それはそれとして、今回、私は東京ゲームショウの別の一面も見せていただきました。以下の内容には、一般社団法人コンピュータエンタテインメント協会(CESA)の関係者の方のご厚意のもと、拝見させていただいたものを含みます。

また、同協会の方をはじめ、色々な方々からお話を伺う機会もいただきました。この場を借りて御礼申し上げます。そのうえで、この文章の文責は熊代亨にあります。

はじめに見せていただいたのは、警視庁・千葉県警・神奈川県警のブースです。東京ゲームショウにどうして警察が? と思ったのですが、サイバー犯罪絡み、たとえばフィッシング詐欺についての啓発に関する展示がありました。それからリアルマネートレード(RMT)問題。

「リアルマネートレード、まだあったんだ!」 と私は昔のオンラインゲームを懐かしく思ってしまいましたが、オンラインゲーム内の通貨取引だけでなく、ゲームアカウントの売買やゲームアカウントの育成商売もこの範疇に入るとのこと。なるほど! ゲーム企業も対応に苦慮している領域で、警察との連携が大事である様子がうかがわれました。

また、地方自治体のゲストの方とお話をする機会もありました。ゲームと地方自治体という取り合わせを意外に思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし振り返ってみれば、位置情報ゲーム『ポケモンGO』やブラウザゲーム『艦隊これくしょん』のイベントなどにも地方自治体が関わっていたわけで、ゲームと地方自治体という取り合わせは最早珍しいものではないのでしょう。

横浜に本拠地を置く学校法人・岩崎学園が、地元にゆかりのあるeスポーツプレイヤーを集めてイベントを開催している様子も見せていただきました。聞けば、プロ選手と一般参加者の交流やプレイ指南のようなイベントもやっているそうです。地域の人と縁を持つこと・地域の人に活動を理解していただくこと・地方自治体とコラボレーションも図っていくことに、時間や情熱が費やされている様子がうかがわれました。

そうしたことの延長線上として、「ゲームと子育て」「ゲームと親子」といいったテーマへの取り組みもあります。

東京ゲームショウの一角にはファミリーゲームパーク「アソビバ」というものが設けられていて、小中学生向けにさまざまなゲームや出展物がありました。小さなお子さんに限っていうなら、幾つかのゲームは一般展示よりもファミリーゲームパークのほうが試遊しやすかったかもしれません(それでも満員御礼の様子でしたが)。お子様連れエリアだからでしょうか、人口密度もそこまで高くなく、ピザなどの出張販売なども来ているのでちょっとした穴場スポットだと私は思いました。

これも、子ども向けらしいアクティビティですね。『マインクラフト』をとおして、AIについて学ぼうというものです。『マインクラフト』は、子どもゲーム界の『鬼滅の刃』的な共通言語で、かつ、自分でゲームをつくる・いじる活動に最も開かれている作品のひとつでもあるので、絶妙なチョイスだと私は感じました。

それから「スマホとゲームのお約束メーカー」。会場では、タブレットのアプリを使って親子でゲームのプレイ時間などについて約束をつくる過程を実体験できるようになっていました。このお約束アプリを作ったのはゲーム企業のガンホーですが、ガンホーは以前からゲーム使用に関する啓発プロジェクトに取り組んでおり、たとえば適切なゲームプレイを啓発する内容のカレンダーを2010年代から学校に提供しています。たまたまいらっしゃった関係者の方にうかがったところ、この「お約束メーカー」もそうした啓発プロジェクトの一環として開発されたのだそうです。親から一方的に約束を子どもに押し付ける約束よりも、親子で一緒に約束をつくるほうが、ずっと約束は守られるとおっしゃっていました。

 

子どもはどこまで・どんなゲームに触れて構わないのか?

これは、家庭の事情や状況によってケースバイケースでしょう。たとえば我が家では子どものゲームアクセス権は昔から完全フリーで、うちの子どもは3歳にもならないうちから親と一緒に『Skyrim』や『oblivion』などを遊んでいました。これらのゲーム内ではたとえばスリをしたり友達を裏切ったり人肉を食べたりすることもできますが、「それらは悪い行為で、本来、やってはいけないこと」であることを共有しながらプレイすることで善悪是非について判断する貴重な教材になったように思います。

でも、これは我が家が両親ともにゲームを熟知していて、なおかつ幼少期の子どものゲームプレイに深く関われたからできたこと。一般のご家庭で同じことは難しいように思います。

ゲームのことがわからない親御さんにとって、ゲームとは子どもの時間を奪う存在、子どもの学業成績や身体的健康の敵、刹那の楽しみ以外にはたいしたものをもたらさない存在とうつるでしょう。ゲーム課金の仕組みについてよく知らない親御さんも少なくありません。そうしたなか、親のクレジットカード情報を巧みに取り出してこっそり課金をしてしまう子どももいると聞きました。

ですから、ゲームに明るくないご家庭において、プレイ時間についてのお約束などが必要になるのは現実問題としてわかることです。しかし、ゲームを巡っての親子の軋轢のある部分は、ゲームに対する知識や経験の少なさ、それに根差した不安や心配によって拡大しているのではないでしょうか。

[amazonjs asin="B0CQP22FLF" locale="JP" tmpl="Small" title="子どもたちはインターネットやゲームの世界で何をしているんだろう?"]

関正樹『子どもたちはインターネットやゲームの世界で何をしているんだろう?』などはまさにこれに答える本で、なおかつ、ゲーム障害(ゲーム行動症)とその周辺についても知ることができる本です。今回、私に説明してくださった関係者の方からも、「私たちとしても、できれば親御さんにゲームについてもっと知っていただきたい」といったお話をうかがいました。

精神科医としての私のゲーム障害についての臨床経験はそれほど多いとはいえず、私はゲーム障害と診断することにもさほど積極的でもありません。それでも診断基準にぴったり当てはまる患者さんに出会うことはやはりあります。そうした患者さんにしばしば共通するのは、親子間の軋轢が大きいこと、親子がお互いを信頼していないことです。

私は、この親子間の軋轢や信頼の欠如がゲーム障害の原因としても結果としてもかなり大きいのではないか……としばしば思います。そして自験例ではゲーム障害に当てはまる前段階として、家庭内で不協和音や意思疎通の乏しい状態が先行し、軋轢や信頼の欠如が具現化した宛先がたまたまゲーム障害だった……といった経過が多いよう感じています。

ですから、青少年がゲーム障害に陥る確率を減らす方策のひとつとして、親子のあいだの軋轢を減らし、信頼関係を保つことがとても大切だと思っていますし、その際、あらかじめ親御さんがゲームやゲーム課金について知っていること、ひいては子どものゲーム活動に理解があることは助けになるように思われるのです。ゲームについてよく知らないために不信感を募らせ過ぎていたり、逆に、子どもにリスクある選択肢を与えてしまっていたりする場合はあるよう思われます。

昨今は、親世代もゲームに親しんでいることが多いのでこうしたことは減っている……と言いたいところですが、令和時代のゲームと昭和時代のゲームには違っている部分も多いので、親御さんにゲームをわかっていただく必要性や、啓発活動の余地はまだあるよう推察します。

 

ゲームにまつわる人を育てること

もうひとつ。
ゲームを創るのではなくゲームに携わる人を創る、そんな活動も見せていただきました。

たとえばこちらの湘南工科大学のブースでは、学生さんの作ったゲームを触らせていただく機会を得ました。商品化されているゲームに比べれば粗削りで、作った学生さんはゲームプレイヤーが“面白いと感じるツボ”をまだまだ会得してらっしゃらないよう感じられましたが、ゲームとして動くところまで完成させ、人に触ってもらい、コメントをもらっていることが第一に素晴らしいことです。

写真にあるように、他にも色々な教育機関のコーナーが並んでいました。東京大学のコーナーでは、ゲーム実況の途中で閲覧者がゲームをリプレイし直し、いわば元の実況とは異なる"世界線"をつくりだすようなアイデアを、『テトリス』を例に挙げて紹介していました。異なる"世界線"に枝分かれといえば、私などは『シュタインズ・ゲート』などのビジュアルノベルを連想してしまいますが、ゲーム実況と組み合わせれば違ったジャンルにも応用できそうですし、これを基幹コンセプトに据えることで従来なかったゲームが生まれるかもしれない……など思いながら拝見しました。

そうしたこととはまた別に、「ゲームクリエイター甲子園」「IGC学生選手権」のようなコンテストもあるわけです。今回はじめて知りましたが、「ゲームクリエイター甲子園」って、コナミが後援活動をやっているんですね。なので、この展示は『MLB PRO SPIRIT』や『桃太郎電鉄2』の広告のすぐ近くにありました。人材育成に目を向けているのは教育機関だけでないことを示す例だと思います。

 

華やかな産業は裏方に支えられている

今回の東京ゲームショウ訪問をとおして、私はゲームの世界についてまた少し知ることができました。もちろん私もゲームプレイヤーの一人ですから、最新鋭のゲームや超高性能なゲーミングPC、好きなゲームの関連グッズなどには強く心惹かれますし、我が家のゲーミングPC買い替え事業はこれで促進されるでしょう。

でも、ゲームの世界・ゲームという産業はそれらだけで成り立っているわけじゃないんですね。煌びやかなショウの裏側では、たくさんの人々が産業としてのゲームを支えるために活動していました。行政が関与する領域では警察や自治体と、人材育成にかかわる領域では教育機関と連携しながら、ゲーム産業が持続可能で社会に貢献できるよう、注意と労力が払われている様子がみてとれました。

「スマホとゲームのお約束メーカー」などもそうですね。未来のゲームをプレイするのも創るのも子どもですから、未成年のゲーム使用が好ましいものであるよう企業側も試行錯誤しているのは、好ましいことだと思います。

ゲーム産業は、クリエイターとファンだけで成っているわけにはあらず。

巨大産業と化したゲーム業界が、社会のなかの色々なセクターと関わっていかなければならず、持続可能な仕組みを確立していかなければならないのは当たり前といえば当たり前です。ゲームの世界を縁の下から支えている人々の活動を見て、その当たり前のことを意識できたのは私にとって収穫でしたし、産業としてのゲーム、多くの人に支えられているゲームについて意識する機会となりました。

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

[amazonjs asin="B0CVNBNWJK" locale="JP" tmpl="Small" title="人間はどこまで家畜か 現代人の精神構造 (ハヤカワ新書)"]

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo:

この記事で書きたいことは、以下のようなことです。

 

・今年の劇場版ドラえもん、「のび太の絵世界物語」が大変面白く、素晴らしい一作でした

・私が劇場版ドラえもんに期待することの95%くらいは網羅されていました

・ひみつ道具のチョイスといい、伏線の埋め方と回収の仕方といい、さりげない科学や歴史の知識といい、「ザ・劇場版ドラえもん」という感じでした

・制作者さんのドラえもんへの熱量と解像度の高さがうかがえます

・あとヒロインのクレアが、恐らくドラえもんの全シリーズを見渡しても非常に稀少である「老人語を使う幼女」、いわゆるのじゃロリのキャラで極めてかわいいです

・唯一、本当に唯一残念な点は悪役の描写と行動の浅さ

・全体的に見れば極めてハイレベルな映画ドラえもんだったので皆さん観てください

 

以上です。よろしくお願いいたします。

 

