「子どもに対する信頼感」みたいなものについて、時々考えます。
勿論のこと、前提として、子どもは100人いれば100人違います。
全ての子どもを一括して語るのは不可能なことであって、そこにはどうしても「人それぞれ」という言葉がつきまといます。それは仕方がないことです。
ただ、それを承知の上で言ってしまえば、私は割と「子ども」という存在を、子どもの感性というものを信頼しています。
それはどんな信頼かというと、
「子どもにはちゃんと判断力がある」
「子どもは自分の感性を自分で育てることが出来る」
「だから、余程極端な環境にいない限り、変な情報や妙なコンテンツ一つでおかしなことにはならない」
という信頼です。
つまり、テレビやら雑誌やらで多少偏った情報に触れたとしても、即それ一色になったりはしないで、ちゃんと色んな情報に触れて自分で疑問を持つことが出来るだろう、とか。
例えば漫画やらラノベやらのコンテンツで、多少性的な情報に触れたりしても、即性的な感性が歪んだりはしないだろう、それだけで変な影響を受けたりはしないだろう、とか。
勿論、私自身親として、子どもと色んなことを話し合って、自分なりの倫理観、自分なりの判断基準、自分なりの人生観というものを伝えていこうと思ってはいますし、実際そうしています。
ですが、子どもの感性というものは大人が通常考えている以上に柔軟で、色んなものを取り込んで自分なりの感覚というものを醸成していくんだろうなあ、という認識が私の中にはあります。
だから、自分がどんなに言葉を尽くしても、それが子どもに及ぼせる影響というのはほんの一部分だろうな、と思っています。
それは同時に、変なコンテンツ、変な情報があったとしても、それもやっぱり、子どもにはごく限定された影響しか及ぼせないだろう、ということでもあります。子どもの防御力は、そんなに低くない。
だから私は、子どもが触れるコンテンツについて、あまり心配もしていないし、大した制限もしていません。
なんならひょっこり性的なニュアンスが含まれているコンテンツにたまたま触れたとしても、長い目で見ればそれが問題になるようなことは殆どないだろう、と思っています。
随所随所で、それは間違っていると思う、それは正しいと思う、という自分の考え方を伝えてはいますが、それも含めて全部、総合的には子どもが自分で判断して、必要と思うものを自分の中に取り込んでいくだろう、と思っています。
私が持っている「子どもに対する信頼感」というものは、そういうものです。
私は、こういうこと全部を、自分自身の経験から「そんなもんじゃないかなあ」と思っています。
そして、今までのところは、自分の子ども達もそれを裏付けるような成長をしてくれているように思います。
彼らは、親が見ているところでも親が見ていないところでも色んなコンテンツに触れて、けれど一つのコンテンツ一色になったりはせずに、色んなものを咀嚼し、消化し、吸収して、自分自身の感性を養っているように見えます。
ただ、世間にはどうも、「子どもを性的なコンテンツに触れさせると大変なことになる」と思っている人が、かなりの数いるように思うんですよ。
*
こんな記事を読みました。
絵本・児童書の“萌え絵”論争——「子どもに悪影響」の声に、児童文学評論家が反論
このような現象に対し、「絵本や児童書にはふさわしくないように思う」「男性向けアニメにも似た絵を子どもに見せるのはいかがなものか」と抵抗を示す大人がいる。
確かにいるよなー、と。
ここしばらく、性的なニュアンスが含まれるコンテンツについての議論があちこちで巻き起こっていました。
私は、「そのコンテンツは本当に性的なのか」とか、「それが性的なコンテンツだったとして性差別になるのか」といった議論にはあまり立ち入る気がありません。
ただ、「そういった性的なコンテンツが子どもに対して悪影響を及ぼす」という形で、子どもがダシに使われ始めると、ちょっと首を傾げたくなります。
子どもに無理やり18禁のエロ本を読ませるという話ならまだしも、「それは性的なのかどうか」という議論が起きるレベルのコンテンツに子どもが触れることで、子どもが一体どんな悪影響を受けるのかな、と。
この人たちは、子どもに一対どんな「悪影響」が出ることを想定しているのかな、と。性的なニュアンスがあるコンテンツに触れると、子どもが性差別を始めたり子どもがセクハラをするようになる、とでも思っているのかな、と。
