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Books&Apps編集部

おれと音声配信

夕飯時、というか、夕飯を自炊するとき、その前に酒を飲むとき、おれはX(旧Twitter)の音声配信であるスペースを聴くことがある。

だれか有名人のスペース? 声優さんとかのスペース? ぜんぜん違う。おれがフォローしているのだからフォロワーさんなのだろうが、だれか知らない人が、だれか知らない人と雑談している、そんなスペースだ。

最初、よくわからないのでそのまま聴いてみたら、自分のアイコンを見た配信者が自分について触れて話をして照れたので、それ以来、匿名で聴くようにしている。リスナーは数人。下手したら会話している人が多いようなスペース。

 

そんなスペースを聴いていたある夜のこと、ふと思った。「数人聴くだけのスペース、おれにもできるんじゃねえの?」。

 

おれはちょっとだけネットで調べて、配信をしてみることにした。

 

文章以外をネットに流すこと

おれは長年(長年といってもいいだろう)、黄金頭という名前でネットに文章を放流してきた。文章がメーンだ。おれは文章を、ネットに、アップして、きた。

 

が、それだけでは正確ではない。おれは、写真をアップしてきた。おれは写真を撮るのが好きだ。貧乏なのにレンズ交換式のカメラを持っている。レンズも10本くらいは持っているだろうか。

そして、今年のはじめには、14万円もするコンデジを買った。考えてみてほしい、スマホのカメラ機能が向上しつづけるなか、単焦点(ズームができない)のコンデジに14万円。正気ではない。正気ではないが、おれは自分の買ったそのRICOH GR IIIxというカメラを買ったことに後悔はない。そして、そのカメラで撮った写真を公開している。悪くない気分だ。

 

写真のほかはなにか。イラストを公開することもある。Adobe Illustratorで描いたグラフィックを挿絵にすることもあるし、ブログに付属していたオンラインのペイントツールのお絵かきもある。あるいは、本当にメモ帳に手描きしたイラストを写真に撮ってXにアップすることもある。おれは絵も晒す。生成AIで作ったイラストも晒す。

 

でも、それ以上はなかった。音楽なんかは作れないし、動画も難しそうだ。そして、音声配信なんてものは考えもしなかった。

おれは古いインターネットの人間、インターネット老人なので、自分のことを晒すのに抵抗が大きいのだ。自分の写真すらアップしたら危ない、という気持ちが強い。だからおれが自分の顔をブログにアップしたのは二度くらいで、それもマスク姿が限界だった。

 

そうだ、おれはインターネット老人なので、自分の声をネットに晒すことにも大きな抵抗があった。また、晒す手段というものもよくわからなかった。おれがテキストベースでないネット文化というものに疎すぎるから。

 

でも、Xのスペースはすぐそこにあって、すぐにできそうだった。フォロワーは3,000人くらいいるので、数人は聴いてくれるのではないかと思った。まったく新しいところでやるよりはましだろう。

 

それにしても、自分の一人語り?

 

教えてくれたんだラジオ

一人語りで、不特定多数に音声を伝える。これはなんだろう。そうだ、ラジオだ。ネットなんてものがある前は、ラジオしかなかった。たぶん。そしておれも、一人語りのラジオの思い出がないわけでもない。

 

ラジオ。おれは昭和54年の生まれだが、ラジオがそんなに身近にあったわけではない。中学生のころ、「電気グルーヴのラジオが面白い」とか、深夜ラジオ、オールナイトニッポンの話を同級生から聞くようになって、興味を持った。それがなければ、おれはラジオというメディアにほとんど興味を持つことはなかっただろう。

 

そしておれが聴き始めたのが伊集院光のラジオだった。今では「ラジオの帝王」とか呼ばれるが、30年前も帝王だった。とはいえ、それは世間に知れたものではなかった。自分たちのなかでの帝王だった。

 

具体的にいえば『伊集院光のOh!デカナイト』ということになる。おれの家はラジオの電波の入りが悪くて(そうだ、もちろん当時はradikoなんてものは影も形もなかったのだ)、それでもニッポン放送の電波は届いた。

おれがラジオというものを聴いたのはこの番組が初めてだった。ラジオ内の企画から生まれた荒川ラップブラザーズのイベントを見に、友人と一緒に横浜まで行ったこともある。人が集まりすぎて見られなかったと思う。中学生のころの話だ。

 

それと同時に(なにぶん昔の話なので精確性については信頼しかねる話になるが)聴いていたのが、たとえば古田新太のラジオであり、福山雅治のラジオだった。

 

古田新太、なんて人は知らなかった。『劇団☆新感線』とかまったく知らなかった。ただ、『古田新太のオールナイトニッポン』のパーソナリティとして知るだけだった。そして、『古田新太のオールナイトニッポン』は下品だった。下品であり、エロかった。エロいコーナーがあった。女性リスナーの喘ぎ声が聴けるコーナーがあった。それをよく覚えている。おれは当時、性欲に目覚めた中学生だった。今でも性欲には目覚めつづけているが。

 

福山雅治。これはどうだったのか。これもまた、当時、「福山雅治」という人はまったく知らなかった。ただ、たぶん、古田新太の放送が終わったあと、第二部をしている人という認識だった。歌手としても俳優としてもその存在はしらなかった。ただ、ラジオで一人語りする人、だった。『福山雅治のオールナイトニッポン』、これである。

おれがよく覚えているのは、福山雅治が泥酔しつつ、道で寝ていた女の人をお持ち帰りしてしまうエピソードだが、今ならアウトだろう。でも、性に興味津々なころにそんな話を聴いてしまうと、それは印象に残ったものだった。

 

その後、古田新太も福山雅治もブレイクした。ブレイクという言葉で言い表されないほどのブレイクだろう。それでも、おれにとっての二人は、ラジオのパーソナリティがはじまりだった。福山雅治なんてカリスマ的な人気と知名度があるわけだが、おれにとっては「下ネタを話すお兄さん」というのが入口だった。

 

どうも、おれのなかでラジオとの出会いは、一人語りのラジオとの出会いだったようだ。そして、みんなビッグネームになったことから、ラジオの一人語りでおもしろいやつは成功する、みたいな思いを抱くことになった。だって、伊集院光に、古田新太に、福山雅治だぜ。そりゃしょうがないだろう。

 

ただ、そのあとおれはラジオフリークになったり、投稿職人になったりすることもなかった。なんならラジオ自体聴かなくなってしまったところがある。それは当時、テレビの深夜番組にはまってしまったところもあるし、まあなんかそういう気まぐれなところはある。ちなみに、おれはテレビの深夜番組を観るために、学校から帰宅後にすぐ眠って、夜10時とかに起きて、家族とはべつに夕食を食べて、そのまま朝4時くらいまで起きて、寝て……みたいな不規則に正確な生活をしていた。われながら、規則正しく、不正規な生活をしていたものだと思う。今回の本題とは関係ないが。

 

本当の一人語りのつらさ

して、おれが一人でスペースをした話に戻る。一人語りである。なにも考えていなかった。ただ、夜に湯豆腐を作るので、湯豆腐を作る実況でもするかと思った。マイクとかそういうのはわからんから、iPhoneの純正イヤホンを使った。有線のやつだから、どれくらい昔のものかわからない。ただ、LINE通話するときなどはこれで十分話せているので、使えるのではないかと思った。

 

思って、スペース通話を始めた。なにか、音楽が流せるというので、流して、リスナーが来るのを待った。待って、ピロン、ピロンと二人くらい聴いていよ、という通知が来た。

マイクをオンにしてみる。情けない一人語りを始める。あいさつもなしに、「湯豆腐作りまーす」とか言ったと思う。とくにスペースをする理由も話さなかったし、なにより自己紹介がなかった。なにも考えていなかった。なにも考えていないまま、音声配信というものを始めて、湯豆腐を作る手順を声にして、配信を終えた。

 

最初の配信は40人くらい聴いてくれた。40人といっても、ちょっとアクセスして数秒で離れた人も含めてだろうから、20人、いや、15人でも聴いてくれたのだろうか。

 

それで、十分な気がした。もしも20人の人が聴いてくれたとしよう。それはもう、学校の1クラスに話しかけるのと同じことではないだろうか。いや、今の小中高学校が1クラス何人なのかしらないけれど、まあそのくらいの人に聴いてもらえればそれで十分だ。十分すぎる。

 

が、自分の語ったことといえば、湯豆腐を作っている過程のみであり、なにかもっと語りたい欲みたいなものが出てきた。次のスペースでは、なにか読んだ本のこととか、買った東スポのこととか、いろいろ話そうか。どうしようか。よくわからない。ただ、最初に配信したあと、「配信おもしろかった」という反応が2件くらい届いて、これは上々なものではないかと思った。

 

次の配信、その次の配信。おれはよくばっていろいろな話をした。が、リスナーの数は減っていた。べつにリスナーの数を気にするような話ではないのだが、さすがに虚空に向かって喋るのは厳しい。それはある。

 

虚空に向かって喋る。おれはそのようなことをしてきた。自分のブログなんてだれも読まない。それでも書く、というところから始めた。ずっとそうだった。それでも書いてきた。ひたすら少数のもののために手紙を書け(by田村隆一)の気持ちだ。それは苦ではなかった。

 

でもなあ、「リスナー0で話す」というのは苦なのだ。テキストをネットに流す。今は読者がいなくても、いずれ検索エンジンかなにかでだれかに読んでもらえるかもしれない。そういうところはあった。だから、読者0でも文章を流すのに抵抗はなかった。

 

しかし、その時点でリスナーが不在なのに話す。これには抵抗がある。というか、できない。だから、一人でもいいからピロンとリスニング中の通知がないと話せない。話す、というのはなにか同時性が求められて、それは文章を流すこととは違うのだなと思い知った。

 

その後、おれのスペースを聴く人は、録音を聴いた人を含めて20人くらいで推移している。おれの一人語りはといえば、最初よりマシにはなっている。「おもしろいので配信はつづけてほしい」というDMはあったりする。5人くらいは一回の配信を聴いてくれているのではないだろうか。ひょっとしたら、ラジオの一人語りには構成作家などまわりに人がいるので、本当の一人語りはもっとむずかしいものなんじゃないのか。

 

正直、おれにはおれの話すことが面白いのかどうかわからない。でも、おれ自身、おれが話すということは……面白い。

 

音声配信の魅力

というわけで、おれは毎日のように、5人くらいの人に向かって話している。街なかで、独り言をぶつぶつ言っているおっさんやおばさんみたいなものだ。彼らにも、そのくらいの聴衆はいる。一瞬で通り過ぎるにしても。

 

おれは、そのような楽しみを得た。へんな話だ。おれはおれ自身の音声の録音を聴くことは絶対にない。そんなの恥ずかしすぎて、聴けるわけがない。それでも、古いiPhoneのイヤホンが動作して、だれかに届いているなら……。

 

なにがいいのだろうか。おれにはまだわからない。

しかし、テキストと音声では違うと思うこともある。たとえば、何かの話から性の話になって、性というのは個人個人の身体に帰属するものであるから、あるていどのまとまりというものはあっても、畢竟ずるにジェンダーの議論などは不毛なのではないか、しかし、それは不毛とすることは、もっと下らないとされるもの、ポルノやギャンブルやしょうもない娯楽や楽しみも不毛とされるのではないか。それはおもしろくないのではないか。でも、それは相対主義とかいうものに陥ってはいないか……。

 

などと、話が飛んでしまう。このあたり、文章にしては書けないものだ。自由に話が吹っ飛んでいく。あちらからこちらへ飛んでいく。人間の思考というものはそういうものだろうが、その跳躍をそのままに表現できるのは、テキストではなく音声、喋りだろう。そしておれは、その自分の跳躍をだれかに聴いてもらいたいというところがある。いや、テキストも読んでほしいが、一人喋りの跳躍「も」だれかに聴いてほしいと思う。

 

というわけで、おれはXのスペースというちょっと不安定な場(なんかマイクがオンにならなかったりする)で、音声配信というものを始めた。飽きるまでは続けるつもりでいる。音声配信。それはラジオ。

 

テキストや写真、イラストをインターネットに流すことは、マスメディアでいえば新聞や雑誌にあたるだろうか。おれはそれをやってきた。音声を流すということは、ラジオにあたるだろう。そういうこともできそうだ。

あとは動画の配信となるが、そこまではさすがに考えられない。でも、やろうと思えばできる。iPhoneひとつでできるだろう。ちょっと手を加えるならばVTuberにもなれるだろう。そうなれば、既存のマスメディアのすべてを、なんでもない一個人が模倣できるということになる。

 

いや、そんな環境はとっくの昔に整っていた。やるか、やらないかだけだ。おれは音声を配信したいと思うようになった。それが、街なかで虚空に向かって話すちょっと変わったおっさんと変わらなくても。

あなたはどうだろうか。人間そのものはそもそもメディアであったかもしれないが、マスメディアと同じことができるようになった。そういった情報の多くはノイズとみなされるであろう。とはいえ、おれが問題にしたいのは、発信する主体だ。あなたはどうだ。なにか発信したいか。したいならば、その手段は、ある。

 

 

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【著者プロフィール】

黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :Sunil Ray

先日、アメリカ大統領選挙で民主党のハリス候補が負け、共和党のトランプ候補が勝った頃、インターネットでは「エリートは縦の旅行をしろ」「エリートたちには縦の旅行が足りない」といったメンションを少なからず見かけた。

 

「縦の旅行」「横の旅行」とは、ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロ氏が言った言葉だ。

「エリートには縦の旅行が足りない」とは、エリートはしばしば世界じゅうを移動するが、どこでも同族のエリート同士・ブルジョワ同士としか交流していない、つまり広く世界を見聞しているつもりでも階級・階層的にはフラットな「横の旅行」しかできておらず、近隣に住んでいる非エリートについてはまったく知らずに済ませている、といった意味になる。

 

これは本当にそうだと思う。資本主義や個人主義をしっかりと内面化し、ポリティカルコレクトネスにも妥当するエリートは、東京でもニューヨークでもパリでも似たような価値観を持ち、似たような生活環境に暮らし、似たような多様性を奉じている。

彼らの思想信条はおおむねリベラルで、(アメリカ大統領選挙でいうなら)民主党寄りだろう。

 

しかし、彼らはどこに行っても同族としかつるまない。肌の色や目の色、ジェンダーなどはさまざまかもしれないが、ポリシーやライフスタイルの面では大同小異だ。どれだけ航空会社のマイルが貯まろうとも、それで知ることのできる世界は知れている。

そうした「横の旅行」に終始するエリートたちが、自分たちの視野の狭さを自覚しているならまだいいが、「自分たちは世界じゅうを旅するグローバルな人間で、多様な価値観に触れているコスモポリタンな人間だ」と勘違いしていたら深刻である。

 

だから「エリートはたちには縦の旅行が足りない」というメンションは事実の認識としてはそうだろうなと思う。

 

昔は「縦の旅行」などするまでもなかった

では、どうすれば「縦の旅行」が成立するのか?

それって、「さまざまな階級や階層の者同士でコミュニケーションせよ」というわけだが、これは今、どこでどれだけ可能だろうか?

 

そもそも昭和時代後半の日本においては、「縦の旅行」は意識するまでもなく成立可能だった。

 

そのことを象徴しているのは『ドラえもん』の主要キャラクターたちである。庶民的なサラリーマンの家の子であるのび太、小売業の家の子のジャイアン、金持ちの家の子のスネ夫がいた。しずかちゃんや出木杉君はプチブルジョワの家の子だろうか。

 

『ちびまる子ちゃん』の描写もそれに近い。花輪くんや城ケ崎さんのような子がいて、たまちゃんや丸尾くんのような子もいて、まる子や永沢くんのような子もいて、教室は多様だった。

 

これらは子供向け漫画だが、それだけに、昭和時代後半の公立校の描写としては最大公約数的だった。さまざまな家庭のさまざまな子が学校や遊び場で出会うものだった。

当時言われていた“一億総中流”という言葉のうちには、こうした「縦の旅行」をするまでもない学校環境、ひいては地域共同体があったことを思い出しておいてもいいように思う。

 

ところが事態が変わっていく。

東京を中心に、いつしか中学受験なるものが流行するようになり、やがて、小学受験さえ意識されるようになった。

エリートの子弟が早い段階から受験に流れれば流れるほど、有名受験校にエリートが集中し、公立校からはエリートがいなくなる。

 

エリートたちが子弟を幼少期から受験させればさせるほど、『ドラえもん』や『ちびまる子ちゃん』のような社会環境、社会関係は体験できなくなってしまう。

はじめにスネ夫や花輪くんが有名受験校に進学して公立校からいなくなり、やがて、しずかちゃんやたまちゃんも公立校からいなくなってしまうだろう。

 

と同時に、公立校を去った子どもたちはジャイアンやのび太やまる子のような子と知り合う機会を失い、ブルジョワ的~プチブルジョワ的な価値観の子と知り合う機会ばかり増大する。

それは、ある面では付き合いやすいことかもしれないし、コネクションを作るという観点からみても望ましいかもしれない。そのかわり、異なる階級、異なるライフスタイル、異なる価値観の同世代に触れる機会はなくなってしまう。

 

階級社会がきわまっている国々では、エリートと庶民は通う学校やライフスタイルが違うだけでなく、読む新聞、楽しむ娯楽、話す言葉すら違うといわれる。

しかし戦後からそう遠くない時期の日本ではそうではなかった。歴史的にみれば例外的状況だったかもしれないが、ともあれ「縦の旅行」を熱心に説く必然性は乏しかった。なぜなら学校に通い、多様なクラスメートと付き合っていれば、自動的に「縦の旅行」に近似したことが起こったからだ。

 

のみならず、地域共同体も「縦の旅行」を後押しした。古い街だけがそうだったのではなく、ニュータウンでも同様である。

原武史『団地の空間政治学』によれば、団地やニュータウンがプライベート化し、核家族に引きこもっていくのは70年代以降である(その頃から、プライベート化した生活空間を前提とする“団地妻”というジャンルが人気になった、ともいわれている)。

地域共同体は大人になってからも人と人とを結び付け、「縦の旅行」を自動的に提供……というより押し付けていた。

 

だから、「縦の旅行」論が日本でも説得力を持つようになったのは、エリートの子弟がそうでない子弟が学校で交わらないようになったため、地域の付き合いが希薄化しプライベート化したためでもある。

今日では、土地の値段による選別も意識されてしかるべきだろう。たとえば東京都心ではエリートの子息が集まる公立校があったりする。土地の値段が高すぎて、庶民がどう頑張っても住めないエリアができあがってしまっているからだ。

 

「縦の旅行」の谷底も深くなってないか?

もうひとつ、問題だなと思うのは「縦の旅行をしろ」と言ったとしても、階級・階層・ライフスタイルなりの縦の広がりって、果てしなく広がってないか? というものだ。

 

エリートのなかのエリート、縦の旅行の上方を垣間見ることについては置いておく。戦後に緩和されたとはいえ、全容のみえない上流家庭はいつの時代にも存在したものだ。では、縦の旅行の下方についてはどうだろう。

 

“一億総中流”の時代において、庶民の暮らしは比較的同質的だった。電化製品の普及、マイカーやマイホームを持つこと、といった次元では世帯間の差異は比較的見えにくく、大半の人が経済的・技術的発展の恩恵に浴していると感じていた。

その“一億総中流”が意識の問題でしかなく、実際には格差が存在し、その格差が世代を経るにつれて蓄積していたのはいうまでもない。さきほど触れた、有名受験校へのエリートの集中なども、そうした格差蓄積のあらわれの一つと数えられるだろう。

 

格差蓄積は平成時代に進行し、やがて顕在化し、今日では広く知られるに至っている。しかし富裕層がどこまでも上昇していくのと軌を一にして、貧困層はどこまでも下降していったのではないか? もし、その最底辺の領域まで「縦の旅行」をしろと言われても、エリートはもちろん、ほとんどの非エリートですら知り得ない領域が、あったりするのではないだろうか。

 

昨今、「闇バイト」や「ホワイト案件」といった俗語とともに、「あんな危うい仕事を請け負うのはいったいどんな人間なんだ」といった言説が流通している。しかし、実際にはそうした人間は存在している。

 

経済的にも、文化的にも、精神的にも貧困をきわめた人々は、危うい仕事に対してストップをかけることが困難だったりする。

あるいはSNS上のフェイクやオンライン課金の罠に簡単に取り込まれたりする。現代社会に張り巡らされた罠という罠に引っかかり、地雷という地雷を踏み抜いてしまう人々。そうした人々のなかには、エリートはもちろん、非エリートの大多数とも隔絶した状況を生きている人が珍しくない。

 

しかし、そこもまた世間の一部、世界の一部であることは否定できない。上も下も、世界は縦に伸びきっている。

 

SNSは「縦の旅行」を可能にしない

こう書くと、「SNSが上下の見晴らしを提供してくれる」と反論する人がいるかもしれない。でも私はSNSには期待できない、と感じている。なぜならSNSは声の大きな人の声の大きなメンションがこだまする空間だからだ。

 

たとえばSNSにはリッチでゴージャスな生活をしている人のメンションらしきものが目に飛び込んでくる。

だが、そこにはフェイクが溢れていて、到底あてにできる情報源とは思えない。たとえ本物の富裕層のメンションが混じっている場合でも、メンションはいつもSNSに投稿するのに適したかたちで整形・編集されている。

 

これはエリート全般についても言えることで、エリートの大半にはSNSで手の内を曝すインセンティブがない。

インセンティブがあり、手の内を曝すのが得意なエリートもいるだろうが、それは少数派で、なおかつ整形・編集されたメンションの得意なエリートだろう。

 

そのことを念頭に置けば、SNSごしに見かけるエリートの姿は相当に偏っていると考えざるを得ない。しかも、エリートを詐称する偽物も混じっている。

 

困窮のきわみにある人についても、おそらくそうだ。困窮のきわみにある人のほとんど全員はSNSを通して自己主張する能力と意志を持ち合わせていない、もの言わぬ民(サバルタン)である。

もし、SNSで多くのフォロワー数を抱えている困窮者を見かけたら、それは貧困層としては例外的存在とみるべきで、そうした言語化能力・プレゼンテーション能力のない貧困層はSNSでは文字通り不可視である。

 

SNSも含めたメディアは、情報発信者をとおしてしか情報が伝わらないため、発信する側・メンションする側の能力や意図によって伝えられるものが偏る。その性質は、エリートのエリート像を歪ませると同時に、物言えぬ人々の像をも歪ませる。

 

だからSNSを通して私たちが目にするものは、エリートを称するものであれ、困窮者を称するものであれ、「声をあげる意志と能力と動機を持った者のメンションでしかない」と心得ておく必要がある。それらは事実という氷山の一角でしかなく、フェイクや誇張と区別するのはとても難しくもある。

 

まとめ

こうして振り返ると、「縦の旅行」は難しい、と言わざるを得ない。難しいことと必要か否かは別問題で、難しくてもエリートは縦の旅行をすべき、いやエリート以外も見識を広げるべきと主張するのは間違っていないだろう。

 

しかし学校生活の分裂や地域共同体の消失、格差拡大などから「縦の旅行」の難易度は高くなっていて、エリートはエリート同士でつるんだほうが気楽かつコネクションに開かれていると想定される。

そしてSNSは声の大きな人間の声だけを目立たせ、声なき人の声を拾い上げはしない、そもそもSNSに流れる情報の真贋については、私にはまったくわからない。

 

世間全体、社会全体が今どうなっているのかを知るヒントになるのは、統計的なデータになるが、その統計的なデータも、しばしば集計方法が変わったりするので単純な読み取りを許してはくれない。なにより、統計的なデータは人間の顔つきをしていないのである。

 

「縦の旅行をしろ」というのはもっともだが、そもそも私たちは今、縦も横も前も後ろも右も左も自分自身をも見失っているのではないか? というのが昨今の私の所感である。あなたはどうですか?

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo:

そうか。買っちゃったか。やっちゃったか。

契約書にサインしちゃったなら、もう仕方がないな。

べつに。がっかりしてないよ。だって、そんなことになるんじゃないかと思ってたもの。

 

「坂上くんったら、新築の家を買っちゃったのよ!あんなに反対したのに!」

と、怒りが収まらない様子でメッセージを送ってきたのは、以前バイトをしていたレストランのオーナーである。もう8年近く前になるが、坂上君と私はその店でのバイト仲間だ。

 

レストランはとっくに閉店しており、学生やフリーターだった当時の若いスタッフたちは、今ではみんな就職して、全国に散っている。

私は店が閉店すると、世代の違う彼らとはすっかり疎遠になってしまったが、オーナーはいまだに元スタッフたちと連絡を取り続け、まるで母親のように世話を焼いているのだ。

 

子供のいないオーナーにとって、可愛がっていた若いスタッフたちは擬似家族なのだろう。

だからこそ、うっとおしがられるのもお構いなしに、プライベートな問題にまでずけずけ踏み込んでいく。

 

坂上君は、元スタッフの中でもオーナーが特に気にかけている存在だ。見ていて危なっかしいせいだろう。

彼は中学から学校に通っておらず、学歴もなければ手に職もないまま、20代半ばまでフリーターをしていた。

 

そんな彼の将来をひときわ心配し、調理の専門学校に行くよう勧め、就職までの道筋をつけたのはオーナーだった。

ただし、学校に行き渋る彼を説得したのは私である。

だからこそ、オーナーは坂上君のこととなれば、いまだに私に連絡をしてくるのだ。私が言い含めれば、坂上君が素直に言うことを聞くと思っている。

 

けれど、上京して就職し、今では家庭を築いて子育て中の坂上くんは、すでに30歳をとうに過ぎた大人の男なのである。

マイホーム購入を思いとどまるように説得してくれと言われても、「そりゃ無理ゲーだろ」とは思っていた。

 

マイホームの購入は、誰にとっても大切なライフイベントだ。一人で決めることではないから、妻の意向も強く働いているに違いない。

二人目の子供を授かったのを機に、窮屈な賃貸を脱出して、広々としたマイホームで子育てがしたいと切実に願う若い夫婦の気持ちも分かる。

 

けれど、

「ぜぇっっっっっっったいに反対よ!反対!せっかく夫婦仲良く幸せに暮らしてきたのに、多額の住宅ローンなんて背負ったら、そのうちお金のことで揉めるようになって、夫婦仲に亀裂が入るわよ。いつか離婚の原因になるかもしれないじゃない!」

 

とわめくオーナーの心配も分かるのだ。

いや、分かると言うより、この件に関しては全面的にオーナーが正しいと思っている。

 

坂上君には悪いが、これほど先が読めない時代に、首都圏とはいえ郊外に新築一戸建てを買うなんてどうかしてる。

しかも、4,500万円の物件を、頭金なしでペアローン50年ときたもんだ。

これから先の人生で、自分に限って離婚も失業も縁がないとでも思っているのだろうか。若さゆえの傲慢と無知って恐ろしい。

 

日本はこれから猛スピードで社会全体が縮んでいくのである。それは確定している未来なのに、坂上くんのように都会に住んでいる人は、まだそのことにリアルな実感を持てていないように見える。

自分の生活圏にはまだ若者が多く、人口密度も高いからだろうか。目に入る景色に大きな異変が感じられず、ニュースに触れることもなければ、危機意識を持てないのも仕方がないのかもしれない。

だから親世代と同じように、結婚をして、子供を二人作り、30代になったら郊外にマイホームを持つという古い因習に従うのだろう。

 

このさき日本の人口は猛スピードで減っていく。それに合わせて住宅需要も減っていく。

住まいを求める若者が減る一方で、高齢者が亡くなり大量の空き家が発生するので、都心はともかく郊外の住宅は大量に余っていく。そして町は変容するのだ。

 

せっかく夢のマイホームを手に入れても、気づけば周りが空き家だらけになっているかもしれないし、外国からの移民で溢れているかもしれない。

住人が減り過ぎたエリアからはスーパーやコンビニが撤退を始め、買い物が不便になる。住民の高齢化が進めば、町内会も担い手不足におちいり、ゴミ集積所の維持ができなくなったり、街路灯も点かなくなったりするのだ。

 

現時点では生活に便利な地域でも、20年後にどうなっているかなんて分からないじゃないか。

坂上くんはまだ若いからこそ、身軽でいるにこしたことはない。資産はなるべく流動性が高い商品でストックするべきだ。なんて話をチラッと言ってみたけれど、

 

坂上くんは頑なに、こう言い張った。

「いや、でも、今は2LDKの賃貸に月10万円も払ってるんですよ。同じ10万円を払うのでも、賃貸では何も残らないので、お金を無駄にしてるじゃないですか」

 

う〜ん。分かるよ、分かる。家を買う人って、口をそろえてそう言うよね。

分かるけど、賃貸物件は家の使用価値にその都度お金を払ってるのであって、無駄にしてるのとは違うけどな。

 

結局のところ、この手の話は結論ありきなので、いくら説得しようと試みたって無駄なのだ。

マイホームが欲しい人というのは、矢も盾もたまらず、とにかく家が欲しいのだから。

 

「これから金利が上がるんだよ」

と言っても、

「だからこそ、まだ低金利の今のうちにローンを組まないと損だ」

と反論するし、

「これからはインフレも進むんだよ」

と言っても、

「だったら新築物件の価格も上がっていくから、急がなくては」

と余計に購入を焦る。

 

どう諭されようと、結局は「自分の選択は正しい」という考えを補強していくだけなのだ。

マイホーム信仰という言葉があるが、家族でもないのに宗旨変えさせるのは無理である。特に「新築一戸建てに住みたがっているのは妻」の場合はなおさらのこと。

 

「まあ、こりゃ無理だろうな」と思いながらも、いちおう言うだけのことは言ってみた。

それは「このままじゃ坂下くんが離婚するー!破産するー!」とうるさいオーナーに対して、「私にできることはしましたよ」と言い訳がしたかったからかもしれないし、「ひょっとして、私の言うことならちゃんと聞いてくれるかもしれない」という淡い期待と驕りがあったせいかもしれない。

 

けれど、やはり結論は変わらなかった。

 

「昨日、坂下くんは家の契約を済ませてしまったんだって」

「そうですか。どうしても新築の家に住みたかったのでしょうね。もう放っておくしかないですよ」

 

「手付金はこれから払うそうだけど、頭金はほぼゼロなのよ。若すぎて分からないんやね...」

「仕方ないですね。私は『せめて頭金なしでローンを組むことだけはやめろ』と忠告しましたよ。それでもそうしたのだから、たとえ後で地獄を見ようとも、もう本人が責任を取るしかないでしょう」

 

「わざわざ家庭不和になる種を作って...」

「考えようによっては、住宅ローンを背負ったことで、坂下くんもこれから仕事に身を入れるかもしれません」

 

「金利を含めた支払い総額がいくらになるのかも分かってないみたい」

「私たちにできることは、もう何もありませんよ」

 

「二人目が生まれるのに...」

「おめでたいです。新居を構える地域が、子育て支援の手厚いところだといいですね」

 

「首都圏と言っても、郊外なのよ」

「今さら何を言ったところで手遅れでしょう。例えこの先ローンの支払いに困ったところで、お金のことは助けてあげられません。頑張って働きなさいよって、発破かけていくしかないです」

 

若い時っていうのは、こういうものなのだ。年長者の忠告が正しかったと分かるのは、どうしようもなくなった後である。

私もそうだが、凡人は自らの経験からしか学べないのだから。

 

そういえば、以前にも似たようなことがあった。クズのロイヤルストレートフラッシュみたいなオッサンに若いスタッフの女の子が妊娠させられて、オーナーと一緒になって別れるよう強く勧めたのに、結局そいつと結婚してしまった。

 

案の定、その結婚生活は私たちが予想した通りの展開となり、彼女は貧しい暮らしと夫のDVに耐えかねて、5年と経たないうちに家を出た。

そして離婚と親権争いは訴訟にもつれ、憔悴した彼女はついに精神を病み、仕事も失い、最後は実家に引き取られたという。

 

坂下くんの人生も「あぁ、やっぱりね」とならないことを祈っている。

 

 

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【著者プロフィール】

マダムユキ

最高月間PV40万のブログ「Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。

Twitter:@flat9_yuki

Photo by :Anthony Tran

生成AIの仕事をしていると、「DXの一環ですね」という言葉をいただくことがある。

 

私は、なるほど、そうかもしれませんね、とその時にはうなづくのだが、実はあまりよくわかっていない。

「DX」、つまりデジタルトランスフォーメーションの定義を詳しく知らなかったからだ。

 

ところがつい先日、繰り返し「DX」の話題が、生成AIのプロジェクトの途上で持ち上がった。

そこで改めて調べてみると、一つの面白いジャンルを築いていることが分かった。

 

今回はそれについて、拙い理解を書いてみたい。

 

DX(デジタルトランスフォーメーション)とは何か?

DXとは、今から20年前の2004年。

エリック・ストルターマン氏によって提唱された概念で、「ICTの浸透が人々の生活をあらゆる面でより良い方向に変化させること」とされている。(総務省

 

なるほど。

わかったようなわからないような定義だ。

結局、だから何なんだ、「デジタル化」と何が違うんだ、という話になる。

 

ただ、これは総務省が解説を加えている。

言い換えると、会社内の特定の工程における効率化のためにデジタルツールを導入するのが「デジタイゼーション」、自社内だけでなく外部環境やビジネス戦略も含めたプロセス全体をデジタル化するのが「デジタライゼーション」である。

それに対し、デジタル・トランスフォーメーションは、デジタル技術の活用による新たな商品・サービスの提供、新たなビジネスモデルの開発を通して、社会制度や組織文化なども変革していくような取組を指す概念である

 

ポイントは「新しい商品/サービス・ビジネスモデル」を生み出す、というところだろうか。

 

要は、

デジタル技術を使って、新しい商売立ち上げようぜ!

という話なのだと、私は理解した。それがDX。

 

これならば、理解はたやすい。

 

GoogleやAmazonのような会社を創れってこと?