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、あとはざっくばらんにいきましょう。

先に断っておきたいのですが、この記事には映画「ドラえもん のび太の絵世界物語」についてのネタバレが含まれます。鑑賞予定がある方、あるいはこの記事タイトルを読んで観てもいいかなと思った方は、是非観終わってから読んでいただきたい次第です。

劇場での公開は終わっていますが、U-NEXTで観られます。損はさせません。

 

まずしんざきのドラえもん歴についてなのですが、コミックスは全巻読んでいる筈で、大長編についても、F先生が執筆された漫画版については「夢幻三剣士」までは全て読んでいます。

しんざきは元々アニメをあまり観ない人間で、漫画に興味が偏っているため、劇場版については観たり観なかったりという感じだったのですが、子どもが産まれたことに伴い、「奇跡の島」くらいからの劇場版は大体子連れで観ています。

特に「ひみつ道具博物館」と「月面探査記」は、歴代大長編ドラえもんでもかなり上位に入るくらい面白かった。

 

そんなしんざきなのですが、「のび太の絵世界物語」を次女と観にいったらめっちゃくちゃ楽しめました。次女も楽しめましたが、私も目一杯楽しめました。大人も子どもも同じくらい真剣に楽しめるコンテンツ、本当凄いですよね。

今回は、大長編ドラえもんの普遍的な魅力の話から、「絵世界物語」のどこが面白かったのか、という話を書きたいと思います。

 

大長編ドラえもんの魅力とは何か

私が劇場版ドラえもんを観る時には、大体以下のようなことを期待します。

 

・のび太たちがピンチに陥り、そこから逆転することによるカタルシス

・悪役の魅力や行動の納得感、強大さ

・レギュラーキャラがそれぞれの持ち味や特技を活かして活躍すること

・ひみつ道具活用のアイディアと納得感

・序盤・中盤に出てきたひみつ道具が、最終盤のピンチ解決の糸口になる展開

・食事シーンが美味しそうなこと

 

いかがでしょう。食事シーンについてはともかく、大体同じような点に期待される方は多いのではないでしょうか?

 

まず、大長編ドラえもんの一番の味というか、楽しみどころが「大ピンチからの脱出」であることについては、恐らく議論を必要としないでしょう。

普段のドラえもんと違って、大長編では大抵の場合、のび太たちが大ピンチに陥ります。例えば「海底鬼岩城」ではポセイドンの稼働によって世界が滅亡の危機に晒されますし、「宇宙開拓史」ならコーヤコーヤ星がもう少しで破壊されるところでした。「日本誕生」ではドラえもんのひみつ道具すら通じない相手に、あと一歩でドラえもんたちは全滅するところでした。

 

こういう、「あわや」という大ピンチから、あるいは登場キャラの機転で、あるいはひみつ道具の意外な活用で、あるいはゲストキャラクターたちとの絆で、のび太たちが大逆転する。

この逆転の気持ちよさこそ、「劇場版ドラえもん」の最大の魅力だと思う次第なのです。

 

それに伴って、まず「敵役」「悪役」には可能な限り有能であって欲しいし、強大であって欲しい。

「宇宙開拓史」のギラーミンも、「宇宙小戦争」のドラコルルも、「日本誕生」のギガゾンビも、それぞれめちゃくちゃ有能・あるいは強力であり、だからこそ彼らを打ち倒すことがカタルシスになりました。

 

なにせ、ドラえもんが持っているひみつ道具は、基本的には便利・強力過ぎる代物であって、何の制限もなく活用できてしまうと、大抵の問題が解決してしまいます。

だからこそ、たとえばなにかしらの問題でひみつ道具の使用が制限されるとか、あるいは敵陣営が強力・ないし有能過ぎてひみつ道具だけでは問題が解決できないとか、そういう状況が「ピンチ」の演出には必須なわけです(あと、ドラえもんが焦るとなかなか目的のひみつ道具が出てこないとか)。

 

この点では、旧作「宇宙小戦争」のドラコルルが、歴代ドラえもんでも最強格の有能キャラだったことは、これまた論をまたないでしょう。

ドラえもんのひみつ道具によるあらゆる細工を全て見破り、知略と組織力だけでドラえもん一行を処刑の寸前まで追い詰めてみせた。「スモールライトの制限時間」という反則技以外、ドラコルルに勝てる要素は存在しなかった、と言っても良いと思います。

 

また、賛否が分かれるかも知れませんが、私自身は「ゲストキャラが活躍し過ぎるよりは、レギュラーキャラがそれぞれの特技や持ち味を活かして活躍してくれる方が好み」です。

もちろん大長編のゲストキャラはそれぞれ魅力的なのですが、元々ドラえもんのファンはのび太たちレギュラーキャラに思い入れがあるわけで、やっぱり既存キャラに見せ場を作ってほしいわけです。

そんな中でも、例えばのび太の銃の腕前とか、スネ夫の工作スキルとか、ジャイアンの歌とか、各キャラクターの元々の特技が活かされるともっと嬉しい。劇場版、スネ夫が弱音を吐きながらも軍師ポジションになる展開、大変味があって良いですよね。まあそのせいで出来杉が登場できてない気もしますけど。

 

で、元より「ドラえもん」の魅力の源泉と言えば、奇想天外な能力をもったひみつ道具と、そのひみつ道具によって起きる奇想天外な展開なのであって、最終盤の大ピンチについてもそこがトリガーになって欲しい。

「序盤に出てきたこの道具が、こんな形で状況解決に結びつくのか!」という気持ち良い驚き。定番の展開ながら、やはりこれがあるからこその大長編だと言って良いと思うわけです。宇宙開拓史でタイムふろしきが最後の大逆転に紐付く展開、今でもトップクラスに好きです。

 

つくづく思うんですが、ドラえもんの「ひみつ道具」のアイディアの「輝きが衰えない斬新さ」って本当凄いと思うんですよね。

例えば、「絵世界物語」では、重要なアイテムとして「水加工用ふりかけ」というひみつ道具が出てきます。ふりかけるだけで水を様々な形に加工できるパウダー、というひみつ道具でして、私が大好きなひみつ道具の一つでもあるんですが、これ「ドラえもん」に初登場したのってコミックスで言うと23巻、発売1981年です。約45年前ですよ?

半世紀前に考えられたアイディアが、今でも何の違和感もなく「未来の不思議なアイテム」として通用するし、ストーリーの重要な一角を担える。この辺、「ドラえもん」という作品がもつ色褪せない普遍的な面白さというか、藤子F先生の発想力が本当天才的であったとしか言いようがないなーと思う次第です。

 

あと、あんまり関係ないですが、食事シーンが美味しそうなの個人的に大事。「大魔境」の植物改造エキス、最高に美味しそうでした。

「絵世界物語」の面白さについて

さて、上記のような話を前提に、今年の劇場版である「絵世界物語」はどうだったのでしょう?と言いますと、

一言で言うとマジでよく出来てました

 

本当、「我々が大長編ドラえもんに期待する要素」の95%くらいはきちんと抑えられていて、大人も子どもも楽しめる出来。

ここ10年くらいの劇場版ドラえもんでも、個人的には「月面探査記」を越えてトップかも知れない、と思うくらいの完成度でした。

 

本作のテーマは「絵」でして、のび太たちは「絵の中」に入り込むことで様々な冒険を経験するのですが、ある時、絵に描かれた中世ヨーロッパの国、「アートリア公国」から来たという「クレア」という少女と出会います。

まず、このクレアがもの凄く可愛いという点については、ここまで挙げてきた要素からは外れる点ながら、特筆しておく必要があるでしょう。

 

クレア、天真爛漫な振る舞いや、元々のキャラデザの完成度もさることながら、一人称が「わらわ」で、「○○じゃ」とか「○○かろう」といった古風なしゃべり方をする少女という、いわゆるのじゃロリ。

私が知る限り、ドラえもん世界で「のじゃロリ」のキャラクターが登場するのってクレアが史上初だと思うのですが、天真爛漫でありながら自分勝手ではなく、どことなく高貴でありながら気さくでもあり、とにかく好感度が高い描写をされまくっています。

このクレアの可愛さを堪能するだけでも、「絵世界物語」を観る価値は十分にあります。

 

ちなみに、クレアとセットで登場する小さなコウモリのような「チャイ」や、アートリアに住む絵が得意な少年「マイロ」、マイロの絵を評価する美術商人「パル」なども非常に重要な位置を占め、それぞれ魅力的なキャラクターです。

マイロの「大好きなものを大好きだと思いながら描けばいい」って台詞、劇中の最初から最後まで、あるいはもしかすると「大長編ドラえもん」というシリーズ自体すら貫く超重要なキーワードでして、この「絵世界物語」という作品の中核を占めるという意味で、歴代大長編全てを見通しても極めて重要なゲストキャラクターだと思います。影の主役と言って良いです。

 

ちなみに、のび太の父であるのび助が絵画について解説するシーンがあるんですが、これについても、のび助が昔画家志望だったという設定を知っているファンにとっては嬉しいシーンです。さり気なく設定が生きている演出好き。

で、今回の作中でも、のび太たちには大ピンチが降りかかり、それを解決するために頑張るわけですが、この時のキャラクター活躍のさじ加減やひみつ道具の活用も、「絶妙」と言って良い形でした。

 

クレアやマイロたちゲストキャラクターにもきちんと役どころが与えられ、この子たちがいなければ状況解決はあり得なかった、と思える程度に重要でありながら、しかしレギュラーキャラの活躍を奪うわけではない、素晴らしいさじ加減。

のび太たちの特技を活かした展開といい、ひみつ道具だけでは全てが解決しない状況設定のうまさといい、この辺あまりにも「分かっている」人の仕事過ぎます。スタッフの中に強火の劇場版ドラオタがいるとしか思えない絶妙さです。

 

核心的なネタバレは避けたいのですが、今回「ひみつ道具の活用」については「そう来るか」具合がより強力になっておりまして、敵の強大さも含めて、当初「こうなんだろうなー」と予想した方法だけでは全てが解決しませんで、もう一段深くまで視聴者を連れていってくれる展開になっています。

こちらも、「宇宙開拓史」と同質なカタルシスを与えてくれると言っていいでしょう。次女が言ってたんですが、へたっぴドラえもんグッズ化して欲しいです。

 

食事シーンについても、恒例のグルメテーブルかけによる食事シーンもさることながら、流しそうめんを食べるシーンも大変美味しそうで良かった。このシーンでもそうなんですが、クレアにまつわる様々な伏線は、最後の最後で結実することになり、これも作劇の妙と言っていいでしょう。

 

唯一、本当に唯一、私が「絵世界物語」で惜しいと思うポイントは、「悪役・敵役の強大さ・有能さ」についてです。

今回、狂言回し的なキャラに「ソドロ」がいまして、彼が悪役ポジションだろうなーというのは早くから判明するので別に書いちゃってもいいだろうと思うのですが、彼がお世辞にも有能なキャラとは言い難く、かといって完全なコメディリリーフというわけでもない中途半端さで、結果的に他のキャラが割りを食っちゃってる感があるんですよ。

例えるなら、はなかっぱ世界のガリゾウがそのまんま「相棒」に出てきちゃったような感じです。

 

コメディならコメディでそれに振り切ってしまえばいいと思うのですが、やっていることは笑って済ませられる範囲を超えているので、単なる三枚目ギャグキャラとも受け取れない。結果、「なんでそれが見抜けないの?」とか、「もっと早く手を打ってれば解決できたのでは?」感が強めに見えてしまって、唯一ここだけが100%楽しめない点だなあと。

