建設業界の人手不足の話を聞くようになって久しい。
帝国データバンクの2014年調査では、建設業者の59.7%が正社員不足に陥っているという。
飲食業や情報サービス部門でも人手不足が目立つ。
その一方で、「正社員になりたくてもなれない」という嘆きの声も聞こえてくる。
建設業やサービス業で正社員が足りないなら、正社員になりたくて仕方の無い若者をリクルートしてくれば良い――そういう年配者の声を聞いたこともある。
昭和時代の頃、建設作業員が土方(どかた:差別用語)と呼ばれて社会問題になっていたことを思うと、そういう年配者は「肉体労働なんて誰にでもできる」とみなしているのかもしれない。
しかし、そういう考え方は時代錯誤もいいところだ。
建設業のハイテク化が進んだというのもあるが、そもそも、持続的に身体を動かせるほどの体力を持った若者は、今どれぐらい存在しているだろうか?
持続的に身体を動かせるほどの体力は、若者の大半が持っているものではなくなったし、もちろん、自然に身に付くものでもなくなった。
体力、タフネス、根性といったものは、今では親が意図して子どもに与えなければ――それも、カネを払って身に付けさせなければ!――身につきにくいものになってしまった。
つまり、学力だけでなく体力までもがカネで買わなければならないものになってしまったわけで、そういう意味では、肉体労働に適した人材が不足するのは自然なことだ。そのあたりの経緯について、以下に書き記してみる。
子どもの体力が無料だった時代があった
私が育った昭和五十年代の地域社会では、子どもは、体力や持久力を無料で身に付けることが出来た。
なぜなら、子どもは街じゅうを遊び場として、毎日のように外遊びをしていたからだ。
鬼ごっこ、草野球、ケードロ、木登り。種類は様々にせよ、身体を酷使する遊びには事欠かなかった。
塾や稽古事はそれほどタイトになっていなかったので、放課後、遊び仲間を見つけるのも容易かった。
裏山や沼沢地や雑木林は、ケガや行方不明のリスクがいくらかあったにせよ、身体を酷使するには最適の場所だった。
今にして思えば、私の世代はそうやって毎日のように体力とコミュニケーションのトレーニングを繰り返していたわけだ。
親が支払わなければならないカネは、ほとんどゼロだった。
よほど本ばかり読んでいる子どもでもない限り、体力や持久力は、外で遊んでさえいれば勝手に身に付くものだったわけだ。
そういう意味では、「勉強しない子どもは身体を使う仕事に就け」という言葉はあながち間違いでもなかった。
座学をやらず、外で遊んでばかりの子は、放っておいても体力がついて、身体能力をも高めていったからだ。
無料だったのは体力だけではなかった。
親以外の大人や年長者から学ぶことも多かった。
釣りの仕方や種々の遊び、地域行事、風習、礼儀作法。そういったベーシックな生活技能も無料で教わった。
地域の子どもとして毎日を過ごしていれば、そうした機会にはおのずと恵まれる。
勉強をしない子どもでも、地域で暮らしていくための基礎技能は勝手にインストールされたし、体力もしっかりしていたから、地元の建設業や工場に務めるには困らなかった。
不良になった者でさえ、いつの間にか地元の企業に収まっていられたのも、そういった「無料で身に付けられる技能」のおかげだったのだと思う。
カネのない家の子どもは学力も体力も身につかない
ところが現在はそうではない。
街じゅうを遊び場にする子どもの姿なんて、今はどこにも見かけない。
毎日の放課後が体力トレーニングの場として機能したのは、せいぜい、平成のはじめ頃ぐらいまでだ。
令和時代の子どもが体力を身に付けようと思ったら、大人に指定された場所で、指定された事をやって体力をつけなければならない。
文部科学省の調査によれば、外遊びの機会と場所を奪われた子どもの運動能力は、昭和60年をピークとして低下しはじめ、運動能力の高い子と低い子の二極化が進んでいるという。
つまり、親にカネを払ってもらってスポーツクラブなどに通わない限り、子どもはぜんぜん体力を向上させられなくなってしまった。
そのうえ地域社会が希薄になり、生活の場がニュータウンや高層マンションに移ったため、生活の知恵や礼儀作法などを地域の年長者から授けてもらえる確率も下がってしまった。
そうした可能性が皆無になったわけではないにせよ、昔ほどの接点が無い以上、もはや多くは期待できない。
おおざっぱに言ってしまえば、現代の子どもは、親が意図して授けないものは何も授からないし、何も身につかない。
だから、余裕の無い家の子ども、親が子育てに注意を向けられない家庭の子どもは、「何も身につかない、何もできない大人」になってしまいやすい。
学力だけでなく、体力をはじめとする多くのものが親自身によって賄われなければならなくなった。
上昇志向でなくても教育にカネはかかる
一般に「教育にカネがかかる」と言うと、塾通いや稽古事といった、上昇志向な教育投資を連想する人が多いかもしれない。
だが、現実はもっと厳しい。
生きていくための技能、基礎的な体力や持続力を身に付けさせるためにも、いちいち親がリソースを子どもに差し向けなければならないのだ。
地域にほっぽっておけば子どもが勝手に体力や生活技能を身に付けてくれる時代は、過去のものになって久しい。
少子化の一因として、子育てにかかる費用が増大した、という言説を耳にする。確かにそのとおりだろう。
だが、なぜ子育てにかかる費用が増大したのか?
「皆が高学歴志向になったから」というのは多分、半分当たっていても半分間違っていると思う。
今まで無料でアクセスできていたタフな体力、地域生活で勝手に身についていた文化資本や社会関係資本が失われてしまったのも、子育て費用の増大として無視できないのではないか。
そして、そのようなベーシックな生活技能の“有料化”は、家庭事情の厳しい子どもにとってこそ致命的だったのではないか。
実際、最近の精神科臨床の現場では、こんなケースよく出会う――親が子どもにほとんどリソースを差し向けられない状態が続き、さりとて他の誰かが何かを授けてくれるわけでもない生育環境で育った、体力も、生活技能も、学力も、コミュニケーション能力も、軒並み身についていない思春期青年期のケースだ。
そういうケースがいよいよ社会適応が困難になって、抑うつなどの症状を呈すると、臨床の現場に現れることになる。
これを「発達障害」と呼んでしまって構わないのか、私にはよくわからない。が、自閉スペクトラム症やADHDの兆候が色濃いわけでなく、知的障害に該当するわけでもなく、そのほかの精神疾患の兆候がみられるでもない。
とにかくまっさらに「何もできない、何も身についていない」のが特徴だ。
社会のどこへ行っても適応しがたく、メンタルヘルスを維持しにくいのは想像にかたくない。
彼/彼女らを観ていると、たとえ上昇志向でなくとも、親が教育にリソースを割かないわけにはいかないことがよくわかる。
親が子どもにしっかりリソースを投下しなければ、本当に何も身に付かない時代がやってきたのだ。
だから「余裕のある家庭の子どもは学力自慢、余裕の無い家の子どもは体力自慢」という図式はとっくの昔に時代遅れになっている。
本当に余裕があり、親の目配りも利く家庭の子どもは、なんだって身に付けられるし、本当に余裕が無くて親の目配りの利かない家庭の子どもは、なんだって身に付けられない。
あまりにも多くの要素が親のカネとリソース次第になってしまったこの状況もまた、いわゆる格差社会の成立要因の一つなのだろうし、少子化の成立要因の一つでもあるのだろう。
――『シロクマの屑籠』セレクション(2014年2月27日投稿)より
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。
twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』
(Photo:Rich Moffitt)