女児向けアニメシリーズ『プリキュア』が人気タイトルとして定着していった頃、『苺ましまろ』という作品に「かわいいは正義!」というフレーズが登場し、ちょっとした流行り言葉になっていたのをご存じだろうか。

「かわいいは正義!」と言うとちょっと言い過ぎかもしれない。だとしても、現代社会では「かわいい」ことがひとつの美点、ひとつのアドバンテージになることはままある。

 

たとえばペットとして愛玩されやすく、自然保護を訴えるポスターの素材として選ばれやすいのは、「かわいい」動物だ。

人間の場合も、かわいい女の子や男の子はもてはやされ、大切にされる。シリア内戦でヨーロッパ諸国が難民受け入れに傾いた際にも、一枚のかわいい子どもの写真が大きな影響を与えていた。

 

少し前のウォールストリートジャーナルにも、人間のかわいいものに対する反応について興味深い記事が掲載されていた。

子犬の写真に人間がメロメロになる理由―「かわいらしさ」認識の科学

哺乳類の赤ちゃんはみな同じように見える。鼻が低く、額が広く、丸顔で、目が大きい。

われわれ人間はその特徴が大好きだ。

赤ちゃんのこうした特徴が際立っていればいるほど、私たちはその顔を一層かわいいと評価する。

子どもを含めた人間は、大人の写真より赤ちゃんの写真を好む。そして、かわいくない赤ちゃんの写真よりかわいい赤ちゃんの写真を好む。

脳画像研究によると、赤ちゃんの顔を見ると脳内物質ドーパミンの「報酬」回路が活性化され、その活性の度合いは赤ちゃんがかわいければかわいいほど強くなるという(筆者は、これらの研究で「かわいくない」赤ちゃんの例として使われた子の親たちに深く同情する)

この記事を読むにつけても、人間には多かれ少なかれ「かわいいものをかわいいと感じる」性質、つまりかわいいものの影響を受ける性質が備わっているようにみえる。

 

「かわいい」の国、日本

くわえて日本の場合、かわいいものをもてやはす文化的な下地が、戦後社会に急速に広がっていったという事情もある。

「かわいい」という言葉がメディアに反復され始める年代は、正確に特定できる。63年5月「母と娘の情操教育雑誌」として創刊された『週刊マーガレット』の、付録の広告コピーあたりから急浮上しているのである。

そこに見られるのは「かわいい」=「皆に愛される」という「戦後民主主義的な理想」であり、「物分かりのいい大人は、誰からも愛される子供を育てる」というこの時期の「団地の母娘」イメージだ。

 

宮台真司ほか『増補 サブカルチャー神話解体』より

社会学者の宮台真司によるサブカルチャー研究によれば、日本のサブカルチャー史のなかで「かわいい」というキーワードが急浮上したのは1960年代のことなのだという。

「かわいい」が「母と娘の情操教育雑誌」の広告コピーから広がっていったことが象徴しているように、まず、「かわいい」は母親が娘を褒めそやすキーワードとして流行した。

 

しかしまさにそうやって「かわいい」と褒めそやされて育った世代が大人になるにつれて、「かわいい」は思春期以降の男女を褒めそやす言葉へ、娘自身が主張し得る言葉へニュアンスが広がっていった。

それだけでなく、「かわいい」というキーワードの適用範囲は男性にすら広がっていった。

1980年代以降は、理想とされる男性像が男臭い俳優から中性的で「かわいい」俳優へとトレンドが変わっていった。

 

それを象徴していたのが、SMAPをはじめとするジャニーズグループである。ジャニーズグループの成功は、理想とされる男性像が「かわいい」の側へと傾き、それまでの男臭さが敬遠されるようになった時代の流れと完全に一致している。

 

赤ちゃんや子どもだけでなく、成人男女にまで「かわいい」という理想像が波及し、アドバンテージとみなされるようになったという点では、おそらく日本は世界でもトップクラスの“先進国”だ。