行動理由ものび太に一瞬で論破されてしまうくらい浅いし、なによりパルがこの一点だけで株を下げまくったキャラになってしまって本当に気の毒。最後の方の展開見る限り、パルってもっと有能なキャラの筈なのに、「でもソドロがアレだしな……」になってしまう……。

 

一方ラスボスについては、歴代の大長編ドラえもんの中でもほぼ最上位格の超強力なキャラなのですが、これもソドロのせいで若干ながら割りを食ってしまっている感はあるように思いました。

とはいえ、ラスボスとの戦いできちんとのび太たちの特技が活かされる点や、絶望的な展開からの最後の逆転展開はもうカタルシス満点だったので、総合的に言えば十分ハイレベルな悪役だったと言っていいと思います。

 

長々と書いてまいりました。

結局、私が言いたいことは

 

「悪役の描写だけちょっと惜しい点はあるけれど、絵世界物語は全体的に言うと95点くらいの極めてハイレベルな劇場版ドラえもんであり、なによりクレアがあまりにも可愛いので、ドラえもんがお好きな方は是非U-NEXT辺りで視聴してみてください損はさせません」

「子どもも大人も楽しみ続けられる、「ドラえもん」という作品を作った藤子F先生は本当に偉大」

 

の二点のみであり、他に言いたいことは特にありません。よろしくお願いします。

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

 

【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo:Sean Chen

チョコレートプラネット松尾の炎上

少し前にお笑い芸人チョコレートプラネットの松尾の発言が炎上した。

 

ネット上の誹謗中傷を批判する文脈で、

「芸能人とかアスリートとか以外、SNSをやるなって」

「素人がなに発信してんだ」

と言ってのけたのだ。しかも、ネットの動画配信で。

 

これに対してかなり批判が巻き起こった。

「芸能人とかアスリート」以外を「素人」とする価値観。あるいはSNSという場についての理解のなさ。

 

決して、受け取り手の誤解が多かったとか、切り抜きで情報が独り歩きしたというわけでもない。おこるべくしておきた炎上だったと思う。

もちろん、反応の中には誹謗中傷にあたるような言葉を使う人もいたかもしれない。それはそうだろうが、しかし、多くの人の表明した不快感は、真っ当な不快感の範疇であったように見えた。

 

結果、チョコレートプラネットは謝罪動画を配信した。謝罪のなかでも「誤解」、「切り取り」と問題の核心に触れていないように見えた。最後は二人が頭を坊主にした。その下りはコントじゃないのか、という意見も聞かれた。そう見えないこともない。

して、おれは「問題の核心」と書いた。なにが核心なのだろうか。自分なりに考えてみたい。一つの失言、炎上ではなく、ネットにおけるプロと素人の境界の話になると思うからだ。

 

ネットは素人のものだった

この件が話題になったとき、いくつか見られた反応があった。

「インターネット老人の見方かもしれないが、もともとネットは素人のものだろう」。

そういう意見。そうだ、たとえばSNSが、Twitterが普及し始めたときも、やっているのは素人ばかりで、「昼飯なう」とか「スタバなう」とか書かれているばかりであった。広瀬香美が始めただけで話題になった。その当時、なに一つ問題はなかったといえば嘘になるかもしれないが、だいたい牧歌的であった。

 

……以下にネットの歴史のようなことを書くが、あくまでおれが見てきたネットの一部だ。ネットの歴史ではなく、おれの「ネット歴」といってもいい。それは断っておく。

Twitterが普及する前のネットはどうだったのか。たとえばブログがブームになった。ブロガーからプロの物書きになった人もたくさんいる。しかし、元はといえば素人がなにか書いて、発信していた。ブログが流行ったら、「芸能人やアスリート」も使い始めた。しょこたんとか眞鍋かをりとかは早くから注目を集めていただろうか。詳しい時系列は思い出せない。ただ、大勢の素人がブログを書いていたのは確かだ。

 

その前となるとなんだろうか。おれはテキストサイト文化というものをよくしらない。ただ、おれはインターネット老人なので、アングラ掲示板があった時代を覚えている。そのなかで、あめぞうリンクが2chになる瞬間も見ていた。どこからともなく、ひろゆきは現れた。おれはべつの勢力であった「あやしいわーるど」の住人でもなく、もっとマイナーなアングラ私書箱の住人だった。そこに「芸能人やアスリート」はいたか? たぶんいなかった。もしいたとしても、匿名なのでほかの素人と区別はつかない。

そのころのネット、アングラのネットがインターネットの理想だとは思わない。その後の2ch全盛期が良い時代だとも言わない。今よりモラルもなにもなく、無法地帯といってよかった。

 

しかし、そんなネットにもなんらかの希望のようなものがあった。

今までマスメディアが独占していた情報の発信や、新しいコンテンツの作成が、だれとも知らない人間にできるようになった。あるいは、現実社会でどんなに偉い肩書きがあろうが、言葉だけのネットの世界ではただのやつと変わらない。同じ場所に立って、平等にやりとりができる。

 

それはたいへんに新しいことで、ひょっとしたらすばらしいことではないかと思えた。そういう夢を見ていた、そういう時代があったように思う。少なくとも、おれ一人ではないと信じたい。

 

ネットに金儲けのプロが入ってきた

そんなインターネットに、いつからか金儲けのプロたちが入ってきた。ネットは金になる、ネット広告は金になる。だんだんと、おかしい感じになってきた。つまらなくなってきた。

もちろん、ネットの黎明期から、大企業も公式サイトを公開していたが、べつにそんなものは面白くもなかった。ただ、サイトとして公開されていて、存在していた。そこにガツガツした金儲けのにおいはなかった。

 

が、ネットにじわじわ侵食してきたネット広告、アフィリエイトというものはなにか違った。ネットから直接金を儲ける、そんな雰囲気だ。

プロブロガー、などという人種も出てきた。ブログの広告で月に何十万円も、何百万円も稼ぐ。サラリーマンなどばかばかしい、自由になろうとセミナーで人を呼び、さらに稼ぐ。金、金、金、ブログを書くのも金のため、成功者になるため。

そんなものがおもしろいわけがない。プロブロガーなどというものもすっかりいなくなった。

 

いなくなったかわりに、YouTuberやVtuberがいまはいる。金を稼ごうとガツガツしているのだろうが、コンテンツの面白さで勝負しているので、かつてのプロブロガーの空虚さはないのかもしれない。そのあたりは本当に疎いので想像だが。

このあたりは、素人からプロへ、という流れだろう。

 

それによくわからないが、かなりの影響力をもつ「インフルエンサー」という存在も出てきた。いろいろな数字が何百万みたいな単位で語られる人たち。そういうのも、素人のなかから出てきたものかもしれないが、自分にはどうにもわからない。ネットにとって、社会にとってよいものかどうかもわかりかねる。

いずれにせよ、今のネット、SNSは金儲けにあふれていて、ほとんどマネタイズに繋がっているようだし、そうでないものは顧みられない、といったら言い過ぎだろうか。

 

プロと素人

さて、松尾の発言に戻る。松尾は「素人」という言葉を使った。裏を返せば、自分たちは「プロ」だということだ。なんのプロだろうか。彼らは芸人だ、芸のプロだ。そして、たくさんのファンがいる、認められたトップランカーといっていい。自称芸人、地下芸人とは違うといっていい。

 

そのプロが、大勢の素人がいるネットに降りてきて、どんな土俵にあがってものを言ったのか。これは一つに、ネットが「芸の空間」でもある、ということだろう。

長い言葉、短い言葉、その書き込み。しばしばネット上で「大喜利状態」みたいに言われることがある。なにかのニュースやお題に対して、皆がおもしろいことを書き込む。それはお笑い芸人の領域といってもいい。おれは大喜利のできる人間を心底尊敬している。いずれにせよ、「笑えることを言う」のも、ネットにおける価値の一つであるとはいえる。そういう意味でチョコレートプラネットは素人ではない。

 

あるいは、YouTubeの動画などではどうだろう。YouTubeに置かれている数え切れないほどの動画は、数え切れないほどのジャンルに分かれている。分かれているが、そのなかに「お笑い動画」に属するものもある。そこから有名になった人間もいるだろう。逆にいえば、お笑いのプロがやってきて動画を配信する。それはもうプロの仕事になる。そういう意味でチョコレートプラネットは素人ではない。

 

チョコレートプラネットが素人を素人扱いする理由は十分にある。「え、アスリートはなんのプロなので?」という話は残るし、そこに単なる「有名人としてのおごり」が見えるという話はあるが。

とはいえ、「プロの松尾が言うのだからそのとおりだ」と納得した素人はほとんど見かけなかった。それはなぜか。

 

コミュニケーションとお笑い至上主義

まずひとつ、われわれのコミュニケーションの方向性のすべてが、お笑いに向かっているわけではないということだ。

 

当たり前のことのようだが、ネットでもそれ以外でも、いや、あるいは対面の会話という形でのコミュニケーションほどお笑い至上主義ははびこっていないだろうか。

会話の中に差し込まれるジョーク、くだらないダジャレ、ボケとツッコミ、さらに高度なテクニック……。会話にそういうものが求められてはいないだろうか。

 

なにやら、お笑い芸人でもないのに、ウケを狙いたい、そんな気持ち。おれ自身、そういう気持ちがないといえば嘘になる。笑って話し合えるのがいい。

SNSの書き込みでもそうだ。たまに宝石のように輝いている一言を見かけることがある。そういう発想ができる人間は限られている。おれにXでバズった経験はない。それもまた、優秀な大喜利の回答を見るようなお笑いの価値観によるものだろう。

 

その背景になにがあるのかはわからない。そもそも人間の会話はユーモアを求めているのかもしれない。あるいは、近年のテレビのお笑い、バラエティの影響があったのかもしれない。テレビが影響力を失ったとしても、芸人はネットで動画を流行らせている。そういうところもあるだろう。

 

とはいえ、それは人間のコミュニケーションの一部にすぎない。

真面目な話を、真剣な討論を、知識のやり取りをするのもコミュニケーションだ。「インドにおける非カルケドン派は正教会を名乗っているけど、ギリシャ正教系ではなく、シリア正教会とフル・コミュニオンなんですよね。しかし、トマス派っていうけど、トマスまじでインド行ってたらすごいっすよね、ゴンドファルネスとか」という話にオチはいらない。あってもいいが、おれには思いつかない。

 

いや、真面目、真剣でなくてもいいのだ。もっと他愛のない会話でわれわれの生活は成り立っている。ハローやグッバイやサンキューを言いながら生きている。そんなに意味が込められていないことこそがコミュニケーションだ。そこには笑えるかどうかという審査もないし、情報に価値があるかどうかという講評もない。

 

で、SNS、たとえばTwitterなんてのも、そもそもはそういうものだったんじゃねえのか。先に書いたが、「昼飯なう」、「帰宅なう」、「スタバなう」……。そんなもんだった。有名人が重大発表もしなかったし、何百万バズの暴露もなかった。もちろん、プロのお笑い芸人がおもしろいことを書き込みもしなかった。

 

まだ「インターネット」は死んでいない

松尾の炎上というか、ネットでの反応を見て、おれが発見したのは「意外にまだ昔のネット感覚がみなの間に残っているのだな」ということだった。

これは発見だった。「素人の場」に後から入ってきて、領有権を主張するがごとき物言いに対する不快感。これである。

 