しかし、そうなると実践はかなり、ハードルが上がってくる。

つまり、DXとは、結局のところ、GoogleやAmazonのような会社を創れ、という話なのではないか。

 

総務省のページにも、以下のような話があり、大変だな……という気分になる。

社会の根本的な変化に対して、既成概念の破壊を伴いながら新たな価値を創出するための改革がデジタル・トランスフォーメーションである。

 

したがって、あらゆる会社に「DXを推進せよ」というのは、あまりにも無理筋だという事になり

「ちょっと……ウチは勘弁」

と思う会社も多いのではないだろうかと推測する。

 

それについて、世間はどのような解釈をしているのだろうか、ちょっと書籍をあたってみた。

[amazonjs asin="B0CY1867V7" locale="JP" title="いちばんやさしいDXの教本 改訂2版 人気講師が教えるビジネスを変革するAI時代のIT戦略 「いちばんやさしい教本」シリーズ"]

 

上の本では、どちらかといえば、総務省の言う「デジタル化」の部分を推している。

ペーパーレスや、小さく速い成功をめざせ、といった論調だ。

これなら中小企業もある程度取り組めるだろうが、「DX」と呼んでよいかは疑問が残る。

 

東大の先生が書き、コンサルタントの冨山和彦氏が解説をする以下の本では、「日本経済復活」を掲げている。

[amazonjs asin="B08Y8L9WF3" locale="JP" tmpl="Small" title="DXの思考法 日本経済復活への最強戦略 (文春e-book)"]

 

ただ、結局言わんとしているところは、「サービスを抽象化して、大きく広げるという思考を持て」。

デジタルサービスの作り方の教本、といった具合。

 

また、マッキンゼーが書いた本は、「企業文化変革」に焦点を当てて、単なるシステムの刷新やIT化に対して批判的な論を展開している。

そのため、後半では「DXの推進手順」が示されているが、まあこれは「だからマッキンゼーを雇いなさい」というPRだろう。

[amazonjs asin="B09CPBMY26" locale="JP" tmpl="Small" title="マッキンゼーが解き明かす 生き残るためのDX (日本経済新聞出版)"]

 

 

経産省の「DXレポート」

と、まあいろいろな人が、これを商売のネタにすべく、様々なことを言っている。

これが、DXという分野だという事はよくわかった。

 

そして、コンサルティング会社がDXというネタで儲かる、という図式があることも良く分かった。

 

しかし、これで終わらせてしまってはまとまりがない。

DXというテーマで、もう少し突っ込んだ、「結論」はないのか。

 

そう思うと、結局、経済産業省が作った「DXレポート」というドキュメントに行き当たる。(経済産業省

 

読んでみると、DXレポートの趣旨はシンプルだ。

日本でDXを推進できなければ、2025年から2030年までに、最大年間12兆円の損失が生じる、というものだ。

 

そして、レポートはその原因を「レガシーシステム」の存在に見出している。

レガシーシステムの存在によって起きる損失は、貴重なIT人材の浪費であり、DXの足かせでもあり、新しいIT投資を抑制する元凶でもある。

 

だが、8割の企業は、いまもなおレガシーシステムに依存している。

その理由は「ユーザ企業」と「ベンダー企業」の低位安定だという。

●既存産業の業界構造は、ユーザー企業は委託による「コストの削減」を、ベンダー企業は受託による「低リスク・長期安定ビジネスの享受」というWin-Winの関係にも見える。
●しかし、両者はデジタル時代において必要な能力を獲得できず、デジタル競争を勝ち抜いていくことが困難な「低位安定」の関係に固定されてしまっている。

 

DXレポートでは、「ユーザ企業」も「ベンダー企業」も、デジタル時代にリスクを取らず、必要な能力を獲得できないまま、少しずつ沈んでいく。

そうしたある意味では癒着した構造が問題だと指摘されている。

 

なるほど。

つまり、ユーザ企業がベンダーにシステムを外注し、あくまで

「コスト削減のためのIT化」

「オペレーションのためのIT化」

から脱却できていない状態を何とかするのがDX、という事のようだ。

 

DXは日本のシステム開発業界の構造の問題をなんとかしよう、という動きだったのだ。

 

 

「DX」は本当に必要か

であるから、どの書籍を見ても、政府のレポートを見ても、日本企業はDXについて、散々ダメだしされている状況である。

 

そうかもしれない。

デジタル分野で米国や中国などに大きく後れを取った結果、日本企業はすっかり世界の中での存在感を失ってしまったのは事実だ。

 

現在、世界の時価総額ランキングにおいて、50位までに日本企業はトヨタが45位にいるだけ。

 

代わりに存在しているのは、アメリカ、台湾、中国、韓国、ドイツ、オランダ、スイスなどのデジタル事業を主とする企業だ。

これがいかに、危機的な状況であるかは、いくら私でもわかる。

 

そして、これからのビジネスは、デジタル抜きにはありえない。

だからDXなどという名前を付けるかどうかに関わらず、議論の余地なく、DXは必要だという判断になるのだろう。

 

 

野心を持った、社内外の起業家によってDXは成し遂げられる

ではどうするか。

 

DXレポートでは、デジタル産業指標の策定や、DXの成功パターンの策定などを目論んでいるようだが、まあ、それだけでは大したことはできないだろう。

結局、DXの目的である、デジタル事業創出は、起業家精神によってのみ、成し遂げられることだからだ。

 

したがって、野心を持った、多くの起業家が育つ土壌が必要である。

ごまかさずに言えば、「DX人材」とは、デジタルに詳しい人材ではなく、社内外の起業家の事だ

 

無論、これはスタートアップに限らない。

大企業の内部でも、中小企業においても、DXのできる起業家、つまりDX人材を育てていく必要がある。

 

だが最近、少しずつではあるが、「DX人材」にお金を使っていこうという風潮が、大企業を中心に生まれているように感じる。

日本が沈み切ってしまう前に、何とか世界で戦える企業が生まれてくれれば、と思う。

 

そして、「まだ日本は捨てたものではない」と皆が思うようになった時、初めてDXは実現したことになるのだろう。

2030年に間に合えばよいが。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

生成AI活用支援のワークワンダースCEO(https://workwonders.jp)|元Deloitteのコンサルタント|オウンドメディア支援のティネクト代表(http://tinect.jp)|著書「頭のいい人が話す前に考えていること」65万部(https://amzn.to/49Tivyi)|

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯note:(生成AI時代の「ライターとマーケティング」の、実践的教科書

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Photo:Pedro Gabriel Miziara

セ界が激震した。

全ベイが泣いた。

 

横浜DeNAベイスターズ、26年ぶりの悲願の日本一、ほんとうにほんとうにおめでとうございます。

強敵相手に圧勝の姿、しかと目に焼き付けました。

 

大衆居酒屋に着弾

日本シリーズ最初の2戦を逃しながらも、相手の本拠地で劇的な連勝を続けハマスタに戻ってきたベイ戦士たち。その相手も、ソフトバンクである。

 

CS以降の快進撃に、

まじか?こんなに強かったのかベイスターズ!?

誰もがそう思っただろう。

 

ハマスタで日本シリーズが終結する。こりゃ、チケットなんて取れないけど、横浜の地で日本一が決まるんなら、騒ぎたい。せっかくこの夏、わたしは神奈川県民になったんだ。

ベイスターズファンという共通項だけで盛り上がれる人とハイタッチしまくりたい。

とりあえず、あてもなくハマスタまで行くか?でも帰りの電車なんてとんでもないことになりそうだ。

どうしよう?

 

とかなり悩んだ結果、ベイスターズファンの友人と横浜市内でテレビ観戦できる居酒屋を予約し、テレビを見やすい席に無事着弾した。

「テレビを見やすい席をお願いします」

と予約時に付け加えておいたのだ。

 

もちろんユニフォーム、タオル、帽子の3点セットは欠かせない。

店内でユニフォームまで決め込んでいたのはわたしと友人の2人だけだったけれど。

そんなこと関係ない。気にしたら負けだ。

 

美女2人組との不思議な出会い

さて着席すると、左隣にいかにも野球好きなご夫婦が座っておられた。

お互いの格好を見て、即野球談義に入る。こういう居酒屋はいいね。大好きだ。

 

ご主人は長らくのベイスターズファン、奥様はタイガースファンとのこと。

今シーズンのご夫婦の様子が目に浮かんで楽しかった。喧嘩してそう。

 

そして私たちより遅れて、右隣に若い美女2人組が着席した。

わたしの隣に座った方の美女(名前をSちゃんと後に知った)がわたしたちのユニフォーム姿を見て声をかけてくれた。

「今日、ここで野球見られるんですか?」と。

 

「そのはずだよー」

「えー、よかったです!!実は私、帽子持ってきたんですけど・・・被っても大丈夫ですかね?」

「当たり前やーん、わたしたちなんかユニフォームやで!せっかくなら被って応援して楽しまな損やで!」

 

ということで、美女はカバンからベイスターズの帽子を取り出して無事装着した。

もうひとりの美女は、すでにタオルを首にかけて臨戦態勢である。

 

「いつトイレに行ったらいいんですか!?」

試合は、ベイスターズファンからすればドラマチックなものだった。

Sちゃんのテンションは試合開始直後から全開である。

 

ソフトバンク攻撃のイニングになると、ベイスターズがワンアウト取るごとに嬉しさで目を潤ませる勢いだ。

相手の打球が外野に飛ぶだけでも「はっ!」と声を上げてしまう。

初回からそれだと、9回まで持たないよ・・・と心配になるくらいだ。

 

野球を長く見ている人だと「あ、これファウルやな」とか、「フライでよく打ち取った、先発は調子よさそうやな」とか思うようになる。

それに、トイレはイニング間に「今のうちに行っとこ」とか思うし、わたしなんかは実際そうするのだけど、Sちゃんは

「どうしよう、トイレ行きたいけど今行って大丈夫かなあ」

と言い続け、実際タイミングを合わせられずにトイレに行っている間にベイスターズが得点してしまう、というシーンもあった。

 

ベイスターズ打線に火がつき、ソフトバンクとの点差がどんどん広がっていく。

しかし5点の差がついても、

「まだ分からないからトイレ行けません!」

という緊張ぶりだ。

 

もうひとりの美女は慣れている。わたしと一緒に

「トイレ行くなら今だよ!」

とSちゃんにアドバイスし続けた。Sちゃんも、試合の中盤以降は要領がわかってきたようだ。

 

そして最終的には11-2という、2桁得点でのベイスターズの圧勝。

試合が終わって緊張が一気に解けたSちゃんは、涙を流していた。

 

かわいいなあ。わたしはそう思いながらSちゃんの顔を見ていた。

なんだか、いいなあ。自分はだいぶスレちゃったもんだ。

 

きっかけなんて、何でもいい

わたしがSちゃんの姿にしみじみしたのにはさらに理由がある。

聞けばSちゃんは、プロ野球を見るようになったのは最近のことだというのだ。

 

日本シリーズのスタメンでも、全員の選手の名前を知っているわけではなく

「あ、この人なんていう名前ですか?さっきから気になってるんです!」

「桑原だよ。CS以降めちゃくちゃ調子上げて活躍してる。守備もすごいんだよね」

「そうなんですね!私きょう、桑原選手のこと好きになりました!」

といった感じだ。

 

「野球のルールもまだ分からないこともあるし、ニワカなんですけどね・・・」

とSちゃんは言うが、

んなこたあ関係ないんだよ。これから知っていけばいいんだよ。

ところで、ベイスターズファンになったきっかけは?

それを聞くと意外な答えが返ってきた。

 

「わたし、そろそろ何か趣味を持ちたいなと思ってたんです。

でも何をやっていいかわからなくて」。

 

そして隣の美女を指し、

「この友達がベイスターズファンっていうのと、横浜に住んでるし、

それで見てみようかなと思って。」

 

なんて素敵なことなんだろう。

彼女は自分の生活を客観視し、自分に足りていないものを自ら見つけ、日々を楽しめるよう自分で自分の生活をデザインしているのである。

 

そしてベイスターズを応援するという趣味が、きちんと彼女の中に根付いたのである。勝利に涙を流すくらいに。

何かに熱中することの動機なんて何でもいいし、誰だって最初はニワカだ。

 

人の趣味を聞いて、自分もやってみたいとか口先だけで言いながら、でも結局やらない理由を探して行動に移さない人はごまんといる。

そんな人生より、はるかにいいじゃないか。

わたしとしても、ベイスターズを応援する仲間が増えてありがたい限りである。

 

そして最初にわたしたちの左側に座っていたご夫婦も一旦帰宅したはずが、ゲーム終盤になって店に戻ってきていた。

ご主人は前回の日本一を知っている世代だ。

 

そんなご主人とSちゃんがずっと話し込んでいる姿もまたほっこりするものだった。

共通の趣味は世代を超える。それが「趣味」のいいところだ。

 

ジジイのマウントが仲間を減らす馬鹿馬鹿しさ

でも残念なことに、まだ世の中には「ニワカ潰し」がいっぱいいる。

音楽の領域にも存在する。

 

特にジャズの世界である。

もちろん、ほぼあらゆるジャンルの音楽に理論というのはあるのだが、ジャズ理論は特に小難しいと感じている楽器好きは多い。

 

わたしなんか音楽理論そのものを大して知らないまま楽器をやっているひとりなのだが、ジャズというものが嫌いなわけではない。

実際よく聴いているし、好きなジャズミュージシャンも何人もいる。

 

しかし困るのは、アマチュアのジャズ界隈にいる特定の人たちの存在である。

ジャズセッションというのはあちこちで開かれていて、ジャズ好きがおのおのの楽器を持ち寄って、知らない仲間どうしがその場限りのバンドみたいになって自由に楽しむ場所だ。

 

しかし、時々やっかいな老害がいたりする。

初心者に対してダメ出しをする輩がいるのだ。

 

「めんどくさいジャズジジイ」と呼ばれる人たちである。

そもそもセッションというのは、初心者から上級者まで広く集まって、特に初心者にとっては人前で演奏をしてみたいという気持ちを、勇気を持って発揮しにいく場所である。

でも、知らない者どうし「音で会話する」っていう世界を楽しもうね、っていうのが基本的なコンセプトだ。

 

本来なら「他人と一緒に演奏することの楽しさ」を得る場所のはずなのだが、「めんどくさいジャズジジイ」は、

「今のソロフレーズは、コード理論的にこの音を使った方がいい」だとか「君それはジャズではないよ」だとか初心者にイチャモンをつけてくるのだ。

 

ジャズが好きという若い初心者が勇気を持って呼び込んだ場所でめちゃくちゃ緊張しながら自分なりに精一杯やって、そんなダメ出しを喰らったらどうなるか?

多くの初心者にとってはトラウマしか残らないだろう。

 

少なくとも、そんなジジイどもとは二度と演奏したくない。

レッスンを受けに行っているのではないのだから。

もちろん、プロ志向があればそれをきっかけに勉強するかもしれない。

 

しかしそれだったら、ちゃんとした師匠を探しにいく。そこで悔しさを乗り越え鍛えようと決心することだろう。

しかし、趣味として始めてみてステップアップのために来た初心者にとっちゃ、ジャズを「面倒臭いもの」と感じて嫌う要素にしかならない。

 

そもそもあなたたちはジャズのファンなんでしょ?

だったら同じことを好きになってくれる仲間を増やしたくはないのか?

 

わたしからすれば、そこがさっぱりわからないのである。

だいたい、ジジイのマウント取りなんて、仲間になってくれそうな人を自分で減らしてるだけなんだよ、いい加減気づけ。

 

 

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【プロフィール】

著者:清水 沙矢香

北九州市出身。京都大学理学部卒業後、TBSでおもに報道記者として社会部・経済部で勤務、その後フリー。
かたわらでサックスプレイヤー。バンドや自ら率いるユニット、ソロなどで活動。ほかには酒と横浜DeNAベイスターズが好き。

Twitter:@M6Sayaka

Facebook:https://www.facebook.com/shimizu.sayaka/

Photo:

20代半ば、一切経験がないまま、わたしはフリーライターになった。

正確にいえば、趣味で書いていたブログで注目していただいた時期だったので、その波に乗って「ライター」を名乗り始めた感じだ。

 

10年前は空前のブロガーブームで、新卒フリーランスがもてはやされ、みんなが「自分らしく」を大合唱していた。

御多分に洩れず、わたしも「自分にしかできないこと」を探していたし、文章で「自分」という個性を全面的に出すことこそが自分の生きる道だと思ったのだ。

 

でも今月で33歳になる今日この頃、当時を思い返すと、「あのころは若かったなぁ」と思わず苦笑いしてしまう。

そもそも「自分にしかできない仕事」なんてないし、「自分がやりたいこと」ばかり考えている時点で、その仕事はいい結果に結びつかないのだから。

 

「自分にしかできないことをしたい」vs.「自分を捨てろ」

みなさん、鈴木敏夫氏をご存じだろうか。

スタジオジブリの代表取締役社長を務め、『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『ハウルの動く城』などのプロデューサーを任されていた方だ。

 

本記事では、プロデューサー補として鈴木氏の薫陶を受けた石井朋彦氏が著した、『自分を捨てる仕事術』という本を紹介したい。

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この本はタイトル通り、石井氏が鈴木氏に「自分を捨てろ」と言われるところからはじまる。

「若いっていうのは、まわりからは何も期待されていないということなんだ。それを自覚することがいちばん大事。若いときにしかできない仕事というものがある。それは、自分の意見を持たないこと」(……)
当然、反発はありました。
ぼくは、かなり重症な、プライドの高い自意識過剰な若者でした。自分の意見を持たないなんて、生きている意味がない。「自分にしかできないこと」「自分らしさ」「自分だけのアイデア」を発揮することこそ、仕事において、人生においてもっとも重要なことだと考えていたのです。

石井氏のように、自分にしかできないことを見つけたい、それをまわりに認めさせたい、という願望はだれしもがもっている。

若ければなおさらだ。

 

わたしもそうだった。

みんながリクルートスーツを着てあくせく就活をしているあいだ、自分は海外に行って、ブログで世界に自分を発信するぜ!他の人とはちがうんだ!と、かんたんにいえば調子に乗っていた。

 

とくにいまの時代はみんな「多様性」が大好きだから、「まわりと一緒」よりも「自分だけ」という言葉に惹かれる人は多いだろう。

 

でもそれって、仕事において、本当に大事なことなんだろうか。

仕事で自分の意見を通せれば、それは成功といえるんだろうか。

 

仕事において、「だれが言ったか」は本当に大事なのか

石井氏が最初に任されたのは、会議の手配をして、議事録を書くことだった。

ただ全員の発言を書きとるだけでなく、相手の身振り手振り、さらにはテンションといった細かいことも、できるだけ正確に書き込んでいく。

 

「自分の意見は考えなくていい」と言われていたから、ただひたすら、その場で起こったことをメモしていった。

その結果、どうなったか?

その場にいるだれよりも、議論の全体像を把握できるようになったそうだ。

 

もし自分の意見を出すことを目的としていたら、「Aさんの意見は気に入らない」「Bさんと意見が近くて気が合いそうだ」のように、主観で判断していただろう。

しかし石井氏は「意見するな」と言われていたので傍観者に徹した結果、自分の好き嫌いではなく、その議論においてなにが大切か?を考えられるようになったという。

鈴木さんは、ゼロから1を発想するタイプのアイデアマンではありません。みんなの意見やアイデアを総合的に判断し、もっとも優れたもの、その場に必要なものを、順列に組み立てます。
当初は、そこに反発していました。
「自分の意見」「オリジナリティーあふれるアイデア」を生み出すことがクリエイティブだと思い込んでいたぼくは、自分の意見を横取りされたかのような感覚になったのです。
鈴木さんは、ぼくが不満そうな顔をしていると、こう言いました。
「だれが言ったとか、どうでもいいじゃん」

まさに、目からウロコだった。

昨今のSNSでは、「なにを言ったかよりもだれが言ったかが大切」「だから影響力をつけろ」が通説になっている。

 

でも、本当にそうなんだろうか。

実際、フォロワーが数十人のアカウントのポストが1万いいねをもらうことだってあるじゃないか。

 

そりゃまぁ、インフルエンサーならそうかもしれない。でも組織のなかで動く人やそこらへんの一般人であれば、「だれが言ったか」なんてそんなに大事じゃない。

そもそもその人のことなんて、ほとんどの人は興味がないんだから。

 

「斬新な意見でまわりをあっと言わせる」ことだけがクリエイティブ、ましてや仕事の成果というわけではないのだ。

 

成功や自己実現にこだわると、心が狭くなる

本書のAmazonの商品の説明欄には、「20代の、右も左もわからない仕事人はもちろん、30代後半から40代の、多少の成功体験のあと『自己流の壁』にぶつかっている人に、ぜひ読んでいただきたい本です」と書いてある。

 

実は、わたしがこの本を手に取った理由が、まさにこれだった。

30代になって、自分の成長が頭打ちになっていると感じていたから。

 

ライターを名乗り始めたころは、書きたいことが明確にあって、なりふりかまわずそれを書いていた。批判コメントも多くいただいたけど、「いいや、わたしが伝えたいのはこれなんだ!」と突っ走っていた。

でも年齢や経験を重ねると、「ちがう視点からしたらそう見えるよな」とか、「こういう伝え方をしたら誤解されそうだなぁ」とか、いろいろ考えるようになってくる。

 

それ自体は悪いことではないんだろうけど、そのぶん、記事のメッセージ性が落ちているような気もしていた。

「わたしが書きたいことはなんだろう?」

「自分が成長するためにはどうすればいいんだろう?」

そんなことをぼんやりと考えていたとき、この本に出会った。

 

そして気が付いたのは、結局仕事とは、「だれかのためにする」ということ。

「自分が伝えたいこと」「自分の成長」ばかり考えていたから、つまずいたのだ。

鈴木さんも宮崎さんも、自分のためにではなく、まわりのために、そして最終的には、作品を見てくれるお客さんのために映画と向き合っている。
それに対してぼくは、「自分のやりたい企画」「自分がいいと思うアイデア」に個室していた。(……)
よく鈴木さんは、
「自分のことばかり考えている人が、鬱になるんだよ」
と言っていました。
自分のモチベーションとか、成功とか、自己実現とか、そういうものにこだわりすぎる人は、どんどん心が狭くなる、というのです。

ライターであれば、「多くの人に読んでもらいたい」と思うのは当然だ。そのためにどうすればいいか、と頭をひねるのもまた当然。

でも読んでもらいたい理由が、「自分のメッセージを伝えたい」ではダメなんだと思う。

 

自分が認められたいから、自分に共感してもらいたいから、自分を理解してほしいから。

そうやって考えていたら、いつまでも「なんで伝わらないんだろう」と悩むことになる。なんでわかってくれないんだ、なんで評価されないんだ、と。

 

そうじゃなくて、まず「自分」というものを横に置いて、「なにを伝えるべきなんだろう?」と考えるべきだったのだ。

 

自分らしさは、知識と経験を身につけた後に確立するもの

「他人のために」とか、「相手が望んでいることを」とか、言葉でいうのは簡単だ。

でもやっぱり人には「認められたい」「褒めてもらいたい」「評価されたい」という気持ちがあるから、どうしても「自分が」というエゴが出てしまう。

 

それが、自分のやることが正しいと自己流に固執したり、自分のアイディアこそが一番だと押し通そうとしたり、自分よがりの言動につながっていく。

 

しかも自分自身は努力しているつもりだから、まわりが見えなくなっていることに気が付かない。で、狭くなった視野のなかで、進むべき道を見失ってしまう。

 

そんなときはどうするか。

答えはかんたんで、自分がどうこう、というのは忘れて、他人から学べばいいのだ。

 

石井氏の例でいえば、鈴木氏の仕事術や哲学を学び、会議で多くの人の言動を観察することで、大量のインプットをした。

その経験や知識を核に、他人のためにできることをしていった結果、「あなたに仕事を任せたい」という人が現れ、いまに至る。

 

そういう蓄積がないまま「自分」を全面に押し出しても、それは薄っぺらな虚像でしかない。核となるものが、あくまで「自分にはこういうことができるんだ」という虚栄心や過剰な自意識でしかないから。

 

そもそも、「自分らしさ」を出すのなんて、あとからいくらでもできることだ。

5年、10年と仕事をして、そのあいだに身につけた知識と経験で「自分」が確立されていく。「自分らしさ」を追い求めるのは、他人から学んだ基礎ができあがってからでいい。

 

なにも身につけてないくせに「自分が自分が」って言ってちゃ、そりゃ限界がくるよなぁ。

 

自分らしさを追い求めるなら、まず「自分」を捨てること

結局のところ、「自分らしさとはなにか」という答えを持っているのは、自分ではなく他人なのだ。

自分らしさなんて考えなくとも、まわりが勝手に「あなたはこれが得意でしょう?」「これができるでしょう?」と、わたしらしさを見つけてくれる。

 

「いやいや自分はこういう人間だ」と言ったところで、まわりが「ちがう」と言えば、それはきっとちがうのだろう。少なくとも、仕事においては。

「おわりに」を書きながら、鈴木さんの言葉をまたひとつ思い出しました。
「人は、自分のために他者を必要とするし、他者に必要とされる自分が自分なんだよ」
自分を捨て、他者の生き方を真似、自分に本来備わっているものを見据える。
そのために人は、だれかを必要とするのだと思います。
だからこそ一度「自分を捨てる」必要があり、「だれかを真似る」ことで自分を知り、他者に対する尊敬の念も獲得する。それが、人生における「学び」であり、仕事を楽しむ唯一の方法です。

たくさん学んで、真似して、視野を広く保つ。

そのなかで、「これは譲れない」とか、「この道のほうがいいんじゃないか」とか、そういうものがしぜんと見えてくる。

 

それが、「自分らしさ」なのだと思う。

あくまで相対的なものであって、最初から自分のなかに備わっている確固たるなにか、ではないのだ。

 

自分らしくとか、自分にしかできない仕事とか、そういうのは結局全部「自分のため」にすること。

他人から学ぶよりも「自分らしいもの」ばかり追い求めて自己流に走ったら、「自分はこうしたいのに認められない!」という自己中ループにハマってしまう。

 

「自分」に固執せずに他人に求められていることを考えろ。

 

改めて書くと当たり前だけど、なんやかんや「自分は自分は」になっちゃってたんだなぁ、といま反省中である。

「最近行き詰ってるなぁ」というときほど、他の人はどうやってるんだろうとまわりを見まわし、学び、「自分」をいったん捨てることが大切なんだなぁ、と思う。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo:The Jopwell Collection

論理的思考という言葉がある。

 

この言葉は、ビジネスでは大変な人気で、

「論理的思考力を鍛えよ」とか

「論理的思考力を身につけましょう」とか

「ビジネスパーソンに必須の素養」とか

そんな言われ方をしている。

 

ところが、この「論理的思考」という言葉は、実は、最も説明の難しいことばの一つだ。

 

 

もう10年以上前のことだが、コンサルティング会社に在籍していたとき、

「ロジカルシンキング」の研修テキストを作っていたことがある。

 

ロジカルシンキングとは、日本語では「論理的思考」と訳されるが、私が在籍していたコンサルティング会社では

「難解な用語は、中学生でもわかるくらいにかみ砕いて説明しなさい」

という方針があった。

そのため「論理的」という言葉の正確な定義について調べたのだった。

 

まずは当然、辞書を引いてみる。

すると、「論理の法則にかなっているさま」とあった。

 

そこで再度、「論理」について調べた。

すると、そこにはこう書かれていた。

議論・思考・推理などを進めていく筋道。

思考の法則・形式。

論証の仕方。

 

これを見て、嫌な予感がした。

というのも、思考の筋道をすべて論理というのならば

「論理的である」というのは、事実上、どのような思考であっても、筋道さえあれば論理的である、ということになる。

 

あるいは思考の法則や形式について、「論理」というのならば、

帰納や演繹、三段論法などの有名な形式のみならず、世の中には無数の論理が存在しており、逆に言えば

「なんでもあり」

と言って良いことになる。

これではテキストが作れない。

 

そこで、マッキンゼーの出身者が書いた「ロジカル・シンキング」の本等を参照してみた。

しかし結局、彼らが用いている「論理」の形式、たとえばMECEや、So what、why soなどの、ロジック・ツリーを構成する要素の説明に終止している。

[amazonjs asin="B00978ZQOG" locale="JP" tmpl="Small" title="ロジカル・シンキング Best solution"]

これは、「論理的とはどういうことか」に対する回答にはならない。

 

みんな口々に、「論理的思考力を身に着けよ」とか言ってるけど、本当は誰もわかってないのでは?

と思ったのが、当時の良い思い出だ。

 

なお、近年になって読んだ、元マッキンゼーの、波頭亮さんの著作「論理的思考のコアスキル」には、論理の定義が示されている。

まずは「論理そのもの」、すなわち論理の定義を示そう。  論理とは、「ある命題(既呈命題)から、推論によって次段階の命題が導かれている命題構造」、あるいはそうした命題構造における「既呈命題から次段階の命題を導くための思考の道筋(推論)」である。

 

ただし、この定義は抽象的すぎて、「中学生にもわかる」ように説明するのは難しい。

[amazonjs asin="B07QB1YD39" locale="JP" tmpl="Small" title="論理的思考のコアスキル (ちくま新書)"]

 

ただ、この本には良いことが書いてある。

要するに結論と根拠を「したがって」と「なぜなならば」でつなぐのが、論理だというのだ。

確かに「論理とは筋道」である。

(波頭亮「論理的思考のコアスキル」 ちくま新書)

 

ただし波頭亮さんは、「論理的」というためには、条件がある、という。

それは、この「したがって」と「なぜならば」について、大多数の賛同が得られるような客観的妥当性と、受け手の納得感が求められることだ。

 

しかし。

そう考えていくと、論理というのはどこまでも主観的要素である、とも思えてしまう。

 

ただ、ビジネスではこの定義で問題ないかもしれないが、科学的発見などの論理においては、大多数も納得感も不要だ。

 

結局、当時の私は、「論理的」という言葉そのものの、本質的な定義をあきらめた。

 

そして、社内で協議をした結果、ロジカルシンキングのテキストには、「中学生にもわかるように」

・結論を最初にいうこと

・そのあと、結論に根拠をつけること

というシンプルな形式を採用することにした。

 

これは普段、コンサルティング会社が実践していることであるし、何よりわかりやすい。

抽象的な論理の話はさておき、研修ではこの程度でも実用性に問題はなかった。

 

結論から言って → 結論ってなんですか?

ところが、これを運用しだすと、別の問題が発生した。

 

「結論から言って」と要請しても、「結論から言えない人」というのが、大量に存在したのだ。

その話は、こちらの記事に書いてある

 

そしてついに、「結論ってなんですか?」という人が現れた。

そして、上司もそれに答えることができない。

 

そう。

「論理的」と同様に、「結論」という言葉も、非常に抽象的、かつ定義の曖昧な言葉だったのだ。

 

これに対する実践的な回答は、以下の著書に書いた。

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結局、上の本にも書いた通り、10年以上コンサルタントをやってきて、出した答えは要するに

「結論」とは、「相手の最も知りたい話」のことだ。

 

繰り返すが、「結論から言う」とは要するに、「相手の一番知りたいことから話す」ということなのだ。

だからこれは、シチュエーションや話者、聞き手によって解釈がいくらでも発生する。

 

受け手の「結論」と話し手の「結論」は往々にして食い違う。

そもそも相手の思考を読まないと、結論が何かすらわからない。

 

だから、「結論から言えない」ということは必ずしも話し手だけの責任ではない。

 

「論理的思考とは何か」に決着

そうずっと思ってきたのだが、最近一冊の本に巡り合った。

渡邉雅子「論理的思考力とは何か」

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この本がすごいのは、私の今までの疑問に、最終的な答えまでとはいかずとも、かなりの部分、解答を示してくれている点だ。

詳しくは買って読まれると良いと思うが、私が惹きつけられたのは、「論理的」の定義である。

 

これは、アメリカの応用言語学者、カプランによるところが大きい。

カプランは世界三〇カ国以上から来た留学生の小論文を分析し、言語圏別に論理の展開の特徴を視覚的に分類してみせた。

その結果、読み手が「論理的である」と感じるには、統一性と一貫性が必要であるという。

統一性とは、記述に必要十分な要素があることであり、一貫性とは、それらの要素が読み手に理解可能な順番で並んでいることである。

 

これらを総合すると、論理的であるということは「読み手にとって記述に必要な要素が読み手の期待する順番に並んでいることから生まれる感覚である」と定義することができる。

つまり論理的というのは、「社会的な合意の上に成り立っている」であるとの結論だ。

 

だから、本書で示されている「論理的」というのは、アメリカ人とフランス人、イラン人と日本人、4者でかなり異なっている。

「提示される情報の順番」に対する期待が異なるからだ。

 

これは非常に目からうろこだった。

 

結局、私たちがコンサルティング会社で実践していた「結論から言う」=「相手の一番知りたいことから話す」

ということは、まさに、「論理的」の定義そのものであった。

 

「結論から言う」ことは「相手の知りたい事から話すこと」それがすなわち、「論理的に話す」ということ。

これらは全く同じ行為。

それさえわかっていれば、「論理的思考」は、もう怖くない。

 

小難しいことを言わずに、「相手が欲しい順番に、欲しい情報を渡してあげる」こと。

「論理的」とは、たったそれだけのことだ。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

生成AI活用支援のワークワンダースCEO(https://workwonders.jp)|元Deloitteのコンサルタント|オウンドメディア支援のティネクト代表(http://tinect.jp)|著書「頭のいい人が話す前に考えていること」65万部(https://amzn.to/49Tivyi)|

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯note:(生成AI時代の「ライターとマーケティング」の、実践的教科書

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Photo:Jan Huber

式典と嫉妬

三十年以上前の話になる。記憶は曖昧だ。もう昨日のことも曖昧なおれの脳みそには断片しか残っていない。

 

学校の、式典のことだった。なんの式典だろう? おれは中高一貫校の出だ。中学校の卒業式かもしれない、高校の卒業式かもしれない。おれにはよくわからない。

 

よくわからないが、鮮明に覚えているシーンがある。おれとけっこう気の合った、仲のよかったやつが、証書の授与に行くところで、わざと転けたのだ。あからさまにわざと転けた。

 

それを理事長が「個性のある子もいました」というように褒めたのだ。おれはそれに嫉妬を覚えた。学校の理事長がわざと転けたふりをして、注目を浴びようとした生徒を褒めた。それだけのことなのに、なぜおれは嫉妬を覚えたのか。その理事長が、徳間康快という男だったからだ。

 

徳間康快という人間

おれがこのたび「徳間康快」という人間を思い出すきっかけになったのは、佐高信の『メディアの怪人徳間康快』という本である。

[amazonjs asin="406281675X" locale="JP" tmpl="Small" title="メディアの怪人 徳間康快 (講談社+アルファ文庫 G 282-1)"]

 

この本のあおりにはこう書いてある。

山口組・田岡組長を陰で支え、天才・宮崎駿を育て上げた夢の大プロデューサー、徳間康快。徳間書店を興し、『アサヒ芸能』編集長として部下を育て、難破船の『東京タイムズ』社長に就任、倒産寸前の『大映』の再建を請け負い、ダイアナ妃に出演交渉する。黒幕か?フィクサーか? それともメディアの怪人か? “濁々”併せ呑んだ傑物の見果てぬ夢を見よ!

