まっとうな上司であれば、一番聞きたくない部下からの一言は、

「会社辞めたいです」ではないだろうか。

 

言われた瞬間、血の気が引き、

「え、何で?」

と思う。

そして「俺のマネジメントが、悪かったのだろうか」

とか、「ずっと不満を抱えていたのだろうか」あるいは「もっと前兆に気づくべきだった」といった後悔が襲ってくる。

 

そして、大事な部下であれば

「引き留めようか」

「どのように接すべきか」

「説得できないか」

と言ったことを考えることだろう。

 

だが多くの場合、「辞めたいです」は、最後通牒である。

この一言を部下が発した時点で、もはや時すでに遅し、だ。

「辞めたい」と上司に告げることは、相応のリスクが有り、よほど思いつめていないとその言葉は出ない。

 

おそらく「会社がつまらない」「仕事嫌です」「他に行きたい」などのサインは、かなり前から出ていたはずで、引き止めるつもりなら、それを見落としたのはマネジャーの責任である。

したがって、「辞めたいです」の一言を聞いたら、実務的には、マネジャーは後任の心配をしたほうが良いだろう。

 

 

だが、例外もある。

もうかなり前の話だ。

 

ある大手のサービス業に勤める彼も、「辞めたい」と上司に告げた社員の一人だった。

そして、彼の上司は「なんとかして引き止めたい。意見をくれ」と、私に相談してきたのだった。

 

私は「辞めたい」と言ってきた人を引き止めて、心から良かったと言える事例を、それまで殆ど知らなかったので、

「引き止めるだけ無駄で、彼の新天地での成功を祈ったほうがいいと思います。」

ときっぱり言った。

 

しかし、その上司はどうしても「引き止めたい」と譲らなかった。

私はなぜ、上司が彼にこだわるのか不思議だったので、聞いた。

「なんでそんなに彼に拘るんですか?」

 

上司は言った。

「今のまま彼が転職したら、きっとまた同じことになるからです。」

「同じこと?」

「はい、つまり「逃げの転職」を繰り返すことになると思います。」

 

私は正直に言えば、「勝手な話だな」と思った。

そう思うなら、彼の「辞めたいです」にもっと早く気づかなければならなかったのだ。

 

だが、決めつけは良くない。

私は聞いた。

「なぜ、「逃げ」と思ったのですか?」

「彼はまだ、まっとうな成果を残せていないからです。」

「……んー。」

 

それでは納得できなかった。

仕事には向き不向きがあり、「成果を残せていない」のが、彼の責任なのかどうかは、わからないからだ。

事実、ある会社で全くうだつの上がらなかった社員が、転職先で活躍する話は腐るほどある。

 

私は言った。

「んー、成果をのこせていないからといって、逃げの転職というのは、どうかと思いますが。」

すると、上司は向き直って言った。

「彼はこの職場で、いずれ絶対に成果を残せる人物だと思っています。だからです。今は逃げてはいけない時期です。他に理由はありません。」

 

私は考え込んでしまった。

正直に言えば、ここまで「部下が辞める」ということについて、責任を感じている上司は、あまり見たことがない。

だが、

「それが逆に部下を追い詰めているのでは」

「重い上司だ」

「この先、本当に部下が成果を出せるかどうか、わからないではないか」

そんなこともチラリと思った。

 

しかし、私は同時に、自分が恥ずかしくもあった。

こんなに部下の仕事の成果に、コミットしたことは、私はなかったからだ。

「まあ、仕方ないよね」

「新天地で頑張れ」

「応援してるよ」

と言えば、本人に嫌われず、世間体もよく、非難されることはまずない。

 

「彼が絶対に成果を残せるから、引き止める」という一種の思い込みを、ここまで強く持っていることに対して、私は戸惑った。

だが、その上司は真剣だった。

 

だが私は言った。

「私が言えることは、正直、何もありません。」

 

 

その後、その上司は彼に対して、熱心な説得を行った。

何をやったのか、詳細には知らない。

 

だが、彼の「成果を出せるまでは、絶対に辞めるな」という説得が功を奏したのか、部下は退職の意思を翻したのであった。

それは、慰留のテクニックとか、話術とか、そう言う話ではなく

「彼に絶対に成果を出させる」という、上司の覚悟の問題だったと思う。

 

そして驚くべきことにその後、彼は半年も経たずに、大きな成果を挙げるようになった。

すると、どうだろう。

行動の速さ、発言の内容、前向きさなど、すべての仕事の質が劇的に変化した。

すでに彼は「できる社員の一人」と言っても差し支えなかった。

 

私は、件の上司に

「なぜ彼は、こんなに劇的に変わったのですか。」

と聞いた。

「もともと、あとちょっとで成果が出るところだったんですよ。でも、成果が出る直前が一番つらい、本人にとっては先が見えていないので、「いつまで頑張ればいいんだ」と思う人もいる。でも、そこでやめたらもったいない。」

私は、彼にロクなアドバイスができなかったことを、深く詫びた。

「申し訳ありません、私が短慮でした。」

 

 

多分、多くの上司はここまで一人の部下の成果にコミットしていない。

人材育成は、いつ成果が出るかわからないし、インスタントに効果が出る施策もない。

だから、「辞めます」と言われたら、「まあ、がんばれ」という他に言葉を持たない上司も多いだろう。

 

だが、「絶対に俺が育てる」という覚悟を持っている上司は、人を劇的に変えることがある。

この上司のように。

それを間近で見たとき、私は「上司の覚悟」について、深く考えざるを得なかった。

「簡単に部下の育成をあきらめているのは、私のほうではないか」と。

 

だが、もちろんいつも、引き止めがうまくいくわけではない。

また、引き止めたあと、部下が期待通りの成果を出せることが約束されているわけではない。

どこまでがおせっかいで、どこまでが上司の責任なのか。

正直、今に至るまで結論は出ていない。

 

人材育成は辛く、長い道のりである。「基本的に、うまくいかない」のがデフォルトだからだ。

あまりにも先が見えないので、途中で投げ出したくなるときも多い。

 

だが、「人の育成を簡単に諦めない」という信念を持っていた、件の上司が、私の職業人生の中に、大きなインパクトを残したのは間違いない。

あの上司の顔を思い浮かべるたびに、私は「簡単に人材育成を諦めるのは、「逃げ」だ」と思い直さざるを得ない。

 

それはもしかしたら、「我が子」を育てることと同じなのだ。

「人の育成」の本質は、間違いなくそこにある。

 

 

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