私の見聞している限りでは、欧米文化圏では、思春期~成人男女の「かわいさ」がアドバンテージとみなされる度合いは日本に比べれば低い。とりわけ、理想とされる男性像が「かわいい」に傾斜している度合いは日本には遠く及ばない。

 

何が「かわいい」をのさばらせているのか

もともとは愛玩され保護される者のアドバンテージであった「かわいい」が、こんなにも適用範囲を拡大させ、「かわいいは正義!」が単なるアニメのフレーズとは言えなくなったのは、なぜだろう。

 

人間が先天的に「かわいい」に影響を受けやすい点は先に引用したとおりだが、それだけでは「かわいいは正義!」的な日本社会は説明しきれない。

もし、それだけの与件で「かわいいは正義!」が成立するようなら、もっと昔から広い文化圏で「かわいい」は理想視されて、たとえばアメコミやフランス映画なども「かわいい」だらけになっていたはずである。

 

「かわいい」がニュアンスを拡大させ、成人男女にまで適用範囲が広まるためには、文化的な与件もみたしていなければ不可能だったろうし、事実、日本で「かわいいは正義!」が成立するようになったのも20世紀の後半以降のことだった。

私はまだ、日本で「かわいいは正義!」が成立するようになった背景について論じた書籍を読んだことがない。せいぜい、さきほど引用した『サブカルチャー神話解体』がかすっているぐらいである。

 

だから当該分野の専門家がどのように考えているのかは正直わからないのだけど、「かわいいは正義!」の与件のひとつとして、安全で秩序だった社会の成立は不可欠ではなかったか、とは思う。

 

昭和時代以前の社会では、自分が強い人間であること、自分がけして弱い人間ではないことをアピールすることが生きていくうえで重要だった。

ナメられること・弱いとみなされることは、生存競争という意味でも生殖競争という意味でも拙かった。

成人男性は強くなければならないし、成人女性も、弱いと思われるのは危険なことだった。ジェンダーのコードもそれに即していて、「大人の男らしさ」「大人の女らしさ」を身に付けることは処世にかなっていた。

 

そのような社会では、たとえば十代や二十代になってもなお「かわいい」男性はナメられ、ゆすられ、カジュアルな暴力にさらされるリスクを負い続けることになる。

種々の暴力が横行する社会では、「かわいいは正義!」が成立する余地はない。

 

子どもから大人になるにつれて、ナメられず、弱いとみなされず、カジュアルな暴力に晒されにくい所作を身に付けなければ社会適応が難しくなるし、ともなって、大人への憧れのうちに「not かわいい」が包含されることにもなる。

 

逆に言えば、十代や二十代になっても「かわいい」が理想視され、「かわいいは正義!」というフレーズがまかり通る社会とは、昔とは比較にならないほど暴力が少なくなった社会、ナメられること、弱いとみなされること、カジュアルに暴力を振るわれることが少なくなった社会でなければならないわけである。

 

もちろん現在の日本社会から暴力が完全になくなったわけではない。

自分より体格が小さい者・弱そうな女性を探し、わざとぶつかる人物の話などを聞き及こともある。

だとしても、相対的に考えるなら現代の日本社会は昔よりもずっと安全だし、諸外国のほとんどの都市と比べても安全だろう。

 

子どもや女性が並んでいる列に大男が威圧をもって割り込むなどということは現代日本では非常に珍しい。ごく一部の逸脱した人物を除けば、他者への暴力や威圧に対する抑制が、かなりしっかりと内面化されている。

この基本契約は、自然的平等を破壊するのではなく、むしろ反対に、自然がときとして人間のあいだに持ち込む肉体的不平等に代えて、道徳上および法律上の平等を打ち建てる、ということ、また人間は、体力や天分においては不平等でありうるが、約束によって、また権利によってすべて平等になる、ということである。

ルソー『社会契約論』(白水Uブックス)より

有名なルソーの『社会契約論』には、暴力は国家に委託し、人間同士が好き勝手に振るう暴力が禁じられた、社会契約にもとづく平等社会が描かれている。

『社会契約論』なんて遠い世界の古典だろうと思いきや、近代国家の成り立ちを考えるにあたって、ルソー(やそれに前後する思想家たち)のビジョンは意外にリアルだ。

 