この人がおれの中高を過ごした学校の、理事長だった。思わず本を手にとってしまった。おれはあまり「昭和の怪物」の伝記などは読まない。読まないが、ちょっとだけでも自分に関わりのあった名前となると、読みたくなるというものだ。

 

しかし、この手の本にはなにか癖がある。大人物と大人物を無理をしてでもつなげようとする。そして、著者自身とつなげようともする。結果として、主人公自体の分量は減る。そんな印象だ。それでも、取り上げられている人物が面白いのもあり、Wikipediaなど読みながら興味深く読めた。

 

して、徳間康快は1921年の生まれである。戦争中に20代を過ごした。この本は徳間康快の葬式のシーンから始まり、追悼文集が多く引かれているが、渡邉恒雄の次のような文章が印象に残る。

「徳間康快さんを初めて見たのは、私が共産党の東大細胞にいたころで、有楽町のガード下で、前妻宮古みどりさんと二人で寄り添った姿だった。『見た』と書いたのは、この読売新聞記者であった共産党員が、大変な大物に見えて、口もきくことができなかったからである。

徳間康快はナベツネの読売新聞での先輩であった。なおかつ共産党の先輩である。これだけでもなんかもう、「昭和の裏歴史」(そう裏でもないが)の一端という感じがする。

 

その徳間康快が書く仕事をしたのは早稲田大学のころだった。学費を稼ぐために、『横須賀日日』 という地元紙に勤めていた。その社長は鈴木東民という人で、この人もなかなかに興味深いのでWikipediaなどにあたられたい。

読売新聞の編集局長までやっていたが、戦時下で反ナチスの本を出すなどし、戦後は読売争議を闘争委員長として指導。その後、釜石市長を務めた人物だ。徳間はこういう人物からも大きな影響を受けている。

 

して、その徳間自身も労働争議で読売新聞を追われる。追われて、友人であった中野達彦が社長であった真善美社の専務となる。中野達彦は中野正剛の息子である。

真善美社では埴谷雄高の『死霊』を最後の賭けで出したりもした。その埴谷雄高がこんなことを言っていたという。

「……ぼくも『死霊』の印税をほとんどもらっていなくて、それで花田清輝が、ぼくが代表になって真善美社に皆の税金のとりたてに行け、というわけだよ。ところがそのとき真善美社はもう潰れかかっていて、いまの徳間書店の徳間康快が共産党の金をもって入ってきていたんだ。三十万円たしかもって入ってきたと聞いた。それでぼくは徳間に、おまえは金をもって入ってきたんだから、印税を払わなければだめだって交渉にいったんだ。
ところが徳間はもって入ってきた金は全部借金でなくなりまして、払えませんというんだ。それでぼくは同情して、じゃ、徳間、しっかりやって払えるようにしてくれといって帰ってきたら、花田が、おまえは皆の印税を払えという使者になっていったはずなのに、徳間にしっかりやってくれなんて激励して帰ってくるのはけしからんと怒ったんだけど……」

この調子である。いや、どの調子かわからんが、徳間康快はこうやって金のこともうやむやにしてしまう。

 

その後、今度は緒方竹虎が会長になって新光印刷という会社を起こしてクオリティ・ペーパーづくりを目指したりなんだりする。

 

『アサヒ芸能』の裏で

でも、徳間康快、徳間書店といえば、やっぱり『アサヒ芸能』ということになるだろう。これも経営不振に陥っていたタブロイドを引き受けて、「三流週刊誌」にしたものだが、これが大衆に受けた。

その後、徳間書店のグループが大きくなり、芸能や映画、スタジオジブリなんかに関わっていこうとも、『アサヒ芸能』の徳間書店というイメージは強かったのではないか。

 

けれど、徳間康快はその一方で竹内好などと「中国の会」の雑誌『中国』の発刊を引き受けたりしている。まだ日中国交回復前の話だった。

 

また、日刊紙への思いも捨てていなかった。持ち馬のトクザクラという馬が1972年の「牝馬東京タイムズ杯」(現在の府中牝馬ステークス、2025年から名称や条件など変更予定)を勝ったとき、『東京タイムズ』元社長から買収を持ちかけられたという。

徳間はこれを引き受ける。大赤字の会社だ。周囲は大反対する、社員も大反対する。それでも徳間は日刊紙の夢を捨てない。やはり、高級紙、クオリティ・ペーパーを志向する。

「いまの『東タイ』の紙面から、競艇、競輪の記事を追い出し、文化欄、とくに教育問題に力を入れていく。政治、経済、外交面の記事も、ひらがなを多くして、平易で読みやすくする。そしてその中心に社説がすわることになる。社説こそ新聞の顔であるからである」

この『東京タイムス』社長就任パーティーにはときの首相である田中角栄が訪れたりしている。

 

徳間は奮闘する。それでも新聞の売上は伸びない。そんななかでこんなエピソードが紹介されていた。

……社長は顔が広いので、いろんな情報を持っていて、掲載する内容に関しても自分なりに判断されていたと思います。例えばオウム真理教が総選挙に出たことがありました。広告を取るのは大変だったんですが、選挙広告は広告収入としては大きい。それでオウム真理教からも依頼が来ています、と広告局長が説明したら、社長は『それは、ダメだやめておけ。きっと問題が起こるから』と言っていました。そういう感覚、判断は鋭かったですね」

話がオウムのころまで飛んだ。『東京タイムズ』は1992年まで続いた。おれの記憶にはない新聞だ。とはいえ、徳間康快は『アサヒ芸能』ばかりではなく、高級紙を作ろうとしていた。そんなことは知らなかった。

 

徳間康快と映画

そんな徳間康快がさらに手を出したのが映画だ。1971年に倒産した大映を引き受ける。

そうしてできたのが『君よ憤怒の河を渉れ』であったりする。文化大革命後の中国で最初に公開された外国映画で、高倉健が中国で高い知名度と人気をほこったきっかけになった。また、日中合作映画の『未完の対局』を製作したりもした。

 

このように徳間康快の中国への思いは強かった。しかし、自らがゼネラルプロデューサーをしていた東京国際映画祭でのことである。中国から1993年『青い凧』、1997年『セブン・イヤーズ・イン・チベット』が出品される。これを中国共産党が気に入らず、上映中止の要請がくる。これを徳間康快は突っぱねる。その結果、中国映画当局は徳間康快に門戸を閉ざしたという。

 

その他の大きな仕掛けとしては、故ダイアナ妃への映画出演交渉だろうか。『阿片戦争』という映画にビクトリア女王役として出演交渉したのだという。「直接ギャラは受け取れないが、エイズ基金への寄付なら」というところまで話は進んだが、まだ離婚が成立しておらずイギリス王室の許可がおりなかった。しかしまあ、永田ラッパの後を継いだだけあってやろうとすることが大きい。

 

中国との関係が悪化したあとは、ソ連にシフトする。

そして作ったのが『おろしや国酔夢譚』だ。江戸時代、大黒屋光太夫という商人が漂流してロシアへ流れ着き……という井上靖原作の映画だ。主役は緒形拳で、先日なくなった西田敏行も出ていた。

 

『青い凧』、『おろしや国酔夢譚』……スクリーンで観たものである。「え、そんな渋い映画を観に行くような映画好きなの?」と言われそうだが、それは違う。学校のスクリーンで観たのだ。

 

ジブリ映画を封切り前に生徒に観せた理事長

そうである、おれは徳間康快が校長、理事長をつとめていた逗子開成という学校の出である。学校には徳間康快が作ったホール、ホールというか、映画館というか、そんな立派で新しい施設があった。そこで映画を観せてくれた。授業の一環なので、感想文を書かなければいけないが。

 

そこでおれは、封切り前のジブリ映画も観た。徳間康快はジブリの社長でもあった。『紅の豚』、『もののけ姫』。それに『On Your Mark』も観せてもらった。これはちょっと貴重なんじゃないか。

 

上映前に教師が言ったものだ。「関係者の試写会以外で観るのは君らが最初だ」と。

こんな学校ほかにはないだろう。その流れで、徳間の映画も観たし、中国映画も観た。すすんで映画館に行こうというわけではなかったおれには貴重な体験だったかもしれない。あるいは、そのあとたまに映画館に行くようになっったきっかけになったかもしれない。

 

徳間康快とジブリ。『風の谷のナウシカ』を映画化するとき、徳間康快に宮崎駿を引き合わせた人はこう言われたという。

「おい、あの宮崎という男はいい顔をしている。目つきがいい。おまえもよく見習え」

宮崎駿は徳間康快の葬儀でこう述べた。

「私達は、社長が好きでした。
社長は経営者というより、話をよく聞いてくれる後援者のようでした。
企画についても、スタジオの運営についても、現場を信頼してまかせてくれました。
よく『重い荷物をせおって、坂道をのぼるんだ』とおっしゃって、リスクの多い無謀ともいえる計画にも、すばやく決断をしてくれました。映画がうまくいけば、大喜びしてくれました。うまくいかなくても、平然として、スタッフの労をねぎらってくれました」

そんなジブリが徳間康快を画面に描いてしまったのが、宮崎駿監督作品ではないが、『コクリコ坂から』である。

おれはこの作品を観て、一番最初にきた感想が「徳間理事長じゃないですか!」だった。

 

徳間康快と教育

というわけで、徳間康快は出身校である逗子開成の校長にもなっていた。ことの発端は、学校の山岳部で遭難事故があってもめているところに仲裁をたのまれ、それを解決した流れで理事長に就任した。

 

そのころの逗子開成。そもそも神奈川県には県立高校を百校作ってみんな進学できるようにする、みたいな計画があった。実際、作られた。もちろん、いい学校もできたが、悪い学校もできた。そして、その悪い学校にも入れない生徒も出てきた。

 

言葉は悪いが、そういう公立にすら行けない生徒を拾ってきたのが逗子開成という私学だった。もちろん、そんな生徒だらけなので、荒れに荒れていた。底辺校といっていい。

 

『徳間康快追悼集』に石原慎太郎がこんなことを書いていたという。

石原が家から出て町や駅に向かう広くもない道を生徒たちがいっぱいに広がってふざけ合い、車が間近まで来ても、道を開けようともしない。はた迷惑この上もなかった。

「それがいつの頃からか、生徒たちの登校下校の姿が段々に変わってきて今では実に整然としたものになってしまった」
変化は徳間が理事長に就任してから起こったという。そのことを石原は最初知らなかった。
「たかが地方の高等学校といわれるかも知れないが、あの変化の素晴らしさはまさにリーダーの腕と情熱の所産であって刮目に値するものだった」と石原は書いている。

 

後日、何かの折りに石原がそう言ったら、
「そうなんだよ、随分頑張ってやったんだよ。君の目にもそう見えて嬉しいよ」と徳間は破顔したという。

これを、おれが教師から直接聞いた話だとこうなる。「学校が底辺校として荒れていた時代は、受験料と学費を取るばかりでなにもしなかったので内部留保はたくさんあった。ところが徳間康快が来てから、全部使い切ってしまった」。

 

そう、徳間康快は使い切った。もちろん映画を観られる記念ホールもそうだ。「消毒されている水道の水をそのまま飲んだら、カルキで頭が働かなくなる」といって最上級の冷水器を設置したり、三越や帝国ホテルに負けないくらいの女性用トイレを作ったり(男子校だが、その母親を取り込むため)、「目の前が海じゃないか。海は世界に通じているんだ」といって海洋教育センターを建てたりした。

こう言って波打ち際に宿泊できる海洋教育センターを建て、工作室をつくって生徒に一人乗り用ヨットを製作させた。それを相模湾で帆走実習させたりしたのだが、生徒数が多くなると、コストやスペースの問題で難しくなり、挫折している。

いや、ヨット作らされたね。日本海軍の造船所にいたといおじいさんが来て、OPヨットというのを作らされたんだ。それで、逗子の海をプカプカとな。いま思えば、なかなかに面白い思いをしたものだ。

 

こんな教育者がいてもいいじゃない

思い出話しは尽きないが、ここらでやめる。「重信房子とは仲がいいから、パレスチナにジープを送った」と言ったり、山口組の田岡一雄の葬儀に一億円の小切手を持って行かせたり、エピソードも尽きない。

 

「清濁併せ呑む」ではなく「濁濁併せ呑む」のを自称していたという徳間康快。宮崎駿には「自分が成功したのは教育だけだ」といったらしいが、まあそうだろう。

逗子開成、おれが中学受験をしたときは、神奈川の中学受験界でも偏差値最低レベルだった。ただ、映画に海洋教育におしゃれな制服に。そして、それが今や……ちょっとは偏差値もマシになっているんじゃないだろうか。おれも慶應にストレート合格して少しは貢献したかもしれない。すぐに中退したからマイナスだったかもしれない。まあそれはいい。

 

今ならコンプライアンスやなにかですぐにアウトな人物が、中学と高校の理事長だった。いま思えば、遠回しに影響を受けていたかもしれない。そんなふうに思うのも悪くはない。

 

 

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【著者プロフィール】

黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

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この国の命運を握る大問題、少子化。

どうにかしようとたくさんの人が四苦八苦しながら、原因の分析・対策が進められている。

 

が、少子化の原因としてあまり挙げられていないけど、「これも大きいよなぁ」と思うことがある。

それは、「子どもがいないから少子化になる」ということだ。

 

……どこぞの世襲議員みたいな構文になってしまったが、まぁ聞いてくれ。

子どもがいないのが当たり前になって、日常生活から子どもが排除された結果、「子どもがいる生活」が想像できなくなっちゃったんじゃないかな、と思うわけだ。

 

「いつか子ども」をが現実になったきっかけ

わたしの同級生が第一次?出産ブームを迎えたのは、26~28歳くらいのときだったと思う。

 

ドイツから日本に一時帰国したら、「子どもが小さいから会うのはむずかしい」と言う子がチラホラいて、「早い子はもうママになってるのか~」なんて驚いたものだ。

 

とはいえ当時のわたしは大学を卒業したばかりだったから、「いつか子どもを」と漠然と考えてはいたものの、「まだまだ先の話」という感覚だった。

それは数年経っても変わらず、30代になっても「いずれはね~」くらいの気持ちで、なんとなーく子どもの件は先延ばしになっていた。

 

そんなわたしが32歳になって出産に前向きになった理由はかんたんで、「まわりに子どもが生まれたから」。

兄夫婦に子どもが生まれ、高校時代に一番仲が良かった子も母親になった。同年代のご近所さんにも子どもが生まれたし、ゲーム友だちも出産を機にゲームをやめた。

 

おめでたの知らせを立て続けに聞くと、「自分もそういう年齢になったのか」と感慨深くなるのと同時に、しぜんに「そろそろ自分も」という気持ちになったのだ。

 

そして、子どもを授かった。

まわりが幸せそうに赤ちゃんを育てているのを見た結果、「自分もこういう生活をしたいな」と思った結果だ。

 

32年間の人生で、実は一度も赤ん坊を抱いたことがない

ここでちょっと聞きたいんですけど、わたしと同世代、もしくはさらに年下の人って、赤ちゃんを抱っこしたことあります?

わたしは現在32歳だが、実は生きてきて、一度も赤ちゃんを抱っこした経験がない。触った記憶もない。

 

親戚づきあいもあんまりなかったし、そもそも親戚ではわたしは一番年下だったし。

近所づきあいといってもただ会釈するくらいだし、まわりの友だちも、お茶に赤ちゃん連れてこないし(気を遣うらしい)。

そんななかで、自分が身ごもって24時間365日世話をして、おっぱいをあげて、うんちがついたおむつを替えて……と想像するのは、なかなかむずかしい。

 

幸いわたしはまわりでおめでたが続いたから、その人たちの話を聞いて、「そんな感じなんだなぁ~」と、母親になる自分を想像する機会に恵まれた。

でもいまの出産適齢期世代って、赤ちゃんと関わったことがない人、たくさんいるんじゃないかな。そもそも最近では、公園で走りまわる子どもすらいないし。

 

子どもが存在しない生活圏で暮らしているのに、子どもを産んで育てることをリアルに考えろ、と言われてもね……。想像できないことを実行するのは無理だよ。

 

子どもをもつことに現実感がわかないのは、生活圏から子どもが消えたからじゃないかなぁ、と思う。

それが、冒頭で書いた「子どもがいないから少子化になる」ということだ。

 

子連れを隔離した先にあるのは、大人専用の社会

子どもの絶対数が減り、子どもの有無は個人の選択であって他者が強制すべきではないという価値観になった結果、「子どもは大人の社会になじまない異物」として、どんどん生活圏から追放されていった。

 

子どもは公園で遊ぶな。幼稚園は騒音。子連れ様はそういうレストランに行け。混んでいる電車にベビーカーで乗るな。

 

「電車に子連れ専用車両を作れ」なんてのが代表的だ。これはたしか2022年にXのトレンドに一度挙がっていて、実際に新幹線で導入された例がある。

ほかにも、「子連れ専用カフェがほしい」とか、「優先エレベーターではなくベビーカーと車椅子専用のエレベーターにしてほしい」なんて意見も見たことがある。

 

いたるところで、子どもと子育て世代のゾーニングが進んでいる。

この考え自体は理解できるし、すべてがまちがっているとは思わない。

多目的トイレや優先席など、子ども自身や親も、そっちのほうが助かる場面はあるだろうから。

 

でも極端なゾーニングを進めると、「子どもが存在しないことを前提とした大人専用の社会」になってしまう。

そうするとわたしのように、赤ちゃんを抱っこしたこともなく、日常生活でもほとんど子どもを見かけないまま、出産適齢期を迎えることになる(地域や家族構成なんかにもよるんだろうけど)。

 

で、子どもと関わったことがない人が「子どもを産んで育てることを現実的に想像できるか」というと……まぁむずかしいよなぁ。

 

子どもという異物が日常生活から排除されていく

以前に勃発した「幼稚園は騒音か否か」という議論のとき、「昔は寛容だった」という主張をよく見かけた。

 

でも、それはちょっとちがうんじゃないかなーと思う。

昔だって子どもは叫びながら走り回ったはずだし、物を壊したり、ケガしたりしていたはずだ。ほら、のび太はしょっちゅうかみなりさんに怒られていたじゃないですか。

 

別に、大人たちが極端に子どもに対して優しかったわけじゃないと思うんだよ。

ただ子どもがたくさんいたから、生活の中に子どもがいるのは当然で、子どもが騒いだり物を壊すのは「あるある」だっただけ。要は、慣れの問題だ。

 

そもそも子どもは労働力でもあったから、特別扱いしていなかっただろうし。

でも子どもが減るにつれて、しぜんと「大人中心」が当たり前になっていき、子どもが良くも悪くも珍しくなってしまった。

 

こうなったらあとはもう、多数決だ。

子どもが身近にいる人といない人。後者が増えれば、子どもは当たり前の存在ではなく「異物」になる。異物を排除したくなるのは、人間の性。

 

だから公園では、子どもがボール遊びすらできず、遊具が撤去されたのだ。

まぁ逆に、子どもは特別だから、「子どもがやったことだから許して」「育児中なんだからしかたないでしょ」と平気な顔をして迷惑をかける親もなかにはいるみたいだけど……。

 

子育ては「当たり前」から「趣味」になった

でね、わたしは最近、思うんですよ。

「子どもを生むかは個人の選択」といういまの価値観は、言い方を変えれば「自分の勝手で子どもをつくったんだから、まわりに迷惑をかけないようにひっそり育てなさいよ」になるんだなって。

 

子育てはもはや、趣味の領域だから。

やってもやらなくてもいい。やるのはそれが好きな人。

自分が好きでやってるんだから、まわりに迷惑かけないで。こんな感じ。

 

その考えが根底にあるから、「子どもや子連れを迷惑だと思う人にも配慮しろ」「隔離しろ」になるのだ。他人の趣味を支援してやる義理はない、と。

 

で、趣味って話なら、子育てじゃなくたっていい。

その趣味にはウン百万かかります、20年間は放棄できません、自分の時間はがっつり削られキャリアにも影響します、うっかりしたら人が死にます、なんていわれたら、「他の趣味でいいや……」となるのも当然だ。

 

もちろん、子どもを産む・育てるのは個人の選択であって、他人がとやかく言うことではない。

でもその結果、子育てが趣味と同じような位置づけになり、「趣味で他人に迷惑をかけるな」と子どもが隔離されるのであれば、ちょっと話は変わる。

 

子どもがいなくて当然の生活を送っている若者たちが、「よし、子どもをつくるぞ!」なんて気持ちになるわけがないから。

産んだとしても、大人専用の社会では肩身が狭くて育てづらいしね……。

 

子どもが少ないからこそ、「特別」にならないように

そもそもの話、子育てしやすい社会、なんて大層な御旗を掲げなくても、日常生活に当たり前のように子どもがいる社会なら、子育ては問題なくできるはずなんだよ。

親のキャリアは別として、いままではずっと、大人も子どもも同じ空間で生活してきたんだから。

 

それなのに、子ども専用の遊び場を作ってそこで遊ばせろとか、子連れ専用車両を作ってそれを使えとか、すーぐに子どもを隔離しようとする。

子どもを隔離したら日常から子どもが消えて、「子育てとは何か」を想像できる人が減っていくだけなのに。

 

……なんて書くと、「子どもをかわいくない、泣き声をうるさいと思う自分の気持ちは無視するのか!!」と怒られそうだけど。

 

いろんな人がいる社会のなかで生きている以上、多少はしょうがないよ。

電車で足を広げている男性を邪魔だなぁって思ったり、香水がきつい女性をくさいなぁって思ったりはするけど、だからって「気に食わないから隔離しろ」とは思わないもの。

 

それなのになんで、子どもだけは特別扱いして隔離しようとするの?

うるさくて邪魔な子どもを排除したら、次はだれを追放するの?

 

子どもはもちろん、いろんな人がいろんな事情を抱えて生活しているんだから、それを受け入れてお互いちょっとずつ妥協して成立するのが「社会」なんじゃないの?

 

日常生活から完全に子どもが消えたら、だれも子どもをもつことが想像できなくなるよ。ただでさえ、自分が生活するので精一杯なのに。

だからいくら絶対数が減ろうとも、子どもはそこらへんにいて当たり前、同じ社会、生活圏で暮らしている存在であるべきだと思うのだ。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

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読書の秋、食欲の秋、そして芸術の秋。

先日、長野県の北アルプス山麓に出かける用事があり、久しぶりに安曇野ちひろ美術館を訪問してみた。そこには「トットちゃん公園」なるものが新たに併設されていて、これも含めて見応えがあったので、今日はこれを紹介してみる。

 

『安曇野ちひろ美術館』とは

はじめに、安曇野ちひろ美術館について少し説明する。

ちひろ美術館とは、絵本画家・いわさきちひろの作品を中心としたさまざまな絵本作品を展示する美術館で、絵本美術館としては世界初であるといわれている。1977年に東京に本館ができた後、いわさきちひろに縁の深かった北安曇郡松川村に建てられたのが、安曇野ちひろ美術館である。

建物は北アルプス山麓の景観に溶け込むようにつくられていて、正面玄関側から見ると、屋根と向こう側の山と入れ子状に重なり合うデザインになっていると気づく。

そしていわさきちひろと言えば、なんといっても絵本の水彩画だ。いわさきちひろの名前を知らない人はいても、この水彩画に見覚えのない人はほとんどいないのではないだろうか。

岩崎ちひろの絵が表紙を飾っている絵本は多数あって20世紀後半以降、多くの人に親しまれている。ある意味、現代の日本人にとって最もなじみ深い画家とも言え、ここではその作品を鑑賞できる。美術館なのだから、それは当然だ。

しかし「絵本の」美術館だけあって、美術好きの大人だけでなく、子どもでも楽しめ、なんらか啓発されるような仕掛けがあちこちにある。

たとえば館内廊下に配置されているこの展示物は、クルクルと回転させて春夏秋冬の絵合わせをして遊べる。

これが子ども騙しではなく、大人でもやり甲斐がある。海水浴の絵や雪山の絵などは季節がわかりやすいが、草花の絵は都会暮らしの人にはちょっとわかりにくいかもしれず、ひとつの季節に統一するのは案外と難しい。

子ども用スペースにも目を惹くものがあった。イタリア人デザイナーによる床のテキスタイルも気になるが、ここに置かれた椅子が面白い。個性豊かな形なので、この椅子だけで「おうちごっこ」が遊べてしまうだろう。

ちょっと見にくいかもしれないが、椅子の木目模様にも注目してほしい。なんと、この七脚の椅子は同じ木から作り出されている! それぞれの椅子は異なる作り手さんが手掛けたそうだが、こうしてズラリと並ぶと七脚で一そろいになる。

 

こうした、子どもにも楽しんでもらう意識は現在の特別展示にも反映され、

この「あれ これ いのち」展には『あれこれスケッチ』というハイテクな展示物が配置されていて、真っ白なスクリーンに指で線を描くと、(いわさきちひろが描いた)色々な生き物が飛び出してくるアトラクションになっている。これも凝っていて、何種類あるのか見当がつかないほど色々な生き物が飛び出してきて、その飛び出し方のバリエーションもワンパターンではない。

 

額縁に入った絵画を鑑賞したり、おさわり禁止のモニュメントを眺めたりするのは、大人の美術館鑑賞としてはわかる。しかし、それでは子どもが楽しめない。

けれどもこの美術館は子どもを楽しませ、なおかついわさきちひろの絵に親しむ契機となるような展示物や仕掛けが取り揃えられ、そうそう退屈させないようにできている。遊んでいるうちに絵や美術品や工芸品に親しめ、おのずと啓発されるのもポイント高い。

 

美術館の北側の「トットちゃん広場」

その安曇野ちひろ美術館のすぐ隣、村営公園の北側には『窓ぎわのトットちゃん』の”聖地”がつくられている。1980年代にベストセラーになり、最近アニメ映画化された『窓ぎわのトットちゃん』に登場するトモエ学園の講堂や電車の教室が再現されているのだ。

講堂にはトモエ学園の当時の子どもたちの白黒写真が展示され、劇中でも歌われていた『よくかめよ』の楽譜とともに古いピアノが飾られている。そして講堂のすぐ脇には、アニメ版『トットちゃん』を見た人なら声をあげてしまうであろう、“あれ”が再現されている。

トットちゃんが財布を落とした、肥溜めのレプリカである。財布を探すためにトットちゃんが肥溜めをひっくり返し、なにもかも汚物まみれになるこのシーンは現在の私たちからみると恐怖だが、トモエ学園の小林先生はトットちゃんを叱るでもなく、「もどしとけよ」とだけ伝える。

そしてここの一番の目玉は、電車の教室と電車の図書室だ。

劇中、トットちゃんは電車の教室を観てたちまち気に入り、トモエ学園への転校を願う。これも当時のまま再現されていて、アニメの作中描写と寸分も違わない。

 

電車の図書館の車両は昭和 2年製、電車の教室の車両は大正15年製で、暖色の照明や木の机や椅子も相まって、レトロな雰囲気にまとまっている。職員の方によれば、この古い車両は長野県の私鉄(長野電鉄)が保存していたもので、それを譲り受けて再現することとなり、ちひろ美術館館長・黒柳徹子さんも喜ぶ出来だという。

 

秋の安曇野を訪れてみませんか

安曇野ちひろ美術館とトットちゃん公園にはほかにも見どころがあり、公園ではさまざまな体験イベントが開催され、その内容はこちらのリンクから確認できる。また、美術館には特別展示のほかに常設展示もあり、国内外の絵本の歴史を追いかけることができる。

いわゆる西洋式の絵本は20世紀に日本に入ってきて、戦後、開花していった。しかし日本の場合、西洋式の絵本が普及する前から浮世絵などが庶民に楽しまれ、もっと昔には絵巻物などが存在していた。

国外では、印刷以前の時代には古代エジプトのパピルスに描かれた絵やキリスト教の信者にみせる絵の聖書などが存在していたが、活版印刷の登場により、いったん本は文字偏重のメディアとなる。しかし、たとえばオフセット印刷なども含めた技術の進展によって、文字と絵の両方が刷られた、現代の絵本に近いものが普及していった。

 

私はメディアとテクノロジーの進展について日頃から考えている人間なので、この常設展示には夢中になってしまった。私と同じ趣味趣向を持った人なら、この展示はいくらでも眺めていられるはずだ。

 

そして秋の安曇野には侘しさと暖かさと厳しさの混じりあったような、なんともいえない雰囲気がある。安曇野ちひろ美術館は秋の安曇野の景色に保護色のように溶け込んでいるから、カーナビなどを使っていないとうっかり通り過ぎてしまうかもしれない。

公園には地元の植物が植えられ、池も設けられているため、私が訪れた時にはトンボや蝶、アマガエルなどが出迎えてくれた。当地ではこれから紅葉が深まり、北アルプスの高峰が白くなりはじめる。松本市から見える北アルプスと違って、このあたりから見上げる北アルプスには迫ってくるような存在感と威厳があり、日没間もない時間帯の山々には怖ささえ感じられる。

冬も、安曇野には早くやってくる。

12月には安曇野ちひろ美術館とトットちゃん公園は冬季閉鎖になるので、訪れるなら11月中か、翌春、ある程度暖かくなってからをおすすめしたい。

 

【おことわり】本記事の写真のなかには、職員の方に撮影許可をいただいたうえで撮ったものが混じっています。美術館内で写真をお撮りになる方は、撮影禁止のエリアかどうか、ご確認のうえでお願いします。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo:Cecelia Chang

もしかすると私は、「偉大な未完成作品」が令和の今になって完成するところを見ているのかも知れない。そう感動しているところなんです。

この記事で書きたいことは、大体以下のようなことです。

 

・「ロマサガ2」のリメイク版である「ロマンシングサガ2 リベンジオブザセブン」が先日発売されました
・ロマサガ2はとても面白かったのですが、いくつか欠点もあゲームでした
・得意武器と自己申告と閃き適性が食い違いまくるシステム今でもちょっと恨んでます
・特にノーマッド♂だけは許さない
・リベサガ、その辺が丸々可視化されていてめちゃくちゃ面白いです
・閃きの派生表と戦闘中の閃き可否が表示されるシステム快適過ぎる
・全般的に遊びやすさがもの凄く向上していて、追加要素やグラフィックもとてもいい感じ。特に忍者が可愛いです
・皆さんリベサガ遊んでください

 

以上です。よろしくお願いします。

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。

 

まず、SFC版「ロマンシング サ・ガ2(以下ロマサガ2)」の話をさせてください。

ロマサガ2は、初代ロマサガのフリーシナリオシステムを更に発展させ、「バレンヌ帝国の興亡と、七英雄との戦いの歴史を自分で作っていく」という、非常にスケールの大きなRPGでした。

 

ロマサガ2はもちろん非常に面白く、私も一時期死ぬ程遊んだんですが、とはいえ荒削りな部分もあれば、人を選ぶ部分もありました。

私が考えるロマサガ2の最大の欠点は、「攻略の根幹部分が殆どマスクデータとして秘匿されているのに、それを判断する為のゲーム内の情報があちこち間違って(控えめに言ってもミスリードを誘う内容になって)いる」ということです。

 

特に大きなポイントとして挙げたいのが、「閃きシステム」です。

 

ご存知の通り、ロマサガシリーズ、特にロマサガ2の戦闘バランスはかなり辛めに作られています。敵の攻撃は序盤からどんどん苛烈になりますし、嫌らしい攻撃をしてくる敵もじゃんじゃか増えていきます。しかもロマサガ2では戦闘回数を重ねるごとに敵がパワーアップしていく為、終盤には「下手な七英雄よりもその辺歩いてる雑魚敵の方が強い」などと言われる程のバランスになります。

 

となると当然「なるべく敵に行動させずに倒し切りたい」となる訳ですが、敵モンスターは耐久的にもかなりタフです。通常攻撃でちんたら戦っていたら、相手を倒しきるまでにあっという間にHPが削られて、パーティはあっさり半壊するし、LPはベキベキ減りまくるわけです。次回、「ソウシ死す」デュエルスタンバイ!

 

その為、ロマサガ2攻略の上での鉄則は「リソースを惜しみなく使って、可能な限り速く敵を倒す」「それが無理なら、戦闘回数を重ねない為にも戦闘自体を避ける」というものでした。先手必勝、速攻必殺。だからこそ、ラピッドストリーム(必ず先制出来る陣形)があんなに強力だったのです。

 

そこで最重要なのが、武器ごとの「技」と「閃き」でした。

 

ロマサガ2では、敵を攻撃していると、ある程度の確率で「技」を閃いて、強力な攻撃をすることが出来ます。豆電球がついて、「きゅぴーん!」って音がするアレです。この「技を閃く」瞬間が滅茶苦茶気持ちよくって、これだけでロマサガ2をやり込む理由になるくらい中毒的だったんですよ。「ロマサガ2」というゲームの面白さの、その中核になるエッセンスだったと言っても良いでしょう。

例えば流し斬り。例えば無双三段。高速ナブラ。不動剣。削岩撃。ファイナルレター。強力な技は、もちろん見た目もかっこいいですし、「速攻必殺」が鉄則なロマサガ2では、攻略する上でも非常に重要でした。「ある程度強い武器と強力な技があるかどうか」で攻略難度が天地の差になるのです。

 

ただ、ロマサガ2のゲーム中では、「閃き」に関する情報は丸々マスクデータで、ほぼ一切開示されていませんでした。

実はロマサガ2では、職業とは別にキャラクターごとに「閃き適性」と「閃きタイプ」というものが設定されていて、「ある技を閃く可能性があるかどうか」は事前に全部決まっているのです。

 

例えば大剣の強力な技である「無明剣」を閃けるのはこの閃きタイプのキャラだけとか、敵のレベルがいくつ以上でこの技を使った時に派生技を閃く可能性があるとか、そういうのは隠し設定として隠匿されていたんですね。(余談ですが、続編の「3」ではこの辺がだいぶ緩和されていて、適性がないキャラでも一定条件で特定の技を閃く可能性があり、3が遊びやすかった理由の一つでもありました)

 

もちろん、これはゲームを遊ぶ上での醍醐味でもありました。マスクデータというのは「探す楽しさ、掘り起こす快感がある」ということでもあり、我々は技探しの為にわくわくしながら武器を振り続けていましたし、「こんな技閃いた!」という情報の共有は、宝探しみたいでわくわくすることでもありました。

 

ただ、その「閃き」についてゲーム内で開示される情報が、あまりにミスリードまみれだったことについては、当時ロマサガ2を遊んでいた人たちの間では認識が一致しているところでしょう。当時は「キャラの職業」によって得意な武器が分かれているとされていて、当然技の閃きもそれに準じていると思っていたのに、実は「閃きタイプは職業ごとではなく、キャラクター一人一人違った設定がされている」という、強烈な罠仕様があったのです。

 

すいません、今からちょっと早口になるので、飲み屋で熱量高め厄介のオタクが好きなゲームの愚痴を高速語りしているのを隣のテーブルから眺めるつもりで、以下段落を読み流していただきたいんですが、

 

とにかく各仲間キャラクターの「大剣が得意な私を連れていってください!」とか「弓が得意です」みたいな自己アピールが本当の本当に嘘ばっかで、こっちは閃き適性を判断する情報がないから自己申告の得意武器をあてにするしかないのに、スネイル以外の帝国重装歩兵は線切りどころか二段斬りすら閃かないし、帝国軽装歩兵♂の半分くらいは大剣適性じゃなくて剣適性だし、槍が得意なキャラはアマゾネス以外は各職に散らばっていて訳が分からないし、ノーマッド♂に至っては「弓が得意です」とか言っておきながら弓適性のキャラは一人もおらず殆どが斧適性で、お前ら本当エントリーシート書いて面接に臨む前にまず自分探しの一つもしてこいやと思うばかりで、武装商船団のガマで何時間トマホーク投げ続けても一生スカイドライブは覚えず、何故かアマゾネスのトモエにやらせてみたら一瞬で閃いて膝から崩れ落ちるわけです。

本当、ノーマッド♂だけは絶対に許さない。あと、バレンヌはヤウダからイーストガードを呼んできてフリーファイターとして採用しろ。

 

ロマサガ2の罠仕様はこればかりではなく、例えば防具の数値が斬耐性しか表示されてないとか敵の強さレベルが開示されないとか、国の収入がいくらになるのか分かり辛いとか、まあ色々とあったわけです。

それでも十分以上に面白かったのが、逆説的にロマサガ2の凄いところなのですが。

 

さて。

まず特筆したいのが、今回のロマサガ2リメイクである「リベンジオブザセブン」(以下リベサガ)、上記の問題の殆どが「可視化」によって解消されていることです。

 

今回、キャラクター画面で各技を参照すると、「その技が何に派生するか」「このキャラはその技を閃く可能性があるか」ということが全て可視化されています。

しかも、戦闘中も「今この技を使うと新しい技を閃く可能性がある」ということが明示されているので、斧適性がないキャラでアルビオン相手に一晩トマホークを投げ続けるとか、そういう悲劇が一切起こり得なくなっているわけです。もう超快適。閃きが捗り過ぎる。

敵には様々な弱点属性が設定されているのですが、それが「一度弱点を突くと以降可視化される」という、オクトパストラベラーと同様の形式になっていることも挙げておくべきでしょう。特定の技がクリティカルになる際もそれが事前に表示されるようになり、「やり込んでる人なら強さを理解出来る」武器だった弓や小剣の使い勝手が大幅に上がっています。

 

更に、帝国の現収入や敵の強さレベル、継承後の各キャラの基本値となる武器や術のマスターレベルまで、原作でマスクデータになっている部分が殆どメニューで参照出来るようになりました。

ファストトラベルの使い勝手も向上しており、ダンジョンからでも各町やアバロンの拠点に直で移動出来る他、武器や合成術の開発についても、「完成した」どころか「開発出来る状態になった」ということすら通知してくれるので、もう遊びやすさが天元突破しています。

 

元々「すげー面白いけど色々遊びにくい部分もある」名作だったロマサガ2の、その「遊びにくい」部分がほぼ丸々解消されてしまったわけです。これ大変なことじゃないでしょうか?開発者の「ロマサガ2」というゲームに対する理解度が凄い。

 

システムやストーリーはなにせ元々面白いので言うことないんですが、やはり「各地のイベントを好きな順で攻略していって、帝国を繁栄させていく」というゲームの作りは面白いことこの上ない。攻略順を工夫する楽しさもありますし、いきなり遠くに行って強力な武器を得て無双する楽しさもあります。

 

ただ、今更の話ですが、バレンヌの皇帝って外征や外交どころか、偵察や災害対応、害獣駆除、遺跡調査や開拓まで全部皇帝と側近だけでやっちゃうんですが、あの国の皇帝職ブラック過ぎじゃないでしょうか。国のトップが他国で死にまくるのって帝政の国として許されるのか。

