子育ても新卒教育も「鉄は熱いうちに打て」の精神で最初にビシビシやるべきなのかもしれない
知的振る舞いやプロフェッショナリズムは最初にインストールしないと後から上書きするのは難しい
念の為言っておきたいのだが、僕は何も子供の自主性はいらないとか、女性らしさは悪だとかいいたいわけではない。
100年の人生を走り抜けるのには自主性は非常に大切だし、幼少期からそれを育む事はとても価値ある行いだろう。
また、女性らしさも時として非常に強力な武器となる。事実、それらに助けられた事は何度もある。
ただそれらを尊重しすぎると、時としてある種の概念のインストールを阻害する事につながるのも、また事実だろうと思うのだ。
早期教育は是か非か?
上掲リンク先で高須賀さんがおっしゃっているように、とても難しい問題だと思う。
新卒教育もそうかもしれないが、ここでは、子育てに絞ってこの問題を考えてみたい。
早期教育が「成功」すればメリットは大きい
まず早期教育が成功した場合について考えてみよう。
成功した早期教育にメリットがあるのは間違いない。
大学に進学するとわかっている子どもが早期教育によってあらかじめ多くのことを覚え、中学高校時代に勉強しなければならない度合いが少なくて済めばとてもラクだろう。
ただラクなだけでなく、他の教科に時間や労力を回すこともできるし、部活動や文化祭に時間を割き、思春期の貴重な時間を貴重なものとして体験することだってできよう。
早期教育と言っても、なにも、すべての教科を全面的に強化しなければならないわけではないし、私立の立派な中学校に入学させなければならないわけでもない。
たとえば小学校低学年のうちに日本地図や世界地図をだいたい覚えていて、どこの地域でどんなものが作られているかおおよそ知っているだけでもアドバンテージになる。
百人一首を覚えているだけでもいい。とにかく、進学後に覚えなければならないことを少なく済ませられるならなんだって良いのだと思う。
いまどきの思春期は、時間的にも体力的にも忙しくなると相場が決まっているから、早い段階でたくさん覚えておけるのは素晴らしいことに違いない。
少し話がそれるけれども、私は、百人一首や枕草子といった古典の知識はバカにしたものではないと思っている。
古典の知識は、大学受験が終われば用済みのように思われるかもしれないが、案外そうでもない。
上昇志向な高学歴社会に適応していく人にとって、ちょっとした財産たりえると思う。
高学歴者同士の会話では、ときに、古典のたぐいが重宝する。
枕草子。源氏物語。百人一首。そういったものをフッと引用することで、「ああ、あんたも知っているんだな」という共犯関係のような感覚が生まれる瞬間がある。
以前私は、ある研究会の打ち上げで漢詩を吟じてみせる研究者に出会ったが、それはそれは見事なものだった。
間違いなくあの日、彼は漢詩を吟じる技能でみんなのリスペクトを勝ち取っていたと思う。
私自身も、外国人の会話でこれに何度か助けられたことがある──へたくそな英語で会話していて申し訳ないなぁ……と思っていた時、中国の古事やジュリアス・シーザーの言葉を引用した瞬間、相手の見る目がハッキリ変わったと感じたことがあった。
「こいつ、英語はヘタクソだけど勉強はしているようだぞ」と思ってもらえたのだろうか。
ひょっとしたら、外国人は日本人以上に「会話の内容が高学歴的かどうか」を気にしているのかもしれない。
だから古典のたぐいには、大学受験で点数を稼ぐだけにとどまらない、メリトクラシーな社会に適応的な何かがあるように思う。
受験のためではなく、教養や楽しみの一部として早くから古典に親しめている人は幸いだ。
その子は鉄ですか? それともガラスですか?
話が逸れた。
早期教育の是非の話に戻ろう。
いまどきの子育ては、親が意識的に教育しなければ子どもは何ごとも身に付けられない。
古典も、数学も、スポーツも、調理や整頓も、早くから身に付けられるものは身に付けられるに越したことはない。
そういう意味では「鉄は熱いうちに打て」は基本方針として間違っていないと思う。
だが、冒頭リンク先で高須賀さん自身もおっしゃっているように、これは汎用性のある回答とは言えない。
子育てには、ケースバイケースな部分がある。そのことを「鉄は熱いうちに打て」という慣用句に沿って解説してみよう。
第一の問題として。
まず、その子どもは、いったいどのような「素材」だろうか。
もし、その子が鉄ならば、なるほど「鉄は熱いうちに打て」というとおり、ビシ★バシ☆早期教育するのが良いかもしれない。
うまくいけば、鋼のような若者に成長してくれるかもしれない。
だが、その子が「ガラス」だったらどうだろう?