それはなんというか、飛躍もあるかもしれないが、おれにとって救いのように思われた。なぜならば、おれは二十年以上ネットで発信してきた「素人」にほかならないからだ。べつにとくだん笑えることは書けないし、専門分野も学識もないのでためになる情報も書けない。だからといって、たくさんある情報をまとめて読みやすくして提供するようなこともしない。「素人がなに発信してんだ?」といわれて、答えに窮するというのが事実だ。

 

だが、どうもネット、SNSの発言なんてそれでいいんじゃねえかと、ネットの反応を見て、そう思えたのである。おれがネットに書いて垂れ流すつぶやきも文章も価値がない。

でも、その価値のなさこそが、ネットの本質だったんじゃないのか。笑いも求めない、質のある情報も求めない、もちろん誹謗中傷も控える。たんに「飯食った」といって飯の写真をアップする。無価値。でも、誰にでもある無意味な日常を共有できることが、人をつなぐ面もあるだろう。

 

ここで、「無価値にこそ価値がある」などとわけのわからないことは言わない。ただ、無価値なものを世界に向かって放り投げられるというのはたいへんなことだ。メディアの歴史となると不勉強でわからないが、大昔に書かれて現代まで残っているものは、そうとうに有益で価値のある情報ばかりであった。

それがだんだん、印刷技術やなにかの影響で、もっと情報は増え、広がるようになり、新聞のようなものができて、ラジオ、テレビとどんどん多く、大きくなっていった。ただ、それでも限られたものだけが流通していた。

 

その流通を一変させたのがインターネットだ。ついに本当の無価値が世界を覆うようになったのだ。これはなにかの革命だと思う。革命の結果が無価値でいいのかといえば、それはわからない。あるいは、そこになんらかの価値を見出すのは後世のことかもしれない。

 

でも、いいじゃないか。まだ、ネットは革命をやっている。べつにだれを吊るさなくてもいい。騒げるだけ騒げ。いや、騒がなくてもいい。だまって飯の写真をアップしろ。それでいい。価値を求めすぎては疲れる。無駄に居られる場所のほうが人は救われる。ネットはまだ死んでいない。

 

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

 

【著者プロフィール】

黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :Ludovic Toinel

 

ひねくれ者のせいか、私は昔から、ドキュメンタリー映画やそれ系の物語が、全く好きになれない。

例えば、人気バラエティ『月曜から夜ふかし』でおなじみのフェフ姉さん。

自堕落だった彼女が心を入れ替え、キックボクサーを目指し過酷な練習を重ね、プロテストのリングに上がるお話だ。

必然的に視聴者は、彼女が対戦相手をKOし見事プロデビューを果たして欲しいと願う。

少なくとも、そう誘導する構成になっている。

 

だがこれは、どう考えてもアンフェアだ。

フェフ姉さんに勝って欲しいと願うことは、すなわち対戦相手の負けを願うことを意味する。

しかし対戦相手にだってフェフ姉さんと同様に、人生やキックボクシングに賭ける熱い想いがあるだろう。

デビューへの想いやこれまでの努力などの情報が偏る中、一方的なドキュメンタリーに感情移入し相手選手の負けや悲しみを願うことなど、できるわけがない。

 

その延長なのだろうか。

最近の高校野球には、何か言葉にできない漠然とした違和感がある。

「自分の住む都道府県、あるいは出身都道府県の代表を応援する」

ことに対する、そこはかとない違和感である。

 

もちろん人は、本能的になんらかのコミュニティに帰属意識を持つ生き物だ。

郷土愛という自然な感性の延長で、属性の近いチームを応援したくなる感情があって当然である。

だからこそ、サッカー日本代表の試合なども多くの人が熱狂し、応援する。

 

しかし最近の高校野球には、そういった想い入れが、少なくとも個人的には全く機能しない。

この違和感の正体は、一体何なのだろう。

 

「結婚してくれなきゃ死んじゃう!」

話は変わるが、昭和に子供時代を過ごした世代が好きなアニメと言えば、『ドラえもん』を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。

大山のぶ代さんの時代で、今のように洗練されたアニメではない。

どこかアナログタッチな絵柄だが、娯楽の少ない時代には誰もが夢中になって観ていた、思い出深い作品の一つだ。

 

そんなドラえもんについて、子供心に今も一つ、どうしても納得できない話が強く印象に残っている。原題「プロポーズ作戦」である。

少しだけ、要旨をご紹介したい。

 

ある日の夕食時、ママの玉子はご機嫌で料理を作っている。

のび太とドラえもんがその理由を聞くと、今日はパパとママの12回目の結婚記念日で、そのお祝いのディナーを作っているということだった。

 

やがてパパも帰ってきて、家族4人で幸せな食卓を囲む野比家。

するとのび太は、両親にこんなことを聞く。

 

「二人が結婚した時のことを聞かせて!」

「いいわよ。パパがね、結婚してくれなきゃ死んじゃうって言ったの」

「何いってんだ、あべこべだろ!結婚してくれと涙を流して頼んだのは君じゃないか!」

 

やがて激しい口論になり、収まりがつかなくなる。

そのためドラえもんが二人をうそ発見器にかけるのだが、どちらも嘘をついていなかった。

 

真実を調べようと、二人が婚約したというデート記念日にタイムマシンで向かうのび太とドラえもん。

そして若き日のパパとママが、公園で待ち合わせをしているシーンに降り立つ。

しかし、約束を1時間過ぎても現れないパパにママがイラついており、かなり空気が悪い。

するとそこに慌てて走ってきたパパがとんでもないことを口走る。

 

「やあ玉子さん、遅れてごめんなさい!時計が狂っちゃってて。これだから安物は困るんだ。ハッハッハ」

「…それは私がプレゼントしたんですけど」

 

こともあろうに遅刻の理由を、ママからのプレゼントである“安物腕時計”のせいにしてしまったのだ。

怒ったママは、帰る素振りで駆け出す。

さらに事態は紆余曲折し、お互いに誤解を重ね、パパ、ママともに別れた途端に新しい相手を見つけたと思い込んでしまう、最悪の展開になった。

 

「まずい、このままではキミが生まれなくなるぞ!」

「なんとかしてよ、ドラえもん!」

 

するとドラえもんはひみつ道具『ヒトマネロボット』を取り出し、パパに変身させるとママの下へ行かせて謝罪させ、こんな言葉を言わせた。

「結婚してくれなきゃ死んじゃう!」

 

そして次にママに変身させ、パパの下へ行かせると涙ながらに、こんな言葉を言わせた。

「どうか私をお嫁さんにして…」

 

こうして二人は仲直りし、お互いがお互いにプロポーズした形で(※どちらもしてない)結婚し、無事にのび太が生まれることになる。

そしてめでたしめでたしで、タイムマシンに乗り現代に戻る。

 

果たしてこれは、本当に“良い話”なのだろうか。

 

「感動ポルノ」など、もはや通用しない

当時、子供心に納得できなかったのはこんな想いだ。

「のび太とドラえもんって、パパとママが仲直りせず、別の人と結婚してた時に生まれたであろう子供の人生を抹殺してるやん」

 

のび太目線で見れば確かに、自分が生まれることになって良かったのかもしれない。

しかし、もしドラえもんが小細工しなければ、パパとママにはそれぞれ違う人生があり、違う家族があったはずだ。

それを乱暴にぶち壊した、自分勝手な行為やないんかと。

 

それから随分と年月がたった今も、そんな想いは変わらない。

誰にだって、成長の過程の未熟さ故に素直になれず、あるいは大事な局面で大事な言葉を伝えることができず遠い想い出に変わってしまった、苦い恋愛の一つや二つがあるだろう。

そんな過去のどこかに未来から干渉し、自然な人生の流れを別物に上書きするなど、大きなお世話というものだ。

“のび太くんのため”という、特定個人の為にチートまでやらかすドキュメンタリーなど、迷惑でしかない。

人生は、”選んだ未来に責任を持つゲームの連続”なのだから、当然だろう。

 

だからこそ、特定の人の価値観や見方で切り取ったドキュメンタリーは、好きになれないということだ。

フェフ姉さんの人生と頑張りはわかったけど、対戦相手の想いや頑張りはどうなの?と、しらけてしまう。

 

そして話は、最近の高校野球についてだ。

今の高校野球は、かつてのような“郷土の代表”という色彩は失われ、私立の強豪が全国から、有望な子供たちを特待生として集めている。

中には、地元出身の子供が一人もレギュラーにいないチームすら、珍しくない。

 

こうなると、学校や保護者、選手を含む高校野球のプレイヤーにはもはや、学校所在地の都道府県を代表する意識など、ほとんど無いだろう。

にもかかわらず、高校野球は今も、こんな建前で運営している。

 

“都道府県を代表する、若人たちの祭典”

“高校生たちの無垢で無欲な部活動”

 

しかし実際に、そこから見え隠れするのは学校経営者や指導者、主催者の利益といった、「大人たちのドキュメンタリー」でしかない。

子供たちの爽やかな挑戦という角度で切り取った、“観せたいドキュメンタリー”の裏、本当のドキュメンタリーである。

そんなもの、誰が観たいものか。

だからこそ稀に、地方の公立高校で地元出身の生徒ばかりのチームが勝ち上がると、都道府県に関係なく多くの人がその高校を応援し始め、話題になる。

 

それこそが、出身地や居住地の高校を応援しようという気持ちが機能しなくなった、大きな理由なのだろう。

 

つくり手が観せたい形ばかりのドキュメンタリーなど、もはや通用する時代ではない。

「感動ポルノ」というネットスラングが生まれ、定着したのは、そんな風潮を嫌ったからではないのか。

古いオッサン世代のやり口など、若い人たちはとっくに見透かしていることを、真剣に受け止める必要があるということだ。

 

余談だが、のび太のパパとママの“プロポーズ記念日”は、昭和34年11月3日である。

今の40~60代は、それほど前の時代の漫画で育っていることになる。

新しい知識、情報、価値観に本気でアップデートしついていかないと、すぐに第一線からパージされるに決まっている。

過去の経験や成功など忘れ、危機感を持って時代に適応していかなければならない。

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

 

【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など

偉そうな事を書きましたが、正直、ガンダムではやはり連邦を応援してしまってました。
アムロがんばれー!とか言ってしまってたことをここに告白し、お詫びします。。

X(旧Twitter) :@ momod1997

facebook :桃野泰徳

Photo:Cheung Yin

この記事で書きたいことは、大体以下のようなことです。

 

・娘が、「黒板をノートにまとめるのは無駄」という動画を見て「これホント?」と聞いてきました

・「板書にも色んなやり方があるし、向き不向きもメリットデメリットもあるけれど、極論で否定してる動画は鵜呑みにしない方がいいと思う」と答えました

・書き写すことだけが目的化したノートは不効率かも知れませんが、「視覚で受け取ったものを手で書き写す」だけでも一定の効果はあります

・もちろん、板書のやり方によってはより効率的に学習に活かすことができます

・ただし、人によって向き不向きが大きいところなので、色んなやり方を自分で試行錯誤して、自分なりのセオリーを確立していくべきです

・勉強法に限らず、セオリーや常識を否定して「〇〇はやっても無駄」「××してはいけない」と極論で否定して「気付き」を誘導する言説は受けやすく、作られやすいです

・どんな動画も疑ってかかるのはコストが高すぎますが、「これ普通のことだよな」という話を否定されているな、と思った時は、心理的ガードを一段上げた方がいいかも知れません
以上です。よろしくお願いします。