 

あと、これも今更の話ですが、「あんた帝国最強だから、囮出してる間にボクオーンに突っ込んでください」と自国のトップに平然と提案して名軍師扱いされてる軍師がいまひとつ納得いかない。まあ今回、リメイク元よりはちゃんと理由説明されたので良いのですが……。

 

最新機種でのリメイクということもあって、グラフィックや追加要素も文句のないところです。「聖剣3」のリメイクの頃から、キャラクター造形のセンスが天井知らずに向上し続けていると思うんですが、今回も各キャラの美麗さが素晴らしい。

元々ホーリーオーダー♀が好きだったんですが、今回忍者のデザインがあまりに良すぎまして、体術は忍者をスタメン固定しました。これだけの為にヤウダ攻略の優先度上げました。

ただ一点、これはどうもSwitch版の問題らしいのですが、「拠点の出入りや場面転換時のロード時間がやや気になる」というところは指摘しておく必要があるかと思います。新たに追加された七英雄の記憶シーンの前後にも妙に長い転換シーンがありまして、昔のCD媒体のゲーム程ではないにせよ、最近のゲームにしては若干テンポに影響出てるかなと思うレベルです。PS5やSteam版ではその辺の問題はないらしいので、その辺ご確認ください。

 

個人的な雑感として、一周クリアした段階での各武器種についての所感も触れておきます。SFC版だと武器種ごとのバランスがやや極端だったんですが、今回様々な武器にてこ入れが入っていて、「使えない」「育てて後悔する」というような武器種はないと言ってしまってよいでしょう。

 

とはいえ「使いやすさと強さのバランス」という意味だと若干武器種ごとの差はあって、一周したくらいの進捗度で考えると、

 

体術:序盤から終盤までずっと強い。技も強いし、格闘家と忍者がいるので閃きにも苦労しない。ベルセルクを考慮しなくても最強武器種候補と言えそう
大剣:強い武器が手に入りやすく、体術に次いで使いやすく、強い。イーストガードが入るまでは、閃き適性がやや散らばっているのが難点か
斧:大剣と同様、武器と技がバランスよく強く、威力面で主軸に出来る。武装商船団はどうせ一度は皇帝にするのでその際鍛えるのがよさそう
小剣:序盤はやや控えめだが、特攻技が多く閃きにも苦労しない。威力が高い武器もまあまあ手に入りやすい為、中盤以降は強力で最後まで使える
こん棒:補助技と威力技がバランスよく揃っている。ただ、閃き適性があるキャラに腕力が高いキャラが少ない為、中盤主軸にするなら早めにナゼールを制圧してサイゴ族が欲しいか
剣:適性があるキャラが各職に散らばっており、十文字斬り以降の技の閃きにちょっと苦労する。その為中盤やや使いにくい印象。技がそろえば強い
槍:足払いを上手く使えるかで序盤の攻略難度が大きく変わる。ただ、剣と同様閃き適性が散らかっているのが難点。無双三段を早めに覚えられれば非常に強い。大車輪が欲しい
弓:序盤のでたらめ矢、中盤の落鳳破など強いことは強いのだが、普通に進めていると強い弓がなかなか手に入らず、中盤威力が伸び悩みやや扱い辛い。強く使うのにひと工夫必要

 

こんな感じになるでしょうか。ご参考まで。

ということで、長々書いて参りましたが、書きたかったことは

「リベンジオブザセブンは、ロマサガ2の遊びにくかった部分を殆ど解消していてもの凄く面白いので買って損はありません皆さん遊んでください」

だけであり、他に言いたいことは特にありません。よろしくお願いします。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo:

生成AIの会社を立ち上げて、そろそろ1年になる。

いろいろとやってきて思うのは、生成AIの大きな可能性、そして、扱いの難しさの二つだ。

 

現在は、生成AIへの期待がある一方で、

「導入したけど活用できていない」

「自分でやったほうが早い」

「狙った成果が出ない」

など、不満も多く聞かれる。

 

無理もない。

現在のChatGPTに代表されるようなLLMのインターフェースは、その扱いに、それなりの「言語能力」と、「タスクを切る能力」を要求する。

要するに、利用が面倒なのだ。

 

しかも、現在の生成AIの能力は、まだ仕事の「丸投げ」を許さない。

やるべきことをステップに分解して、細かく指示を出す必要がある。

利用する方なら共感いただけると思うが、適当に丸投げをすると、さぼったり、間違えたり、見当違いのことをしてしまう。

 

例えば、ニュースが羅列されているCSVファイルを読ませて、特定の話題だけを抽出しようとしたとき、単に

「ファイルを読んで、〇〇の話題だけを抜き出して」

と命令しても、あまりうまく動作しない。

 

上手く特定の話題を抽出させるには、

 

・CSVファイルを適切なサイズに分割し

・内容をChatGPTに読みやすい形に変換させ

・特定の話題とは何を含むものなのかをChatGPTに推測させ

・そのうえでファイルとの照合を行って

・特定のフォーマットに出力させる

 

という手順を踏み、それぞれを精緻にプロンプト化しないと、プロの水準が要求する正確な結果が出ない。

それゆえに、生成AIをうまく扱うためには、上述したように、言語能力とタスクを切る能力の両方が必要となる。

 

そりゃ、なかなか普及しないよね、と思うのだ。

要するに、人に指示を出すのと、手間としてはあまり変わらないかむしろ若干面倒だ。

 

「なんだ、やっぱり使えないじゃん」という方もいらっしゃるかもしれないが、もちろん、いいところもある。

 

雑多で成形されていないデータを扱える、という最も大きなメリットはもちろん、

膨大な処理を文句ひとつ言わずにやる。

安い。給料も福利厚生も必要ない。

詰めてもOK。

「やる意味は何ですか?」とか聞かない。

 

そういう点は、LLMは人間に比べて圧倒的に優れているとも言えるが

「こちらがうまく指示を出さないといけない」

というところは、全く手抜きができない。

 

そういうこともあって、生成AIの本格的な普及は、

「プロンプトが不要になってから」

「仕事を丸投げできるようになってから」

だと思っている。

 

 

「生成AI人材」採用における、本質的な難しさ

さて。

そういう状況であるから、当面はまだまだ、生成AIの活用には人の力を必要とする。

 

だが現時点では、AIをうまく扱う能力を持つ人の採用は、かなり難しい。

というのも、言語能力とタスクを切る能力を両方持ち合わせている人が少数なうえ、その能力を持っているかどうかの見極めが、とても難しいからだ。

 

さらに、生成AIの領域は、毎日のように新しい技術や課題が出てくるため、「学習能力」も業務遂行上、不可欠である。

すでにやり方のわかっているタスクを処理する能力は高いけど、新しいことの学習能力は低い、という人はピカピカの経歴を持つ人でも珍しくない。

 

ただ、言語能力については、いろいろと考えた結果、採用の際に

「文章を書いてもらう」ことで、ある程度見極めが可能であると判断した。

何か一つでも、即興で1000文字程度で何かを論評する記事を書かせれば、その能力はある程度判定できる。

ここまではいい。

 

しかし、生成AI人材の獲得において、本質的に困難なのが「学習能力の判定」問題だ。

これは、言語能力の判定などよりも、かなり難しい。

 

以前にも記事で書いたが、この能力は経験年数やIQなどとはあまり関係がなく、どちらかといえば「人格的な要素」に属するからだ。

「自分に足りない力」を謙虚に受け入れて勉強する、という行動力が問われる。

 

そう言う意味では、上でも触れたが「学校の勉強はできるが、学習能力は低い」というのはあり得る。

素直さがない人間は、現代の複雑さが増した仕事では役に立たない。

 

 

ただこれが難しいのは、これは「性格のいい人」を採用すればいいというのとは少し異なるという点だ。

謙虚さを、性格の良さと同一視してはいけない。

 

実は、前に在籍していたコンサルティング会社では、「いい人を採用するのではなく、素直で謙虚な人間を採用せよ」と言われていた。

これはトップの方針だったので、特段何も感じなかったが、自分が会社をやる段階になって、これは極めて的を射ていると思うようになった。

 

実際、「いい人」は本質的には、人に嫌われたくないだけの人、というケースも多い。

 

だがそれは謙虚さとはちがう。

謙虚さとは、「自分にできることと、できないこと」を、客観視して把握できる能力のことで、無駄に人にへつらったり、媚を売ったりすることと根本的に異なる。

 

だから、能力が高くとも、新しいことをロクに覚えようとしない人も多い。

 

例えば「コンサルティング会社」でも、生成AIの利用率は低いそうだ。

「面倒だ」という人が多いのだろう。

でも、すべての人のスキルはいずれ陳腐化する。

 

キャロル・ドゥエックは著書「マインドセット」の中で、「やればできる」と述べている。

持って生まれた才能、適性、興味、気質は1人ひとり異なるが、努力と経験を重ねることで、だれでもみな大きく伸びていけるという信念である。

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彼は学校の勉強や、芸術家、スポーツの世界での事例をもとに、「能力は努力を続ければ伸びる」と結論づけている。

 

確かにこれは正しい。

自分のことを「客観視」し、能力の欠如を素直に受け入れられれば、だが。

 

だからこそ自分の能力を素早く「リスキル」できる学習能力は、特にこれからも貴重であり続ける。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

生成AI活用支援のワークワンダースCEO(https://workwonders.jp)|元Deloitteのコンサルタント|オウンドメディア支援のティネクト代表(http://tinect.jp)|著書「頭のいい人が話す前に考えていること」65万部(https://amzn.to/49Tivyi)|

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯note:(生成AI時代の「ライターとマーケティング」の、実践的教科書

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Photo:Miguel Bruna

ウチの近くに、googleの☆評価が2.8というなかなか厳しい焼き鳥屋さんがある。

点数だけでなく、口コミの方にも辛辣な言葉が多く並ぶ。

 

「久しぶりに大ハズレ。野菜串、さみしくひとかけら刺さって300円」

「美味しくないのに値段は高い。まずい」

「店員さんは最低な対応。口コミは正しいです」

 

このお店、2019年のオープン直後に私自身、1度だけ行ったことがあった。

夕方の早い時間だったが、つくねや肝など定番の串まで既に売り切れと言われ、ガッカリしたことを覚えている。

そんなこともあり、それから1度も行っていなかったのだが、だからといってgoogleの評価はあまりにも悲惨だ。

 

googleの口コミや評価システムにも、大きな問題があるのだろう。

しかしそれを割り引いても、ここまで低評価だとかなり苦労しているのではないだろうか。

なのになぜ、5年も続けることができているのかとそちらのほうが気になってくる。

 

そんなこともあり、久しぶりにお邪魔させていただくことにした。

そしてそこで、予想もしていなかった驚きと気づきを提供してもらうことになる。

 

五十歩百歩

話は変わるが、古典や故事などをもとにして生まれた言葉や慣用句を「故事成語」という。

有名なところでは、武器商人が自らの武器を宣伝する際の、以下のようなエピソードだ。

 

「私のこの矛で貫けぬ盾はない!世界一鋭い矛である。そして私のこの盾を貫けるような矛はない!世界一硬い盾である」

すると口上を聞いた観客の一人が、こんな事を返す。

「その矛でその盾を突いてみせろ」

商人は何も返すことができなかったという、『矛盾』の語源だ。

 

少し変わったところでは、文章や書類を丁寧に見直すことを指す「推敲」について。

これもよく考えたら、不思議な字面をしている。

「推(お)す」「敲(たた)く」はそれぞれ、文字通り「推す」という字と、太鼓などを棒で「敲く」という意味の字を並べたものである。

なぜ推したり敲いたりすることが、文章を見直すという意味になったのか。

 

話は中国の唐の時代にまでさかのぼる。

賈島というひとりの男が、ロバに乗ったまま詩を作っていた時のこと。

「僧は推す月下の門」

という美しいフレーズを思いついた。

 

しかしここで、賈島は大いに悩む。

「僧は敲く月下の門、の方が美しいのではないか。推すか敲くか、どちらにすべきだろう…」

そんなことに夢中になり考え込んで、周囲がみえなくなってしまった。

するとマズイことに、ロバはそのまま地元長安郡の知事が進んでいた行列に突っ込んでしまい、逮捕されてしまう。

 

たちまちひっ捕らえられ、知事のもとに連行された賈島。

なぜこんな無礼な真似をしたのかと問われ、知事にこう申し開きする。

 

「推すか敲くかで悩んでいたのです、大変申し訳ございませんでした」

 

そして何を隠そう、この時の知事こそ詩人として名高く、唐宋八大家としても知られる韓愈であった。

すると韓愈は「そこは敲くの方が美しいのではないか」とアドバイスし、これ以降、賈島と大いに気が合う仲になる。

このエピソードが転じて、文章を見直すことを『推敲』と呼ぶようになった。

 

もう一つ、日本人にはあまり馴染みがない『鶏肋』という言葉についてだ。

中国では、「大して価値はないが捨てるには惜しいもの」の例えとして用いられる。

鶏がらダシスープの材料になる、あばら骨のことだ。

 

ではこの鶏肋、なぜそのような意味で用いられるようになったのか。

話は3世紀、三国志の時代にまでさかのぼる。

当時、三国志の雄・魏の曹操は劉備を攻め、中国南方の漢中に兵を進めていた。

 

しかし抵抗する劉備軍は非常に手強く、戦況は思うように進まない。

そのためこのまま攻め続けて消耗を重ねるのか、それとも兵を退くのかについて曹操以下、幕僚たちも悩み始めた。

 

そんなある日、食事の席上で曹操はふと、こんなことをつぶやく。

「このスープは鶏肋だな、鶏肋…」

 

幕僚たちは何を意味するのかわからず、首を傾げる。

そんな中、将来有望と期待され、切れ者であると評判の高かった幕僚・楊修は曹操の意図を理解し、配下の部隊に撤収準備を始めるよう命令を下した。

 

「殿は間もなく、漢中からの撤兵を決断されるであろう。大して価値はないが捨てるには惜しい鶏肋に、漢中をなぞらえたのだ」

 

そのように説明したというが、楊修のこの勝手な判断に激怒した曹操はすぐに彼を呼び出すと、軍規違反で処刑してしまう。

加えて、このような経緯からますます撤兵する決断ができなくなり、やがて勢いを増した劉備軍に散々に打ち破られ、潰走してしまった。

 

「大して価値はないが捨てるには惜しいもの」

にこだわり、多くの兵と優秀な幕僚を失った曹操。

このようなエピソードから、『鶏肋』はその象徴になったということである。

 

故事成語のおもしろさは、失敗や成功をはじめとした人の営みから生まれた教訓などを短く言いまとめた、言葉の結晶なところにある。

字面だけをみていたら何のことかわからないのだが、その由来を探っていけば意味深い物語に行き当たる。

 

蛇の絵に足を書き足して、「これは蛇ではない!」と責められ、失敗したとされる『蛇足』。

戦闘の際に、50歩だけ逃げた兵士が100歩逃げた兵士を笑ったことから生まれた『五十歩百歩』。

挙げれば切りが無いが、言葉の裏にはそんな興味深い物語が隠れていることが多い。

ぜひ、気になったら調べてみてはいかがだろうか。

 

人間万事塞翁が馬

話は冒頭の、焼き鳥屋さんについてだ。

Googleの☆評価2.8のお店に再訪し、どんな驚きと気づきを得たのか。

 

結論からいうと、再訪はとても満足度の高いものだった。

値段は安いし、提供速度も早いし、オープンから6年近くになるのにお店の清潔感も十分である。

 

加えて、googleの口コミで徹底的に叩かれていた

「店員の態度が悪い」

「教育が行き届いてない」

「注文しても無愛想で返事がない」

というような事実は一切感じられない。

 

それどころか、若い店員さんはとても気が利き、オーダーを取る時の笑顔や商品提供時の気遣いなど、爽やかな思いになったほどだ。

 

ではなぜ、googleの口コミではあれ程に叩かれているのに、実際はそうではないのか。

考えられるのは、こんなところだろうか。

 

・何らかの目的を持った人が悪意で、お店を叩いている

・コミュニケーション能力の低い店員さん1人が、お店の印象を作ってしまった

・googleのコメントを見た店主が、一生懸命に経営を立て直した

 

叩くことが目的な人の存在については、googleの欠陥的な仕組みもあり、どうしようもない。

誹謗中傷するヤカラを上回るファンを作ることでしか☆評価を上げることはできないので、割愛する。

 

印象の悪い店員さんが1人いたのかもしれないが、今の御時世、重労働でキツい居酒屋さんで仕事をしてくれる人もなかなかいなかったのだろう。

しかし口コミもいよいよ辛辣になり、『泣いて馬謖を斬る』思いで、人の入れ替えを決意したのだろうか。

 

そして何よりも感じたことは、店主が本気で経営再建に乗り出したのだろうか、という思いだ。

普通ここまで低評価で徹底的に叩かれたら、心が折れる。

状況が許すなら、お店をたたむことすら考えたはずだ。

 

そんな中で、店主は誹謗中傷に近い書き込みにも向き合い、商品やサービスを真剣に見直したのだろう。

値段設定や商品、顧客対応など一つ一つの“クレーム”を参考にして、今の状態までお店を持ち直した痕跡が、さまざまな所に垣間見えた。

実際、私が再訪したのは週半ば、平日夕方の早い時間だったが、決して広くない店内には6組ほど客が入っており、なかなかの盛況だった。

 

多くの場合、お店や会社の経営が傾いたら、経営者を代えないとよほどのことがない限り、劇的な復活などない。

にもかかわらず、Googleでの悪評を素直に受け入れ、復活を遂げようとしているお店からは、本当にいろいろな気づきを頂いた。

 

そしてこのような復活を、故事成語からひとつ言葉にするなら、『人間万事塞翁が馬』だろうか。

一時の幸・不幸に一喜一憂せずに、長い目でみて人生を俯瞰することを説いた言葉だ。

その語源は、以下のようなものである。

 

昔、中国北部の国境に住む翁の駿馬がある日、敵国の領土に逃げてしまった。

周囲の人は慰めるが、翁は意に介さずこう答える。

「これが悪いことだと、なぜ言えるのか」

数カ月後、その駿馬は敵国からさらに優れた駿馬をともなって帰ってくる。

 

周囲の人は祝意を述べるのだが、この時、翁はこう返す。

「これが良いことだと、なぜ言えるのか」

するとその数カ月後、翁の息子は敵国から逃げてきた駿馬から落馬し、大怪我をする。

 

周囲の人はやはり慰めるのだが、この時も翁はこう返す。

「これが悪いことだと、なぜ言えるのか」

するとその数カ月後、敵国と戦争になった際に翁の息子は大怪我を理由に兵役が免除され、命が助かった。

そんな故事を元に、人生とは何事も塞翁の馬のごとし、という言葉が生まれた。

 

簡単なようだがgoogleで☆2.8をつけられ、口コミでもあそこまで叩かれている中での店主の心の強さは相当なものだ。

そんな中でも“クレーム”から学び、復活を遂げようとしているこの「最悪の評判のお店」に、今後も通い続けたいと思っている。

 

 

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【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など

一番大好きな焼き鳥のネタは、心残り(はつもと)の塩です!X(旧Twitter) :@ momod1997

facebook :桃野泰徳

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「あれ?おかしいな。前は売ってたのにな」

子供がランドセルにつけるようなシンプルな防犯ブザーが欲しくてホームセンターに立ち寄ったのに、目当ての物は無かった。

念の為に学用品のコーナーも探してみたけれど、やっぱり無い。

 

防犯ブザーって、もはや売れない商品なのだろうか。子供の数が減っているし、近頃の子供はブザー付きのキッズ携帯を持っているから、もう需要がないのかもしれないな。

 

ホームセンターの売り場を見渡してみると、防犯よりは防災グッズの売り場が広くなっているし、学用品コーナーよりも介護用品コーナーの方が充実している。世相を反映しているのだろう。

 

やれやれ。近頃は体感治安が悪くなった。だからわざわざブザーを買いに寄ったのに、手に入らなくてガッカリだ。

と言っても、決して実際の治安が悪いわけではないのだけれど。

 

それでも、治安はこれから悪くなるに違いないのだ。

今は物騒な事件と無縁のように思われる地方においても、きっと。

 

そんな不安に囚われたのは、つい先日、若者たちと交わした会話が原因だった。

「あぁ、事務員さん、どうも。ちょっといいっすか? 聞こうと思ってたことあるんすけど」

勤め先の商店街を歩いていたら、ふいに老舗喫茶店の店主に声をかけられた。老舗喫茶店の店主といっても、一年前に店を継いだばかりの若い兄ちゃんである。

 

元の店主は高齢で、癌を患い、当初は閉店がアナウンスされたのだが、その兄ちゃんが「老舗の看板をなくしたくない」と申し出て、脱サラして跡を継いだのだ。

店主との血縁関係はないらしいが、近頃はこうした第三者による事業承継が珍しくない。

 

「あの、こういう財布って、そこにあるブランド品の買取店で買ってもらえるんすかね?」

そう言って彼が鞄から取り出したのは、しっかりめの使用感があるルイ・ヴィトンの長財布である。状態が良いとは言えないけれど、ヴィトンはヴィトンだ。偽物でないなら多少の値はつくだろう。

「そうねぇ、ヴィトンなら大丈夫じゃない?そこの店なら商店街の仲間なんだし、少しは高く買ってくれるかもよ。もしああいう店に入ったことがなくて、入りにくいなら一緒に行こうか?」

「あ、じゃあ、いいっすか? すいません」

 

最近はブランド品と貴金属の買取店がやたらに増えているが、彼を連れて行った買取店は、地元の老舗で、商店街の古株だ。

ウィンドウやショーケースには、誰でも名前を知っているハイブランドのバッグや財布、腕時計とジュエリーが並べられている。査定を待っている間、彼は珍しそうに店内をうろついてブランド品を眺め、「ふ〜ん」とか、「すごいっすねぇ」と声を上げた。

 

友人のお下がりだという財布は本物だったようだが、やはりヴィトンといえど使用感が目立つということで、買取価格は6000円にしかならなかった。それでも

「全然それでいいっす。助かります」

と言うので、そのまま買取の手続きをしてもらう。

 

手にした6000円を鞄にしまう彼に、

「良かったね。じゃ、行こっか」

と声をかけると、彼は改めて店内をぐるりと見渡した。

そして、「こういう店って危ないっすよね」と、唐突に言った。

 

「え?」

何だよ、いきなり。

「こういう店が狙われる強盗事件のニュースって、最近多いじゃないっすか」

「あぁ、うん。都会はね〜、そういうニュースがあって怖いよね」

やめろよ、お店の人の前で。

「べつに都会だけの話じゃないっしょ? これからはこの辺も危ないっすよ」

いいから黙れよ、コラ! お店の人が嫌そうな顔して見てるだろ!

 

「あははは。やだなぁ、もう。怖いこと言わないでよ〜。ほら、行こっ」

私は慌てて彼を店の外に押し出したが、外に出てもまだ「いや、こういう店はヤバイっすよ」と言い募った。しつこいわ!

 

この商店街は人通りが少ない上に、その買取店は老舗なだけあって、店主もスタッフも高齢なのだ。確かに、もし犯罪グループに狙われでもしたら、ひとたまりもないだろう。

しかし、それを店内で口に出すのはデリカシーが無さすぎる。

 

空気の読めない困った兄ちゃんとバイバイした直後、今度は商店街に新しくできたカフェで、雇われ店長をしている女の子に声をかけられた。

「事務員さ〜ん!あの、仕事やめちゃうって聞いたんですけど、本当ですか?」

「あぁ、うん。そうなの」

 

「なんでですか?」

「そうねぇ。理由は一言じゃ言えないけど、でも長い目で見たら、私がいない方がこの街のためでもあると思うのよ」

 

「そんなことないです。事務員さんがめちゃくちゃ仕事してくれたから、短い間にすっごく街が綺麗になったし、夜も明るくていい感じです」

「ははw 私はただ、放ったらかされてたことを片付けただけ。けど、そもそも街が荒れてたのは、この街の人たちが事務員になんでもかんでも任せっぱなしなのがダメなんだよ」
「そうなんですか?」

「そうだよ。本来は、ただの雇われ事務員がそこまですることないんだもん。街をちゃんと管理して、街の魅力や活気を維持することで利益を得るのは、この街に土地と物件を持ってる地権者なんだから。なのに彼らは何もしないの。金持ちのくせに」

 

「え〜、そんな金持ちなんですか?」

「金持ちだよ。みんな高度経済成長期からバブル時代に稼いで、資産を貯めて、悠々自適の暮らしを送ってる。お金も暇もあるのに、街路灯の電気代やアーケードの修繕費さえ出し渋るんだから。そんな人たちが持ってる資産の価値を守るために、こっちが安月給であくせく働いてるのがバカバカしくなってくるよ」

 

「うわぁ〜」

「だから辞めるの。私がこのままここに居て、いつまでも便利に働いてると、この街の人たちは『任せておけばいい』って思うでしょ?私が辞めて、このままじゃダメって分からせないと、いつまでも変わらないから」

 

「めちゃくちゃ沁みます。良いお話が聞けました。実は、私も似たような立場で、似たようなことで悩んでる最中なんです。私も放っておかれて、色々と任されて、どんどん責任と仕事を増やされてしまってて。でも、そこまでの仕事を求められるのも、責任を負わされるのも違うんじゃないかって」

「本来は店のオーナーがやるべき仕事までやらされてるのね。能力があって、できるからやってしまってるけど、それで扱いが変わるわけでも、給料が増えるわけでもない。
あなたのアイデアと努力でお客さんが増えても、自分には何も還元されないんじゃ、モチベーションが上がらないって感じ?」

 

「そうです。なのに、もっと頑張れって」

「それは辛いね。そもそもこの街で商売を頑張れって言われても、限度があるやん。高齢者ばっかりなんだから」

 

「そうなんです!」

「お金を持っているのは高齢者なのに、高齢者には消費意欲がないから、物もサービスもなかなか売れないよね。逆に、若い人たちは消費したいのにお金がないし」

 

「そうそう!本当にそう! 私たち、べつに浪費したいわけじゃないのに、普通に暮らすためのお金もないんですよ!」

そう憤る彼女の顔には、一本のシワも一点のシミもない。50歳に近い私ですらこの街では若者の部類に入るのだが、目の前の彼女は本当に若いのだ。

 

さっきから彼女の隣で、ずっと黙って紙タバコをふかしていたイケメンが、

「自己犠牲はよくない」

と、急に声を発した。

「若い俺たちが犠牲を強いられてると、このあたりの治安も悪くなりますよ」

 

えっ?

「だよねー! 私もそう思う! 最近、めっちゃ強盗事件のニュースやってるじゃないですか。高齢者が狙われるやつ」

「あぁ、うん。都会はね〜、そういうニュースがあって怖いよね」

 

あれ? さっきも言ったな、このセリフ。

「都会だけの問題じゃないですって! この辺でも絶対そのうち強盗がおきますって!」

あら? さっきも聞いたな、似たようなセリフ。

若い二人は、しきりに「だよね」と頷きあっている。

「高齢者ばっかりお金を持ちすぎなんですよ。こんな世の中じゃ、強盗が起こるのも当然っていうか、分かるもん」

「本当そうだよな」

そう話す彼らの声には怒気が含まれている。私は返答に困り、誤魔化すように笑いながら

「そうかもしれないね。でも、物騒なことを考える前に、とりあえずあなたはオーナーに待遇の改善と昇給をかけあってみたらどうかな? それでダメなら、転職を考えればいい。あなたは若いし、仕事もできるし、より良い条件で働けるはず」

と提案をしてみる。

 

「そうですね。もう自己犠牲はやめます」

「うんうん。じゃあね、頑張って」と手を振って、彼らを背にして歩き始めてから、そういえば次の日曜日は衆院選だと気がついた。

「今の社会の仕組みに不満があるなら、選挙に行こうね」って、あの若者たちに言えばよかったな。

 

今のうちに政治が若者の苦境をどうにかしないと、いくら闇バイトの取り締まりを強化しても、若者が高齢者から暴力的に金銭を奪おうとする事件は、これからも増え続けるのかもしれない。

地方もそれと無縁ではない。むしろ、すでに住民のほとんどが高齢者ばかりの地方こそ、これから格好の狩場になるのではないかと思うと、背筋が震えた。

 

 

 

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【著者プロフィール】

マダムユキ

最高月間PV40万のブログ「Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。

Twitter:@flat9_yuki

Photo by :Maxim Hopman

35度超えの暑さが続いたこの夏、エアコンの設定温度を18度、風量を最大にしても部屋がほとんど冷えないという危機に見舞われることがあった。

冷たい風のようなものはチョロチョロ出るが、エアコンの真下に立っても涼しくない。

フィルター掃除をしても、状況は一向に改善しない。

 

やむを得ず電器屋さんに電話すると、保証期間内ということで、すぐに修理の職人さんが来てくれることになった。

床を養生し脚立を立てると、何やらセンサーのようなものをポケットから取り出し、エアコン周りを手際よく探るおっちゃん。

 

「原因はほぼ特定できました。これ、内部の送風ファンに汚れがこびりついていて、冷たい風を送り出せない状態で間違いありません」

「すごいですね、バラさずにそんなことまでわかるのですか?」

「送風口からわずかに出てる風を測定すると、19.8度と十分冷たいんです。つまり冷却機能の問題ではなく、送風機能の問題と推測がつくんです」

「へー、そんな感じで、消去法で問題点を探るんですね!」

「はい、加えてリビングのエアコンって、油汚れなどで送風ファンが詰まりやすいんです。間違いないと思います」

 

状況をわかりやすく説明してくれる職人さん。

しかしそこまで言うと、少し困った顔をしながらこんな事を話し始めた。

 

「で…、申し上げにくいのですがこれ、エアコンの故障では無いので、保証対象外なんです。掃除をしたら間違いなく直ると思いますが、私が掃除をしたらお金掛かっちゃいます。どうしましょう」

「この暑さなので、多少の出費はやむを得ません。ちなみに掃除ってどうやるんですか?」

「そうですね…、では今回は私が手取り足取り説明しますので、そのとおりにやってみて下さい(笑)」

 

そして一緒になってエアコンをバラし始めるのだが、その時、こんな事を考えていた。

(職人さんのスキルも会社経営も、結局同じことか…)

 

「おかしい、何かが潜んでる」

話は変わるが、かつて中堅メーカーでCFOをしていた時のことだ。

経理の若い社員がある日、こんな事を話しかけてくることがあった。

 

「桃野さん、ちょっといいですか。今年に入ってから、車両費が妙に高いことが気になってるんです」

「ん?どういうことや」

「前年実績では、毎月平均50万円程度だったんですよ。それが今年に入ってから、55万円~60万円になる月が目立つんです」

 

なるほど、車両費で出ていくものなど、社用車のメンテや税金、ガソリン代くらいのもので、大きな変動が発生するようなものではない。

修理代のような単月要因ならわからなくもないが、高止まりする理由がない。

そのため会議室に場所を移し、こんなリクエストをする。

 

「金額にして毎月わずか5万とか10万円か。だからこそ怪しい匂いがするな。調べられるか?」

「はい、去年との差分を証憑ベースで洗い出します」

「さすが、理解も仕事も早いな。なる早で頼む」

 

翌日、すぐに結果を持ってきてくれる。

前年と比較して増加していたのはガソリン代と、車両用の備品類であった。

しかし営業にのみ使う社用車で、走行距離にそこまで大きな変動など発生するわけがない。

加えてガソリン単価はむしろ、前年よりも下がっていたほどだ。

なおかつ備品類も、営業車に設置されている気配はないという。

 

「何かおかしいのは間違いないな。ガソリン代の精算って、どういう仕組みでやってるんや?」

「プリペイドカードをストックしておいて、申請があれば渡すようにしています」

「給油の頻度が多い社員は割り出せるか?」

「はい、給油記録を出させてますので。誰が出した明細かも記録してます」

 

そしてこれら記録を突き合わせると、すぐに状況がわかった。

今年に入ってから、一人の営業社員の給油頻度が不自然に高い。

そのため彼を呼び出すと、単刀直入に言葉をぶつける。

 

「間違ってたら本当に許して欲しい。自家用車か私用車に、会社のプリペイドカードで給油してないか?」

「…なんでそんなこと聞くんですか」

「営業車の走行距離から考えて、使えるわけがない量のガソリンを給油してる記録がある。あとアクセサリー類も、社用車のどこにあるか教えて欲しい」

「…なら私も言いますが、まともな昇給もない会社も悪いですよね?」

「そうか、そうやな。それは謝る。で、いつからどれくらい、不正行為をしていたのかを説明してくれへんか?」

 

すると彼は、生活が苦しくせめて家の車のガソリン代くらい会社に支給してもらってもいいだろうと、軽く考えたこと。

アクセサリー類も同様に思ったことなどを語り、謝罪の言葉を口にし始めた。

そのため、一旦家で謹慎しているよう告げて、その日は帰らせることにする。

 

しかしそれでもまだ解せない。

一般家庭でのガソリン代など、遠乗りを繰り返してもぜいぜい3万円くらいだろう。

アクセサリー類を考えたとしても、5~10万円に届かず数字が合わない。

すると後日の聞き取りで、彼は自分の車だけでなく、友人の車にまで給油していたことを話したそうだ。

状況から考えて、おそらく実質的に換金行為をしてたのだろう。

残念なことではあるが、悪質性から考えて全額を会社に返金させた後、彼を解雇した。

 

改めて思うことだが、「数万円くらいならバレないだろう」と不正行為に気軽に手を染める人は、深刻なレベルで想像力が欠如している。

経理や財務が機能している会社であれば、どんな小さな数字であっても、異常値に気が付かないはずなどないからだ。

 

私自身、CFOになり特に力を入れたことは、全ての数字について、各リーダークラスに以下のように把握するよう求めたことだった。

 

・前月と比べてどうか
・前年同月と比べてどうか
・平均的な数字とのブレはどうか

 

数字は不思議なもので、単月だけをみても

「なんとなく多め」

「きっと少なめなはず」

といった“印象”にしかならない。

 

しかし期間や変動幅などの“流れ”で見ると、

「今月の材料費は前月比で5%、前年同月比では8%も増えているのか。おかしい、何かが潜んでるな…」

というように、「主語を含めた定量的な分析」になって、危機感が生まれる。

そういった仕組みの中では、わずか5万円の不正であっても決して見逃されることなどない。

 

とはいえ、さすがにCFOの職責では、このレベルの不正に気がつける可能性は正直高くなかった。

そんな中で、若手のリーダークラスが “異常値”を見逃すこと無く対応してくれたことは、本当に誇らしい出来事だった。

 

若い社員の成長って、こんなにも嬉しいことなのか-。
そんなふうに思えた、今も忘れがたい想い出の一コマだ。

 

「自分でやってみましょう」

話は冒頭の、エアコン修理の件についてだ。

職人さんのスキルと会社経営について、一体なにを同じことだと思ったのか。

 

「エアコンは、バラすよりも元に戻すほうが大変なんです。よく覚えといてくださいね」

「はい」

「まず、そこの突起を左にスライドして下さい。そのあと、下に押し込みながら手前に引いて下さい」

「こうですか?」

 

そんな会話をしながら作業すると、エアコンはみるみるパーツになっていき、見たことのない内部が露わになっていく。

 

「ほら、そこが送風ファンです。汚れがビッシリでしょう?」

「本当ですね…」

「はいこれ、ファン掃除用のブラシです。これで削り落として下さい」

 

そして送風ファンをキレイにすると、後はバラしたパーツを元に戻す番だ。

この時も手取り足取り説明してくれたので、程なくしてエアコンは元の姿を取り戻した。

 

スイッチをいれると、寒くなるほどの冷たい風が大量に吹き出すエアコン。

それにしても、エアコン修理のオッチャンに来てもらったはずなのに、脚立に昇って“修理”をしているのはなぜ自分なんだというシュールな光景に、思わず口元が緩む。

 

