感染騒動があるとはいえ2020年度が始まり、新成人がやってきた。
医療の世界もそれは例外ではないが、ここ数年、私はルーキーに少しびびってしまっている。
というのも、研修医のクオリティが年々高くなっているように感じられるからだ。
「はじめまして。4月からお世話になります○○と申します。××大学の出身で、△△科志望です。どうかよろしくお願いいたします……。」
いまどきの研修医たちは、こういった挨拶をごく自然にこなしてみせる。
カリキュラムの確認もそつがなく、課題はきっちりやってのける。
ハキハキしていて、ポジティブで、要領が良く、理解力にも優れている。
“好青年”とか”才媛”といった言葉の似あう若者たちだ。
私がルーキーだった頃、こんなに若者たちはキラキラしていただろうか?
いや、私も含め、冴えない研修医や行儀作法のなっていない研修医、要領の悪い研修医がもっとたくさんいたはずだ。
キラキラしていない研修医たちは、いったいどこへ行ってしまったのだろう?
研修医の世界、今と昔
私が経験した研修医の世界は、もっと研修医のクオリティにむらがあり、ハキハキしていなかったり、ネガティブだったり、要領が悪かったりしたと記憶している。
少なくともそのような研修医があちこちに存在していて、苦労しながら臨床医学を学んでいた。
挨拶がボソボソとしていたり、陰気だったり、受動的だったり、要領を掴むのが遅かったりしても、周囲の先生がたは私たちを辛抱強く育ててくださったし、そういう不器用な研修医は私ひとりではなかった。
ハキハキしていない研修医、ネガティブな研修医、ナースにドヤされがちな研修医といった”同類”がまわりに存在したから、私は自分を特別にダメだと思い込まずに済んだ。
勉学は評価されてきたけれども社会性はイマイチ……といったルーキーも、とりあえず研修を受けていられたのが20世紀末の研修医世界だった……はずである。
ところが令和時代の研修医の世界は、そのようにはみえない。
研修医のほとんどがハキハキしていて、ポジティブで、要領が良く、理解力にも優れている。
“好青年”や”才媛”だらけのなかに、要領の悪い研修医やネガティブな研修医、身なりや礼儀作法の整わない研修医が混じっていたら、かなり目立ってしまうだろう。
実際、そういうレアな事例にお目にかかった際に、キラキラした研修医たちと比較してしまっている自分自身に気づくことがあった。
ハキハキしておらず、要領が悪く、理解力もいまいちな研修医に数年ぶりに遭遇した時、懐かしさをおぼえるより先に
「あれっ? この研修医の先生、どうなっているんだろう?」
と疑問を感じてしまっていたのである。
いつの間にか私は、「研修医とは、ハキハキしていて、ポジティブで、要領が良く、理解力にも優れているもの」という先入観を持ってしまっていたらしい。
かつての自分自身のことを思い出せば、そういう先入観はちょっとおかしくて、ちょっと危ないものであると気づくはずだろうに……。
もし過去の私が令和時代にタイムスリップして研修医になったら、「この研修医の先生、どうなっているんだろう?」と思われてしまい、粒ぞろいの”好男子”や”才媛”たちのなかで目立ってしまっただろう。
ネガティブで要領の悪い研修医と認識されてしまい、キラキラした研修医世界からドロップアウトしていたかもしれない。
研修医を雇う側、研修医を指導する側、研修医から医療行為を受け取る側にとって、研修医が粒ぞろいであって悪いことなどあるまい。
医者とは人の命を預かる職業、コミュニケーション能力を求められる職業だから、できるだけ粒ぞろいであるべき、あれもこれもできて欲しいというニーズもあるだろう。
そのニーズに完全に寄り添うなら、研修医は全員”好青年”や”才媛”であってしかるべきである。
だが、研修医が粒ぞろいになればなるほど、なんらかの欠点のある学生は研修を続けにくくなり、ひいては、医師として一人前になりにくくなるということでもある。
私が研修医時代をどうにかサバイブできたのは「ハキハキとしていない研修医でも研修して構わない」という空気や「世の中にはいろいろな研修医がいる」というコンセンサスがあったおかげでもあると思う。
しかし今日の研修医には、そのような空気やコンセンサスはおそらく与えられていない。
いまの私が目撃しているのは、ますます研修医がハイ・クオリティになっていくと同時に、ますます研修医になるためのハードルが高くなっている、そんな状況ではないだろうか。
社会は粒ぞろいのキラキラした新社会人を求めている
こうしたことは、なにも研修医の世界だけではあるまい。
いまどきの新社会人は、ハキハキしていること・ポジティブであること・要領が良く理解力にも優れていることを、就活をとおして証明するよう期待される。
身なりや礼儀作法についてもそうだ。
もちろん、就活で期待される振る舞いはテンプレート的ではあるし、テンプレートに過ぎないとみることもできよう。
だが少なくとも、テンプレートにのっとってコミュニケーションできること・テンプレートどおりに如才なく振る舞えることは期待されているし、そのような選抜プロセスを皆が通過しなければならなくなっているのもまた事実だ。
AO入試を経験している大学生なら、そのような選抜プロセスを二度にわたって通り抜けていることになる。
そうした一律なテンプレートの押しつけはルーキーたちを粒ぞろいでハイ・クオリティな労働者へと矯正するまたとないプロセスとなっている。と同時に、不ぞろいな労働者になってしまうかもしれないルーキーをふるい落とすプロセスとしても機能しているだろう。
こうした矯正と選抜のプロセスは、そこを通過するのが苦手な性質を持ったルーキーたちを疎外してやまないし、不ぞろいな才能をふるい落としてしまう。
だとすれば、私は
A.社会では多様性なるものが称賛されている。確かに、ジェンダーや人種についてはそのとおりかもしれない。
しかし、こうしたテンプレートを強いる選抜プロセスをみるに、称賛されている多様性とは一部の領域に限定されたものにすぎず、内実としては、雇う側も顧客の側も労働者に対して多様性など期待していないし、許したくもないのではないか。
B.このような選別プロセスが強く働く職能集団では、なんでもこなせる器用な人が増えるかわりに、不ぞろいで特異な才能が育つ可能性が低くなってしまうのではないか。
C.ひいては、短期的には労働者のクオリティが高まるかわりに、長期的・大局的には社会全体の労働者のクオリティを狭いゾーンに絞ってしまい、アウトプットのバリエーションを狭めてしまうのではないか。
……といった問題意識を持たずにはいられなくなる。
医療という分野で、粒ぞろいのハイ・クオリティなルーキーが期待されるのはもちろん理解できることではある。
だが、そのように変化した研修医の世界をみるに、社会をより良くするための仕組みや習慣によって、失われてしまうものや疎外されてしまうものもあるのではないかと疑わずにいられない。
さきに述べたように、私はキラキラした研修医になれなかった側の人間だから、ルーキーに期待されるクオリティがますます高くなり、と同時にルーキーがキラキラしていなければならない社会に怖さをおぼえる。
社会が、若者が、みんなキラキラするようになったら、かつての私やその”同類”はどうやって生きていけばいいのか。
どうやって現代の選抜プロセスを生き残っていけばいいのか。
ハイ・クオリティの王道を歩んできた人々には私の問題意識がそもそも意味不明にうつるかもしれない。が、世の中には、こういうことに怖さをおぼえている人間もいることを知ってもらいたくて、この文章を書いてみた。
ルーキーがみんなキラキラしている社会の功罪や、いかに。
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。
twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』