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。

ちょっとしたことなんですが、子どもと話した時に考えたことについて書きます。

 

子どもたちが「これホント?」「これどう思う?」と言いながら動画を見せにくることが、ちょくちょくあります。

もちろん、本人的にも冗談半分というか、単におもしろ動画を共有したいだけという場合もありますが、割と真面目に「これって信用できる?」と聞いてくることもあります。

 

で、「これデマ」「これは諸説あるやつ」「これはただの都市伝説」とか即答できるものもあれば、私自身ちゃんと調べたり考えたりしないといけないものもあるのですが、せっかく親を頼ってくれているのだから、なるべくちゃんと検討して、その上で自分の意見を言うようにしています。

いやーホント、世の中色んな情報がありますよね。ネコちゃん動画だけなら平和なんですが。

 

で、ちょっと前の話なんですが、次女が学校の勉強についての動画を持ってきて、「これホント?」と聞いてきました。

いわく、「黒板に書かれたことをノートに写すのは無駄」だと。

 

もちろんノートの取り方なんて「諸説ある」の代表格みたいなもので、単に「ノートを丸写しするのは不効率だよ、ポイントだけ書こうね」的な内容なのかとも思ったのですが、結構過激派の方のようで、「ノート自体が不要、ノートにまとめるなんて意味ない」「勉強できる人は授業でノートなんてとってない」「教科書と参考書で十分」というくらいまで主張されている感じでした。

 

うーん、と思いまして、その時は大体こんな風に答えました。

 

・板書にも人によって向き不向きがあるし、効率的なやり方や不効率なやり方があるのは確か

・でも全部まとめて「無駄」と言い切っちゃうのは極論過ぎなので鵜呑みにしない方がいい

・ただ丸写しにするだけでも無意味ということはない、「受け取ったことを自分の手で出力する」こと自体が大事

・ただ、色んなやり方があるので、色々試して自分なりのやり方を見つけるのが一番いい

・この動画に限らず、「普通のやり方」とか「みんな信じてること」を否定するコンテンツは、受けやすいのでたくさん作られがち

・ただ、「普通のやり方」になってるのはそれだけの理由があるので、「そうなんだ!」って納得しないで用心した方がいい

 

一旦、上記のような話をしたら次女は納得してくれました。一番言いたかったのは最後の二つなんですけどね。

 

まず第一に、「板書というものは、たとえ黒板丸写しだけでも決してバカにしたものではない」という話があります。

よく「漢字は手で覚える」なんて言いますが、「手書き」の効能については色んな研究がありまして、同じ内容でも紙媒体に書くことによって記憶に定着しやすい、ということは大筋明確になっているようです。論文が色々ありますが、一例として東京大学の研究を挙げてみます。

紙の手帳の脳科学的効用について

~使用するメディアによって記憶力や脳活動に差~

 

もちろん、ただ漫然と「黒板に書かれたことを書き写す」よりも、「内容を理解して、ポイントだけ書き記す」ということができればそれに越したことはなく、「要約」がいかに重要かは言うまでもありません。

極論、「後から読み返して思い出せる」最低限のキーワードだけ書いておけば良い、という考え方は分かりますし、実際私自身もそれに近いやり方を実践してました。

まあ、字が下手過ぎて私以外誰にも読めないんですが。

 

冒頭の動画について、「勉強できる人はノートなんてとってない」という話が出ていた、と書きました。

これについては本当に人それぞれで、私は昔東大に通ってましたが、周辺でも「ノートをとらない人も確かにいたが、要約して書いている人もいたし、きちんと丁寧にノートをまとめる人もいた」という次第で、本当に千差万別でした。

もっとも、「全く何も書かない」という人は見かけなかった記憶があります。つまり、程度の差こそあれ、『何かしら書く』という行為自体は多くの人が必要としていたということです。

 

少なくとも、単に「授業を聞くだけ」「プリントを読むだけ」よりは、「書き写すだけ」だろうがノートをとった方がなんぼか学習効果が高い、ということまでは言えそうです。

とはいえ、授業によっても、先生によっても、生徒によっても違う話でして、そもそも単なる方法論なのでそこまで重要な話ではありません。

 

どちらかというと、重要なのは「常識やセオリーをばっさり否定して、気付きを誘導するコンテンツ」との向き合い方、付き合い方の方なんですよね。

普段からSNSに触れている人にとっては今更の話かも知れませんが、世の中には「気付き」を誘う情報が溢れています。中でも、「既存のセオリーや常識を否定して、「そうだったのか!」と思わせるコンテンツ」というのは、どんなプラットフォームでも大人気です。

 

どうも人間って、「固定観念を否定される」「常識を否定される」時、妙な気持ちよさを感じる場合があるみたいなんですよ。

「今まで俺が信じていたのは間違いだったのか!」ってヤツ。

まず、「皆が信じていることを否定される」というだけでもフックになりますよね。「え、そんなことある?」とまず疑ってしまうので、その中身を確認したくなって、ついついクリックしてしまう。

 

で、そこまで深くは理解していなかったけど、「そういうものなんだ」と思っていた既存の認識について、「実はそれは間違っていたんです!」と言われる。すると、「そうだったんだ!」という気付きを得られる。この瞬間がとっても気持ちいいわけです。

 

昔、出版社でアルバイトをしていたことがあるんですが、その時にも「読者に「そうだったんだ!」と思わせろ」という話は頻繁に聞きました。

どうも、昔から定番のセオリーであるようなんですね。

動画にも限りませんし、「気付き」を誘う情報にも限りません。近年のWebには、デマや誤情報が溢れていますし、ある程度ガードを上げて触れないといけない情報も溢れています。

 

とはいえ、それら全てについて、「これ本当?」「これは信じていい情報?」というのをチェックして回るのも大変な手間ですし、情報確認にばかりリソースを注ぎ込むわけにはいきません。

 

私自身は、「ガードを上げる」ための基準として三つのフィルターを設けていて、

・自分の行動や健康に直接関係する情報、特に医療関係の情報かどうか

・誰かを誹謗する・貶める情報かどうか

・既存の常識や定説を否定して、「気付き」を誘導している情報かどうか

これらに抵触する場合は、ある程度慎重に受け取るようにしています。

 

医療関係の誤情報の悪質さは今更語るまでもありませんし、直接的に誰かを誹謗するデマというのは、これまた非常に悪質です。

「気付き」については上記した通りでして、このフィルターはそれなりに妥当だと自分では思っており、この方針で損をしたという記憶がありません。

 

そのため、子どもたちにも折々、こういう考え方で情報に触れるといいよ、という点は伝えていきたいと思っています。

デジタルネイティブでもある子どもたちが、上手い具合にWebの情報と付き合っていければいいなあ、と考えるばかりです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo:Amel Majanovic

どの企業にも、必ず何名かは「人格に問題のあるビジネスパーソン」が存在していた。

 

人格に問題があるのなら、干されたり、追い出されたりするのだろう、と想像する方もいるだろうが、実はそうでもない。

彼らは様々な理由で存在を許されており、例えば、

 

・経営陣である

・カネを稼げる

・上には従順である

・解雇規制の観点から追い出せない

 

といった理由から、企業の中に生息している。

 

とはいえ、弊害も大きく、他の社員はいい迷惑をしており、

「そういう連中と共存するにはどうしたらよいのか」

という悩みを日々抱えながら、働くことになる。

 

プロジェクトに入ってくる「問題児」

当然、コンサルティング会社も、プロジェクトに配置されているこのような人物を問題視していた。

というのも、「人格に問題がある人」が一人入ってくるだけでも、会議を妨害されたり、スケジュールに遅れが生じたり、他のメンバーの作業に支障が出るからだ。

 

例えば、役員が「問題児」だったケースだ。

マーケティングの強化のプロジェクトにおいて、現状やっていることについて、部署ごとに発表をお願いしたところ、一人の役員が突如、メンバーに向けて

「当然3Cは知ってるよな?」

と、クイズを始めてしまった。

 

当然、社員たちはマーケティングの専門家ではない。

「いえ……」などと言って、モゴモゴしていたところ、役員はニヤニヤしながら

「その程度の言葉なんて、勉強してなきゃだめだよなあ」

と言い出した。

 

そして、「コトラーの本は当然読んでるよな?」などと聞き出す。

当然、誰も読んでいない。

役員の独演会が始まる、という具合だ。

 

別に3Cなんて知らなくてもマーケティングはできるし、今は勉強会の場ではない。

その役員は、単に「オレの知識」をひけらかすために、社員を貶めていた

 

このように、息を吸うように人を馬鹿にする人間が、どうしても一定数存在する。

 

しかし、彼らを放置するわけにはいかなかった。

メンバーの士気に重大な影響を与え、時にはそれが原因で、プロジェクトが動かなくなるからだ。

 

だから「そういう人間をどう扱うのか」は、重要なノウハウの一つだった。

 

人格に問題のあるビジネスパーソンを隔離する

残念ながら、多くのケースで、我々の権限では、彼らを根本的に排除することはできない。

そういう権限を経営者に訴えるケースもあるが、通常は「与えられたメンバー」でプロジェクトを遂行せねばならない。

 

そこで、使われたのが次善策としての「封じこめ」だ。

当然、限界はあるが、人格に問題がある人間の悪影響をできるだけ小さくし、時には隔離する。

 

例えば、以下のような具合だ。

 

1.人を貶めようとする人間は、発言させない

人格に問題があり、すぐに人を貶めようとする人物には、

『極力、皆の前で発言させない』という手段がとられた。

 

当てない、振らない。そして、彼の独演会が始まろうする前に、「ありがとうございます、後ほどお願いします!」と言って、話を切る。

 

本当は、会議に出席させないのが最も良いのだが、あからさまにやると、どうしても角が立つ。

なので、基本的には事前に

「この程度の会議であれば、出席していただく必要はないと思います。個別にお話しさせていただきます」

というVIP待遇と見せかけた、個別の隔離対応をしていた。

 

 

2.承認欲求の強いタイプは、最初に喋らせる

厄介なのは、目立つことを好む、承認欲求が強いタイプで、すぐに出しゃばりたがる。

こういう人は、会議に出席しなくてよいのに出席してくるし、人が話している途中でも、話を取ってしまうことがある。

 

このようなケースでは、独演会を防ぐために、「その人だけが話せる時間」を、会議の冒頭に10分程度あらかじめ設定しておく。

「最初に喋らせる」のがポイントで、ひとしきり話したいことを話した後は、帰ってしまう人もいた。

 

要するに、彼らは他の人の話には興味がないのだ。

先に帰らせてしまえば、こっちのものである。

 

 

3.パワハラタイプの問題人格は、先んじて「代弁」する

独演会をカマしたり、承認欲求の強いタイプは、上に書いたように、隔離してしまうのが最も良い。

 

だが、「成果」に忠実で、パワハラタイプの「すぐに詰めてくる」人間を隔離したり、黙らせるのは難しい。

「目標必達って言っただろ」

「甘く考えているんじゃねえよ」

「これからどうすんだよ」

「緩んでねえか?」

成果に対して厳しく、「無礼な」タイプの人間は、チームをぶっ壊す。

 