「はい、直りましたね。直したのは桃野さんですから、今回の修理代は不要です。保証の範囲内の作業ということで処理をしておきますね」

「ありがとうございます!本当に勉強になりました。これから同じような不具合が起きても、自分で対処できる自信がつきました」

「そうして下さい。簡単なことはお客さん自身でやるに越したことはありません」

 

改めて思ったことだが、この職人さんは顧客を“教育”し、本当に必要な時だけ自分が来ることで、Win-Winの関係を作ろうとしてくれている。

家電の困り事があったときは、次も必ずこの職人さんに来てもらおうと思えた、とても印象的な出会いになった。

 

そして話は、CFOとして取り組んだ会社の仕組みづくりについてだ。

財務の大事な仕事の一つは、先述のように、会社の状況を定量的に把握できる仕組みを作ることにある。

問題のある箇所さえ可視化できれば、それはもう解決したのと同義といっても良いのだから当然だ。

 

それはあの職人さんも同じことで、“ブラシ掃除”のような低付加価値の仕事で小銭を稼ぐような領域で仕事をしない人なのだろう。

説明すればわかるようなレベルの仕事は、惜しげもなく顧客にノウハウを提供する。

そうやって信頼関係を築いてこそ、高付加価値の仕事も依頼される関係になれるということだ。

 

結局のところ、皆が自立・自律してこそ会社や社会は、それぞれが専門的な知見を積み上げ、付加価値を上げていくことができる。

夏の暑い日、とんでもないトラブルに見舞われたと思った“事件”だったが、逆に素晴らしい学びを頂いた、貴重な経験になった。

 

 

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【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など

昨日まで冷房だったのに、今日は暖房とかおかしい…
秋はどこに行ったの(泣)

X(旧Twitter) :@ momod1997

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あるホームレスの女性と出会ってから丸5年がたつ。そのホームレス女性は推定70代のハルさん(匿名)。

先日(10月下旬)も、東京から終電で、彼女が生活の拠点としている東海地方の某主要駅に降り立つと、駅前広場にハルさんの姿があった。

 

衣類などの生活用品を詰め込んだ3つのスポーツバッグと複数の大きな紙袋を、大事そうに肌身離さず、厚手のダウンジャケットに身を包んで横になっている。それがハルさんの日常の姿だった。

 

ハルさんに最初に出会ったのは2019年9月。某新聞社を退社し、フリーの執筆者として地方の出稼ぎ(取材、執筆、旅打ち)に軸足を置き始めた頃だった。

ハルさんが暮らす某地方都市には、今も月に1~2回のペースで出稼ぎに出ているが、ハルさんを見かけなかったことは、これまで一度もない。

 

周囲への配慮からか、あるいは何かしらの仕事やルーティーンがあるのかもしれない。朝、通勤客が増え始めると、大量の荷物を“定位置”のビルの片隅に保管し、どこかへ姿を消すが、夜になれば、決まって居住地の駅前広場に戻ってくる。

 

ハルさんを最初に見かけてから3度目の出稼ぎの際、初めて声をかけた。

夜になると結構冷え込む10月下旬だった。いつも通り、一人で夕食を済ませ、ビジネスホテルへ戻る途中、駅前広場をのぞくと、いつもの場所にハルさんがいた。

 

「寒くないですか?」。寒いに決まっているのに、寒くない? なんて聞くのは、まさに愚問だが、彼女はちらり顔を向けると、うっすらと笑みを浮かべた。

 

以来、ハルさんの前を通るたびに、「変わりないですか?」、「今夜は暖かくていいですね」、「寒くなってきましたね」といった、たわいもない会話をかわすようになった。

 

会話と言っても、ハルさんは笑みを浮かべるだけで、言葉を返してくることはないが、これもコミュニケーションの1つと言えるのではないか。

 

いつも笑顔で返してくれるハルさんが、一度だけ、困った顔をしたことがあった。

「誰か頼れる人はいないの?」、「生活保護とか支援団体は利用しないの?」。顔見知りになった気安さから、つい踏み込んだことを聞いてしまうと、ハルさんは鋭い視線をこちらに浴びせ、寂しげな表情を浮かべた。

 

人は誰でも、言いたくないこと、思い出したくないことが1つや2つはある。まして、後期高齢(75歳以上)の歳になっても、ホームレスという生き方を貫かなければならないハルさんには、それ相応の過去があるのだろう。

 

私のような凡人にはとても想像できない、山あり谷ありの人生。深入りされることを拒絶する彼女の一面に触れて以来、プライベートに立ち入るような言葉は封印した。

 

ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法では、ホームレスを「都市公園、河川、道路、駅舎その他施設を、故なく起居の場所とし、日常生活を営んでいる者」と定義している。

 

厚労省が令和6年4月に公表した「ホームレスの実態に関する全国調査」によれば、ホームレスが確認された地方公共団体は217市区町村。人数は2820人(男性2575人、女性172人、不明73人)というが、実際にはもっと多くのホームレスがいるものと推測される。

少なくても5年は同じ場所(駅前広場)で居住しているハルさんは、上記の女性ホームレス172人の中の1人に該当するのだろう。

 

こうしたホームレスの人たちのために、生活保護やシェルター、自立支援センターといった支援制度があるが、厚労省の実態調査では、こうした支援制度を「利用したくない」と答えたホームレスが49%もいたという。ホームレスの2人に1人が支援を拒んでいるのが現状だ。

 

例えば、生活保護の場合、①収入(年金を含む)が生活保護費を下回る、②資産なし、③頼れる親族がいない、といった条件をクリアし、申請が通れば、毎月一定額(単身者で10~13万円が上限)を受給することができる。

 

一方で、生活保護の受給に際しては、アパート、宿泊所、福祉施設といった正式な住所が必要で、収入を毎月申告する義務も生じるなど、一定の制約は避けられない。

本来、国やNPO団体などの支援を必要とする人の中には、こうした制度面の拘束や劣悪な環境(悪質な不動産業者や支援団体も存在する)を嫌い、自由を最優先してホームレスという生き方を選択するケースも少なくないという。

 

決して自身の過去を語ろうとしないハルさんが、これまで何らかの支援制度を利用してきたかどうかは知らないが、今は自分の意思でホームレスという生き方を選択していることは間違いないだろう。

 

ちなみに、先のホームレスの実態に関する全国調査(令和6年)によれば、ホームレスの主な生活場所は都市公園(25・2%)、道路(23・8%)、河川(22・6%)で、これに駅舎(6・2%)などが続く。人数では大阪府(856人)、東京(624人)、神奈川(420人)の大都市部に集中している。

 

また、令和3年11月に実施したホームレスの実態に関する全国調査の分析結果から、ホームレスになった理由として、男性は仕事関係(倒産、失業など)、女性は家庭の事情(離婚など)の割合が高く、現在仕事をしている割合は男性、仕事以外の収入(年金など)がある割合は女性の方が高いことが分かる。

 

同様に、年齢、期間では、男性が60代半ば~70代半ばの割合が高く、期間も10年以上と長期化する傾向にある。

一方、女性は70代の割合が高く、80歳以上の高齢者も少なくないように、高齢化が特徴。期間は10年未満の割合が高いという。

 

今後の生活形態は、男女ともに現状維持(諸制度を利用せず、ホームレスのまま)を望む割合が高い。

今後に希望を持っている割合は、男性が女性よりかなり高く、男性の方が楽観的と言えなくもない。つまり、今後に希望あり、あるいは何とかなる、と答えた割合は、男性が52%、女性は33%で、女性のホームレスの方が現実的と言えるかもしれない。

 

冒頭、終電でハルさんのいる地方都市を訪れた日は、10月下旬とはいえ、かなりの冷え込みだった。ハルさんは目を閉じていたので、声をかけることはしなかったが、服を何枚も重ね着し、ダウンジャケットのフードを深くかぶって、身を丸くしていた。

 

雨の日も、雪の日も、真冬でも、真夏でも、彼女は決まって駅前広場の片隅で夜を過ごす。

凍てつく寒さの真冬などは、力士の着ぐるみのように、それこそ衣類を着こめるだけ着こんで、ぶるぶる体を震わせている。寝ているというより、夜が過ぎるのをじっと待っているかのように……。

 

そんなハルさんの姿を見るたびに、どうすることもできない状況、現実に心が痛む。同時に、温かい布団で寝ることができる幸せ、ありがたさに、心底感謝する。

 

間もなく、また寒い冬がやってくる。ハルさんのようにホームレスとして生きる人たちにとって、あまりにも過酷な日々が。

今度また、ハルさんのいる地方都市に出稼ぎに行く時は、何と声をかけようか。

 

いつ、誰が、同じホームレスの状況に置かれても不思議ではない昨今。ハルさんには、せめて暖かい寝どころだけは確保してもらいたい─。そう願わずにはいられない。

 

 

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【著者プロフィール】

小鉄

取材記者、イベントプロデューサーなどを経て、現在はフリーの執筆者として活動。全国の地方都市を拠点に、取材・執筆活動を行っている。趣味は旅で、各地の史跡、夜の街、公営競技場などを巡っている。

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チリの元女性体操選手(米国在住)であるマリマール・ペレスさんが、日本の神社の鳥居で懸垂して大炎上した。

インバウンドが盛り上がるのと比例し、訪日外国人のマナーの悪さに対する不満や嫌悪感が膨れ上がっていたのも、炎上の導火線になったのだろう。

 

こういったトピックでよく目にするのは、「鳥居とはこういうものだから……」と理解を促す意見や、「日本を理解してない外国人は来るな」という意見だ。

どうやら多くの人は、「日本への理解」に重きを置いているらしい。

 

でも10年近くドイツに住んでいると、「異文化理解」という言葉がいかに薄っぺらく、現実離れしているのかを痛感する。

 

もちろん、日本を好きで、日本に興味がある人に来てもらいたい、という気持ちはわかる。

でも本当に大事なのは、「外国人に日本を理解してもらう」ことよりも、「相手になめられない」ことなのだ。

 

「同じことされたら嫌でしょう?」は海外では通じない

鳥居で懸垂がなぜダメなのか、なぜ日本人が怒るのか。

それを外国人に理解してもらうために、十字架で懸垂することを引き合いに出したポストがバズっていた。

鳥居を理解していない人に対し、その人が想像しやすいもので例えるのは、一見合理的のように思える。

 

十字架で懸垂はしないよね?→鳥居はそういう宗教的なものなんだよ→だから鳥居で懸垂はやっちゃダメ

 

この三段論法は、日本人はわりとすんなり受け入れることができる。

「やられて嫌なことはしてはいけません」と教わるし、小さい頃から「相手の立場になって考えなさい」と教え込まれているから。

 

「わたしはこう思った。あなたもそうでしょう?」がコミュニケーションのベースにあるので、「わたしはこうされて嫌だった。あなたも同じことをされたら嫌だよね?」と言えばわかってもらえると考えるのだ。

 

でも海外……と括ると「主語が大きい」と怒られそうだけど、少なくともわたしの経験上、日本以外では「自分はこう思った。そっちはどう?」がベースにある。

だから経験上、この三段論法はうまくいかない。

 

その人の感情はその人のものであり、自分の感情は自分のものだから、「わたしと同じように嫌でしょう?」と言っても共感してもらえないのだ。

この「共感を求めても無駄」というのは、わたしがドイツで学んだことでもある。

 

わたしはついつい、「こっちの立場になって考えてみてよ。こう言われたらこう考えて、こういう気持ちになるでしょ?」と言ってしまっていた。

日本人なら、「たしかにそう思うかもしれないね、ごめん」「自分はこういう意図だったけど、誤解させる言い方だったかも」のように、歩み寄ってくれる人が多いから。

 

でもドイツでは、高確率で「自分はそうは考えないし、そういう気持ちにならない」と言われてしまう。で、「なにが言いたいの? どうしてほしいの?」となる。

 

ドイツではお互いが同じ気持ちになることを目指していないので、相手の気持ちを想像する経験が少ないし、そもそもその必要性を感じていない。言いたいことがあれば言え、で終わり。

だからいまでは率直に、「わたしはこう考えて、いまこういう気持ちだ。これが嫌だからこれをやらないでくれ」と言うようになった。

 

相手がわたしの気持ちを理解したか、共感したかなんて関係ない。わたしが嫌だからやめろ。そう言わなきゃいけないのだ。

 

なぜその人たちは、「日本」でやるのか

というわけでこの「鳥居で懸垂」に関しても、その人が日本を理解しているか否かなんかどうでもよくて、「ダメなものはダメ」というだけの話だと思う。

たとえ駅に英語で「割り込み禁止」と書いていなくとも、日本人がみんな列になって並んでいるのを見たら、そういうものなんだなってわかるでしょう。

 

日本を理解して、「なるほど、だからやっちゃダメなんだな」と納得してもらわなくて結構。とにかくそれは日本ではこうだからこうしろ。それでいいんだよ、外国人への対応ってのは。

まさにこれで、「日本でやらかすとやべぇ」と思わせるのが一番大事なわけで。

 

浅草の雷門でヨガをしてる外国人も炎上してるけどさ。だからといって、イランのモスクの入口で、半裸になってヨガしたりはしないわけでしょ?

 

結局、日本への理解が足りてないんじゃなくて、ただなめられてるんだよ。

「やってもいい」と思われてるから、やられるわけ。

 

いじめ問題でも同じでしょう。

いじめっ子に、「君がそうされたら嫌でしょう? だからやめようね」なんて言っても、伝わるわけがない。

「あなたがやったことはいけないことだから、ペナルティを受けます」と登校禁止にされたり内申書に書かれたりして、自分に不利益があるとわかって初めて、「ごめんなさい」って言うものなんだよ。

 

「いやいや鳥居っていうのはね……」と説明したり、「あなたもこういうふうにされたら嫌でしょう?」と道徳の授業をしても無意味なの。

相手はこっちをわかろうとはしないし、こっちの気持ちなんてどうでもいいと思ってやってるんだから。

 

外国人と付き合うなら、理解よりなめられないことが重要

というわけで、「日本を理解してから来い」という主張は、現実離れした幻想にすぎないのだ。

 

そもそもその国を理解するには数年じゃ足りないのに、そんな大層なことをたかが数日~数週間遊びに来た観光客に求めてどうするの?

それを求めて、相手がそれに応えてくれると、本気で思っているの?

 

日本人だって、「10日間ヨーロッパ周遊旅!」みたいなツアーに参加して、観光地で写真を撮ってお土産買って帰ってくるだけの人、たくさんいるでしょう。

エッフェル塔がなんのためにあるのか、ノイシュヴァンシュタイン城にだれが住んでいたのか、サクラダ・ファミリアがどの宗派かを学んで行きます?って話でさ。

 

日本人だって、海外のレストランで偉そうに大声で店員を呼びつけて、現地の人に眉を顰められてることも、たくさんあるんだよ(本人たちは失礼な自覚がないので、「これだから海外はサービスが悪い」と言い出す始末)。

 

そんなものなんだよ、観光客って。

お互いにさ。

 

それでもまわりに合わせて行動しているかぎり、とんでもないやらかしをすることはまずありえない。

龍安寺で初めて石庭を見た人だって、みんな外から眺めてるのを見れば、「このエリアには入っちゃいけないんだな」ってわかるでしょう。

お寺の内部の入口に下駄箱があってみんな靴を脱いでいれば、「土足禁止なんだな」ってわかるでしょう。

 

ドイツの電車内では荷物を空いている隣の座席に置くのが普通だけど、日本に来た夫は、まわりに合わせてちゃんとリュックを膝の上に乗せてたよ。

 

日本人でも日本語が通じず迷惑行為をする人はたくさんいるのに、なぜ外国人に対しては「説明すれば理解してもらえる」「理解してれば来てもいい」なんて思えるのか、不思議でならない。

 

迷惑な行動をする人はそもそもまわりに合わせる気がない、まわりとはちがうことをやりたいやつらなんだから、「理解」なんか求めても無駄なんだよ。

「鳥居で懸垂しちゃダメなの?」っていうのは、言ってしまえば「なんで人を殴っちゃダメなの?」レベルの話。

 

ダメな理由をわかっていようがいまいが、やったらダメなの。「禁止の理由に納得いかないので殴らせてください」「人を殴ってもいいと思っていました」は通用しないの。

「なぜダメかをちゃんと理解したい」という人もいるし、そういう人たちになら、説明したらわかってもらえるかもしれないけどね。それは限られたケースだよ。

 

理解の有無は関係なく「ダメなものはダメ」

もちろん、日本に興味を持って、学んで、理解してくれたらうれしい。きちんとルールが決まっているのなら、それを伝える努力はすべきだ。

でもそれはあくまで理想論であって、相手が「なぜダメなのか」を理解するかどうかは関係ない。「ダメなものはダメ」というだけ。

 

高野山の宿坊に訪れた外国人観光客の不満レビューに対して、僧侶が「ここは修行の場だ」と反論したのがいい例だ。

イギリスでは仕事中の衛兵と写真を撮ろうとして、観光客が怒鳴られたり突き飛ばされたりしているけど、だれも「衛兵が暴力的だ」なんて言わない。当然の対応だもの。

 

そういう人に対して、「宿坊とはこういうもので」と納得していただく必要もなければ、「衛兵は仕事中だからお控えください」とお願いする必要もない。

 

ルールを守れ。守らせろ。

守れないなら追い出せ。きっちりペナルティを課せ。

ちょっと極端な表現にはなるが、「なめたことしてるやつには後悔させろ」。

 

ドイツ生活で学んだのは、外国人と付き合う、外国人として付き合うときに1番大事なのは、言語力でも相手の文化へのリスペクトでもなく、「なめられないこと」。

下に見ている相手の言語を学ぼう、文化を知ろう、リスペクトを持とう、という人はいないから。

 

だから「どうしたら理解してもらえるか」よりも、「なめられないように毅然とした態度で対応する」ほうが、よっぽど大事なのだ。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo:Dynamic Wang

おれと日本文学の主流

おれは平均的な日本人より本を読んでいるような気はするが、主流とされる日本文学を読んでいない。ほとんど読んでいない。夏目漱石も芥川龍之介も太宰治も読んでこなかった。星新一もよんでこなかった。

たいへんな欠落だと考えている。その分なにを読んでいるかといえば澁澤龍彦とか、稲垣足穂とか、高橋源一郎である。高橋源一郎が宮沢賢治について小説を書いても、「元ネタしらねえ」ということになる。

 

太宰治。太宰治のことが頭に浮かんだのは『異世界失格』という深夜アニメを見たからだ。見たといっても三話くらいだ。

おれはアニメが見られなくなっている。とはいえ、すぐにカルモチンで自殺しようとする「先生」と、なぜか異世界でもちやほやされてしまう主人公。それよりも、情婦と心中しようとしてトラックに轢かれるのが少し印象に残った。

 

その印象があったのか、図書館の棚で『人間失格』を見つけたとき、ふと手にとってしまった。「はしがき」の次に「第一の手記」がはじまる。そこに有名な言葉があった。

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恥の多い人生を送って来ました。

おお、これか、と、思った。「自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです」。なあ、そうよな。そう思って読み始めた。

めしを食べなければ死ぬ、という言葉は、自分の耳には、ただイヤなおどかしとしか聞えませんでした。その迷信は、(いまでも自分には、何だか迷信のように思われてならないのですが)しかし、いつも自分に不安と恐怖を与えました。人間はめしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べねばならぬ、という言葉ほど自分にとって難解で晦渋で、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉は、無かったのです。

最初の方にあるこんな告白など、辻潤が大好きなおれにとってはたいへんいい言葉で、太宰、わかっているじゃないか、上から目線で言いたくもなった。おれは『人間失格』をすぐに読み終えた。

 

「世間じゃない、あなたがゆるさないのでしょう」メソッド

太宰治といえば、「世間じゃない、あなたがゆるさないのでしょう?」も有名だ。これも『人間失格』にある。「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は世間が、ゆるさないからな」という言葉に対し、主人公が内心思う言葉だ。

「ゆるさないでしょう」は引っ込めた言葉だ。そのあたりも初めて知った。

けれども、それ以来、自分は(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。

と、なる。が、そのあと、いろいろ酒でだめになって、若い女の子に傾倒するにいたってこんなことを言う。

自分にとって、「世の中」は、やはり底知れず、おそろしいところでした。決して、そんな一本勝負などで、何から何まできまってしまうような、なまやさしいところでも無かったのでした。

というわけで、「世間」=「あなた」の一本勝負はある意味で否定されているのであった。太宰メソッドは有効な言い回しかもしれないが、実人生のある部分では生きないのかもしれない。

世の中に対するときは「世の中」の虚妄を想像するべきかもしれないが、かといって一対一の一本勝負で済むものではないのかもしれない。そんなことを思った。

 

「人間失格」じゃないか病

『人間失格』を読み終えたおれは、おれが「人間失格」の主人公に似ているのではないかという、「人間失格」病にかかってしまった。そんな病気があるのかどうかしらない。

 

主人公はだらしのない男だ。金持ちの名家の出ながら東京で身を持ち崩して、心中未遂はするし、女の人に頼り切って生きて、やがて酒とモルヒネのやりすぎによって「脳病院」行きになって、地方に帰り引きこもる。しょうもないやつ、というところだ。

 

おれは、中高生などの若い人が『人間失格』を読んでどのような思いを抱くのか、正直想像がつかない。

「おれはこのような人間になろう」と思うのか、「おれはこのような人間にはなるまい」と思うのか、「世の中にはこのような人間もいるのだろうな」と思うのか。絶対にいないとは言い切れないけれど、中高生などの若い人が『人間失格』を読んで、主人公に自らを重ねるということはないのではないか。女性となるとなおさらよくわからない。

 

して、中年男性のおれが読んでどう思ったか。ああ、おれは、『人間失格』の主人公みたいなやつだ、と。

 ……あなたを見ていると、たいていの女のひとは、何かしてあげたくて、たまらなくなる。……いつも、おどおどしていて、滑稽家なんだもの。……時たま、ひとりで、ひどく沈んでいるけれども、そのさまが、いっそう女の人の心を、かゆがらせる。

これである。「これである」と当人が言い切っていいものかわからないが、おれがこの箇所を見せたところ、女の人は声を出して笑った。おれの本質はこういうところにあるのかもしれない。そう思い込んでしまった。中二病もいいところかもしれない。

 

というわけで、おれは「人間失格」じゃないかしら症候群にかかってしまったようである。思えば、心中未遂こそしたことないが、どうも女の人にちやほやされて生きてきたような気がする。男の人にもちやほやされているような気がする。

全体的に、自らの力で何かを切り開いて得るものを得る、というより、没落していく人生のなかで、なにかしらちやほやされているような気がする。それでいいのかどうかわからない。わからないが、ちやほやされている。

 

どう、ちやほやされているかというと、具体的な証言は拒む。拒むが、年上の女の人にも、年下の女の人にもちやほやされている。なんならそこに母親なんてものを含めていいかもしれない。おれの人生はどうも女の人にちやほやされているようだ。

 

思えば小学校のころだ。おれはものを片付けるのがめっぽう苦手で、机はプリントとかでいっぱいだった。それを、同級生の女の子たちが片付けてくれた。「どうもおれは女の人にちやほやされているのではないか」と思った、最初の経験だ。

その女の子たちはおれも好意を持っている子たちだった。「背さえ高ければ恋愛対象なんだからね」と言われたこともある。そう言われたからといって背は伸びない。おれはおれの低身長を呪った。

 

しかし、ちやほやされていたのは確かだろう。悪意を持った男子の机を整頓してやろうとは思わないだろう。小学生のおれはたしかにちやほやされていた。そうに違いない。そう思わせてくれ。どうせ中学と高校は一貫の男子校に進んで、女の人からちやほやされることはなくなったのだから。

 

モテたいっすね

それにしてもおれは四十代の半ばを過ぎて「モテたいっすね」と思っている。つまびらかにはしないが、おれは女の人にちやほやされている。女の人に限らず、おれが経済的に弱っていることを書いて公開すると、Amazonのほしいものリストからたくさんの、それはたくさんの食料が贈られてくる。ありがたく思う。思っているのに、「もっとモテたいっすね」と思っている。

 

いかにもあさましい。あさましいが、もっとモテたいと思う。もっとちやほやされたいと思う。なかなかここまでちやほやされている人間も少ないとは思うが、もっとモテたいっすねと思う。人間の欲望にはきりがない。

 

……と、思うほどに、おれはちやほやされているように思う。思わなかったら恩知らずすぎるかもしれない。

 

それはどこから生じているのだろうか。「何かしてあげたくて、たまらなくなる」のだろうか。おれにはそうであると断言する資格はない。だが、ちょっとだけそういうところがあるのかもしれない。そう想像しても、欲望はつきない。もっとちやほやされたい。モテたい。

 

……と、書くことで、もうちやほやされないかもしれないし、モテなくなる可能性は高い。

でも、おれは『人間失格』を読んだのだし、そう告白しなくてはいけないような気になった。それだけのことである。

 

ちやほやされるにはどうしたらいいか?

こうしたちやほやされるノウハウはあるのか。困ったとネットに書いたら食料が贈られてくる、現金が贈られてくる。だれもがそうはいかないだろう。でも、おれはそういうことになる。なにがそうさせているのか?

 

正直、おれにはわからない。これは、もう、生まれ持ったなにかによるのではないかと思う。

太宰治がどうだったのかわからない。太宰治が書いた主人公がどうだったのかわからない。でも、それを得ようとして得られるものではないのではないか。生まれ持って、なにか人を「かゆがらせる」ところがあるのではないか。

 

自分で書いていてかゆくなるが、そういうものなのではないか。弱まっていて同情される、どうにかしてやらなければならないと思う、そういうところ。

それは努力によって得られる「感じ」でもないし、取り繕って得られる「感じ」でもない。どうもおれには生まれ持った「感じ」があるのではない。そう思わないでもいたら説明がつかない。

 

……と、ここまで自覚している人間が、これ以上ちやほやされるのか、モテるのか。おれには自信がない。「なんだこいつは、ちやほやされている自覚があるのではないか」といって、もうちやほやされなくなる。

しかし、『人間失格』を読んだおれは、このようなタイプの人間がこの世にいると知ってしまったし、おれももっとちやほやされないかと思ってしまった。深刻な『人間失格』病である。

 

とはいえ、おれも「脳病院」に通う身である。そのくらいの妄想は許してほしい。せめて自分が「ちやほやされているのでは?」とくらい想像することを許してほしい。

 

……とんでもねえ、あれなやつだな、おれは。

 

でも、ちゃんとしたお方であろう

とはいえ、おれもとんでもなくあれなやつだとしても、意外と普通であるような気もしている。

会えばたぶん、「意外に普通だな」と思われるような気もしている。そのあたりのことは、太宰治自身が書いている。「富嶽百景」という作品で、自分を主人公にして書いている。富士山がよく見える茶屋に逗留しているときのこと、新田というファンの若い青年が訪ねてくる。

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二階の私の部屋で、しばらく話をして、ようやく馴れて来たころ、新田は笑いながら、実は、もう二、三人、僕の仲間がありまして、皆で一緒にお邪魔にあがるつもりだったのですが、いざとなると、どうも皆、しりごみしまして、太宰さんは、ひどいデカダンで、それに、性格破産者だ、と佐藤春夫先生の小説に書いてございましたし、まさか、こんなまじめな、ちゃんとしたお方だとは、思いませんでしたから、僕も、無理に皆を連れて来るわけには、いきませんでした。

「ひどいデカダンで、それに、性格破産者」とは、おれもそう思われているのではないだろうか。わからん。わからんが、たぶんそうかそうじゃないかで分類すると、そうである方であろう。

 

でも、会うと意外に「まじめな、ちゃんとしたお方」なのかもしれませんよ。いや、会う必要はない。ただ、意外と「まじめな、ちゃんとしたお方」だから、書くことが人に伝わっているのかもしれないと思う。

 

というわけで、人間、まじめで、ちゃんとした方がいいということになる。そのうえで……、なんかいい感じにものを書けばいい。そうすれば、ちやほやはおまえのものだ。そうに違いない。

 

……などと、こんなこと素面で書けるだろうか。むちゃくちゃだ。恥ずかしすぎる。こんなこと、書けるはずがない。酒だ、酒をもってこい。今夜も酒が足りない。おれに酒を飲ませろ。酒を……。

 

「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした。」

 

 

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【著者プロフィール】

黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :Annie Spratt

先日、自分が妊娠したことをきっかけに、『妊婦が仕事を辞めるのは「しかたないこと」』という記事を書いた。

つわりがしんどくて仕事どころじゃない、仕事と育児の両立の前に妊娠期間で詰むんだが、という内容だ。

 

この記事は読まれた回数に対し、いつもより多くのコメントをいただいた。

働いている女性のうち、10人に3人は第一子を産んだら仕事を辞めることもあり、関心が高いテーマなのだろう。*1

 

今回は続編として、前回記事のコメントを紹介しながら、働く妊婦がどういう点で困るのかについて書いていきたい。

 

つわり時期は流産の確率が高く、妊娠を報告しづらいジレンマ

わたしが2回目の検診で、赤ちゃんの心音を初めて聞いたときのこと。

「心音が確認できたら流産の確率はだいぶ下がりますか?」とお医者さんに質問した。

 

「そうですね、2割くらいまで下がります」

え、2割????? 5人に1人が流産するの??????と驚愕した覚えがある。

 

日本産科婦人科学会も、医療機関で確認された妊娠のうち、15%が妊娠22週を迎えずに妊娠を終了するとしている。この定義の場合、10人に1人以上の妊婦が流産する。*2

そう、積極的に話題に上がらないだけで、流産は決して珍しいことではない。元気な子どもが生まれるのは、奇跡なのだ。

 

で、問題はここから。

流産の多くは、妊娠初期(12週未満)に起こる。そしてつわりは、一般的に妊娠5週目くらいから始まり、10週あたりでピークを迎える。

つまり、「つわりでしんどいけど、まだ安定期じゃないからまわりに妊娠を言いづらい」のだ!!

この問題に関するコメントを、いくつか紹介しよう。

 

・安定期入るまで報告しにくい(流産の可能性がまだ高い)のとつわりの期間が安定期に入る前(妊娠初期)ってのもやりづらい

・つわりで吐くこともしんどかったが、張りがまた辛かったなあ。毎日昼休みは医務室で寝せてもらっていた。初期は誰にも言えないから余計にしんどいよね

・吐きながら仕事してる人多いんじゃ無いかな?通勤の道に吐くわけにいかなくて、用水路まで走って行ったり。悪阻は初期だから言いにくいし。早く悪阻のメカニズムが分かって、薬が飲めたら良いのにな。

・めっちゃわかる。 産休、妊娠初期から3ヶ月間くらい欲しい。 安定期に入ってつわりもおさまったら臨月まで働くよ!だが今は頼むから休ませてくれって思った。 休めなかったので辞めました。

・あんまり早く職場に報告すると万一の時にしんどすぎる問題とかあるしね。無理があるよ

 

そう、そうなのよ。

融通を利かせてほしいけど、まだ職場には言いたくない。ジレンマァ~!

 

「困ってるなら妊娠を話して上司に相談すればいいだろ」は正論なんだけど、万が一の場合、それを職場にも報告しなきゃいけないからさ……。

「つわりで休ませてもらっていましたが、流産したので体調が落ち着き次第すぐに復帰します。ご迷惑おかけしました」なんて言うことを想像したら、やっぱり言えないよ……。

 

長く不妊治療をしてようやく授かったからこそ慎重になっている人や、出生前診断で陽性だった場合は堕胎するつもりの人、流産経験がある人など、それぞれ事情がある。

働く妊婦は妊娠がわかった直後、「つわりがしんどいけど流産のリスクを考えて、まだ職場に報告したくない・できない」という壁にぶち当たるのだ。

 

融通を利かせる=リモートワークになる現状

また、妊娠中「融通を利かせてもらって仕事を続けた」という声も多かった。

 

・つわりが比較的短かった&コロナ禍でテレワーク&たまたま能力に対して仕事量が少なめの時期&上司がコンプラ厳守→「君なら十分成果出せるから休みながらやって」奇跡みたいな労働環境で命拾いしたけど普通詰むよ…

・つわりしんどくて安定期まで待てず、コロナ大流行の時期だったこともあって妊娠3ヶ月で即上司に相談してリモートワークに切り替えてもらった。それまでは食べつわりでおにぎり齧ったりこっそり吐いたりしてた。

・ 悪阻シーズンはリモートさせてもらってたな。今まさにお腹の張りがキツくて横になってるが、有休とリモートを併用しつつなんとか…という感じ。わりと融通きくが、リモートが許されないと大変だなとは思う。

 

体調に合わせて柔軟に仕事を継続できる環境が増えているのは、喜ばしいことだ。

ただ、「融通を利かせる=リモートワーク」一択なのは気になるところ。世の中、リモートワークが可能な職種ばかりではないから。

 

・乗り切ったブコメの事例がデスクワークばかりなので、立ち仕事の事例知りたい

 

それな~!

わたしの友人はアパレルのショップの店員でシフト制。自分が休んだら代わりにだれかが出勤、もしくは早番か遅番の人が長く働くしかなくなり、申し訳なくて辞めたと言っていた。

 

DMで寄せられた経験談には、「娘の担任教師が妊娠して体調不良が続き、夏休み後復帰するもすぐ産休に入った」「看護師だけど薬の匂いがダメになった。資格があるかぎり復職しやすいから辞めた」なんて人も。

リモートワーク以外で「融通を利かせる」方法って、結局「まわりに代わりに働いてもらう」しかないような……。

 

「周囲の理解」に対する遠慮と限界

そして、こんなコメントもあった。

 

・最近は、多くの企業で人事労務に相談するとかなり配慮してもらえますよ。妊娠中は必要に応じて、勤務時間の変更や勤務の軽減等をする事が法律で決まってるし、色々制度もあるし。不安を煽らなくても良いんじゃない?

 

たしかにそうかもしれない。しかし現実的に、10人に3人は出産を機に仕事を辞めているのだ。

 

働く女性に優しいと評判だった資生堂も、2014年、時短勤務中の販売員も遅番や土日シフトに入るように制度改革した。

時短社員は平日の早番ばかり希望するから、夜や土日シフトはそれ以外の人たちに集中。現場の不満が大きくなった結果だ。

 

「職場の配慮」というと聞こえはいいが、結果的に「フルで働ける社員を順番に使いつぶす」ことにもなりうる。

たとえば2023年、『育児中社員の仕事巻き取るの限界すぎて会社を辞めた』という記事が話題になった。一部省略しながら引用したい。

結論。子持ち同僚のフォローがしんどすぎて会社辞めた。

大変だなあと思うから急な子供の発熱も学校行事にも快く送り出していたんだけど。

もうダメだ。

というか、もう嫌になった。

 

ずっと、本当ーーーーーにずっと、週の半分以上は遅刻、 中抜け、早退。

それも当日に。

いや、仕方ないんだよ。仕方ないんでしょ。

 

いない間の決定事項を教えてる最中に「あ、ごめんちょっと電話が!」と走り去って行ったとき、自分の中で何か目が覚めたような気分になった。

作業再開した自分の元へ、ごめんごめん続きお願い〜と言いながら駆け寄ってこられた時、自分はワーママだとかワーパパだとかいう人間に搾取される側だと自覚したのが臨界点だった。

 

僕疲れたよパトラッシュ。

もちろん給料据え置き。残業代?そんなもんはない。

仮にあったとしても、他人の子供が育つまで長時間労働するのは無理だ。

 

そういう制度にした会社が悪い?無能は会社と上司?ワーママワーパパに言うのは間違い?