ガシャーン!! である。
この場合、子どもが割れてしまわないように環境を選びながら、もっとディフェンシブな子育てを心がけるべきだろう。
そして「素材」としての子どもは千差万別だ。
鉄やガラスに譬えたい子どももいれば、アルミニウムに譬えたい子ども、革や木材に譬えたい子ども、果ては、ウランに譬えたくなる子どももいる。
鉄は熱いうちに打てば強靭になろうが、ガラスは割れないようにすべきだし、革や木材にはそれぞれに相応しい取り扱いがあるはずだ。
ウランに譬えたくなる非常にレアな子どもだったら……遠心分離機にかけ、立派な濃縮ウランにすべきかもしれない。
要は、子どもの素質や素養にあわせ、早期教育の程度や内容はキチンと変えなければならない、ということだ。
早期教育に積極的な親は、自分の子どもがいったいどういう素材なのか、知っていなければならないはずである。
少なくとも、子どもになんらかのアプローチをするたびに子どものリアクションや伸び具合を確かめ、それに応じてフレキシブルに対応を変えられる能力は必要だろう。
ということは、子どもという「素材」に早期教育というアプローチを仕掛けたい親は、「良き鍛冶屋」でなければならないはずである。
「……で、あなたという親は、良き鍛冶屋なのですか?」
ここで第二の問題。
早期教育を心がけるあなたは、子どもがどんな素材か見抜ける目を持っていますか?
子どものリアクションや伸び具合をみて、フレキシブルに対応を変えられる能力をお持ちですか?
子どもに早期教育をほどこす。
オーケー。
基本的にその考えは間違っていない。
だが、自分の子どもが鉄なのかガラスなのか、それとも革や木材やウランなのかを見抜くこともなく、やりたい放題にビシ★バシ☆と早期教育を施していたら、ガラスが割れてしまったり、木材や革が痛んでしまったり、ウランを駄目にしてしまったりするだろう。
優れた鍛冶屋は、素材を叩いた時の感触や温度・湿度をみきわめ、フレキシブルに素材を扱うすべを持っているという。
では、親としての私たちもまた、そのようなフレキシブルな「鍛冶仕事」をやってのけられるものだろうか?
ベテランの鍛冶屋のように、何十何百と「鍛冶仕事」をやってみたわけでもないのに?
子どもは親の教育を身に付けていく「素材」であると同時に、自律性や自発性を獲得し、自由意志を持った大人になっていかなければならない「ナマの人間」でもある。
だから「素材」にフィットした早期教育をほどこすのは良いとして、フィットしない早期教育を強行し続ければダメージを受けて痛んでしまう、と用心しなければならない。
実際、早期教育の成功譚のわきには、早期教育と称してガラスを鉄のごとく扱って叩き割った失敗譚や、革や木材を変性させてしまった失敗譚が、あまた存在している。
だから敢えて言ってしまおう。
「勘違いした早期教育ほど恐ろしいものはない」と。
「勘違いした早期教育」を避けるために
親はしばしば、自分の子どものことは自分が一番よく知っていると思っている。
一面としては、そのとおりかもしれない。
だが、親は子どもに対して客観的になりきれない。だから親が子どもを見る目はしばしば曇るし、盲点が生じるのは不可避だ。
鍛冶屋のように何十回何百回と子育てをトライできるわけではないことを踏まえるにつけても、親が自分の子どもを見定める能力はあまり高くない、と考えておいたほうが無難だろう。
では、「勘違いした早期教育」の失敗を避けるにはどうすれば良いか?
大まかにいって、二つの対策が考えられるように思う。
ひとつは安全マージンを広めにとっておくこと。
無理のある早期教育が子どもを叩き潰してしまわないよう、ゆとりを持っておくわけだ。
「子どもをこんな風に育てたい」という思いが募るあまり、ハンマーを高く振り上げて子どもを叩き壊してしまうことがないよう、安全マージンは広めにとっておきたい。
もうひとつは、親が一人で早期教育を考えるのでなく、ほかの人の考えや指針にも耳を傾けること。
子どもを見る目は複数あったほうがいい。他人のアドバイスに耳を傾けられる度量もあったほうがいい。
たくさんの子どもを見知っている教育者の見解が、親の見解よりも客観的であることは、少なくないように思う。
唯我独尊と早期教育が重なり合えば、親子それぞれが多少優れていたとしても、たぶん、うまくいかないんじゃないだろうか。
「狭量で、唯我独尊な早期教育」とか、考えただけでもおそろしいが、今日では子育ての個人主義化・核家族化が進んでいるため、ともすれば私たちは「狭量で、唯我独尊な早期教育」に陥りかねない。
だからこれは、現代社会で子育てする限り、けっして他人事にしてはならない注意点だと思う。教育熱心な親御さんならなおさらだ。
「鉄は熱いうちに打て」は至言。
しかして鉄を打つ手は繊細でなければならず、周囲の意見によく耳を傾けておかなければならないのだと、思う。
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。
twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』
(Photo:Ben Tesch)