こういう人間にたいしては、

詰められる対象となる人に対して、

「目標の達成状況について、お話を聞かせてください」

「今後の対策について、お聞かせいただけますか」

「ディスカッションしましょう」

と、先んじてこちらが代弁すれば、ある程度、パワハラタイプに喋らせないことができる。

あくまで冷静に。気をつかいながら。

 

なお、あとで個別にパワハラタイプの愚痴を聞いて、発散させること。

「あいつら甘いんだよ」

といった言葉はこちらで引き受ける。

 

 

4.斜に構えるタイプには、最初に意見を言わせる

冷笑的で、人の意見にすぐにケチをつけるタイプの人間も、パワハラタイプに負けず劣らず厄介だ。

このタイプは、チャレンジするタイプの人間にすぐにケチをつけてくる。

 

新しいことをやろうとすると、前例がないとケチをつける。

営業を頑張ると、余計な仕事をとるなと、ケチをつける。

採用に力を入れようとすると、「どうせうちには、ろくな人が入ってこないですよ」という。

 

まあ、邪魔である。

いる意味がない。

 

だが、こういう人間への対処は実は簡単だ。

彼らはケチをつけることには慣れているが、「最初に意見を言わせる」と、弱い。

したがって、このようなタイプを黙らせるには、先に意見を言わせて、それをみんなで議論する形にする。

 

最初に意見を言わせることを繰り返すと、そのうち会議に理由をつけて出席しなくなる。

 

 

5.モラルの低いタイプにはプライベートで近づく

すぐにセクハラまがいの発言をしたり、若いころにワルをやっていたこと、「夜の街で暴れたこと」を誇らしげに語る、武勇伝を語りたがるタイプがいる。

彼らのような気質を、「ヤンキー気質」と呼べばよいのだろうか。

いや、ヤンキーに失礼か。

 

悪い人たちではないが、幼児性が目立つ場合、プロジェクトに入ってくると全体の雰囲気を悪化させることがある。

「昔は、これぐらいは当然やってたよな!」

みたいな発言を繰り返されると困る。

 

彼らへの対処は、オフィシャルな場でやってはいけない。

「今はもう、そういう時代ではないです」「コンプライアンス」というルールや説教に対して、最もあからさまな拒否反応を示すのが、彼らだからだ。

 

ではどうするかというと、これはプライベートに持ち込むのが良い。

つまり、夜一緒に飲みに行ったり、趣味を等しくして、遊びに行くと、反応が変わる。

 

彼らへの頼み事は、プライベートで仲良くなってから。

逆に、彼らの信頼を得てしまえば、他の問題児の抑制に一役買ってくれることもある。

敵にも味方にもなりやすい彼らへは、変な小細工や説得ではなく、遊びで関係を作ろう

 

 

 

以上のような問題児への対処法は、ロールプレイや勉強会などにおける題材となっていた。

もちろん、マニュアル通りにやればなんとかなる、というほど人間は簡単ではないので、過信してはいけない。

 

しかし、「どのタイプなのか」という見極めは、初期対応に役立つことは間違いない。

 

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

 

【著者プロフィール】

安達裕哉

生成AI活用支援のワークワンダースCEO(https://workwonders.jp)|元Deloitteのコンサルタント|オウンドメディア支援のティネクト代表(http://tinect.jp)|著書「頭のいい人が話す前に考えていること」88万部(https://amzn.to/49Tivyi)|

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯note:(生成AI時代の「ライターとマーケティング」の、実践的教科書

〇まぐまぐ:実務で使える、生成AI導入の教科書

[amazonjs asin="4478116695" locale="JP" tmpl="Small" title="頭のいい人が話す前に考えていること"]

Photo:Aiony Haust

承前。(中年の異常な執念、あるいは私は如何にして大腸内視鏡検査を受けるようになったか

 

おれは2か月前に、「こんど大腸内視鏡検査を受けるよー!」という記事を書いた。「―!」というくらいにお気軽な雰囲気だ。

検査そのものや、検査前の食事制限について興味津々という感じ。ぜったいに大きな病気にかかっていないという気持ちで書いているのが自分でもわかる。それが、どうなったのか?

 

食事制限4日間

木曜日からの4日間の食事制限。きちんとカレンダーに書き込んでおいた。

なにを食べていいのか、食べてはいけないのか。医者でもらった案内以外にも、ネットでいろいろ読んでみた。

いろいろなクリニックが、それぞれに情報発信をしている。情報量は多い。基本的には消化に良いものを食べろ。ただし、食物繊維は禁忌だ。野菜はダメだ。

 

いろいろ考えて、おれが選んだのは冷凍うどん、コンビニのサラダチキン、たまご、豆腐。これである。

これにめんつゆをぶっかける。これを昼と夜に繰り返す。土曜日の昼はそうめんを240g食べた。もちろん薬味はなしだ。

 

薬も飲む。薬は毎食後にジメチコン(ガスコン)を1錠。胃腸内のガスを消す薬。飲んでも効果は感じられない。ただ、喉が渇くような気がする。

就寝前にはビーマスを6錠。そんなタイミングで下剤を飲む。眠れないんじゃないかと思った。しかし、これも効いている気はしない。ちなみにビーマスは製造が中止されている薬だ。クリニックでは「この薬局で取り置きしてもらっているので」と、処方箋をもらうときに指定された。

 

この食生活と薬。どうなったのか。全体的に便秘気味だった。毎日野菜ばかり食べているおれには、繊維が足りない。こんなに出なくて大丈夫かと心配になった。おれはふだん、1日にだいたい3〜4回は出している

 

前夜そして当日の朝

検査前夜、日曜日の夜。早めの夕食はレトルトのおかゆ2袋にした。

そして、モビプレップ(経口腸管洗浄剤)の袋に水を入れる。500mlのペットボトルで2杯、また2杯。ちょうど2L、……になるはずが、溢れた。溢れた一杯はカップにしてラップして冷蔵庫に入れる。もちろんモビプレップ本体も冷やす。

就寝直前にピコスルファートナトリウム。ビーマスも飲むのに、さらに下剤だ。水に溶かす。少し甘い。さすがに寝られないのではないかと怖い。しかし、すぐに効果はなかった。

 

朝6時ころ目が覚める。効果が出た。トイレに行く。しかし、出る量は少ない。食べてきたものと見合っていない気がする。モビプレップに賭けるしかない。そして朝、なにも食べていないのにジメチコン1錠。まだ必要なのか。

 

……というか、おれはほんとうにいろいろな病院、クリニックの大腸内視鏡検査の情報を読んだが、4日前から食事制限が入り、泡消しと下剤を飲ませるところはほかになかった。おれの行くクリニックはそうとうに徹底している部類だろう。もちろん、おれはおれの医者に従うだけだ。

 

午前8時くらいにモビプレップスタート。最大の関門。

味は「梅ジュース味」、「しょっぱいスポーツドリンク味」とネットで見たが、そんな感じ。おれには飲みやすい。冷やしておくのは正解だろう。

モビプレップを2杯飲んで、1杯お茶を飲む。1杯は180mlだ。180mlがどのくらいかわかるだろうか。ワンカップ大関1杯分だ。おれはワンカップ大関のカップでモビプレップを飲んだ。写真を撮ってXに投稿などする。余裕がある。

 

モビプレップ4杯、30分くらいかけたか。便意が起きない。すぐにネット調べる。すぐに出てこない場合もあるという。

その後、一回目のトイレ。小のつもり。……いきなり黄色い液体が出る。なにが起きたかよくわからない。さらに2杯飲んで、二回目。ほとんどカスもないのでは?

 

……これでいいのか? 調べる。基本、その状態になればやめてもいいが、最低でも1Lらしい。徹底的にやるためには、2L全量飲んだほうが確実というクリニックもあった。

飲み始めてから2時間。テレビでは石破首相退陣表明と阪神優勝のワイドショー。見飽きたので大河ドラマ『べらぼう』の録画など見る。飲み続けて、トイレに行きつづける。やはりもう完全に液体しかでない。液体を出すのは少し癖になる。
さすがにいいだろう。1.5L。もう出る気配がないのを確認して出社。少し仕事をして、昼休みはルイボスティーを飲む。

 

いよいよ検査

15時15分。クリニックに行く。予診のときは満員だった待合室が今日は無人。

べつに「検査のため外来休み」でもない。どういうシステムだろうか? 受付をすると、検査を終えたらしき人が出てくる。

 

実は一つ忘れていた。出かける前のジメチコンを飲み忘れていたのだ。

しかし、受付から出てきたのはコップ1杯の泡消し薬。飲みにくいと言われたが、緊張で喉がかわいていたのか、ごくごく飲んでしまう。

予定より15分遅れで診察室へ。

 

医師は丁寧だが早口だ。事前準備の確認。ジメチコン1錠忘れ以外は万全のはず。

予診で採血された肝炎の結果も渡される。肝炎も梅毒もない。「これは歯医者さんとかで必要になることもありますので」と結果表を渡される。

 

看護師さんに案内され、着替え室へ。用意されていたのはユニクロのXLのTシャツと使い捨てパンツ。ユニクロのTシャツもこういう場で着ると検査着に見える。パンツにはもちろん、後ろスリット。

検査室。ベテラン風の看護師さん(ひょっとしたら女医さん)が、「今回の検査は?」と聞いてきたので、「血便があって」という。「色はどうでしたか?」というので、たぶん痔だとは思うのでという意味を込めて、「明るい赤色でした」と答える。「そうですか、それなら……」という雰囲気。

 

先に胃カメラ。歯医者で使うのと同じ麻酔を使いますが大丈夫ですか? と言われる。大丈夫というと、のどにシュッシュとやられる。すぐに口の中が麻痺してくる。座っていた椅子が変形してベッドに。横向きにさせられる。足の姿勢をなおすとき、攣りそうになってあせる。

医師が検査室に入ってくる。マウスピース装着。すぐに注射。注射は怖い。「緊張していますか?」。「しています」。つばは飲むな、垂らせという。おれはそのまま意識を失ったりするのだろうかと思った。おれの意識は失われなかった。

 

つばは出ることはなかった。意識があるまま胃カメラが始まった。最近は鼻から入れるとか、自分もモニタを見ながらやるとか聞いていたが、姿勢的にモニタは見えなかった。よくわからないままに胃カメラは終わった。

 

次は大腸内視鏡。仰向けになる。今度はモニターが見える。意識はきわめて明瞭。ただし、メガネがないので視界はぼんやりしている。

正直おれは、意識を失い、気づいたら終わっているようなものを想像していた。あとから説明文書を読んだら「その時の条件で、軽く意識レベルが低下する場合から熟睡まであります」と書いてあった。鎮痛剤の静脈注射を、コンシャス・セデーションを信じすぎていた。

 

なにやらゼリーのようなものを塗られて検査開始。痛みはないが、管が入るのといっしょに空気を入れられてお腹がパンパンになる。言ったほうがいいのか迷う。けっきょく我慢する。出すものはないのに、出したらいけないと我慢する。

 

カメラはどんどん進んだ。くねくねとおれの腸の中を進んだ。一番奥まで行き着いたのだろうか。今度は戻ってくる。

戻ってくるときに医師が言った。「入口あたりだよね、ああ、あった」。

 