そりゃそうだ。会社が悪いよ。

だから辞めることにした。

本人には何も言ってねえよ。

 

頑張ってるワーママは沢山いるとか、お前もいつか分かるよとか、社会全体で子育てしようとか、他人の綺麗事は何も聞きたくない。

あの「うちの子が〜」と言われたら何もかも許さなきゃいけない感じ、もう全部嫌だ。

 

いや本当、そのとおりだと思うよ。そりゃみんな、「仕方ない」からフォローしてくれるだろうよ。最初はね。

でも、負担をかけているのは間違いない。

「お互い様」と言えばそうだけど、じゃあ育児中の社員がそのほかの社員のフォローをできる場面ってどれくらいあるんだろう。

 

わたしが書いた記事のコメントにも、こういうのがあった。

 

自分のことばっかりでサポートしてくれる周囲の負担とかまるで考えてない奴が多いからだよ

・制度的には相応の配慮を求められることになってはいるが、実際には「不定期に休まれると代わりも雇えなくて迷惑」と退職を余儀なくされている人がいるのも知っている…あと産休が34週からなのが地味にすごくキツい

 

一方が他方に甘え続けるのは「お互い様」ではなく、上記の記事でいう「搾取」だ。それを「配慮」として強制したら、今度は子育て社員以外がつぶれてしまう。

「職場の配慮」が「他の人が代わりにたくさん働く」という意味なのであれば、それは負担を別の場所に押し付けただけであって、解決とはいえないんじゃないかと思う。

 

有給や傷病手当、産休などの制度の利用

また、「有給や傷病手当を利用して休む」というコメントも多々あった。

 

・切迫流産でも妊娠悪阻でも病休とれば傷病手当金が出る。病休取れなくても休憩場所を確保するとか捕食の時間が必要とか周囲に理解を求めればよい。妊娠出産更年期と働く女性は誰もいつでも辛い。強くなれ。

・私はたまたま上司に恵まれて、つわりand切迫早産で休みがちだった為、半年早めの産休ということで傷病手当もらいながら休むことになった。メンタルもおかしくてしょっちゅう職場で号泣したし働ける状態じゃないよね…

・重症妊娠悪阻で入院・実家療養してたので3ヶ月半休職した。社保入ってたので傷病手当も出た。元々時短契約社員で休みやすかったのはあるけど妊娠を理由に解雇は違法だし母健連絡カードもある。つわりは必ず終わる。

 

傷病手当は、病気やけがで会社を休む&事業主から十分な報酬を受け取れないときに受給できる支援だ。*3

わたしはフリーランスで有給休暇もないし傷病手当は受給対象外なので、よく知らなかった。教えてくださってありがとうございます。

 

ドイツでは休暇中に病気になったら病欠扱いになり有給日数から除外されるけど、日本は体調不良に有給を使うことも多いんだよね……。

 

・産休ないの?

・産休するからじゃない?

 

これねー、実はわたしも妊娠した最初に思ったんですよ。

「つわりがしんどいから、産休を使って休みたいなー」って。

 

でも産休は、出産予定日の6週間前から適応される制度。280日で計算される妊娠期間中、6週間(42日間?)しか産休にならないのだ(調べた限り、日本もドイツも)。

「早めに産休に入った」っていう人もチラホラいたけど、たぶん、有給とかを組み合わせたんじゃないかな。双子や早産をのぞいて、産休を予定日の6週間以上前から取得できる方法があるのなら、ぜひ広めていただきたい。

 

あと、みんながみんな、給料が減るのを覚悟で休める経済的余裕があるわけじゃないんだよな。

わたし自身、つわりで仕事を減らすとそのぶん産休中の手当が減るから、「稼げるうちに稼がないと!」って吐きながら記事書いてたし……。

 

職場内の配慮は限界がある、「職場外」の人もまた変わるべき

長くなってしまったので、そろそろまとめよう。

わたし自身が妊娠したから妊娠について書いたけど、そもそも「妊娠」が特別なわけではない。だれだって、突然働けなくなることはある。

 

・これは女性だとみんながイメージしやすいけど、偏頭痛がひどい人なんかは吐きながら仕事してたりするんだよね。鬱なんかもそう。ケアはあるべきだけどやはり会社としての限度はどこかに必要になると思う。

・安心して休めるように上位者と関係者が配慮し、それができるような組織・風土作りが必要。 それができないのは、おそらく社会全体の余力のなさのせいで、皺寄せが構造上声を上げにくい人にきているのかと思った。

・こういうのって、妊婦に限る話じゃなくて、病気、怪我、その他で、一定期間通常のパフォーマンスが発揮できない人を会社(とか社会)はどう扱うべきかって問題として考えなきゃいけないんじゃないだろうか。

 

結局のところ、「みんな休みなく働くことを前提とした社会がもう限界」って話なのだ。

それに対するわたしの結論は、「『配慮』すべきは職場だけでなく、職場外の人たち」。

 

働き方の工夫だけでは限界がある。仕事量が同じなのに働ける人が減ったら、働ける人がたくさん働くしかなくなる。そしてそれには当然、限界がある。

だからこそ、職場外の「消費者」や「クライアント」側が変わらなきゃいけないのだ。

 

ドイツのバカンスシーズンなんてひどいぞ、担当者不在で放置される、レストランもカフェも閉まってる、歯医者も産婦人科も休み。

普段だって、レストランでは1時間くらいはみんな文句を言わずに食事を待つし、電車は5分程度の遅延は定時の認識、宅配は予定より1日・2日遅れてもだれも驚かない。

 

「しっかりしてる」というイメージのドイツですら、これくらいの雑さで社会がまわっているのだ。忙しいならしょうがないね、バカンスならしょうがないね、と。

もちろん客としては間違いなく不便だから、ドイツが優れてると言いたいわけではない。

 

ただ「働き方」だけで融通を利かすのには限界がある以上、客側も変わらないといけないよな、と思う。どんな制度を用意しても、利用できないんじゃ意味ないし。

働きやすい環境を求め、それを理想とするなら、「職場内の配慮」だけでどうにかできないことを理解する。

 

そのうえで、客やクライアントが「人手不足で十分なサービスが受けられない」「予定通り進まない」ことを受け入れなきゃいけないのだ。

 

*1 厚生労働省「今後の仕事と育児・介護の両立支援に関する研究会(第8回) 」p1

*2 日本産科婦人科学会「流産・切迫流産」

*3 全国健康保険協会「傷病手当」

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo:UnsplashIvan Aleksic

もちろんマイケル・ジョーダンは今でも「神」です。

でも、ジョーダンが得意としていたあの芸術的なフェイダウェイシュートは絶滅危惧種、みんな大好き「スラムダンク」には存在すらしなかったステップバックスリーが、NBAどころか世界中のあらゆるバスケシーンで使われる「花形」スキルになっています。

 

マイケル・ジョーダンの呪縛

私たち世代は、ジョーダンの凄さをリアルタイムで目の当たりにした世代です。

信じられない跳躍力によるあり得ない場所から踏み切られるダンク、想像したことすらなかったダブルクラッチ(レイアップシュート)、そして誰もが夢見るクラッチシチュエーションでのブザービーター(試合最終盤土壇場での逆転シュート)。

ジョーダンはそれらすべてが「美しく」、一瞥するだけでその凄さがわかるものでした。

 

さらに恐ろしいのはそれだけの選手ではなかったことです。

現実離れした「実績」が輪をかけて伝説的です。

シカゴ・ブルズでの2度の3連覇、その最初の3連覇直後の父親殺害が遠因となった突如の引退とMLBへの挑戦、そして復帰後再び3連覇。

入団3年目から最初の引退まで7年連続、復帰翌年から2度目の引退までの3年連続を含めた実質10年連続の得点王。そして6度のファイナルMVP(要するに優勝した時全て自分がMVP)など、彼はまさにGOAT(Greatest Of All Time)なのです。

 

そんなジョーダンの影響で私はもはやNBAマニアと呼んでいいほどにNBA大好き人間になってました。

もちろんジョーダン引退後もアレン・アイバーソンコービー・ブライアント、今シーズン22年目を迎え未だ現役バリバリのレブロン・ジェームズなど、どの選手たちも個性的かつ実力も圧倒的で、私が大好きなNBAは輝きを放ち続けていました。

でも、彼らをどこか「ジョーダンの後継者」として見てしまう自分がいつづけたのです。

 

ジョーダンのダンクを超えるのは誰か?

ジョーダンのように美しいフォームでシュートを打つ選手は誰か?

ジョーダンのようにクラッチショットを決め続けるのは誰か?

それら全てを兼ね備えた選手は誰か?

 

要するにジョーダンを基準としてNBAを語ろうとしてしまうのです。

これが「マイケル・ジョーダンの呪縛」です。

 

呪縛を解いたステフィン・カリー

しかし、ついに私はその呪縛が解かれる瞬間がきました。

それを解いてくれたのがステフィン・カリーです。

 

カリーを象徴するプレーは、パリ五輪決勝で見ることができました。

対フランス戦決勝で第4Q残り3分を切ってから3本連続で3ポイントシュートを決めました。

その一本一本それぞれがあの状況ならではの重要な意味がありましたが、特に3本目が象徴的でした

(パリ五輪2024 バスケ決勝 残り時間41秒から)

残り約40秒。リードしているとは言え、絶対にミスが許されないあの緊迫した場面で、現NBAでレジェンドと呼ばれ別格扱いされている2人、レブロン・ジェームズケビン・デュラントがドドドドフリー(特にレブロンに注目!)だったにもかかわらずカリーはパスを選択せず、しかも目の前には二人のディフェンダー(共にNBAでは名の通った選手)がいるにもかかわらず、強引に3ポイントシュートを放ち、そして決めました。

 

試合後にカリーは「リングしか見てなかった(All I saw was the rim)」と言ってましたが、

そんなん決めても決めなくても皆言うんだよw

が、そこで決めてしまうそんなショットを何度も決めてきたから、カリーはあの場面でショットを打つ決断ができ、それを周囲も打たせてくれるのです。

 

そして、彼が躊躇なく打ったあの3ポイントシュートこそ、現在のNBAのスタイル、そして世界のバスケスタイルをも変えてしまったプレイそのものなのです。

 

30年の「マイケル・ジョーダンの呪縛」から解放された瞬間

私は「マイケル・ジョーダンの呪縛」から解放された瞬間を、今でもはっきりと覚えています。

それはわずか3年前、2021-22シーズンにステフィン・カリーがゴールデンステート・ウォリアーズで4度目の優勝をした時です。

 

カリーが3ポイントシュートの名手であることはデビュー時から知られていました。彼が本格的に注目を集め始めたのは、入団4年目2012-13シーズンに年間3ポイントシュート記録を更新(272本)した頃からです。(その後2015-16シーズンに402本を記録)

 

この時期、ウォリアーズはまだプレイオフ進出がやっとのチームでしたが、クレイ・トンプソンとのコンビ「スプラッシュブラザーズ」が3ポイントシュートを次々に決めるスタイルを確立し、さらにドレイモンド・グリーンがリーダーとして成長し、この3人が後にチームの黄金期を支える存在となります。

カリーは6年目の2014-15シーズン、ウォリアーズを初優勝に導き、以降5年連続でファイナルに進出します。

 

そのうち4回はレブロン・ジェームズ率いるキャバリアーズと対決し3度の優勝をしました。特に2015-16シーズンからは、ケビン・デュラントも加わり「デス・ラインナップ」と呼ばれる圧倒的なチームが完成し、それはウォリアーズ・ダイナスティー(王朝時代)と呼ばれました。

 

しかし、王朝は一旦崩壊します。

2018-19シーズンのファイナルでトロント・ラプターズに敗れ3連覇を逃した翌2019-20シーズン、デュラントが同僚のグリーンとの不仲が遠因で移籍、トンプソンは前年ファイナル最終試合に全十字靭帯断裂で全休。

さらに、カリーも開幕5試合目で骨折し、ほぼ全シーズンを欠場することになりました。結果、チームは最下位に沈みます。

 

続く2020-21シーズンも、トンプソンが再びアキレス腱断裂で全休。ウォリアーズはプレーイントーナメントで敗退し、プレイオフ進出を逃しました。

それでも、孤軍奮闘したカリーは、2度目の得点王に輝きます。1度目の得点王はチーム全体が完成度の高い状態での結果でしたが、今回はカリーが一人でチームを支えたシーズンでした。

 

そして迎えた2021-22シーズントンプソンがシーズン半ばに復帰し、カリー、グリーンと共にかつてのBIG3が再び揃いました。

カリーはこのシーズンでNBA通算3ポイントシュート記録(2,973本)を更新し、名実共にNBA最高の3ポイントシューターになりました。(現在3,747本更新中)
その勢いのまま、ウォリアーズは2年ぶりにファイナルに進出し、カリーは4度目の優勝を果たし、その時初めてファイナルMVPを獲得しました。

 

私はこの優勝でようやく「マイケル・ジョーダンの呪縛」から解放されました。

少なくともカリーをリアルタイムで13年間、入団時から3ポイントシュートに関する数々の記録更新、そして4度目の優勝をこの目でしっかり見てきて、やっと目が覚めました。ジョーダンを初めて見た時から30年以上も経っていました。

 

この時、既に世界中のバスケットボールが3ポイントシュート中心のスタイルに完全に変わっていました。

ジョーダンの時代は、圧倒的な身体能力を武器に、ダンクや豪快なドライブで相手をねじ伏せるプレーがNBAの象徴でした。彼はその超人的な身体能力でコートを支配し、1対1で相手を圧倒するスタイルによってNBAの魅力を世界に広めたのです。

 

一方、ステフィン・カリーは、これまで脇役とされていた3ポイントシュートを完全な主役にしました。

カリーの成功はウォリアーズという一チームの成功にとどまらず、すべてのNBAチームの戦術スタイルを変え、さらには世界中のバスケットボールにも大きな影響を与えました。

例えば、東京五輪で銀メダルを獲得した日本女子代表も3ポイントが戦術の中心でしたし、パリ五輪でも他国に対して身体能力で圧倒的優位な男子アメリカ代表でさえ、コートに出てくる全ての選手が3ポイントシュートが打てる選手でした。そうしないともう勝てないからです。

 

この優勝を機に、私はNBA選手たちをジョーダンと比較することから解放され、今のNBAをありのまま受け入れることができるようになリました。

ジョーダンという「バイアス」がなくなった今、現在のNBA選手たちの「個性」がより際立って見えるようになったことで、

NBAが以前より何倍も面白く感じられるようになったのです。

控え目に言っても今のNBAって本当に本当にめちゃくちゃ面白いです。

 

カリーには心から感謝しています。

 

2024-25シーズンの注目選手たち

2024-25シーズンは10月23日に開幕しました。レギュラーシーズン82試合、ベスト16から始まるプレイオフが4月上旬からはじまり、6月半ばでNBAファイナルでシーズン終了となります。

NBAは全30チームで、スタメン選手150名、年間登録選手総数でも500名程度しかいませんので選手を覚えるのはとても簡単です(笑)が、ここまでお読み下さった方のために、断腸の思いで厳選3名に絞ってご紹介します。

本当は八村塁や河村、富永について語りたいのですが長くなりそうなので、まだジョーダン(MJ)の影響から抜け出せていない人向けMJの系譜に連なる選手を紹介します。

 

まずは、ジョーダンの象徴だったダンクに注目するならアンソニー・エドワーズ(ミネソタ・ティンバーウルブス)です。

彼は2021年ドラ1、4年目の昨年ついにティンバーウルブズのエースとして覚醒し、今年はさらに活躍しそうです。パリ五輪にもアメリカ代表として出場しました。まさにNBAの顔になりつつあります。(まだ候補の一人レベルですが)

彼は身体能力お化け揃いのNBAの中でもさらに際立った身体能力を持っているとされています。

昨シーズンはそれを本当に証明しました。「ダンク・オブ・ジ・イヤー」と「ブロック・ジ・イヤー」の両方のTOP1に選ばれました。

どゆ意味?見ればわかるw

(2023-24シーズン NBA TOP100 アンソニー・エドワーズのダンク)

 

(2023-24シーズン NBA TOP25 アンソニー・エドワーズのブロック)

 

次に、クラッチプレーに強い選手といえば、スロベニア出身のルカ・ドンチッチ(ダラス・マーベリックス)です。

いわゆるユーロリーグ出身選手です。彼はデビュー1年目(19歳!)から、数々のクラッチショットを決め「普通のNBA選手ではないこと」を示してきました。

6年目の昨シーズンはじめて得点王となり、ついにNBAファイナルまで辿り着きました。

彼はずば抜けた早さや強さがあるわけではありません。ジョーダンに近い世代で言うとむしろラリーバードに喩えられたりしますが、ルカマジックと呼ばれるようにマジックジョンソンのようなトリッキーなパスもあり、ジョーダンとバードとマジックを足して3で割ったような選手です。今私が思いついたのですが、まさにそれです。

彼が昨年炸裂させた「クラッチスリーポイントフローター」は、その象徴的なプレーです。

 

(ルカのクラッチスリーポイントフローター)

 

そして、今ツウな人に「コイツは確実に結果を残すよな」と注目されているのが、SGAことシェイ・ギルジャス・アレクサンダー(オクラホマシティ・サンダー)です。パリ五輪ではカナダ代表でした。

彼はサンダーが弱体化した時代(年俸上限制限やドラフトの仕組み上どのチームにも必ずそういう時代がくる)にエースとして頭角を表しました。孤軍奮闘している間にチームは若手有望株を次々獲得し、昨年はレギュラーシーズン1位になるまで上り詰めました。

彼は現代NBAでカッコ良いとされるスキル全部持ってます

鋭いドライブからのアンクルブレイク(ドリブルで相手に接触しないでよろけさせる)、華麗なステップによる3ポイントシュート、クラッチシチュエーションでの冷静さなど、彼は一人で試合を決めてしまう力を持っています。西の優勝候補筆頭です。

(シェイのアンクルブレイク・ステップバックスリー)

 

また機会があればここBooks&AppsでNBAについて語りたいと思います。

 

 

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【プロフィール】

著者:楢原一雅

ティネクト株式会社創業メンバー

山と柴犬を愛してます

インスタ(山):@knarah

インスタ(柴犬):@dameshibanofanchan

地方創生という言葉を聞くとゾッとする。

石破内閣が発足し、所信表明演説で「地方創生交付金の倍増」を掲げるのを聞いて、

「すげえ迷惑」

以外の感想がなかった。

 

「地方創生」を掲げたばら撒き政策なら、第二次安倍内閣がド派手にやりましたよね。

あの当時に担当相を勤めていたならなおのこと、石破総理には過去の検証をしっかりやってもらいたい。

 

昭和の時代から自民党は選挙対策としてばら撒きをしてきたけれど、ばら撒きで地方の経済が活性化することはありませんし、人口が増えることもありません。今までだって効果なかったでしょ?

 

お金をもらって活性化した地方って、どこかにある?

少子化が止まった地方自治体が、どこかにあるの?

 

安倍政権時代にばら撒かれた交付金で地方自治体がやった少子化対策って、前に書きましたけどこんなんですよ。

税金をドブに捨てた婚活セミナーに参加した時の話

まさかこんなのをまたやるの?

 

「雇用を増やす」と言って箱物を作ったところで、増えるのは低賃金で働かされる非正規雇用ばかりじゃないの。

地方へのばら撒き政策で建てた公共施設で働くスタッフは、最初は悪くない条件で自治体に直接雇用されるんです。だけど、そのうちスタッフの人件費を含めた施設の維持管理費が負担になって、行政コストを削減するため、自治体は指定管理者制度で施設の運営を民間の事業者に任せるようになる。

 

公共施設が指定管理になると、現場スタッフの雇用主は自治体から民間の事業者に変わり、給料と待遇はドーンと下がるんですよね。ドーンと。私が働いた公立美術館ではそうでした。

 

自治体に雇用されていた時はフルタイムの仕事だったのに、指定管理に変わった途端に労働時間を大幅に減らされて、社会保険にも入れてもらえない。「これでは生活していけない」と、若い独身女性たちは辞めていき、残ったのは「扶養の範囲内で働きたい」主婦ばかり。

 

それでも人余りの時代には、例え賃金が安くて条件が悪くても、パートタイマーを募集すればいくらでも応募があったのです。

だって、公共施設のスタッフって外聞のいい仕事でしょ?

当時は子育て中の主婦を雇ってくれる職場も少なかったので、働けるだけありがたいと思って、低賃金や悪条件は我慢するしかなかったんですよ。

 

けれど、そうこうするうち地方の少子高齢化と人口減はガンガン進み、人手不足になり始めると、いくら募集をかけてもスタッフが集まらなくなりました。

もはや貴重な存在となった若者は給料の安い仕事を敬遠するし、結婚しても共働きが主流となった今では、扶養の範囲内でゆるく働きたい主婦も減ったのです。夫婦二馬力でがっつり働かないと生きていけない世の中じゃ、稼げない仕事は主婦からも「ないわ〜」とスルーされるんですよね。

 

若い子が新しく入ってこない中で、スタッフの平均年齢はどんどん上がっていきます。

私が働きながら個人的にキツイなと思っていたのは、若い女性が着る前提でデザインされていた制服。開館当初(1990年代)は若い女性スタッフを揃えていたため、若い人が着てこそ映えるフレッシュなデザインが採用されたのでしょう。それを今や40代〜60代のスタッフが着せられるという苦行。

 

見る方もキツイと思っているだろうけど、着てる方だってツライと思ってるんですよ。似合ってないのは分かってるっつの。

いくら「制服を変えてほしい」と訴えても、「新しい制服を作る予算がない」という理由で見送られてばかり。

デザイナーに新しいデザインをお願いするお金がないだけでなく、既存の制服を作り直すお金さえないから、みんな擦り切れるほど洗濯されて、すっかり色褪せた制服を着るしかありません。

 

もうさ、これなら制服なんてUNIQLOのスーツでいいじゃない。スカーフだけオリジナルで作って、統一したのを着ければいいでしょ。

 

どの公共施設でも、お金があるのは最初のうちだけ。

建物も制服も、世界的に有名な建築家やデザイナーに手がけてもらって話題を作る。そして、開館式には地元が輩出した国会議員がテープカットに来るんです。そこが最大にして最初で最後のハイライト。

つまり、その施設は完成した時点で政治的な役割をほぼ終えてしまい、その後の管理と運営については何も考えられていないわけ。

 

だから完成後の予算は削られていきます。だって、もともと貧乏な地方なのだから、潤沢な運営費などあるはずがない。企画展はショボくなる一方だし、せっかく大金をかけて建てた施設なのに、建物の改修さえままならず、年を追うごとにみすぼらしくなっていく。

 

だいたいね、世界的な建築家がデザインした建物って、デザインのコンセプトや斬新さばかりが重視されていて、後の管理コストのことは全く考えられてませんからね。

コンクリート打ちっぱなしや全面ガラス張りの建物は、外気の影響を受けやすいから、夏は暑くて冬は寒い。冷暖房費がめちゃくちゃかかります。

施設周辺に人工池や噴水なんかを作ってしまうと、もっと大変。定期的に池の水を抜いて清掃しないと、すぐに藻が生えて水が濁り、ドブのようになってしまう。

 

「景色に緑があると目に優しいよね」なんて、後のことを考えず施設周辺に安易な植樹をすると、やがて想定以上に木が成長してしまい、毎年のように多額の剪定費が必要になります。

 

地域住民のための文化施設が無駄とは言いたくないけれど、税金で管理運営する施設が増えれば増えるほど、地方自治体の負担が増しているのは事実です。

 

「それなら、もう箱物づくりはやめよう。後に残るものを作ったり買ったりしてはならぬ。ハードではなくソフトに使え」と言ってばら撒かれた1回使い切りの大金は、有効な使い道がありません。使い道がないので、その場限りの「地域活性化事業」と称したイベントを開催して、派手に無駄づかいするしかないんですよ。

 

さて、今は秋ですね。秋はイベントシーズンです。毎週のようにそこかしこでイベントやってます。

一体いつからでしょうか。こんなにイベントが増えたのは。

 

民間が補助金を使わずにやっているイベントなら何の文句もありませんけど、国から交付金をもらった自治体が絡むイベントが乱発されるとなると、話は別。

 

初回はかかる費用の全額を税金で面倒見てもらえるので、派手な企画をぶち上げるんですけどね。これが続かないんですよ。いや、続かない方がまだマシなんですよ。

最初から1回限りでやめるつもりなら、まだいいの。打ち上げ花火みたいにドカーンとぶち上げて、パァーッと使って、解散できたら傷は浅く済む。

 

だけど、変に真面目に「地域活性化」ってやつに取り組んじゃって、イベントの実行委員会を立ち上げて、「来年からは自主開催していきましょう!」ってやっちゃうと、やがては自分の首が締まります。商店街なんて、そのせいで何重にも首が締まってますからね。

 

自分とこの商店街で開催するイベントの費用が組合の持ち出しになるだけでなく、周辺地域の商店街で開催されるイベントにも協賛や寄付を求められ、おかげで毎年毎年、バカにならない額がイベント代に消えていく。

 

イベントを開催することで、商店街にお客さんが増えればいいですよ。だけど、実際に増えているのは買い物客じゃなくて、ただの通行人ですからね。イベントに来る人はイベントに来ているのであり、商店街で買い物をするために来るわけではないのです。

 

イベント会場である商店街にどれだけ人が集まろうと、それが各お店の売上にはほとんどつながっていないのが現実。つまり大金を費やして、ただ見せかけの賑わいを演出しているだけなんですよ。

 

そうした無駄な事業にお金も労力も取られてしまうせいで、本当にやるべきことには手が回らなくなってしまってる。活性化の看板を掲げて始めた事業が、むしろ地域の衰退を早めているんです。

 

だから、もう国は余計なことをしないで欲しい。

これ以上むなしい仕事を増やさないで。

 

 

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【著者プロフィール】

マダムユキ

最高月間PV40万のブログ「Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。

Twitter:@flat9_yuki

Photo by :Adismara Putri Pradiri

・今日の話は、【前半】は日本で進む少子高齢化の統計上のお話、【後半】は北海道の風景のお話です。

 

前半:少子高齢化の話

東京オリンピックが終わってしばらくしてから、私は「飲食店の営業時間が短くなった」「前より待たされるようになった」と感じる気がしていた。

しかし本当にそうなのか自信が無かったので黙っていたが、最近、似たような内容のまとめがtogetterにアップロードされていた。

 

「働き手不足はこれから加速度的に進行して生活インフラの維持さえ難しくなるよ」という、かなり確定的で暗澹たる未来予測の話

 

これによれば、日本では少子高齢化によってインフラの劣化や労働力不足が急速に進んでいく……という。

 

私も、これは不可避だと思っている。

なぜなら、未来を予測する指標のなかで人口動態は最も身も蓋もないもののひとつで、覆しにくいものだからだ。団塊ジュニア世代が第三次ベビーブームを起こせなかった時点でそうした未来は約束され、人口縮小による国力の低下も確定していた。

 

あらかじめ断っておくと、移民はあてにしないほうがいい。これから世界人口が減少に転じるにつれ、移民は、東アジアのわけのわからない言語を用いる国には来なくなる。高い技能を持った移民や都市生活への親和性を持った移民は奪い合いになり、日本がその争奪戦に勝てる見込みは乏しい。

 

こうした話を、都市経済学の立場からより詳しくされている先生がいらっしゃる。京都大学の森知也先生だ。

 

都市を通して考える日本の未来 / 森知也 第4話 100年後の都市と地域のすがた (前編)

都市を通して考える日本の未来 / 森知也 第4話 100年後の都市と地域のすがた (後編) 

 

森先生は、都市人口の移り変わりを統計的モデルを用いて分析している(仔細は上掲リンク先の(前編)後半パート等に記されているので、興味があったらご覧いただきたい)。この分析結果がとても興味深かったのでちょっと紹介したい。

 

興味深いことその1.

日本の人口は一律に減少するわけではない。いくつかの都市に人口が寄り集まりながら減少し、小さな地方都市はついに消滅していくという。

森先生のブログから拝借した図Aをご覧いただきたい。一番近未来の2020~70年代の予測において、人口シェアが高まっていくのは札幌都市圏・仙台都市圏・東京都市圏・名古屋都市圏・福岡都市圏あたりだ。細かく見るなら、広島都市圏や岡山都市圏といった西日本の大都市も頑張っている。

 

しかし、高齢化率や(新幹線などによって東京に紐付けられた)ストロー現象が起こっていくため、東日本や静岡県の諸都市、大阪都市圏などでは人口シェア率が低下していく。

 

この図を読む際に留意していただきたいのは、「人口シェアの成長率が高いからといって、人口が増えているわけではない」ということだ。

 

たとえば図のなかで紫色に塗られている東京は、人口シェア成長率が10%超と予測されているが、3400万人という数字は今日を下回っている。人口シェア成長率がマイナスの大阪都市圏の人口減少の度合いは推して知るべしである。少子高齢化による人口減少は、おおむね中小都市圏→大都市圏への人口移動というかたちをとるが、その現象は一律ではない。

なにより、大局的にみれば人は減っていくのだ! 図Bは森先生による2170~2120年の変化だが、人口シェア率の高い福岡都市圏でも、人口そのものは200万人まで減少している。それ以外の地方都市の人口減少ははるかに著しく、たとえば札幌都市圏は88万人、仙台都市圏は55万人と、ごっそり人が減る。冒頭で語られていた人手不足は、東京を含め、どこでも深刻になっているだろう。この時期には世界人口そのものが減り始めているから、移民が期待できないどころか、人材の国外流出さえ懸念される。

 

もうひとつ、興味深いことがある。

それは、こうした「幾つかの都市への人口集中(と人口減少)と並行して、都市の人口密度が下がっていく、というお話だ。「人が都市に集中するなら、人口密度が高まっていくはず」と思うかもしれないが、案外、そうではないらしい。ここでも森先生の図Cをご覧いただきたい。

1970年と2020年を比較すると、東京都市圏の最大人口密度に関してはもうピークアウトしている。そして2070年→2120年と時代を経るごとに人口密度は平準化していく。森先生のブログでは、こうした人口密度の平準化が他の都市圏でも起こるさまも示され、東京が例外ではないことがうかがわれる。

 

そうなった未来の東京はどうなるだろう? 人手不足が加速し、人口密度の平準化が進み、各種インフラの維持さえ困難になった老人の街、東京。そうした街において、たとえばタワーマンションはどのような存在となっているだろうか。

今日の東京のタワーマンションには需要があり、資本主義的な「神の見えざる手」に基づいて高値で取引されている。それはそうなのだが、人口動態予測は、未来の東京ではタワーマンションが要らなくなることを示している。

 

人間ひとりひとりの寿命は短く、人間が家やマンションを買うか買わないかを決断できる時期はもっと短い。ために、東京の人口密度が下がる未来を待っていられない人も多い。そうした事情を見透かしたうえで、不動産業者や宅建業者はタワーマンションを商っているのだろう。そうした現象は、「神の見えざる手」のロジックによって正当化されるようにも思える。

だが、住宅ローン減税などが象徴しているように、不動産や宅建まわりには制度的側面、ひいては政治的側面がついてまわることを忘れるわけにはいかない。

 

そうした資本主義的・制度的・政治的側面まで考えた時、日本国と日本国民が人口減少局面にどう向き合っていけるのか、よくわからない。民主主義国家において、為政者の判断は国民の判断を反映するものである。誰もが半世紀先の日本のことなんて考えていられないとしたら、それにふさわしい為政者、つまり半世紀先の日本のことなんて考えない為政者が日本を統治し続けるだろう。だからこのままでは、なるようにしかならない。

 

後半:北海道の風景の話

人口減少と、それによって起こる都市の消滅や密度低下が進行したら、どんな風景が待っているだろう?

 

人口がスカスカになった街というと、私は北海道の地方都市を思い出す。北海道の地方都市はもともと人口密度が小さく、最も早くから過疎化が進行し、旭川や釧路でさえ人口減少の兆しが見え始めている。

ということは、北海道の風景は、日本の未来を先取りする風景としてある程度まで参考にできるのではないだろうか?