こういうコンテンツにあまり触れないで育ってきた世代には、性的な悪影響は本当に出ていないのかな、と。
戦後、性的なコンテンツが滅法排斥されていた時期に子どもだった人たちが、性差別やセクハラから無縁に育ったのかな、と。
これ、例えば性教育を制限しようとするような向きに対しても感じることがあります。
「寝た子を起こす」だとかなんとか、あれも随分理不尽な話なんですが、子どもに対して性的潔白を求める向き、子どもに対して性的な情報を一切遮断したがる向きのようなものが、世の中随分多いように思うんですよ。
性的な情報をまるで「ケガレ」のように扱っている、ということもさることながら、その「ケガレ」が子どもに触れると、即子どもがケガレに侵食されて、性的な情報の虜になってしまうような。
子どもから性的な情報を遮断したがっている人たちって、根本的には子どもが「悪いコンテンツ」に「染まってしまう」ことを極端に恐れているように思われるんですね。
それは同時に、「自分が悪いと思うコンテンツを子どもに触れさせなければ、子どもは自分たちが思うように成長してくれるだろう」と思っている、ということでもあります。
要は、子どもの感性に対して信頼感を持っている人間として、子どもの感性をまるで信頼していないように思える文言に対して、どうにも気持ち悪い感触を受けてしまうのです。
邪推してしまえば「自分の主張を通す為に単に子どもをダシにしているだけ」という人も中にはいるのかも知れません。
日本では今まで、「子どもへの悪影響」とか「差別」をネタにして大騒ぎしたら自然と自主規制が勝ち取れる、というちょっとアレな文化というか風習がありましたので、過去の成功体験から、単に自分が気に入らないコンテンツを規制させる為に、取りあえず「子どもへの悪影響」を脊髄反射的に持ち出す人がいたとしても不思議ではありません。
ただ、勿論本当に「子どもの成長」「子どもの感性」に対する悪影響を心配している人もたくさんいるだろうなと思っておりまして、そういう人たちは何でそこまで「子どもの感性」を信頼していないのかなー、と、私には単純に不思議なんです。
自分たちはどうでしたか?
コンテンツの断片、例えば本の表紙絵一つで人生変わりましたか?
感性歪みましたか?
勿論、最初に書いた通り、子どもは100人いれば100人違います。
中には、実際に、本の表紙絵一つで悪影響を受けて、感性が歪んでしまったという人もいるのかも知れません。その可能性自体を否定はしません。
ただ、私にはどうも、それをファールライン決めの根拠とする程には、子どもの感性は脆弱ではないように思えるんですよ。
我々は、子どもの判断力、子どもの倫理観をもうちょっと信頼していいし、大人が子供の成長をコントロール出来る、大人が思う通りに子どもが成長してくれると思ったら大間違いだ、ということを認めてもいいんじゃないかと思うんですよ。
子どもの防御力は、そこまで低くないんじゃないか、と。
子どもを舐めんなよ、と。
今まさに子どもを育てている親として、私はそんな風に感じている訳です。
勿論これは、「子どもが触れるコンテンツに、親は一切口出しをしなくてもいい」という話ではありません。
自分が違和感を感じるコンテンツ、明らかに偏っていると思える情報に子どもが触れているのを見れば、私はその違和感について子どもに伝えるし、「それは間違っていると思う」と言うでしょう。
今までもそうしてきたし、これからもそうするでしょう。
けれど、割と根本的なところで、子どもは大人が思っているよりも柔軟だし、大人の目が届かないところで多少変なものに触れても、それで心配する程の「悪影響」を受けることはないんじゃないかな、と。
もうちょっと子どもを信頼してもいいんじゃないかな、と。
そんな風に考えているのです。
今日書きたいことはそれくらいです。
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【プロフィール】
著者名:しんざき
SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。
レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。
ブログ:不倒城
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