うっすらとポリープらしきものが見える。なにかべつの管を入れられる。なにをしているのかはよく見えない。管入れを2回やったので、2個ポリープがあったのかと思う。

検査が終わる。内視鏡が腸から去った。去っても、お腹が張ってたいへんだ。そのタイミングでまた注射を打たれる。ぼーっとしてくる。まさかこれからが本番ではなかろうな? そういうわけではなかった。終わったあとに打たれるとは聞いていなかった。

 

注射は刺しっぱなし。針が刺さりっぱなしなのだ。あとから調べたら「トンボ針」、「翼状針」というもので、短時間の点滴に使うものらしい。

おれは注射が嫌いだ。注射が嫌いなので、緊張で足はピーンとなり、手には汗がたくさん。その様子を見て、看護師さんから「気分は大丈夫ですか?」と聞かれる。おれはもうそれは悲痛な声を出して、「実は、注射が大の苦手なので……」と答える。答えたところでどうなるわけでもない。そのまま放置される。

 

刺さりっぱなしの注射が気になってしかたない。看護師さんは装置の洗い物を始めている。手に当たらないのか気になる。ようやく医師が来てくれた。

「はい、抜くとき、ちょっと嫌な感じがしますよー」と言う。ほんとうに嫌な感じがしたが、注射からは解放されて一息つく。

 

看護師さんに支えられながら、ゆっくり立ち上がる。それほどふらふらしていない。トイレへ案内される。空気を出すように言われる。空気が出る。今のおれの腸には空気以外入っていないのだ、と思う。ただ、血のかけらが見えた。

 

着替えて、待合室へ戻る。今度は人がたくさんいる。しばらく待っていると、お腹が気になってくる。「出てくるのは空気ですから」と言われていたが、人前で音を出したりするのは恥ずかしい。

受付の人に断って、一回トイレに行く。座って空気を出していると、ノック。「大丈夫ですか?」。なにかあったと思われたか。「大丈夫です」。

 

当日の結果

戻ってしばらくして、診察室に呼ばれる。モニタにおれの胃や腸が映し出されている。胃はたいへんきれいだと言われる。

「ふだんの食生活がいいのでしょう」。え、あんなに酒を飲んでいるのに? 逆流性食道炎は「グレードM」。悪くないらしい。そして、ピロリ菌もないとの印象。

 

そして大腸。奥の奥まできれいだったらしく、「食事制限がんばりましたね」とか言われる。悪くない。

「見たところ癌などの大きな病気はなさそうですね」。悪くない。ただし、ポリープの写真が映し出される。素人目には大きく映る。これは悪い……のか?

 

「直腸の出口付近に一つだけポリープがありました。15mmくらいですかね。色もいいので脂肪かもしれませんが、一応検査に出しておきます」。

え、切除したのではないの。生検検査なの。2週間後に結果が出るという。胃と腸の写真4つずつがプリントアウトされたものを渡され、次回予約をして病院を後にする。

 

おれは、検査が終わったら牛丼でも食べようかと思っていた。ところが、「生検検査のために少し切除しましたので、これから24時間は絶食ですね。飲み物と、ゼリーはいいですよ」と言われてしまった。

さらに、1週間は「消化の良いもの」を食べて(野菜はかまわない)、アルコールも禁止された。おれは、絶食と禁酒を、ちょっぴり破った。

 

生検検査の結果

いかがでしたでしょうか。こんな感じです。注射が怖くなければ楽勝。癌だったらまたつづき書きます。……と、原稿は終わるはずだった。

しかし、原稿は終わっていない。「生検検査の結果まで書こう」と思った。そう思ったときは、脳内で「……となると、あの血便は痔ですかね?」、みたいな会話をするのだと想像していた。

 

が、一つ気になることがあった。「脂肪かもしれない」と言われて調べてみた「大腸脂肪腫」。症例写真を見ると自分のものとそっくりだし、害もないという。しかし、割合は3%だとかいう。おれが3%を引けるのか? という疑問が浮かびはしたのだ。

とはいえ、おれは結果を聞きに職場を出るときも、「ちょっと癌の宣告受けてきます」というくらいの余裕はあった。

 

あったのだが……。結果からいえば「癌疑い」だった。

前回と同じような説明をサッと追えたあと、2枚の「病理検査報告書」の写しが出てきた。

 

「検査に2つサンプルを出したところ、1つは問題なかったんですが、もう1に問題があって、再検査したところ癌の疑いという結果になりました」

報告書の説明を受ける。生検材料2個(1個2個と数えるらしい)で、(1)にはあまり問題がないということが書かれている。問題がないわけでなく、炎症みたいなものはある。

 

問題は2個目だ。1枚目の報告書には症状のあとに

「……中分化型管状腺癌を思わせます。ただし、異型のない陰窩上皮下に病巣が見られますので、カルチノイドなどの除外のため、免疫組織学的に検索し、再報告いたします」

とある。カルチノイドは癌に似たなにかだ。癌に似たなにかは癌ではない。

 

が、2枚目の再検査の結果である。「カルチノイド腫瘍が疑われましたので、免疫組織学的にクロモグラニンAの検索を行いましたが、陰性でした。中分化型管状腺癌疑いとしますが、確認のため、再検を希望します」。

つまり、癌に似たなにかは「陰性」であり、「癌疑い」とされたのである。

 

え、マジ? と、思う。2枚目の決定日はこの結果を聞いている前日になっていた。

え、昨日わかったの? と、思う。思っていると、間髪入れず、「市大病院への紹介状を書きましたので、こちらにご予約の電話を入れてください。18時半まで受け付けているので、今日もまだ大丈夫ですよ」と医師がいう。

おれは「え、浦舟ですか?」と聞き返す。「はい、浦舟です」と医師はいう。

 

「それでは、また内視鏡ということになると思いますが、市大病院には腕のいい方がおられますので」。

診察室を出る。ちょっと待って受付に呼ばれる。封筒が用意されていた。

 

封筒には手書きで

「公立大学法人 横浜市立大学附属 市民総合医療センター 消化器病センター 内科(大腸)担当先生 御侍史」

と書かれていた。「御侍史」の意味をあとで調べようと思った。

 

……というわけで、おれは職場に戻ると、「マジで癌疑いでした」と告げ、予約受付の番号に電話した。

おれの癌(疑い)はまだ始まったばかりだ。

 

つづく(といいですね)。

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

 

【著者プロフィール】

黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :Marcelo Leal

AI時代のライティング活用と言えば...、なんつって、そんなカッコイイこと言ってみてぇな。

「ユキさん、AI使ってますか?」

と聞かれて、

「ええ、もちろん使ってますよ。毎日使い倒してます。GeminiもCopilotも使いますけど、メインはChatGPTですね」

「へぇ。どんな使い方をしているんですか?」

「そうですね。企画のアイデア出しや記事の下書き、コードの自動生成に──」

なんつって、そんなカッコイイこと言ってみてぇよ。

 

私は現在、会社勤めをしていて、日々の業務にはAIを使っている。使い倒している。特にChatGPTにはめちゃくちゃ依存している。使えないと業務が回らないので課金している。

主に何をするために使っているかというと

──私はChatGPTを、社長の言葉を翻訳させるために使っている。

のである。なぜなら、社長からメールで飛んでくる指示文は、日本語なのに意味が分からないからだ。

 

私の勤める会社の社長は、簡単に言えば「文章力がない」。

いや、日本語は一応書ける。だがその日本語が、指示として成立していないのだ。

 

毎日送られてくる社長からのメールには、タスクらしきものが並んでいる。けれど、それが「何を指しているのか」「いつまでに」「どの程度のクオリティで」やればいいのか、さっぱり伝わってこない。

時には日本語すら書かれておらず、いきなりファイルのみが送られてきたり、URLだけが貼られているメールもある。

「で、このファイルをどうしろと?」

という、肝心のところが分からないのだ。

 

これは私だけの感覚ではない。古参社員たちも「社長からのメールは何を言っているのか全然分からない」と嘆いているし、入社したばかりの新人も同じ壁にぶつかっている。

結局、私はメールを受け取るたびに内線で社長が意図するところを確認したり、「このような理解でよろしいでしょうか?」と長い確認メールを書いたりせざるを得ない。

「何を言いたいのか分からない」上司を持つと、社員はこうして余計なコミュニケーションコストを払わされる。実に非生産的だ。

 

弊社の社長は、曽祖父の代から続く老舗企業のお坊ちゃんで、長男である。

そのため、成長過程で「伝わらないことに苦労した経験」がないのだと思われる。「大事な後継だから」と、幼い頃から身の回りの人たちが常に忖度し、先回りして意図を汲み、みなまで言わなくても周りが動いてくれたのだろう。だから言葉を上手く使えなくても、本人はちっとも困らなかったに違いない。

 

「他者に自らの考えや心情をくわしく説明して、理解を得る」必要がなかったため、思いを伝える技術を磨く努力をしないまま大人になり、そしてそのまま年齢を重ねてしまったのではないだろうか。

お坊ちゃん育ちでスポイルされてきたが故に、本人には悪気がないし、問題意識もまるでない。

自分に問題があるとは露とも思わず、「伝わらないのは受け取り手の努力不足」「社長の言うことなのだから社員の側が理解するよう努めるべき」という態度なのだ。

その結果、残念なことに社長と社員の間の信頼関係が壊れてしまっている。

 

社長の言葉が理解できないため、社員は社長が何を目指しているのか分からない。指示されている業務にどんな意味があるのかも分からないため、社員が社長を信用しなくなったのだ。

そうすると、社長の方でも「ちゃんと説明している(つもり)のに伝わらない」「社員に理解しようとする姿勢がない」と苛立ちを募らせ、社員を信用しなくなってくる。

 

さらに役員たちからも「社長はこちらにろくな説明もなく、好き勝手ばかりやっている」と煙たがられている。つまり、社長の言語能力の低さが社内での孤立を招いているのだ。

たかが言語力、されど言語力なのである。

 

そのような環境の下、私が自衛策を講じるようになったのは、大きな失敗をしてからだ。

入社当初、私は社長からの指示を自分なりに解釈して仕事を進めていた。だが、「そうじゃない」と叱責される。訳がわからないまま次々にタスクが振られ、混乱が増す一方。

ある日、社長からのメールの意図をきちんと理解しないまま仕事を進めたことが、大きなミスに繋がってしまった。

 

そこで思いついたのが、生成AIの活用だ。

まずChatGPTに、うちの社長の人物像と、会社の事業内容を教え込む。さらに、これまでの「社長構文」の事例を学習させる。

準備が整ったら、社長メールをそのまま読み込ませる。するとChatGPTは「おそらく社長はこういうことを言いたいのでしょう」と推測してくれるのだ。不明点があれば「この点とこの点は曖昧なので、社長本人に確認を取りましょう」と整理してくれる。さらには、その確認メールの文案まで書いてくれる。

 

おかげで、指示が分からなくて右往左往する時間は減った。もちろん「社長からメールが来る→AIに翻訳させる→確認メールを書く→返事が来る→ようやく着手」という遠回りが必要になるため、めちゃくちゃ時間がかかる。スピード感の無さにイライラするが、それでもミスを防げる安心感は大きい。

 

つい先日、ベテラン事務員さんと話していたときのことだ。

「この会社、社長の言ってることが分からないからねぇ。私も苦労してきたけど、ユキさんも大変でしょう? 仕事量が多いのに、指示の意味が分からなくて」

と話の水を向けられて、私は彼女に秘密を打ち明けた。

 

「ハハハ。(乾いた笑い) まあ、最初は大変な会社に入ってしまったなと思ったけど、最近は大丈夫です。実は、社長の言うことが分からなすぎて、ChatGPTを社長構文の翻訳機に育ててるんです。社長から指示が来たら、そのメールをそのままChatGPTに食わせて、意図を推察してもらってます」

すると、彼女は口元に笑みを浮かべて、こう言った。

「あ、それ、私もやってる」

そうやったんかーい!!!