北海道の玄関口といえば、なんといっても札幌市だ。時計台の周辺は都会らしい街並みで、狸小路商店街やすすきのといった賑やかなエリアもある。文化的・教育的な施設もそこらの県庁所在地より充実している。

札幌駅の列車の本数にしてもそうで、ローカル列車、特急列車、エアポート快速がたくさん行き来している様子はさすが北海道の中心地、といったところだろうか。

 

しかし、その札幌の街でもちょっと気になることはあった。

 

それは道路のコンディションだ。

札幌の道路は碁盤の目のように整理され、しかも広い。それはうらやましいのだが、路面のあちこちでアスファルトがひび割れ、ところどころ穴が開いていた。路面の白線もけっこう剥げている。札幌以外ではこの傾向がもっと顕著になる。

 

こうした道路のコンディションは、東京のそれよりも金沢や富山のそれに似ている。冬季にスタッドレスタイヤ等の使用が避けられず、路面がどんどん痛んでいく地域の路面だ。

あるいは、道路というインフラが傷んでいく速度と修理していく速度がギリギリのところで拮抗している自治体の道路だ。

 

そして札幌を離れると、たちまち過疎の気配が漂ってくる。

上掲写真は網走駅だが、これは昭和52年に改築されたものだという。wikipediaによれば、1970年代には60万人台だった年間利用者は減少の一途をたどり、2020年代には10万人を割り込んだという。網走以外もそうだが、建物と建物の隙間が広く、街全体がスースーした感じになっている。

 

そうした傾向は、幹線道路沿いの風景にも反映されている。

ドラッグストアがあり、スーパーマーケットがあり、カーディーラーがある。そこまでは本州の幹線道路沿いと同じだが、本州のそれよりずっと密度が薄い。バーミヤンか、ロイヤルホストか、丸亀製麺か、サイゼリヤか、といった具合にチェーン店を選り好みするなど不可能だ。ただし、ガソリンスタンドはたくさんある。鉄道が弱体化した北海道ではガソリンがなければ生きていけない。灯油もそうだろう。

 

そして人口が疎だからか、あちこちの街に動物が出る。

写真はエゾジカだが、北海道の市街地ではあまりに頻繁に見かけるので、しまいにカメラを向ける気がしなくなってしまった。2024年の10月9日、京都府福知山市でシカに刺されて男性が死亡する事件があったが、エゾジカも繁殖期には危ないだろう。

 

そのうえ北海道にはキタキツネもいる。薄汚れた犬のような姿のキタキツネたちは、致死率の高いエキノコックス症をもたらす動物として恐れられているが、人を怖れる風でもなく街をうろついていた。なにより北海道にはヒグマもいる。

 

こうした諸々を考えると、北海道は過酷な土地だな、と思う。生活できないことはないが、インフラの整備がギリギリで、自家用車やガソリンの備えが必要で、街には害獣たちが侵入してくる。

 

これは、いつか本州でも起こることではないだろうか? ヒグマやキタキツネは防げるとしても、本州土着の害獣たちが今以上に猛威をふるうようになり、高温多湿な地域にはマラリアが上陸してくるかもしれない。インフラの整備がギリギリになれば、太平洋側の諸都市でも道路はボロボロになっていくだろう。

 

悲観し過ぎてもいけない

ちなみに、北海道が悪いことづくめだとは思わない。

森先生もおっしゃっていたが、北海道は大規模な農林水産業の地でもある。人口密度が下がった未来の本州でも、大規模な第一次産業が開花する未来があるかもしれない。今までのインフラをそのまま全部維持するのは難しくても、上手に街や地域を折り畳むことができればインフラの水準を保てるかもしれない。

もちろん、そのためには政治的合意が必要になるわけだが、少子高齢化が洒落にならなくなり、過疎地域で暮らすことの命の危険性が跳ね上がれば、政治的合意を導く機運が立ち上がってくるかもしれない。

 

だから、この問題をとにかく悲観的に捉えるのも違うように私は思う。日々の危険が高まったとしても、人は暮らしていかなければならないし、暮らしていくものだ。

人口が半分になり、インフラの質や生活の質が低下したとしても、つべこべ言いながら未来の人は暮らしているに違いない。ただ、そうして運命を受け入れるためにも、発展の記念碑ぐらいはあって良いように思う。

北海道には写真のような駅跡地がぽつりぽつりと残されていて、昔の面影をしのぶことができる。モータリゼーションが行き渡るまで、鉄道は北の大地の貴重なインフラ、それこそ命綱だったに違いない。その命綱に対する思いは、道路網ができあがった後の私たちには正直言ってわからない。

しかし将来どんどん人口が減少し、多くの人が住み慣れた土地を離れなければならなくなった時には、郷土を思い出せる記念碑、かつての自分たちを回想する何かが必要になるだろう。

 

北海道発展の痕跡をいくつか訪問し、私はそんな未来を想像した。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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Photo:Cecelia Chang

長めのうつ

月に一度の通院をして会社に戻る途中のことだった。おれはあまり行かないコンビニでコーヒーを飲むことにした。

おれは病院と薬局に行くと、なにか嫌だということもないのに、不思議と力を吸い取られたようになってしまう。そこでコンビニのコーヒーくらいの贅沢は自分に許す。

 

レジにいたのは小柄な外国人女性だった。名札にはミャーミャーだかモーモーだか、そんな名前が書かれていた。これは彼女の本名なのだろうか、ちかごろ流行りのコンビニ従業員用ニックネームだろうか。それとも、彼女自身のニックネームなのだろうか。

 

「サイズは?」

「Lで」

 

「L」と書かれたカップを手渡された。おれはスマートフォンで「L」の金を払った。コーヒーマシンで、「L」のボタンを押した。しばらく待って注ぎ終わった。

おれはおどろいた。コーヒーのカップのふちぎりぎりまで注がれていたからだ。こぼれそうじゃないか。

 

おれは「L」用のふたをはめてこぼれないようにした。が、ふたのサイズが合わない。ふたが大きい。というか、カップが小さいのだ。

これは、「M」サイズのカップなんじゃないのか。でも、もうコーヒーは注がれてしまった。今からやりなおしもないだろう。

おれはその場で熱いコーヒーを一口、二口すすって、合わないふたを乗せて、こぼさないようにゆっくりゆっくり会社へ歩いた。

 

20万円でも人は死ぬ

 

おれはいろいろな心労が溜まって、自分としては長くて重い抑うつに陥った。

一方で、零細企業のつらいところもあって、社員の一人が入院してしまい、なんとか出社しなければいけない状態が続いていた。

 

もう体力はなにも残っておらず、土日などは部屋で昼過ぎに起きて競馬をする以外なにもできない。

ただ、土曜の夜にコンビニに東スポを買いに行くだけだった。土日で同じことが繰り返され、その土日がさらに繰り返された。

 

平日はもう朝なんとか起きて、夕方はヨロヨロになって帰宅した。そんなのが続く。

 

インプットがなくなる

インプットがなくなった。夜は疲れて早く眠ってしまうので、まず深夜アニメが見られなくなった。

毎シーズンごとに5、6本、有名なものから個人的に好もしく思う「クソアニメ」まで見た。この習慣は10年以上続いていた。

 

が、それがぷつんと切れた。まったくアニメが見られなくなった。見る気も起こらなかった。自分の生活のなかから、まったくアニメというものが消えてしまったようだった。

 

不思議な感覚だ。放送がなくなったとか、テレビが壊れたとか、そんなきっかけがあったわけでもない。すべてはおれの側にある。

 

本も読めなくなった。読む気が起こらなくなった。インプットというものがなくなった。

こうなるとどうなるか。アウトプットがなくなる。この場合、インプットの内容とアウトプットの内容が対応しているわけではない。アニメを見て、アニメの感想を書く、というものではない。全般的に、入ってくるものがなくなると、出てくるものもなくなるのだ。

 

だから、「アニメなんか見ても得るものはないよ」とか、そういう話ではないのだ。得るものもあるだろうし、得るものがないのかもしれない。

どっちでもいいのだが、なんであれ入ってくるものがなくなる。そうすると、出るものがなくなる。「garbage in, garbage out」なんて言葉もあるが、それでもなにかアウトプットできるだけマシだ。

 

人間、なにか入れていないとだめになる。もちろん、おれのアウトプットといってもたいしたものじゃない。

ブログが書けない。こちらに寄稿する原稿が書けない。さらにはXでつぶやくことすらできなくなった。完全にできないわけじゃあないけれど、その数は減った。

 

「だからなんだ?」と言われたらそれまでだ。だが、おれは長くなにかネットに放流し続けてきた人間だ。だれが見るわけでもなく、やってきた。それが、できなくなる。

 

おれにとっては、少し悲しいことだ。ただ、強烈に悲しむこともなく、淡々と受け入れているようでもある。

 

身体を動かさない

おれはちょこざっぷの会員だ。ちょこざっぷに通っていた。

ちょこざっぷで運動する習慣がついてから、抑うつで寝込むことが少なくなってる……ような気がする

 

この、ちょこざっぷにも行かなくなった。行けなくなった。行く気が消失した。

毎日のように重い足を引きずって帰るその帰り道、とてもじゃないが寄る気がない。土日は動けない。

 

一回絶たれると、絶たれてしまうものはある。行けなくなるから、行かなくなる。行かなくなるから、行けなくなる。

おれは小学生のころにちょっと登校拒否のようになったことがあるのだが、それに似ている。そう感じる。

 

ただ、おれは左手の手首も痛めている。そういうこともある。仕事で使うPCが代わって、指使いがおかしくなって、それが手首に移った。

これではマシンも使えないだろう。そんなことも、おれをちょこざっぷから遠ざけている。言い訳ではある。

 

ちょこざっぷに行かなくなって、少しずつだが体重も増えてきている。おれは毎日体重を測る。ほかにろくに運動もしていない。

そして、中年は太るものだ。自然に太る。おれは20年以上ほとんど体型が変わっていないが、いよいよ来るべきものが来たのかもしれない。

 

おれはおれの体重が増えて、体型が変わるのはいやだ。いやだが、ちょこざっぷに行くことができない。散歩すらあまりできない。

 

カロリーのあるものに目が行くようになる

人は金がなくなると、安くてカロリーのあるものを食べる。運動しなくなったおれは、さらにこれを言いたい。

 

「なに、そんなの常識だろう。アメリカの貧困層は安いジャンクフードばかり食べているから肥満が多いとはよく聞く話だ」と言われるかもしれない。

 

だが、ちょっと待ってほしい、そういうことじゃないんだ。身体が自然にカロリーを求めるのだ。

これは、昔、やはり会社の状態が悪くて金がなくなったときにもなった。覚えのある習性だ。

 

具体的にいえば、昼食のコンビニで惣菜パンなどに目が行ってしまう。惣菜パンのカロリーは高い。弁当もカロリー高いが、値段も高い。それが、120円くらいですごいカロリーだ。そういうものに、思わず手が伸びる。カロリーたくさんだ。

 

平常時の自分は、できるだけサラダ(という名前のキャベツの千切り)から昼食を構築しようとする。

まず野菜ありきだ。野菜を食べないと大変なことになる。睡眠と運動と瞑想も大切だ。まず食べるのは野菜だ。

 

以前、こんな話を聞いたことがある。「スーパーなどでなにか食べたいと目についたら、その食材の栄養分を身体が求めているのだ」と。魚が食べたいと思ったら、魚に含まれているなにか。肉なら肉に含まれているなにか、果物なら果物に含まれているなにか。

 

もっとも、おれは毎晩同じものを食べるという習性(もちろん野菜中心だ)があるので、あまりそういう気持ちにならないように自分を調律してはいる。

 

「食べたいと思ったものは、身体が求めているもの」。根拠のある話ではない。ただ、人間もものを食べて進化してきた生き物だし、そういう直感が働いてもおかしくないかもしれない。

 

まあしかし、たとえば氷を食べるのは鉄分が足りないなどという話はある。

 

氷食症というらしい。これは機序がわかった話ではないが、マウスの実験でも再現されているので、なにかあるのだろう。

ちなみに氷をガリガリ噛んで食べるのは、歯にものすごくよくないらしい。おれはアイスコーヒーなどの氷をガリガリ噛んて食べてしまうタイプだ。行儀も良くないし、いつか歯が欠けてしまうかもしれない。そして鉄分も足りていないのかもしれない。

 

鉄分の話はどうでもいい。カロリーの話だった。ひょっとしたら、おれは単にカロリーが足りていないだけかもしれない。

 

おれはこのところ毎晩湯豆腐を食べている。その前は毎晩冷しゃぶサラダを食べていた。

そのサラダが厳しくなった。胃が生野菜を受け付けなくなった。生のキャベツがチクチク胃を傷めるようになった。

生野菜はチクチクと痛い。消化は遅い。どうすればいいのか。人類には火がある。火を使ってものを食べてきた。やはり野菜は茹でるに限る。豆腐もやさしい。

 

ただ、おれは夜に炭水化物を食べると、これも胃の調子が悪くなる。だから食べない。

朝はまったくなにも食べない。夜に摂取するカロリーが少なすぎるのかもしれない。どうしていいかはわからない。わからないまま、寝る前に飲む栄養ドリンクなどを飲んでいる。少しは効果があるような気もする。

 

あなたもきっとなるだろう

なにかおれがとりとめのない話をしていると思う人もいるだろう。その人は正しい。おれはこのテキストを書くのに何日もかかっている。何日もかかって、いま書けるだけのことを書いている。インプットがないからアウトプットもない。体力もないし、頭の調子も悪い。もとから悪い頭の調子がもっと悪くなっている。それが全体的な抑うつだ。

 

とはいえ、短期的な躁状態がないわけでもない。先日は、会社の運転資金が底をつくというので、二十万円出した。

前のことがあってから、投資信託を売却して、現金を作っていたのでそれができた。そうしたとき、おれはどうだったか。

暗く沈んでいたか? どうも違う。金を出したあとさらにうつになったのか。それも違う。

 

むしろ、なにかいい買い物をしたあとのようにすがすがしい気分になった。ウキウキといっていいかもしれない。

これは完全にいかれている。いかれているからおれは躁うつ病(双極性障害)なのだし、手帳も持っている。

 

もし、あなたにこんな変なウキウキがあったら、躁うつ病を疑ってもいいかもしれない。単極性の躁病というのはないことになっている。

とはいえ、このあたりの判断は非常に微妙なので、とにかく医者にかかってください。精神科にかかれない? かかりたくない? そう言われてしまうと、おれにはなにも言えない。

 

躁状態はちょっと特殊だ。だが、抑うつはどうだろうか。これは誰もがなりうる。うつ病(大うつ病性障害)を「心の風邪」というのにおれは反対だが、「抑うつ状態」なら「心の風邪」といってよい場合もあるだろう。

 

なにかあったら、あなたもなるだろう。そのとき、おれがだらだらと書いてきた、そんな状態になるかもしれない。参考にしてほしい。

 

だがしかし、おれは処方箋を書いていないので参考にならないかもしれない。「風邪」であるなら時間が経てば治るものかもしれない。精神活動も、肉体的な健康習慣も戻るかもしれない。

でも、そうではなかったら? やはり医者に行けとしか言いようがない。しかし、医者に行ったところでどうにかなるとも言えない。おれは主治医に「薬ではどうにもならなくてごめんね」と言われている。

 

人はうつ病にもなるだろうし、躁うつ病にもなる。いろいろな病気や障害がある。そうでなくても抑うつ状態になる。

そのとき、どこまで自分のことを客観的に見られるだろうか。それはよく見たほうがいい。そのときのために備えておいたほうがいい。おれが言いたいのはそれだけだ。

 

あと、最初に書いたコンビニコーヒーの話だけれど、「L」って「LAWSON」の「L」だったのかもしれない。

そろそろ次の通院日だ。もう一度「L」を頼むべきだろうか、「M」を頼んでみるべきだろうか。おれの悩みは尽きない。

 

 

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【著者プロフィール】

黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :Steve Johnson

辞めていく人間に

「お前みたいなやつは、どこへ行っても通用しない」

という、説教をする人がいる。

 

辞めるときになって、そんな言葉をかけるのもどうかと思うが、これについて一つ思うところがある。

果たして「どこへ行っても通用しない」は真実なのか?

という疑問だ。

 

 

私がコンサルタントだったころ。

様々な会社で、辞めていった人間には直接言わなくとも、経営者や管理職が

「ああいう人間は、どこへ行ってもダメだよね」

と言うのを、よく聞いた。

 

とはいえ、この物言いは議論を呼ぶ。

実際、

「人はそんなに変わらない」

と考える人と、

「場所や環境が変われば、その人のパフォーマンスも大きく変わる」

と考える人が結構はっきりと分かれるからだ。

 

例えば、前者の代表的な例として、採用の際に「前職のパフォーマンス」を見ることが挙げられる。

平たく言えば、多くの人は

・どんな役割だったか?

・どのようなパフォーマンスを出したか?

・どのようにして困難に対処したか?

こうしたことを聞いて、「うちでも活躍できるか?」を判断している。

 

学歴も同様だ。

特に商社や金融機関、コンサルティング会社は、いわゆる高学歴が多いが、それは

「勉強でパフォーマンスを出すことができたのだから、仕事でも同じようにパフォーマンスが出る蓋然性が高い」

との考え方を基にして、新卒採用、あるいは中途採用をしているからだ。

 

「勉強できるやつは、仕事もある程度もできるよね」

との考え方は、新卒採用においては特に根強いようにも解釈できる。

 

 

一方で、環境が変わると突然パフォーマンスがあがる「化ける」人も、決して少なくない。

 

私が在籍していたコンサルティング会社の一部門では、中途採用において、本当に「学歴不問」「経歴不問」で、独自に採用を行っていたことがあった。

その中には

八丈島の漁師だった人。

実業団でバスケをやっていた人。

パチプロになるために大学を辞めた人。

など、「コンサルタントのパフォーマンス」とはほとんど関係のないことをしていた、多くの人達がいた。

 

そんな人たちがコンサルタントをできたのか。

 

実は蓋を開けてみると、彼らは皆、パフォーマンスが高かった。

むしろ「普通の経歴の人」よりも、良かったくらいだ。

コンサルティング会社を辞めた後、独立して経営者になった人も少なくない。

 

彼らを「前にやっていたこと」だけで採用していたら、誰も採用されなかっただろう。

 

「偶然じゃないか?」

と言う人もいるかもしれないが、これは偶然ではないと思う。

根源的な、「働く場所を変えると化ける人」の条件があるように見えた。

 

 

ではその条件とは何か。

 

その人の責によって、パフォーマンスが出なかった人」ではなく

 

環境によって、パフォーマンスが出なかった人」は、

「一芸に秀でているが、欠点も多い人」

であることが多かった。

 

例えば、「服装がだらしない」といった外見上の欠点や、「時間にルーズ」「整理ができない」人は、適切な機会を与えられないケースが多い。

 

あるいは「口が悪い」「率直すぎる」などのコミュニケーション上の欠点。上司や評価制度と折り合いがつかない人。

「書くのが苦手」「電話が苦手」などの単純作業の得意不得意も不利に働く。

 

大手では「ミスがない」「全部そつなくこなす人」が評価されやすいため、人付き合いや、些末な事務処理能力に欠点がある人は、パフォーマンスを発揮しにくい。

 

だから、我々はそうした欠点はできるだけ見ずに、現在の社員にはない能力を持つ人を採用するようにした。

 

そうして採用した、一芸に秀でている人は、環境を変えると、「化ける」ることがある。

 

上司を変えること。

苦手な仕事をやらせないこと。

タスクを管理してあげること。

事務作業を肩代わりしてあげること。

上から押さえつけないこと。

 

一芸に秀でた能力があれば、「強みだけで仕事をさせる」ことが可能となる。

そういう人を部下に抱えている上司の仕事の中心は、「環境を整備すること」が、中心になる。

 

 

ところが。

世の中は残酷なもので、そもそも、「秀でたところが何もない」人もいる。

 

何をやっても凡人以下。

あるいは「気力がない」ことで、行動をしない、手を動かさない人たち。

 

仕事は、頭の良し悪しよりも

「手を動かして、失敗しながらも、修正を繰り返して、目的に達する」

という習慣的な能力が重要であるため、「小賢しいだけ」の、何も秀でたところがない人たちが少なからずいる。

 

そういう人たちは、環境を変えても同じだ。

「お前みたいなやつは、どこへ行っても通用しない」

と言われて、それが当たっているので、実際に不毛な転職・異動を繰り返すことになる。

 

 

救いがないように見える。

が、そんなことはない。

「何をやっても凡人以下」というのは、長期的に見れば、ほとんど解消可能である。

 

多くの仕事は、天才である必要が全くないからだ。

訓練と、努力で十分、凡人を超えるパフォーマンス、つまり「一芸」は身につく。

 

だからあえて言えば、

「口ばかり達者で、手を動かさない」

「成果が出るまで努力も辛抱もできない」

という人間以外は、環境を変えれば必ず活躍できる余地があるものだ。

それは、多くの会社ですでに実証されている。

 

良い人事と言うのは、そういうことを理解したうえで、

「環境のせいでパフォーマンスが出ない人」

に対して、活躍できる場所はどこか、どうすれば彼のパフォーマンスがあがるのかを、本人・上司たちと一緒に考える人たちだ。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

生成AI活用支援のワークワンダースCEO(https://workwonders.jp)|元Deloitteのコンサルタント|オウンドメディア支援のティネクト代表(http://tinect.jp)|著書「頭のいい人が話す前に考えていること」65万部(https://amzn.to/49Tivyi)|

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯note:(生成AI時代の「ライターとマーケティング」の、実践的教科書

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Photo:an_vision

『幡ケ谷バス停殺人事件』を覚えているだろうか。

2020年11月、渋谷区幡ケ谷のバス停で「ホームレス」の女性(以下Oさん)が男に殴られ死亡した事件だ。

 

この事件を知ったとき、なんともいえない嫌な感覚に襲われた。

殺されていたのは私だったかもしれないのだ。

私にも「明日からホームレスになるかもしれない」と覚悟した夜があった。

そのざわざわする感覚は、現役貧困女性として生きる今でも消えていない。

 

私は特別な人間じゃない。

最初は役所がどこにあるかも知らなかったし、今でも無知で世間知らずな人間だ。

そんな奴でもなんとか、ホームレスになる危機を回避できた。

そのことを知ってもらいたくてこの記事を書く。

 

(1)住まいを失いそうだが、どこを頼ればいいか分からない方

(2)路上生活・ネットカフェなどで過ごしている方

(3)上記のような人が身近にいる人

 

そんな方々に読んでもらえたらと思う。

 

「ホームレス」という言葉は暴力

Oさんのことは

「バス停で見かけ、心配していたがどうすればよいか分からなかった」

という町の人たちの声がNHKの取材で明らかになっている。

多くの人は自分や身近な人が困窮していたとしても、何をどうすれば良いか見当もつかない場合が多いだろう。

 

そんな時こそ貧困キャリアの私の出番ではないか。

私は野宿を覚悟した瞬間から、様々な制度のことを調べまくり、生活保護を申請した経験もある。

そのおかげで今では路上で寝泊まりすることなく最低限の生活を送れている。

 

Oさんは当時、メディアで「ホームレス」と呼ばれていた。

しかしこれは、本当に正しいのだろうか。

おそらく彼女は、コロナによる影響で失業したばかりだった。

 

バス停で夜を明かすようになったのは、失職の数か月後から。

「ホームレス」には見えない身なりを保っていたそうだ。

 

Oさんの学生のころからの夢は、声優かアナウンサーだった。

短大卒業後は結婚式場で司会として働くかたわら、教室にも通い、技術を磨き続けた。

劇団に所属し、ミュージカルや舞台に出演した。

海外旅行にも行った。

自立心が強い女性で「自分で会社を作りたい」とも話していたそうだ。

 

「ホームレス」という言葉には、Oさんが歩んできた歴史、人格や夢を丸ごとなかったことにする暴力性がある。

そんな言葉はOさんにふさわしくない。

あるいはこれは、いつぞやの夜に、私自身が誰かにかけてもらいたかった言葉かもしれない。

 

彼女は私だ

なぜそう思うのか、少し自分語りをさせて欲しい。

宿無し生活を覚悟した夜の少し前、私は失職した。

持病が悪化し、医師からは「就業不能」の診断が出て、転職できないことが判明した。

それを知った大家から強制退去を命じられた。

 

天涯孤独であること以外はつまづきもなく人生を歩んできた私は、社会についてあまりにも無知だった。

野宿する覚悟が必要な夜が来るとも、病気になるとも、失業するとさえ夢にも思っていなかったのだから。

誰よりも私自身の理解が追い付かなかった。

その時点からいろんなところに相談を開始した。

 

貧乏になった当初、私には「役所に相談に行く」発想が一切なかった。

「福祉事務所」という場所に至っては存在すら知らなかった。

貧乏になってから知ってものすごく驚いたのだけど、今の日本にはなんと、誰も路上で生活しなくて済む制度がすでに存在する。生活保護という制度だ。

 

日本の憲法には誰にでも健康で文化的な生活を送る権利がある、と書いてある。

つまり生活保護には誰でも申し込めるのだ!

こんな良い制度が存在するのに、なぜ路上生活者さんたちが存在するのか、不思議だった。それにはいくつか理由があると思う。

 

あくまでも個人的見解だが、理由の一つ目は、困っている人のための制度を、役所は絶対に宣伝しないから。

理由の二つ目は、福祉事務所を利用するにはちょっとしたコツが必要だから。

そのコツを、自分の経験を交えつつ、ここに書く。

 

詰む前に早く動いて欲しい

実はOさんが亡くなった「幡ケ谷原町」のバス停から渋谷63番のバスに乗れば、渋谷区役所にはほんの15分ほどで到着する。

とはいえ、渋谷63番のバスに乗るには230円必要で、Oさんの亡くなった時点の所持金は8円だった。

 

Oさんは支援の手が届くところにいた。

230円さえあれば、最悪の結果にならなくて済んだだろう―とは言い切れないのが今の社会だ。役所というところは一回行っただけではなかなか支援制度に申し込ませてはくれない。

これを「水際作戦」という。

 

私も「水際作戦」にあい、生活保護に申し込むまで役所に週一回ペースで数か月通った。

その度にかかる交通費には精神的にも肉体的にも苦しめられた。

貧乏すぎて食事も3日に1回くらいしか摂れなくなった頃ようやく役所に通い始めたので、いつもお腹が空いていて、毎回窓口に辿り着く前にぶっ倒れそうだった。

 

初めて役所の福祉課に行ったとき、厳しい顔をした窓口の人に

「困っているからといって『ハイそうですか』と助けることはできないんです。お金がもっと減ってから来てください」
と言われた。

 

「既に失職して来月の家賃を払うお金がないんです」

と言っても、答えは変わらなかった。

私が相談に来たということだけは記録に残してもらえたようだったけど、制度の説明は一切なかった。

不安な気持ちは鎮まることなく、私はすきっ腹を抱えて帰るしかなかった。

 

「お金がもっと減ってから来てください」

 

なんて言われたって、今よりお金がなければ交通費不足で役所を訪ねられない。

職員の言葉は矛盾だらけで、頭は混乱するばかりだった。

しばらく役所から足が遠のいた。

 

どうにもならず再度、窓口を訪れたとき

 

「なんでもっと早く来なかったんですか! 前回『また来てください』って言いましたよね?」

 

と、またまた怖い顔で怒られ、私は混乱と不安で目の前が真っ暗になった。

その時は知らなかったけれど、これは「水際作戦」とよばれる、役所の常套手段だったらしい。

 

混迷を極める今の時代、浪費できる時間など、我々にはもう残されていない。

迅速に支援に辿り着けるか否かが生死を分かつ時代だ。

 

そこで「水際作戦」を乗り越えるコツは、民間支援団体への相談だと思う。

 

頼ることは恥ではない

ここ数年、私が住んでいる地域では福祉がしょっぱくなった。それを肌で感じる。

福祉事務所の態度は、昔と桁違いに厳しい。

 

私が福祉課に初めて行った当時は、事前情報ゼロで窓口に行き、制度の理解もそこそこに、体当たりですべて乗り越えていく方式を取った。

相談も手続きも全て一人で行った。

しかし2024年現在、この方法は時代遅れだ。

無駄な時間がかかりすぎるし、相談者の肉体的・精神的な消耗が激しすぎる。

 

だからこそ、今、私と同じような境遇で苦しんでいる人に伝えたいことがある。

民間支援団体や役所への相談は、決して恥ではないということだ。

 

私が体当たりで数か月から数年かけて知ったことも、支援団体に聞けばものの数分でわかるかもしれない。

 

ただし、どの民間支援団体を信用するかについては慎重に選んで欲しい。

私には、どこの組織が良いなどと、安易なことは言えない。

なぜなら、中には「貧困者を食い物にする組織」もあるからだ。

 

今の時代、ネット上で口コミを含め、情報はいくらでもある。

大事なのは「だれかに頼るのは恥でない」と心得ることだ。

 

もう一度言いたい。

誰かに頼るのは、恥ずかしいことでもなんでもない。

どうか、まずは役所や福祉事務所に相談に行って欲しい。

役所や福祉事務所はハードルが高いならば、ネットで見かけた信頼できる支援団体に片っ端からあたってみて欲しい。

 

ホームレスになる前に、どうか動いて欲しい。

 

最後に

さて、自身の経験を基に書いてはみたけれど、気持ちはすっきりしない。

いつまでも消えない熾のように疑問がくすぶり続ける。

 

バス賃さえあれば、水際作戦を耐え抜きさえすれば、生活保護を受給さえすれば、やがて再就職さえできていれば―

Oさんは「助かって」いたのだろうか?

 

お金、生活、仕事、健康。人が抱える課題は有機的に繋がっている。

私もやりがちだが、その繋がりから切り離した状態で個々の課題にアプローチし、状況を解決した気になるのは危険だ。

そうしたアプローチは木を見て森を見ずであり、本質的解決にはならないことを、貧困と病気が私に教えてくれた。

 

群馬県桐生市が生活保護受給者に対し、ハローワークに行った日だけ保護費を1,000円ずつ支給していた事件などは、間違ったアプローチの良い例だろう。

必要なのは課題を俯瞰で見つめ、包括的な策を提案するシステムだと思う。

 

そうしたシステムが欠如する我々の社会では今もなお、Oさんのように困っている人々(私も含め)がごまんといる。

日本の生活保護は、必要とする人たちの20%から30%にしか行き渡っていない。

 

私は相談開始から生活保護受給までに時間がかかりすぎた。

現在路上生活ギリギリの状況にいる人たちには、そんなことが起こらないよう願いを込めてこの記事を書いた。

微力ではあるが、この記事が少しでも何かのお役に立てることを祈っている。

 

<文/大和彩>

Special thanks to Ms. M.Kobayashi

 

 

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【プロフィール】

大和彩

約10年前に失職したきっかけで持病が悪化、現在主治医に就労を禁止されている。働くことこそが私のアイデンティティであり、私から仕事を取ったら何も残らない、と10年前は思っていた。今現在でも一番辛いことは働けないことである。

失職して生活保護を申請した経験を基に『失職女子。(WAVE出版)』という本を書いた。

好きな食べ物はあったかいお茶とチョコレート。

Photo by:

こんにちは、しんざきです。

なんだか、「涼しい」を通りこしていきなり寒くなってきましたね。

最近は、春キャンセル夏とか秋キャンセル冬とか、横暴なコンボを押しつけていく戦術が流行っているんでしょうか。バランス調整でナーフして欲しい。

 

たいしたことではないんですが、長男から聞いた体育祭での話がちょっと面白かったので書かせてください。

書きたいことは大体以下の通りです。

 

・長男が体育祭で騎馬戦に参加しました

・長男のクラスでは、「敵チームを突出させておいて、一部の騎馬が左右に回り込み、側面や背面から殲滅する」という作戦を考えたそうです

・実際やってみると、部隊展開にまごついてる間に相手の勢いで正面突破されてわやくちゃになってさっぱりうまくいかなかったそうです

・みんなで作戦を話し合って実践するのも、それに失敗するのもとても良い経験ですよね

・「机上で計画するのと実行するのは大違い」とか「何事も、実行するには練度が必要」といったことを学べたのも良かったと思います

・総括しての長男の感想が「ナポレオンやハンニバルって凄いんだなと思った」だったのが、「そうですよね」以外いいようがなくて面白かったです

・色んなことから学びを得ていってくれるといいなーと思います

 

以上です。よろしくお願いします。

ということで、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。

 

先日、長男の学校の体育祭がありました。長男は男子校に通っていまして、勝負ごとが好きな男子生徒同士、勝ち負けがつく競技もそこそこ盛り上がるようです。長男自身は騎馬戦に参加していました。楽しいですよね、騎馬戦。

 

で、長男のクラスでは、どうも軍師的な立ち位置の子がいたらしく、「相手が突っ込んできたところを、横や後ろから挟みこむように全体で誘導したら楽に勝てるのでは?」と思いついて、そう提案したらしいんですね。

で、クラス内で話し合って回り込む部隊の割り振りや動き方について相談して、いざ実際に本番、ということになったと。

 

長男の話によると、その作戦の概要はざっくり下記のようなものだったそうです。

・各騎馬を、大きく「右方面担当」「左方面担当」「正面担当」の三つのチームに分ける
・正面チームは大きく前に出ないで、相手の騎馬を受け止めつつ左右チームの動きを援護する
・右チームと左チームはそれぞれ迂回して相手の側面、あるいは背面に回り込む
・敵チームの騎馬を挟み込んで撃破する

 

いわゆる包囲殲滅戦、カンナエの戦いでハンニバルがやってたようなヤツですね。

世界史の授業でもローマ史を勉強していたので、そこからとってきたのかも知れません。皆で戦術考えるの超楽しかったろうなー。陣形作るとか遊撃部隊作るとか、やったやった、私も昔やった。

 

まあ最初に書いた通り、結果だけ書くとこの作戦は大失敗で、勢いでひたすら押してくる相手に全く対抗出来ず全体が瓦解、長男のクラスは大敗してしまったようなのですが。

 

夕食の後に長男と議論したのですが、恐らく失敗の要因は、

・騎馬戦の練習時間がろくにとれず、動き方がちゃんと頭に入っていなかった
・フィールドの見晴らしがよく、各チームの動きが相手から丸見えだった
・そもそもフィールドの横幅が十分ではなく、左右チームも敵チームの動きに巻き込まれてしまった
・こちらが展開しようとまごついていた分、単純に敵チームの勢いが強く正面があっさり当たり負けてしまった

などの要素だろうと長男は考えているようです。妥当な分析だと思います。

 

で、全体を総括しての長男の感想が「ナポレオンやハンニバルって凄いんだなと思った」でして、こんな身近なイベントからハンニバルに繋げるのスケールでかいなと思いつつ、そうだよねあの人たち色々とんでもないよね、と思わず盛り上がってしまったわけなのです。面白かったです。

 

もちろん騎馬戦の勝ち負けは決して馬鹿にした話ではなく、本人たちにとっては大きな問題だったと思うのですが、親としては「勝ち負けはともかく、長男いい経験したなー」と思っていまして。

 

長男このイベントで、

・チームで話し合って計画を策定し、実行するという経験
・「計画と実践の間には大きな隔たりがある」という事実
・「練度不足だとそもそも計画通りに実行出来ない」という知見
・計画がうまくいかなかった時のリスク管理、プランBの重要性
・派手な事績の裏には無数の失敗がある、むしろ無数の失敗があるからこそ一部の事績が記憶に残るのだ、という認識

定着するかはともかく、これくらいの知見は得られたんじゃないかと思うんですよ。

 

まず、上手くいくいかないに関係なく、「ちゃんと話し合ってプランを立てた」ということ自体が既にエラい。

体育祭なんて生徒によってモチベーションの傾斜もあるでしょうし、別に負けたからって成績に響くわけでもありません。無難に進めるなら作戦なんて考える必要もなし、出たとこ勝負で十分でしょう。

 

そんなイベントにも真剣に向き合い、曲がりなりにもクラス総勢の合意をとって、「全体の作戦」として成立させたこと自体が一つの成果です。クラス仲良さそう。

 

で、「立てた計画が上手くいかなかった」というのも、経験値としては大変貴重です。

人間、学びや知見は失敗体験からこそ得られるものです。失敗してこそ「何故失敗したのか」ということを振り返ることが出来るし、失敗要因を検討してこそ知見になる。

 

今回の場合、恐らく「練習不足で複雑な動きが出来なかった」ことが最大の失敗要因ではないかと思いはするのですが、フィールドの狭さなんかも実際やってみないと分からないところで、「考えるのとやってみるのでは大違い」というのも貴重な知見です。

 

いざ自分たちでフィールドに立ってみれば、状況も把握出来ないし彼我の位置関係もよく分からず、どう動けばいいかさっぱり分からなくて大混乱、なんてことにもなったでしょう。

「実際にやってみた時どうなるか、可能な限り具体的に想定する」というのは、どんな場面、どんな計画でも重要な考え方です。

 

で、「上手くいかなかった時どうするか」を事前に考えておくのが重要、というのも、計画が失敗した時に得られる大事な知見の一つです。いわゆるプランBってやつですよね。

「あ、ダメそう」と思ったらその時点で作戦を破棄することも時には必要で、それによってリカバリが出来る場合もあるのですが、「誰がどう失敗を判断して、どうやってプランBへの切り替えを指示するのか」というのもとても大事です。

 

事前にリスクを想定しておいて、そのリスクが顕在化した時にどう対応するかって、考え方としてはとても重要ですよね。まあ、体育祭の騎馬戦でそんな判断が出来るかどうかはともかくとして。

 

それはそうと、今回長男ははからずもハンニバルやナポレオンの名前を出したわけで、もちろんあの人たちは色々とんでもない手腕の持ち主なわけですが、「難しいことを達成したからこそ歴史に名が残っている」「実際には記憶にも残らない失敗例の方がずっと多いし、成功譚にしても失敗と紙一重だったりする」というのは、それはそれで重要な認識だと思います。

 

輝かしい成功例を、単に輝かしいからというだけで表面的に真似しても、実際聞くとやるでは大違いで、実行の際には入念な準備と実行力が必要になる。それも、史上の出来事と彼我を比べての失敗体験から得られる知見ではないかと考えるわけです。

 

もちろん、上記のような話は飽くまで「そういう知見を引き出すことも出来る」という話であって、体験としては「楽しかった」「悔しかった」だけでも十分です。

とはいえ、折角なら色んな経験を積んで、将来の自分の糧にしていってくれるといいなあと、親としてはそんな風に考え、子どもたちにも色々話している次第なのです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

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ネットでは「教養」の話が定期的に盛り上がる。その様子をみるに、「教養」という言葉は一種のバズワードで、それぞれが勝手な定義を持ち、その定義に沿って言いたいことを言い合っているようにみえる。

または、「『教養』という言葉にはいろんな側面がある」と言ってしまうべきだろうか。

 

今日は、そんな「教養」のいろんな定義や側面のひとつとして、「すごーいといえるための教養」についてオススメしてみたい。

 

「教養は役に立つ」を、俗っぽく考えてみる

教養談義の定番のお題、「教養は役に立つか否か」。

だが私に言わせれば教養は役に立つに決まっているのであって、ただ、役に立つように教養を身に付けたり運用したりしていない人がいるだけだと思う。

 

では、どのように教養を役に立たせるのか?

