かつて非常に厳しい上司の元で仕事をする機会に恵まれた事がある。

その人の仕事のスタイルは口頭でガンガンと指示を出し続けていくというもので、一度言った事を聞き返す事は許されず、出された指示はその後全て迅速に遂行せねばならなかった。

 

今思い返してみても、出される指示は新人にはかなりキャパオーバーだった。仕事に不慣れだった事と、指示の量があまりにも多すぎた事から、僕は時々抜けを作ってしまったりしていた。

 

その上司は、一日の終りにその日に行った全ての仕事を振り返るという仕事スタイルを採用していた。

恐らく、自分の出した指示がキチンと遂行されているかどうかをチェックするのが目的だったと思うのだけど、1つでも抜けがあるとそれはもう烈火の如く怒り狂うような人であった。

「なんでいつまでたっても出来ないんだ」

「脳みそついてる?」

「はぁ・・・。なんでこんなのがうちに採用されたんだろ」

 

上記はその上司から僕にぶつけられた言葉を、かなりマイルドに書き直したものだ。

カンファ中に繰り出された罵詈雑言は、今思うと立派にパワハラに該当するような凄い言葉のオンパレードだったと思う。

 

前職就任時は

「ミスをしたのはこちらなのだから、怒られるのは仕方がない事だ」と思い、甘んじてその言葉を受け入れていた。

こちらは仕事を教えてもらっている身なのだ。これも愛あるムチなのだろう。そう思っていた。

 

ある時、その上司がちょっとしたミスをした事があった。本当にたまたまなのだけど、チームの中だけで僕だけがそのミスに気が付き、それをカバーできた。

「ふう、やれやれ。これで給料泥棒と言われないですむかな」

こんな思いつつ以下のような事を考えていた。

「あんなに他人のミスに厳しいこの人は、自分のミスには一体どういう風な落とし前をつけるのだろうか?」

その日の振り返りカンファレンスにて、仕事を報告する際、この事について報告した際の上司の反応は以下のようなものだった。

 

「そうですか」

 

これでおしまいである。

別に僕はその上司に罵詈雑言を浴びせたいとかそういう気持ちはなかった。けど、自分が普段食らっていた対応と比較して、対応があまりにも軽すぎる事に、物凄く違和感を覚えたのを今でもよく覚えている。

 

あんなに僕を様々な言葉で罵倒したのだから、自分のしたミスにもキチンと落とし前ぐらいつけるのかと思っていたのだけど、そんな事は全然なかった。寝土下座ぐらいはするものかと思っていたのだけど。

そしてこの事はサクッと流され、次の日もまた僕が罵倒される日々が続いていったのである。

 

ミスを理由に人を叱責するのはいじめっ子のロジックである

その後、別の職場に移る事になった。

その職場には、僕のミスを理由に個人の人格攻撃を行うような人は1人もいなかった。

 

ミスはミスとしてキチンとその事実は指摘するのだけど、あくまでそれは業務上の改善すべき点としてであり、少なくともミスを突破口にして「お前が悪い→だから怒られて当然」というロジックを用いる人は皆無だった。

 

しばらくした後、その職場の上司と酒をのむ機会に恵まれ前職時代の話をする事になった。実は上司も僕と似たような経験をした事があるようで、彼は笑いつつもこのような話をしてくれた。

「ミスを理由に人を叱責するような人間は、いじめっ子みたいなものなんだよ」

「いじめっ子は様々な難癖をつけて、いじめられっ子はいじめられて当然という風な風潮に持っていきたがる」

 

「確かに、いじめられる子にもある程度のいじめられてしまう素因があるのは事実だとは思う。けど、そもそもイジメ自体が悪い行いだという事を、いじめっ子は絶対に認めない。

その事実は巧妙に隠して、いじめられっ子にいじめられてしまう原因があるという風なロジックに持ち込み、イジメを正当化してしまう」

「仕事上でのミスも似たようなものだ。そもそも人間は完璧ではないのだから、仕事上でミスなんて絶対におきる。ミスは業務遂行における改善すべきポイントの1つでしかないし、そもそもそれを理由に他人を叱責するような性質のものでは絶対にない」

「だからミスをした人は怒られて当然だ、というロジックは実は全然正しくない。まあいつまでたってもそんな事をしている人は、ちょっと幼稚すぎるよね」

 

これを聞いて、僕は目からウロコが落ちるような思いをした。今後は、出来る限り部下のミスについてはこの上司のスタンスで付き合っていくようにしようと固く心に誓ったのである。

 

組織をコントロールする方法は、主に恐怖か忠誠心のどちらかを用いる必要がある

今考えると、たぶん前職の上司はかつて自分が行われた行為を、そのまま自分の部下に行っていたのだと思う。考えてみるとあの職場には鬼のように他人のミスに厳しい人が随分といた。

 

組織をコントロールする方法は、主に恐怖か忠誠心のどちらかを用いる必要がある。恐怖型のマネジメントは、忠誠心と比較して構築が非常に容易だしスピーディだ。

 

「お前が悪い→だから怒られて当然」という空気が職場にできるようになると、人はミスを指摘されないよう自己防御的に非常に細かくなっていく。

まあ細かくなれるのは仕事ができる人だけで、仕事ができない人はそんな事をする余裕もなく心を病んで勝手に職場を脱落していくのだけど。

 

考えてみるとあのウルトラハイパー激務病院において、忠誠心を育てるようなマネジメントを行うのは困難だったのかもしれない。

短期間で仕事ができる人間を育成する為には、教育ではなく選別のような作業が合理的だ。だから忠誠心型ではなく、恐怖型のマネジメントが横行していたのだろう。

 

人をキチンと教育するような暇もない超ウルトラハイパー病院では、即席でいっぱしの企業戦士を育てあげるのには恐怖型のマネジメントを徹底するのが最適解だったのだ。

 

弁護するわけではないが、恐怖型のマネジメントも、短期間ならば一度ぐらい体験するのもそう悪いものではないとは思う。

振り返ってみれば仕事は割と細かくチェックできるようになれたなと思うし、どういう所に人が付け込まれがちになるのかが、実体験として理解できるようになったから。

 

ただまあ、あの空間は長期間生存するような場所ではないな、とはやっぱり思う。10年先を見越して組織を運営するとしたら、恐怖型のマネジメントはあまり合理的な方式ではないだろう。

 

人のミスに対する振る舞い方を見直そう

あなたも人のミスに厳しくなってしまったりする事はないだろうか?

ミスした→だから怒られて当然、のロジックは上記の通り、あまり褒められたものではない。

 

ミスは単なる改善点にとどめておくべきもので、それを理由に他人にマウンティングをかます材料にするのは、人間関係の構築には非常に毒である。

繰り返しになるが、それはいじめっ子の理論であり、あまり人として褒められたおこないではない。

 

長期的にものを考えれば、ミスはオープンな場で議論されるべきものだろう。ミスを理由に、人を攻撃する糸口にしてしまっては、職場の雰囲気はギスギスするし、ミスが隠蔽されて後々に大きな問題に繋がってしまう事も多々ある。

 

今現在、飛行機が極めて安全な乗り物へとなれたのは、人が行ったミスについての責任が個人には問われず、組織として徹底的に改善していったからに他ならない。

これを徹底したからこそ、開発当初は墜落を頻繁に繰り返していた飛行機も、いまでは3000万回に1回程度しか墜落しなくなったのである。

 

「罪を憎んでも人を憎まず」である。聖書にも論語にも書かれているこの言葉だけど、一度しっかりと吟味してみてはいかがだろうか。

 

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高須賀

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