でもって私には、少なくともある点において、日本社会ではルソーの『社会契約論』がしっかり成り立っているようにみえる。

というのも、ナメられないよう努めなければならない社会・弱いとみなされないよう努めなければならない社会・カジュアルな暴力に晒されないようたえず気を付けていなければならない社会とは、それだけ国家に暴力が集中しておらず、人間同士が好き勝手に暴力を振るう余地があり、社会契約のとおりに人間が動いていない社会だからだ。

 

だから少しタガの外れたこと主張してみると、「『かわいいは正義!』がまかり通る社会とは、ルソーのビジョンが具現化した社会」なのである。

少なくとも、ルソーが生きていた時代に暴力とみなされたであろう暴力が非常に低レベルに抑えられ、カジュアルな暴力が街から大幅に減った社会であるとは言えるだろう。

 

『社会契約論』のビジョンに近い社会が日本で具現化したからこそ、「かわいい」男女がその権利を暴力によって脅かされることなく、「かわいい」ことのメリットを最大限に活かせるようになった、と考えてだいたい合っているのではないだろうか。

 

暴力が禁じられた社会の、新しい影響力闘争

さて、このような「かわいい」ことのメリットを生かしやすい社会で割を食ったのは、他ならぬ、カジュアルな暴力をふるっていた者、あるいは、存在するだけで周囲に威圧感を与え、結果としてアドバンテージを獲得していた者である。

端的に言えば、全くかわいげのない、存在するだけで威圧感を与え、ときにはカジュアルな暴力をふるうことを辞さないような人々が相対的に影響力を削がれることとなった。

 

「かわいい」ことがアドバンテージとして活きやすい世の中になったが、それに伴って、カジュアルな暴力をふるい得る可能性があるということ自体、ディスアドバンテージとみなされ得るようになってしまった。

 

「かわいいは正義!」という風潮は、「かわいくない者は不正義」という風潮と表裏一体である。

最近出版された『矛盾社会序説』という本も、この点に着眼して「キモくて金のないおっさん」問題を取り扱っている。

子供や女性がカジュアルな暴力から守られるようになったという意味では、日本社会は『社会契約論』のビジョンに近づいたと言えるけれども、カジュアルな暴力が禁じられたからといって、本当の意味で皆が平等になったわけではない。

その後に残ったのは、「かわいい」の影響力がいかんなく発揮され、そうではない人物──それこそ、「キモくて金のないおっさん」のような──が影響力を持ち得ない社会状況だった。

 

もし、さきほどのルソーの引用に忠実であるなら、威圧や肉体的暴力による不平等が是正されたのちは、「かわいい」という天分にもとづいた不平等も是正されなければならないだろうし、世間で語られるところの「コミュニケーション能力」の不平等にも目が向けられて然るべきだろう。

 

ルソーが生きていた頃は「かわいい」の影響力など考えなくても構わなかっただろうし、狭い意味での暴力こそが差し迫った課題だった。それはまあいい。

しかし、女性が一人で夜の街を歩けるぐらいには安全になり、契約社会化の進んだ日本社会では、狭義の暴力にかわって「かわいい」や「コミュニケーション能力」といった天分にもとづいた不平等がまかり通るようになり、そうした新ルールのもとで個人対個人の影響力闘争が繰り広げられている。

だからいけない、というつもりは私には毛頭ないし、時計の針を巻き戻すべきだとは思わない。

天分にもとづいた不平等を真剣に考え始めると、恐ろしくこんがらがった倫理や思想や歴史の問題にぶつかってしまうため、現在の私にはそれを深く考えることなんてできない。

 

それでも、「かわいいは正義!」が成立するような時代には、それはそれで不平等を感じている人が存在すること、そういう時代だからこそ肩身の狭い思いを余儀なくされている人がいるかもしれないことは、ときどき思い出しておいたほうが良いように私は思う。

 

 

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(2019/6/20更新)

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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(Photo:LisArt