 

教養を役に立てる方法は色々あるが、今回はあえて単純化して「すごーいと言えるための教養」、というお役立ちを紹介してみたい。

 

ビジネスパーソン向け雑誌や書籍の表紙にはしばしば、「教養を身に付ける方法」だの「サラリーマン必読の教養」だのといった文字が躍っているが、「すごーいと言えるための教養」も、そのお役立ちのひとつである。どういうことかというと、教養がある人は、上司や同僚や取引先の人に「すごーい」と言いやすくなるのである。

 

たとえば、取引先の人とレセプションで同席した時、その人が会話のなかで平家物語のパロディを織り交ぜてみせたとする。

そういう時に、気付いて目を輝かすことができたら、取引先の人の印象はちょっと良くなるだろう。なにせ、わざわざそんなパロディを会話のなかに組み込むぐらいだから、そこは気付いてもらいたいポイントのひとつに違いないからだ。

 

もちろん織り交ぜられる教養は平家物語のようなかしこまったものとは限らない。『機動戦士ガンダム』や『ドラゴンボール』の登場人物のセリフのことだってあろうし、そうしたセリフについて知っているおかげで話が弾むことだってある。

 

喫煙所や懇親会で何気なくかわされる会話のなかにも、ユーモラスな引用やパロディがしばしば混じっている。よほど気難しい相手でない限り、そうした引用やパロディがわからないからといってコミュニケーションが必ず失敗に終わるわけではない。

しかし、そういう引用やパロディに気付くことができ、打てば響くようなリアクションが取れるなら、コミュニケーションに弾みをつけることができるし、案外、そうしたところが後押しになることもある。

 

そして稀にだが、そうした引用やパロディを一種の足切りテストのように繰り出してきて、それに気付いて反応する人間にだけ面白い話をしてくれる人もいる。

 

こうしたことを考えると、ビジネスパーソンに教養は必要か、控えめに言っても教養があったほうがコミュニケーション上のアドバンテージをとりやすい、と言えるんじゃないだろうか。

もし教養がコミュニケーションにプラスの影響を与えてくれるなら、そして面白い話を引き出す魔法の鍵たりえるなら、それだけでビジネスパーソンに役立つと言えるし、ビジネス雑誌に繰り返し登場するのも道理というほかない。

 

「すごーい」と言える時に教養は輝く

さて、そんな会話術のサポーターとして教養を考える際、威力絶大なのは、「すごーい」である。

 

人間、誰しも「すごーい」と言ってもらえるのは嬉しいものだ。「お詳しいのですね」「博学ですね」「なるほど!」も「すごーい」のバリエーションと言えるだろう。そういえば、ホステスやキャバ嬢の世界でも「すごーい」は重宝されている。

男性が喜ぶ褒め言葉「さしすせそ」
「さ」さすが
「し」知らなかった
「す」すごい!
「せ」センス良い
「そ」そうなんだ!

これがマイナビウーマンの記事で紹介されていることが示すように、「さしすせそ」はホステスやキャバ嬢の独占物ではない。

もちろん男性のビジネスパーソンだってどしどし使ってかまわない。

 

問題は、この「さしすせそ」が一番ちゃんと刺さるのは、実際に相手のことを「さすがだ」「知らなかった」「すごい」と思えている場面に限られる点だ。

 

上掲のマイナビウーマンの記事にも書かれているが、この「さしすせそ」は、大げさ過ぎたりわざとらし過ぎたりしたら逆効果になってしまうおそれがある。つまり、たいしてすごいと思っていないことをわざとらしく「すごーい」と言ってもバレてしまって良くないのである。

同じく、自分が興味関心をもっていない分野の話で「すごーい」と言っても、わざとらしさが目立つ可能性が高く、相手が白けてしまうリスクが高いだろう。

 

では、どうしたら「すごーい」とナチュラルに言いやすくなるのか?

ここで、教養の出番がやって来る。

 

私たちは、なんにも知らないことやなんにも関心がないことに「すごーい」とは言えない。将棋にまったく興味のない人が将棋の話題に首を突っ込んで「すごーい」と言っても、それは空疎な誉め言葉に堕してしまいやすい。

いくらかでも自分が知っていることや関心があることに対してこそ、自分よりも詳しい語りに「すごーい」と心を込めて言えるのだ。

 

ときには自分よりも知識が少なそうな人に対して「すごーい」と言える場合もある。たとえば自分よりずっと年下の人が知識の片鱗をみせてくれた時には、賛美の気持ちを込めて「すごーい」と言いやすい。

この場合、「すごーい」の代わりに「よくご存じですね」でもいいのかもしれない。一例を挙げれば、20代のゲーム愛好家が1990年代のゲームについて熱心に物語っていて、内容的にも間違いがない時、私などは「すごーい」「よくご存じですね」という言葉を禁じ得ない。

 

こんな具合に、教養があればあるほど、より広い範囲に関して「すごーい」と言いやすくなる。「すごーい」と言える状況で「すごーい」と言えば、言われた側はまんざらではないだろうから、心証が良くなるし、相手の舌のまわりをより滑らかにもできる。もちろん、仲良くなりやすくもなるだろう。

 

人が「教養は役に立つ」と言う時、そこに込めたニュアンスは千差万別だが、こうしたコミュニケーション上のメリット目当てに考えるだけでも教養は十分にお役立ちで、ビジネス誌が紹介するのもよくわかるのである。

 

「すごーい」のための教養はどうやって身に付けるか

では、どんな教養をどのように身に付けるのが望ましいだろうか?

 

ここでは「どんな知識も、どんな関心も、きっと教養の一部になりますよ」と言ってみたい。

 

もちろん、何が教養として通用するかは相手や状況によって異なる。

たとえばホワイトカラーな欧米人と話をする時には聖書や古代ギリシア哲学について知っていたほうが、「すごーい」を言いやすい。というより、ホワイトカラーな欧米人と話をする際に聖書や古代ギリシア哲学について知っていたおかげで、わかりにくいセンテンスの意味がどうにかわかった(逆に、知らなかったらきっとわからないままだった)といったこと私は体験したので、ホワイトカラーな欧米人と話をする時に抑えるべき教養ってやつはあると確信している。

 

同じく、ホワイトカラーな日本人と話をする時に抑えておきたい教養ってやつもあるはずで、それはきっとドラッカーのビジネス論だったり、マズローの欲求段階説だったりするのだろう。

 

ユースカルチャー(サブカルチャー)の知識や関心が役立つ場面だってある。たとえば『ポケモン』や『ドラゴンボール』や『NARUTO』について話題を共有できることが助けになる場合がある。相手や状況によっては、『アーマードコア』や『シヴィライゼーション』や『マインクラフト』といったゲームについての知識が役立つこともある。

 

このほか、音楽、料理、登山、SF小説、美術、あらゆる教養が唐突に「すごーい」と言える機会を、ひいては人と人とをより親密に結びつけてくれる機会を提供してくれる(ことがある)。

 

そうしたわけで、私は「すごーい」を言えるような教養を特定のジャンルに絞るより、あなたが興味関心が持てるジャンルならなんでもいいよ、と言ってみたい。

 

なかには仲良くなりたい人が関心を持っているジャンルを事前に調べたうえで、そのジャンルの教養を学んでみようとする人がいるかもしれない。まあ、それを楽しくやれる人はやって構わないと思うけれども、楽しくないことをやろうとするとストレスフルな勉強になってしまい、コスパの悪い学びに終わってしまう可能性がある。

それぐらいなら、自分がちゃんと興味関心が持てるジャンルをひとつかふたつ深堀りし、そこから近隣のジャンルに少しずつ関心を広げていったほうが苦痛が少なく、より効率的に教養を身に付けられるように思う。

 

どこまで身に付けたら教養と呼べるのか

じゃあ、どこまで知ったり身に付けたりできたら教養と呼べるだろうか?

もし教養を、虚栄心をみたすためのマウンティングのツールとして用いたいなら、とにかく人より多くのことを知っておくに越したことはない。教養を鼻にかけたい時、「おまえ、そんなことも知らないの? プププ~」って言われたくないでしょうからね。

 

しかし「すごーい」と言えればそれでいい人は肩肘張って勉強する必要はない。

かえって知りすぎないほうが都合が良いかもしれないぐらいだ。

 

ビジネスにせよプライベートにせよ、コミュニケーションのなかで「すごーい」と言うために必要なのは、適度な関心と、いくらかの知識だ。特に年上や先輩を相手取る場合には、相手のほうが教養が深く、自分のほうが教養が浅いほうが自然と「すごーい」と言いやすく、話を弾ませやすいだろう。

 

一例を挙げてみる。

私はワインが好きで、教養としてのワインにたびたび助けられてきた。

ワインに詳しい年長者は、いろんなヴィンテージを飲み比べていたり、今では目が飛び出るほどの価格のワインを若かった頃に飲んでいたりする。そういう人たちとワインの知識や経験で競争するのは愚の骨頂である。しかし、そういう年長者と会話する際にワインの基礎的な知識があれば、合いの手を入れることができる。

 

相手「そうしたわけで、私はロマネ・コンティ社のワインを箱買いして、そのグラン・ジェセゾーを毎週飲んでいたんですよ」

私「ロマネ・コンティのグラン・ジェセゾーなら、熟成期間も相当なのでは?」

相手「それがですね、当時はまだ、ヴィンテージのこともよくわからなかったから、ろくに熟成もさせないで毎週飲んでいたんです(笑)。それでもすさまじい美味さでした、美味いものは早飲みしても美味いんです。」

 

上記は、ある人からロマネ・コンティ社のワインが安かった頃の昔話をうかがったものだが、「高級ワインは熟成期間が長めのほうが望ましい」という基礎知識があったから、話が弾んだ。この人との会話では、「ヴィンテージがハズレの時は熟成期間が短めになりがち」「ヴィンテージによって、同じメーカーのワインでもどっさり作られる年もあれば、僅かしか作られない年もある」といった知識も役に立った。そのおかげで、ロマネ・コンティ社のワインがまだ安かった頃の逸話をたくさん拝聴することができた。

 

しかも、そのお話をしている時、相手の人はとても楽しそうだったのである。

 

この例に限らず、「すごーい」というための教養は、ジャンルの頂点をきわめるほどでなくて構わない。

それこそ、ビジネスパーソン向けの教養書に載っているレベルのことがわかれば「すごーい」というには役立つし、ワインの場合もフランスやカリフォルニアの名醸地のどれかについてある程度の知識と経験を持ち、他は色々とつまみ飲みしていれば十分だ。ソムリエ並みになっておく必要はあない。

 

古典についてもそうだと思う。たとえば『源氏物語』は現代語訳でも全部読むのはなかなか大変だが、漫画『あさきゆめみし』を読めば大雑把なことはわかる。

大河ドラマもいいだろう。大河ドラマは各時代の物語を楽しく見せてくれる。現在放送中の『光る君へ。』もそうで、歴史学徒になるには不十分でも、平安時代や平安貴族の話になった時に合いの手を入れるには十分だし、「『光る君へ。』は毎週見ていました」と言えるだけでも役に立つことがある。

 

どうやってその教養を身に付ける?

そうしたわけで、「すごーい」というための教養を身に付けるだけなら、難しい専門書を読まなければならない道理はない。少しフィクションが入った作品でもかなりいける。たとえば塩野七生『ローマ人の物語』は読み応えのある作品だが、「すごーい」というための教養を身に付けるにもうってつけだ。

[amazonjs asin="4101181519" locale="JP" tmpl="Small" title="ローマ人の物語 (1) ― ローマは一日にして成らず(上) (新潮文庫)"]

魅力的なノンフィクション作品でローマ帝国の歴史を一望できるのは素晴らしいことだ。これも、精確なローマ帝国史を学ぶには不十分だが、「すごーい」というための教養、ビジネスパーソンのやりとりの具材としての教養としてはこれで十分だし、かえってこれがいいぐらいかもしれない。

 

こういう視点で考えるなら、教養のインストール元としては、司馬遼太郎の『坂の上の雲』でも、漫画の『チェーザレ』や『キングダム』でも『なんて素敵にジャパネスク』構わない。テレビなら『ヒストリーチャンネル』や『ディスカバリーチャンネル』も素晴らしい。それらをとおして頭に入ったことも、コミュニケーションには十分に役に立ってくれる。

 

そして今日では、アニメやゲームも教養の一端たり得るかもしれない。たとえば『ガンダム』シリーズや『Fate』シリーズについて知っているおかげで意思疎通が捗ることもあるだろう。もちろんこういうのは「上司の知っていそうなカラオケの曲を練習する」」みたいな事態になりかねず、わざわざ知るのに抵抗がある人もいるはずだし、私自身、そういう目的のために過去の作品に目を通す気にはなれない。

 

が、しかし、いくらか興味のある人は、たとえば『ガンダム』シリーズだったら最新作の『水星の魔女』や『閃光のハサウェイ』だけ目を通しておいて、ガンダムの話題が出た時には「あ、『水星の魔女』だけは観てみましたけど」みたいに言えると便利かもしれない。

 

ちなみに、『ガンダム』については「初代から見るべきだ」みたいなことをいう愛好家がいるが、ガンダムの全容を知りたいのでない限り、やめたほうがいいと思う。最近のアニメを見慣れている人には最新作のほうが楽しみやすく、わかりやすいだろうし、若い人なら「最新作だけ見てみました」というスタンスが自然に見えるだろうからだ。

 

実践上のおことわり

最後にもう一度おことわりを。

 

この「すごーい」というための教養は、ビジネスパーソンが社交に資するための教養、コミュニケーションの触媒となり、相手に気持ち良くしゃべってもらい、その過程をとおして相手への理解を深めたりするための教養であって、知識の正確性や、ひとつのジャンルの求道性は考慮していないので、そこを間違えないようにしていただきたい。

 

と同時に、自分が気持ちよくトリビアを開陳するための教養、自分の自尊心や虚栄心をみたすための教養でもない。

教養をとおして心理的充足をみたす方法にも色々あるが、ここで語った「すごーい」というための教養は、相手に楽しい時間を過ごしてもらうこと・相手に色々なことをしゃべってもらうためのものなので、そういう心積もりのうえで運用していただけたらと思う。

 

しかしまあ、こうして文章化してみると、なるほどビジネスパーソン向けの教養書が流行るのも道理ですね。教養は、適切に使いこなせるビジネスパーソンには強い味方になってくれるサブウェポンだと思います。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

[amazonjs asin="B0CVNBNWJK" locale="JP" tmpl="Small" title="人間はどこまで家畜か 現代人の精神構造 (ハヤカワ新書)"]

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo:Heather Wilde

口に出した瞬間に人間関係が終わる、強烈な言葉がある。

 

「鳥貴族ってマズイから嫌いなんだよね」

「有馬温泉なんて、たいしたことないやん」

というたぐいの、“否定の暴力”だ。

 

一生懸命に飲み会の会場を考えてくれた幹事や、温泉旅行に行って楽しかったと嬉しそうに話してくれる友人への、返事のことである。

 

これほどに信頼関係を壊し、淡い恋の始まりすら台無しにする言葉は、他になかなか無い。

きっと誰しも1回や2回、そういう苦い思いをした記憶に、思い当たるフシがあるはずだ。

 

そんなこともあり令和の今、ポジショントークで「否定をバラまくことが仕事」のオールドメディアがますます衰退しているのだろう。

そもそも、新聞記者よりも鉄道マニアのほうがよほど鉄道問題に詳しいし、歴史マニアのほうがよほど史実を多面的に理解しているものだ。

インターネットで誰でも情報が発信できる今、知識・経験でもオールドメディアの記者に勝ち目はない。

 

そんなことを漠然と考えていた時、まさに「日本一のマニア」であると自負している私の“テリトリー”で、とんでもない“否定の暴力”を発信している著名なジャーナリストをみかけることがあった。

宜しければ少しばかり、そんな与太話にお付き合い頂きたい。

 

“スパイが入り込んでいる”

お話を始める前に、私が日本一のマニアであると自負しているジャンルを少しだけ、ご説明したい。

私が日本一と自負しているのは、「自衛官オタク」というジャンルだ。

陸海空自衛隊の将官はもちろん、1佐(大佐相当)以上の幹部のキャリアについては、過去10年以上にわたり、全ての人事記録を残している。

 

出身地はどこで、どこの大学を出て、学生時代の部活は何をしていたか。

若い頃からどんな補職(キャリア)を歩んできたのか。

誰の親分・子分で、誰のことが好き/嫌いなのかといった人間関係を含め、研究対象にしている。

お名前とお顔、キャリアが一致する人は、ざっと数百人はいるだろうか。

 

客観的にみて、私は相当頭がおかしい。しかしマニアとはそういうものなので許してほしい。

 

そしてそんなある日、先述のように著名なジャーナリスト、門田隆将氏がXでこんな発言をしているのを見かけた。

 

要旨2018年に発生した、韓国軍による海上自衛隊機への攻撃行為を不問に付した海上幕僚長(海自トップ)など、更迭されて当然という発信である。

著名なインフルエンサーでもあるので、この発信に対しフォロワーたちも、こんな書き込みで応じている。

 

“事なかれ主義も極まってるね。つまらん役人がトップとは・・辞めて正解だょ。“

“有事が近くなって来ているのでしょうか。平時なら、こんなポンコツでも飾りになりますが。”

“何処までスパイが入り込んでいるのか”

 

ふ ざ け ん な お 前 ら

 

これほどに何も知らない人たちが、人や組織を軽々しく批判するなど余りにも軽率であり、噴飯ものである。

それに釣られて同調している人たちも、同様だ。

 

そこで「自衛官マニア」の、知識の出番である。

おそらく門田氏も、そのフォロワーさんも全く知らないと思うが、彼らが攻撃している酒井海上幕僚長(当時、以下敬称略)とは、どういうキャリアを歩んできた自衛官なのか。

本当に事なかれ主義のポンコツなのか。

詳細を話せばキリがないので、象徴的なお話をしたい。

 

今を遡ること14年前、2010年2月のことである。

2009年9月に誕生した民主党政権から半年も経っておらず、総理大臣は鳩山由紀夫、民主党幹事長は小沢一郎という時代だ。

国民は政権交代に熱狂し、民主党政権は文字通り、国民の支持を背景に勢いに乗っていた。

 

そんな中、鳩山は総理に着任すると早々に、海上自衛隊がインド洋で行っていた国際貢献活動の撤収を命じる。

アメリカ同時多発テロ以降、米国をはじめとした同盟国・友好国が「対テロ戦争」を遂行するにあたり、自衛隊が燃料の提供などを通じて後方支援を行っていたものだ。

 

当然のことながら、同盟国・友好国が戦っている中、後方支援からすら離脱するなど、信頼関係に影響が出ないわけがないだろう。

そんな“裏切り”をするような日本が攻められたなら、その時、どこの国が助けてくれるというのか。

しかし鳩山は、そんな国際事情をかえりみることなく、自衛隊の撤収を命じる。

 

そしてまさにその時、撤収を命じられた最後の指揮官が当時、第7護衛隊司令であった酒井であった。

酒井はこの命令を現地で受けた際、メディアからの質問にたったひとこと、こう回答している。

「撤収は今後、我が国の戦略に影響があるのではないか」

 

現役の幹部自衛官として、総理批判ととられるかどうかの、ギリギリの表現だ。

そのギリギリの表現に、無念さと政権批判を滲ませている。

 

将来の海上幕僚長に向け順調にエリート街道を昇っていた酒井にとって、更迭覚悟の発言である。

まして当時は、繰り返しになるが民主党政権が勢いに乗っていた時代だ。

加えて、2011年の東日本大震災の前なので、まだ自衛隊に対する世間の理解も進んでいない世相でもある。

よく左遷されなかったものだと、今も不思議に思っている。

 

「いやいや、いくらなんでも総理大臣が、そんな軽率に人事に介入などできないのでは?」

そんなふうに思われるだろうか。

実は同じ2010年2月、同様に“ギリギリの政権批判”をして更迭された自衛官が実際にいる。

第44普通科連隊長であった、中澤剛・1等陸佐(当時)だ。

 

中澤は、王城寺原演習場で行われた日米共同訓練の開始式で、こんな訓示を述べる。

「同盟というものは、『信頼してくれ』などという言葉だけで維持されるものではない」

 

言わずもがな、鳩山総理がオバマ大統領に伝えた「trust me」を暗に批判し、「国防を舐めるな!」という怒りを滲ませたものである。

これに対し鳩山は、中澤に対し文書による「注意処分」を下し、翌月には連隊長職から更迭してしまった。

 

酒井が許され、中澤が許されなかった基準はよくわからないが、中澤のほうがより”色の濃いグレー”と判断されたのだろう。

いずれにせよ酒井は、保身よりも国防を、自らの出世よりも筋を通すことを選び、リーダーとしての矜持を体現した。

日米同盟を基軸とする我が国の安全保障体制が揺らぐことに、職を賭して最高指揮官・鳩山に抗議をしたということだ。

 

そんなキャリアを積み上げ、海上幕僚長(海上自衛隊トップ)にまで昇った酒井に対し、門田氏とそのフォロワーは、

「日本のために退任は妥当」

「事なかれ主義も極まってる」

「何処までスパイが入り込んでいるのか」

という“否定の暴力”をぶつけたのである。

 

そもそもとして、韓国軍による火器管制レーダー照射を不問にするかどうかの外交判断など、制服組にできるわけがないだろう。

もしその判断ができるというなら、その逆、

「韓国軍を徹底的に許さず、準同盟関係を破棄する」

という判断も、制服組ができるということだ。

そんな権限が制服組に与えられているわけがないこと、なぜわからないのか。

 

“否定の暴力”というのはこのように、言う方はいつも軽率で、言ったことを覚えていないほどに軽い。

どうか、影響力のあるジャーナリストとして、インフルエンサーとしてもう少し、「否定という暴力的な手段」の行使について、考えて欲しいと願っている。

 

“否定の暴力”の正体

思えば私たちは、「誰かや組織を否定すること」の重さを、余りにも軽く考え過ぎている。

そもそも否定というのは、相手を圧倒するほどの情報と知識が前提になる行為だ。

情報と知識に基づかない否定はただの感情論で、何も生み出さない。

 

にもかかわらず、お気軽に“知識人”を装う、あるいは対人関係でマウントを取る手段として人はすぐに、“否定の暴力”を行使する。

 

「鳥貴族ってマズイから嫌いなんだよね」

「有馬温泉なんて、たいしたことないやん」

 

というたぐいの、“俺のほうがわかっている”という、百害あって一利なしのコミュニケーションである。

 

オールドメディアやその記者がそうであるように、表面的で浅薄な知識による“否定の暴力”など、インターネットの時代にはすぐに暴かれ、カウンター攻撃を喰らうものだ。

広大なインターネットの世界には、どんな狭い領域にも、信じられないほどに知識をため込んだマニアが居るので当然である。

だからこそ、ポジショントークで否定的な言葉を紡ぐオールドメディアにはどんどん、居場所がなくなっていくのだろう。

 

否定では決して人や組織は育たないし、良い人間関係など生まれない。

短所を攻撃されたら人は反発するだけで、そこに生まれるのは嫌悪感や憎しみだけなのだから。

だからこそ 、人と組織を上手に育てるリーダーは、“否定の暴力”を行使しない。

もちろん、それはやがて”好意”に形を変え何倍にもなり、リーダー自身に返ってくることになる。

 

“否定の暴力”が余りにも軽く行使される時代だからこそ、“本物の知性と品格”が問われている。

ぜひ、一人でも多くの人にそんなことを考えて欲しいと願ってる。

 

 

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【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など

飲食店でも、例えば帰り際に、
「今日頂いたキッシュ、すごく美味しかったです。必ずまた来ます」
と伝えるだけで、もう2回目からは常連のように歓迎されます。

「ソースの味がイマイチじゃないかな」などと言ってみれば、いつでも嫌いになってもらえます。
信頼関係に基づかない否定は、相手の心に届きません…。

X(旧Twitter) :@ momod1997

facebook :桃野泰徳

Photo by:UVolodymyr Hryshchenko

気が合わないなあ、と思う方、身近にいますか。

もちろん、「いない」という人の方が珍しいと思います。

 

そういう相手との付き合い、本当に気が重いですよね。

 

観察していると、大人だけではなく、子供たちにもそういう相手がいるようで、

「あの子とはもう遊びたくない」とか

「イヤなことを言われた」とか

要するに、人間関係というのは、どこへ行っても悩みの種のようです。

 

でも、難しいのはそういう「イヤな相手」にどう対処するかです。。

 

ネット上だったら、ブロックしておしまい。

それでいいのですが、リアルで付き合いのある相手だと、「ブロックしておしまい」というわけにいかない時もあります。

 

イヤな相手との付き合いは、時に健康にも大きなダメージがあります。

何とかしたい。

 

今回はこれについて書いてみたいと思います。

 

「イヤな相手」の本質は

そもそも「イヤな相手」を、なぜイヤだと思うのでしょうか。

 

その本質は非常に単純です。

「その人と付き合うメリット」から、「デメリット」を差し引いた結果が、マイナスの人物だからです。

付き合うメリットより、デメリットの方が大きい人、いますよね。それが「イヤなやつ」です。

 

例えば、会社員であれば、直接的には社長や上司から金をもらっているようなもの。

給与という金銭は、彼らと付き合うメリットです。

 

が、それを加味しても、

悪口を言ってくる。

バカにする。

こちらを搾取しようとする。

高圧的である。

であれば、トータルとしてマイナスの付き合いである、という事はあり得るわけです。

ただ、「もっと大きなマイナスが嫌だ」から、現状に我慢しているだけ。

 

人間は社会的な生きもの、と言われます。

 

ネットワーク科学者のニコラス・クリスタキスは著作の中で

「状況に最も適合した社会的ネットワークを持つチームが勝者となる。」

と述べていますが、それは「一匹狼として生きる」よりも、「人付き合い」から得るものが大きな生き物だからです。

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しかし、つながりから得るデメリットが、メリットを上回ってしまえば、本末転倒です。

その場合、人付き合いは、むしろ失うものの方が多い。

 

ですから、俗にいう「ぼっち」は、その人自身の有する人的ネットワークから、メリットを得ることができない人々を指すと言っても良いでしょう。

 

どうしたら「人付き合い」が楽になるか

ただ、上で述べたように、ネットはブロックしておしまい、でよいですが、リアルでは人間関係のデメリットの方が大きいからと言って、人付き合いを早々に切ることはできません。

「さらに大きなマイナス」があり得ますからね。

 

つまり、まず考えるべきは、自分の有する人間関係のデメリットどう減らすかです。

 

一体どうすればいいのか。

 

 

ここで一つの考え方があります。

人的ネットワークは、持てば持つほど、その一つ一つのネットワークの相対的な価値は下がるのです。

「会社で嫌なことがあったけど、仲のいい友達と話したら忘れちゃったよ」

「学校の友達は気が合わないけど、塾の友達とはすごい楽しい」

というやつです。

 

だから、「人間関係」に悩んだら、他にメリットのある人間関係を数多く作ればよいのです。

そうすれば「デメリットの大きい関係」の相対的な価値が下がる。

ストレスのかかる、デメリットの大きな人付き合いをしなければならないとしても、他の人間関係を作って、その重要度を下げてやればいいのです。

 

わずかな人間関係を絶対視してはいけないですし、依存してもいけません。

「まあ、他にも知人友人がいるし、こいつとの人間関係はこの程度でいいよ。」

と思えることが重要です。

 

コンサルタントは

「仕事がきついほど、飲み会を増やす」

という人がたくさんいました。

これは日常のストレスフルな人間関係を、他の人間関係で希釈しようという動きです。

 

もちろん、正面から向き合うべき人間関係もあります。

例えば「妻との関係が悪くなったので、他のネットワークを作って妻との関係の相対的価値を下げる」

といった行為は、より問題を大きくしますから。

 

ただ、「気が合わない相手との付き合い方」を突き詰めると、正面からその人と向き合うのはあまり得策ではありません。

むしろ「そいつ以外との人的ネットワークを増やす」に尽きます。

 

人付き合いに余裕が持てます。

仕事でも別の機会を見つけることができるかもしれません。

別の気の合う友人と巡り合うかもしれません。

「大した悩みでもなかった」と思えるかもしれません。

 

もし子供が学校の人間関係で悩んでいるようなら、親が学校以外の人間関係を与えてあげてください。

塾や習い事などは、「学校の人間関係の価値」を下げてくれます。

 

「自分がイヤなやつ」になっていないか

ただし、これには注意点もあります。

「実は、自分自身がイヤなやつだった」という場合です。

 

「フリーライダー」、つまり相手の善意にただ乗りしている場合。

人間関係からメリットを得ているのが自分だけの場合。

相手を良い気分にさせていない場合。

 

こういうケースは、自分では気づきにくいです。

が、相手からすれば「あなたとの関係こそ、切るべき関係だった」という事が往々にしてあります。

悲しいですね。

客観的に自分を見ることができないと、どこの人的ネットワークでも、その人はつまはじきになります。

 

 

そういう意味では「人的ネットワークを増やす」のは、自己を見つめなおすのと、セットでやらねばなりません。

新しいネットワークは、自分を変えるチャンスでもあります。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

生成AI活用支援のワークワンダースCEO(https://workwonders.jp)|元Deloitteのコンサルタント|オウンドメディア支援のティネクト代表(http://tinect.jp)|著書「頭のいい人が話す前に考えていること」65万部(https://amzn.to/49Tivyi)|

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯note:(生成AI時代の「ライターとマーケティング」の、実践的教科書

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Photo:Shubham Dhage

最近、「病院の待ち時間」に関して、Xで論争が巻き起こった。

発端と思われるポストはこれだ。10万いいねがついている。

それに対し、医者へのヘイト高めの反論がつき、さらに「いや医療っていうのはさ」という反論がつき……と拡散され続けている。

その後は社会保険料や医療費などの話に拡大しているが、今回は「病院の待ち時間」に限定して、思うところを書いていきたい。

 

この議論を眺めていたわたしの感想は、こうだ。

「どんな状況でも自分をお客様だと考えるクレーマーばっかりで大変だなぁ。そんなんだから、業務の合理化が進まないんだ」

 

数時間待てば診てもらえる日本は恵まれている

もちろん、だれだって病院での用事なんて早く終わらせたい。待ち時間は少ないほうがいいに決まってる。

とはいえ病院は突発的なトラブルばかりが起こる場所だから、待つのは当たり前なのだ。

 

産婦人科で待っているとき、お腹を抑えながらうめき声を上げる女性が駆け込んできて、すぐに処置室に案内されていた。

それを見ても、割り込まれたことに腹が立ったりはしない。心配はするけど。逆に、自分が急患になることだってある。病院とはそういうところだ。

 

そもそも、数時間待つだけで診てもらえるなんて、恵まれているじゃないか。

わたしが住んでいるドイツでは、メガネで耳がただれて腕時計で発疹が出たので金属アレルギーを疑い皮膚科に連絡したところ、4軒断られ、ようやく予約できたのは3か月後。

しかも2月に電話して予約できたのは5月。「金属アレルギーの検査は数日間シャワーを浴びれないので、夏の期間はできません」と断られて、開いた口がふさがらなかった。

 

妊娠がわかって産婦人科を探したときも門前払いが続き、どうにか頼み込んで診てもらえることになったのは3週間後。すでに妊娠してる、甲状腺の持病があるからすぐに検査してほしい、と言っても「新患は受け付けません」の一点張り。

そういう国で生活しているから、「数時間待つくらいでごちゃごちゃ言うな」というのが正直なところだ。

 

さらにいえば、日本の病院(外来)は基本的に患者を拒否しないから、病院はサービスを向上するメリットがほとんどない。客を呼び込みたい飲食店やホテル業とはちがい、なにもしなくとも患者が来るのだから。

というか、サービスに労力やコストを割けるほどの余裕がないところも多いんじゃないだろうか。つねに人手不足だし。

 

だから、「待合室で仕事ができるようにしてほしい」なんて意見を見て、ちょっと笑ってしまった。そんなことして、病院になんのメリットがあるの?と。

たとえそれが叶ったとしても、得をするのは患者だけじゃないか。

診てもらえなくて困るのは患者なのに、患者目線で「快適にしろ」と要求するのは、いかにもクレーマーの思考回路という感じだ。

 

そうではなくて、「業務を簡易化して医療従事者の負担が減った結果、患者の待ち時間が減る」というような、両方が得をする方向で考えていけばいいのに。

 

病院の業務簡易化が患者の利益になる

ドイツでは今年から、電子処方箋が義務化された。(日本でも部分的に導入されているようだが、4年ほど帰国していないので詳細はわからない)。

 

いやもう、これが本当に便利でね。

たとえば、毎日飲んでいる甲状腺の薬がなくなったとき。

かかりつけ医に「この薬の処方箋をください」というメールを送る。同時に、近所の薬局にその薬をオンラインで注文する。

数時間後、医者から「処方箋を書きました」という返信が届き、薬局からも「16時以降受け取り可」の連絡が来る。

 

薬局に行って薬剤師に保険証を見せれば、保険証に送られている電子処方箋を確認後、注文していた薬を出してもらえる。ちなみに翌日でもよければ、無料で薬の配送も可能。アプリで事前登録すれば、代理人が薬を受け取ることもできる。

以前は毎回病院に行って1時間待って処方箋を受け取って、薬局に行って、薬がなければまた出直して……だったから、本当に楽になった。

 

連邦保健省によると、処方箋の電子化は、

・患者は病院への訪問回数が減る
・病院は署名や書類のやり取りが不要になり薬の管理がしやすくなることで、日常業務が簡素化される

と書かれている。

 

患者にとっても病院にとってもメリットがある改革だ。

ちなみに血液検査の結果も電話で教えてくれるし、薬が変わる場合その指示も電話で終わる。

産婦人科医が「甲状腺の数値が高すぎるからかかりつけ医にこれを見せて相談してね」と、メールで検査結果を送ってくれたこともあった。胎児のエコー検査では、その場で胎児の様子をスクショし、アプリ経由でわたしに送信。

 

患者としてもめっちゃ楽だし、病院としても患者の来訪数が減るうえ、処方箋を印刷したり署名したりする手間もなくなる。診察時間外に電話やメールでどんどん仕事をさばける。

つまり、業務の効率化が結果的に患者の利益になっているのだ。

 

だから今回の議論でも、「患者が待たなくて済むように」よりも、「医療現場の仕事が効率化され、医療従事者の負担が減った結果、患者の待ち時間が減るといいね」という方向で話が盛り上がればなぁ、と思うわけだ。

電子処方箋にかぎらず、議論の方向性として。

 

病院にクレームを入れるより、業務簡易化の援護射撃を

そもそも優先度でいえば、どう考えたって、業務の簡易化>患者の待ち時間短縮である。

 

仕事量が減れば必然的に診療できる患者が増え、待ち時間は減る。

一方で、待ち時間を減らすために病院内の仕事が増えれば、結局は手が回らずに患者の不利益になる。

 

それなのに、「客である患者の満足度」のために、非合理的であっても病院の「サービス向上」を求めるのって、誰得なんだろう?と思う。

もちろん、「こうだったらいいなぁ」と要望を伝えること自体は問題ない。病院が患者をどう扱ってもいいわけでもない。

 

とはいえ病院側にはサービス向上の要求を受け入れるメリットが少なすぎるから、「なに言ってんだ……」と白い目で見られるだけ。

 

それならもっと、「両方の得になるように」って考えたほうがいいと思う。

待ち時間を短縮するために患者の受け入れ人数自体が減ったり、ファストパスで金積んだもの勝ちになれば貧困層が診てもらえなくなったりしたら、困るのはこっちだし……。

 

改めて書くけど、数時間待っただけで診てもらえるなんて恵まれてるからね。

門前払いされて途方に暮れる経験なんて、日本ではしたことなかったよ……。

 

むしろ、待ち時間減らしてガンガンさばいていきたいのは病院側だと思うんだよな。だってそうしなきゃ、自分たちの仕事が終わらないもの。

でも病院は、医療は、そうはいかないんだよ。とくに来るもの拒まずの日本の医療現場は。

 

だから声を上げるなら、「病院は待たせすぎ! 時間を守れ! 患者をなんだと思ってるんだ!」ってクレームじゃなくてさ。

「業務を効率化してどんどん診てくれ! なんでそれができないんだ!? 制度改革しろ!」のほうじゃないかな。

 

医療従事者たちが「こうしたい」と思っても、いろんなルールで縛られてむずかしい場合も多いはず。患者として来院する人たちは、そこで声を上げて援護すればいい。

理想論ではあるにせよ、病院側と患者は敵同士ではなく、本来はともに病気やケガと戦う仲間のはず。

 

業務を効率化して現場の負担が減って、結果的に患者に還元されていくほうが、みんなにとって得だよ。絶対。

それでも納得がいかないなら、プライベート保険に入ってアメリカに行って札束を積もう!

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo:Martha Dominguez de Gouveia