くっそワロタwww いや、笑いごとではない。

つまり、社長の直属の部下が複数人、同じようにAIを「社長構文翻訳機」として育てていたのである。

 

そのやり取りを横で聞いていた新人は、

「私もこれからそうします。先輩方がChatGPTに聞かないと社長の言ってることが分からないのに、入ったばかりの私に分かるわけがないですよね」

と真顔になっていた。

 

社員たちが自主的にChatGPTを駆使しているおかげで、うちの会社はどうにか業務が回っている。しかし、 本来AIを活用すべきは社長本人ではないだろうか。

複数の社員がChatGPTに社長構文を翻訳させるより、社長がChatGPTにこう尋ねればいい。

「僕はこういうことをしたくて、社員にはこう動いて欲しいのだけど、どういう風に指示を出せば伝わりますか?」

と。そうすれば、AIはきっと適切な指示文を書いてくれるだろう。AI秘書が社長の「伝える力」を補ってくれるのだ。

 

AIは人間の能力を拡張するツールだと言われる。だが現実には、欠陥を補うために使われるケースも少なくないのではないだろうか。

少なくとも私の職場では、AIは社長の言語能力の低さを補う「影の秘書」となっている。

 

今のままでも組織はどうにか回っているが、リーダーが言葉を尽くさない組織では、結局社員が余計な労力を支払い続けることになる。

AI時代に求められるのは、社員の生産性を高めるためのAI活用だけではない。

むしろ「伝える力」を欠いたリーダーこそ、真っ先にAI秘書を導入すべきなのだ。

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

 

【著者プロフィール】

マダムユキ

ブロガー&ライター。

Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。最近noteに引っ越しました。

Twitter:@flat9_yuki

Photo by :Kin Shing Lai

このところお金のことばかり考えている

もうすぐ50代に入っていくというのに、「不惑」どころかお金のことばかり考えている。

まず子育てにまだまだお金がかかる。

大きくなってきたらマシになるのかと思っていたら、当たり前だが、むしろもっとかかるようになってきた。

 

子どもが小さいときにはお金と時間の両方がかかり、大きくなるとそれに加えてさらにお金が必要になる。

仕事については、お金のことしか考えていない。

どれだけ良い仕事をしようが、どれだけ画期的な取り組みをしようが、結局いくら儲かるのかという話にしかならない。

 

今年中にいくら儲かるのか、来年にはどうなるのか、3年後はどうなっているのか。

そんなことばかり考えている。

飲み会に行っても、若い人も年寄りも、お金の話ばかりだ。

NISAやらiDeCoやら不動産投資やら、ずっとお金の話ばかりで盛り上がっている。

 

お金に興味のない人生だった

ずいぶん恵まれた生活をしてきたんですねと言われそうだが、ぼくはずっとお金に対して興味を持たずに暮らしてきた。

別に実家が太いわけでも、年収が高いわけでもない。

働くこと自体は嫌いではなくて、なんなら仕事をすることは大好きだった。

 

夜遅くまで働いていても、それを辛いと思うことはあまりなかったし、ぼくは何かひとつのことに夢中になって取り組むこと

を幸せだと感じる性格なので、ずっと仕事のことばかり考えていても苦ではないことが多かった。

それは今でもあまり変わらない。

 

だけどまあ、やっぱり恵まれていたというか、運がよかったのだろう。

働けばそれだけお金は儲かってそれなりの給料が入ったし、あるいは儲からない時は給料が減ったし、それでも十分に暮らしていけると思っていた。

お金というのは、働き続けるために最低限必要な分だけあればいいと思っていた。

その価値観は、結婚して子どもができてからもあまり変わっていなくて、だからほんのわずかな小遣いだけでもやっていけたのだろう。

なぜお金が欲しいと思うのか

ところが今はお金のことばかり考えている。

お金が欲しい、お金が足りない、お金さえあればと思っている。

どうしてこんなことになったのだろう。

 

はっきり言って、そこまで足りないわけではないと思う。

家族みんなでつつましく暮らしていけば、やっていけない金額ではないと思う。

なのに、足りない、足りないと思って暮らしている。

なぜだろう。

 

ひとつ思うのは、自分以外の人たちがそう言うからである。

家庭でも、職場でも、飲み会でも、みんなお金が足りない、足りない、という話ばかりしている。

一方で、日経平均株価は史上最高値を記録しているとか、それで大儲けした人がいるとか、どこぞの会社は賃金が大きく上がっているとか、自分以外のうまくいっている人たちの話も聞こえてくる。

その結果、どうも自分はかなりお金が足りないにちがいない、という気持ちになってくるのだろう。

 

正直、ここまで書いてきて、うんざりしてきた。

お金のことを考えること自体が嫌いなわけではない。

ただ、自分があまりにもお金のことばかり考えているのに、うんざりしているのである。

 

お金とは一体なんなのか

下の子が言うには、お金というのは「保存ができるもの」として生まれたのだそうだ。

魚や肉や野菜などは日持ちしないので、物々交換をしようにもうまくいかないことがある。

そこで、保存ができる貝殻や布や砂金などが、共通の価値を持つものとして使われるようになったらしい。

 

そのおかげで、ぼくらは今のような便利で豊かな世界で暮らすことができるようになった。

そのことには何の不満もない。

すばらしい発明だ。

 

ただ問題は、本当に「共通の価値」を持つものなんて存在するのか?ということなのだろう。

これだけ実際の生活と、お金の動きが大きく離れてしまうと、ぼくたちにとってのお金の価値と、投資市場におけるお金の価値というのは本当に共通しているものなのだろうか、と思ってしまう。

上の子が言うには、r>g、投資市場における収益率(r)が、実際の経済成長率(g)を上回っているのだそうだ。

 

投資することのできる資本をたくさん持っているほうが得をする。

まあ資本主義を取り入れたんだから、そうなってしまってもおかしくない、とも思う。

 

だけど、だからといって、地方の森や山が二束三文で外国に売られていくのはなんだか変だなと感じてしまう。

数字の上では変ではなくても、実際に広大な自然の所有者(そもそも「所有する」ということすらちょっと気が引けてしまうような大自然)が数字だけで簡単に変わってしまうというのは、なんだかしっくりこない。

人間が一生かかっても育てきることのできない大きな木々のある土地と、ただの数字(それもたいして大きくない数字)とが「共通の価値」なのだと、本当にみんな思えるのだろうか。

 

「共通の価値」という幻想

結局、誰もが「共通の価値」というものがあると思いこんでいるから、そういうことになるのだ。

 

だけど実際はそうではない。

ある人にとっては何の価値もない古本が、別の人にとっては非常に価値があったりする。

野菜が50円高くなったら高い、高い、という人が、推し活には惜しみなくお金を注ぎこんだりする。

何に価値を感じるかは、人それぞれ違うのに、みんなまるで「共通の価値」があると思いこんでいて、同じ基準を守っていて、それよりも多いとか少ないとかいうことに一喜一憂しているのである。

 

…いや、そんなことは昔からわかっている。

ぼくは資本主義の限界に対して何か熱くモノ申したいわけではないのだ(もちろん、多少は、いやそれなりにモノ申したいことはあるけれども)。

問題は、ぼくはなぜ50歳を目前にして、こんなことに一喜一憂しているのだろう、ということなのだ。

一体、ぼくは何にとりつかれているのだろうか。

 

これが「老い」というやつなのかもしれない

ふと思ったのは、若い頃ならそんなモヤモヤはすぐに吹き飛ばせたな、ということだ。

ぼくは氷河期世代の一人として若い頃を過ごした。

不景気の中でとにかく、めちゃくちゃ働き続けた。

そこには、どれだけ景気が悪くても、どれだけ状況が良くなくても、やれるところまでやってやる、という心の強さがあったと思う。

 

もちろん、だからといって無敵だったわけではない。

働きすぎて腰を悪くしたり、メンタルもやったりした。

だけど、それでもなんとかなるさ、と思える若さがあったように思う。

 

しかし、年を取って、家庭ができ、いつのまにか守りに入ってしまって、そんな自分に対してモヤモヤしたり、悪あがきをしたりしているうちに、なんとか折り合いがつくようになった。

その代わりに、ぼくは「やってやる!」という若さを失っていったのかもしれない。

 

若さを失ったぼくは、お金という「保存がきく価値」に頼るようになってきた。

お金さえあれば、これからぼくがダメになっていったとしても「保存がきく」。

若い頃のように必死にがんばらなくてもいい。

たくさん持っているだけでよくて、しかも腐ってなくなることのない「共通の価値」に頼りたい…そう思いはじめているのだ…。

きっとこれが「老い」というやつなのだろう。

 

そんな自分をまずは受け入れてみる

エライコッチャ…とも思うのだけど、焦ったところでどうにもならない(そう思えるのは、老いることによる利点の一つである)。

まずは、自分が老いて、根拠のない強い自信を持てなくなってきた、ということを受け入れてみよう。

また、そのせいで、一度手に入れたら今後がんばらなくてもなんとかなりそうな「保存がきく価値」を欲しがっているということも受け入れよう。

 

それは、ぼくがようやく大人になったということなのかもしれない。

ようやく現実を知り、冷静に世界を見つめようとしているからなのかもしれない。

あるいは50年近く生きてきて、さすがにこれ以上、飛躍的な伸びしろはない、ということを客観的に認められるようになったのかもしれない。

ふむふむ、そういうことか。

いやあ、ちゃんと大人になれたんだなあ、ぼくは。

やっと現実を受け入れることができるようになったのだ…

 

なんてこと、言うと思った??

いったん書いてみたけど、やっぱりそんな風には思えない。

三つ子の魂百まで、である。

ぼくが大切にしているのは、いくつになってもチャレンジし続けることなのだと思う。

 

ちょっとお金が足りないからとか、ちょっと年を取って体力や気力が失われているからとか、ちょっと周りからゴチャゴチャ言われているからとか、そんなことでひるんでいる時間なんてないのである。

お金は必要だ。

それは、やりたいことをやるための手段の一つでしかない。

 

じゃあ、ぼくがやりたいことは?…たくさんある。

なんなら若い頃よりもたくさん。

 

だったら、現状を嘆いていても何も始まらない。

足りないことや、至らぬこと、失われていくことに目を向けている余裕があるなら、少しでも手を動かしていこうと思う。

そんな風に思う気持ちは、数字に変換して保存することはできないのだから。

 

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

 

【著者プロフィール】

著者:いぬじん

プロフィールを書こうとして手が止まった。
元コピーライター、関西在住、サラリーマンをしながら、法人の運営や経営者の顧問をしたり…などと書こうと思ったのだが、そういうことにとらわれずに自由に生きるというのが、今ぼくが一番大事にしたいことなのかもしれない。

だけど「自由人」とか書くと、かなり違うような気もして。

プロフィールって、むずかしい。

ブログ:犬だって言いたいことがあるのだ。

Photo by:Andrea Jaeckel-Dobschat