先日、知らない街を歩いていたら雰囲気の良い和菓子屋を見かけて、つい、引き寄せられて和菓子を買って帰りました。
そのお店はちょっと寂れていて、お品書きはマジックで無造作に書かれていましたが、カウンターのなかの和菓子はキラキラしているようにみえました。
それを見た私は、子どもだった頃、母や祖母が出かける際に和菓子を買っていたこと、家に来る訪問者も和菓子を持ってきていたことを思い出しました。
コミュニケーションのあるところ、和菓子あり
私が生まれ育った石川県の海岸地方は、金沢の中心地に比べると方言が荒々しく、街の景色も冴えませんでした。
しかし、和菓子の文化だけは入ってきていたらしく、町内にひとつぐらいの割合で和菓子屋が存在していて、みんなに愛されていました。
知人や親族の家に出かけて行く時、母や祖母は必ず和菓子屋に立ち寄っていました。
大人は、お茶請けになるような、強い甘さの和菓子を好んでいましたが、私のお気に入りは「いがら」と呼ばれる黄色いもち米をあしらった饅頭で、こしあんの柔らかい甘さともち米の食感のおかげで、子どもでも食べやすいものでした。
ほかにも、「ふくさ」と呼ばれる、緑色のフワフワとした生地に包まれた和菓子が人気でした。
「いがら」や「ふくさ」は店によって形や味が違っていて、どこそこの店がおいしい、といった話にもなりました。
「ふくさ」は金沢駅のお土産屋さんでも見かけるので、県外の方は、覗いてみると良いかもしれません。
とにかく、どこに行っても、誰が来ても、必ず和菓子を用意するのが、当時の石川県の風習だったわけです。
大人になり、その風習を思い出すと、煩わしいと思えるところもある反面、和菓子って、なかなか便利なコミュニケーションの決まり事だったなぁと思います。
和菓子は無料ではありません。
人に会うたびに和菓子を買う・人が来るたびに和菓子を用意する、というのはお金がかかります。
「文化とは、お金がかかるものだからしようがない」と言われればそれまでですが、交際費として和菓子代を計算に入れなければならないというのは、家計にやさしくないことだったでしょう。
私の家庭は裕福には程遠い台所事情でしたが、それでも母や祖母は、和菓子にはお金を惜しんでいなかったように思います。
「武士は食わねど高楊枝」ならぬ、「石川県人は見栄を張ってでも和菓子」といったところでしょうか。
和菓子を食べるのも、考えようによっては大変です。
子ども時代の私は、「和菓子はもういい、それよりスーパーに売っているお菓子やケーキが食べたい」と思うこともありました。
ひょっとしたら、母や祖母もそう思っていたかもしれません。
特に祖母は、人の家に行かない時に、こっそりとクリームパンを食べていました。
「人様に会う時は和菓子」と決まっていると、洋菓子が恋しくなるのかもしれません。
しかし、それ以上に大変そうだったのは、檀家を回らなければならない地元の御坊さんでした。
私の地域では、月に一度は浄土真宗の御坊さんをお迎えして、仏壇でお経を読んでいただく風習が残っていました。
その際、どこの家も「人が来る時は和菓子を用意しなければならない」と思っていますから、御坊さんはものすごい量の和菓子を貰うことになります。
うちに来ていた御坊さんは、お茶は毎月飲んでいきましたが、和菓子は食べる時と食べない時がありました。
あまり嬉しそうに食べていた記憶は無く、食べられない時は袖の下に入れて持ち帰っていらっしゃいました。
しかし、当地では「人が来る時は和菓子を出す」のが不文律になっていたので、出さなければ出さないで失礼にあたってしまい、出さないわけにはいきません。
そのせいではないかもしれませんが、その御坊さんは、私が大学に進学して間もなく、内臓を壊して死んでしまったそうです。
反面、和菓子があって良かったんだな、と思うところもありました。
和菓子を用意すれば、人を迎えるというコミュニケーションの「形式」ができあがります。
人の家に出かけていく時も同様です。とにかくも和菓子を用意さえすれば、私はあなたと一緒にお茶を飲む用意がありますよ、あなたとコミュニケーションしますよ、という「形式」ができあがったのです。
今にして思うと、私の母も祖母も、いわゆる“コミュニケーション強者”の部類ではありませんでした。
個人的には、石川県人の県民性自体も、他県出身者と比べて、どこか“コミュニケーション強者”っぽくないようにも思われます。
そのかわり、石川県人には和菓子が――つまり「形式」がありました。
お互いに「形式」を守り合っている限り、とにかくも、コミュニケーションは可能になります。
どこまで内心を反映したコミュニケーションになるかはさておき、和菓子を挟んでお茶を飲むという作法さえ守っていれば、社交の体裁が保たれるのです。
これは、大人の付き合いではとても重要なことです。ときには、お互いの内心を通わせるよりずっと優先しなければならないものでしょう。
和菓子は、そのようなコミュニケーションの「形式」を成立させるための小道具として、非常に重要な地位を占めていたと言っても過言ではないでしょう。
総務省統計局『家計調査』によれば、日本で最も和菓子にお金を使っているのは、現在でも金沢市なのだそうです。
私の見たところ、昭和時代に比べれば和菓子屋の数は減り、和菓子をコミュニケーションの「形式」とする習慣も薄まっているようにみえますが、それでも年配者を中心に、習慣は守られているようですね。
こうした習慣は、もちろん石川県だけでみられるわけではありません。他の都道府県でも、菓子折りを持参する・客人にお茶を出すといったことは広くやっていますし、ときには、それが一升瓶のかたちをとることもあります。
お菓子を持っていく・お茶を出すといった文化は、人の心を和ませると同時に、体面や体裁を守るための小道具としても役立ちます。
「和菓子を使えばコミュニケーション巧者になれる!」というほどではありませんが、然るべき時に、然るべきお菓子を持っていけるというのは、コミュニケーションに自信が無い人にとって、ちょっとした福音ではないでしょうか。
でも、おいしいものはおいしい
……とかなんとか言いながら、ほうぼうの和菓子屋に立ち寄って、誰かと一緒に食べるというのも楽しいものです。
「誰々さんに会いに行くから」
「お客さんがいらっしゃるから」
というのは、スイーツを買い求める大義名分として十分過ぎます。「コミュニケーションのために和菓子を買い求める」が「和菓子のためにコミュニケーションする」になったって、いいと思うんですよ。
金沢にお越しの際には、是非一度、地元っぽい和菓子屋を覗いてみてください。特に「いがら」と「ふくさ」は、誰にでもお勧めできる、食べやすい和菓子なので、見つけたら是非試してみて欲しいものです。
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)など。
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(Photo:Bong Grit)