先日、fujiponさんがこんな記事を書かれていました。
大手銀行に就職したものの、仕事が自分に合わず、営業が苦手で、鬱を発症してしまった人。
官僚になったものの、激務と異常な時間の残業に薄給で疲れ果て、「せっかく東大に行ったのだからと官僚になったけれど、東大に受からなければ、地元の大学で憧れていた獣医になって幸福を実感できていたのではないか」と述懐する人。
吉岡さんは「お前は頭がいいんだから、これもできるだろう」と、難しい仕事をたくさん押し付けられることもあったそうです。
これを読んで、「東大いじめなんて、ちょっと信じられない。この吉岡さんの性格に問題があったんじゃないの?」と思う人と、「ああ、こういうのあるある」と納得する人に分かれるのではないでしょうか。
「東大に入ったのに、選択肢が広がるどころか逆に人生が息苦しくなってしまった」という人たちのエピソードが、fujiponさんの記事の主要なテーマだと思います。
まあ東大生と一言で言っても毎年3000人くらいはいるので、一概に言えることではないとはいえ、私の観測範囲でも確かに「東大に入った後、逆に東大という肩書がその後の人生の邪魔をしてしまっている人」というのは時折見受けられます。
ただ、上記で引用した「苦悩」の実例については、大きく二つの問題に切り分けられるんじゃないかなーと思っていまして、自分の属性も丁度この話に当てはまるんで、ちょっと自分の観測範囲に基づいた話を書いてみようかなーと思ったんです。
もしかするとこの話が誰かの呪いを解くかも知れませんし、解かないかも知れません。
二つの問題とはなにかというと、大まかにいうと「自他のコスト/リターン意識」の問題と、「自他の能力的な期待値/ないし先入観」の問題です。
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先に自分の属性を明示しておくと、私は東大卒でして、この記事で言うところの「東大に行ったのに普通の人生」な人間に属しています。
まあ、「普通」の定義については考えどころですが、少なくとも大手企業の役員でも官僚でも弁護士でも医師でもないのは確かです。
ただ、東大といっても、一般的な「東大受験」のイメージとは、私は若干異なるルートを辿っているかも知れません。
東大には前期入試と後期入試というものがありまして、私はその文系後期入試一本で受かった若干の変わり種です。
後期入試、2008年以降はだいぶ変わっちゃったらしいんですが、私が受験した当時は「論述」に非常に大きなウェイトが置かれていまして、センター試験の足切り以降の加点も一切ありませんでした。
要は「センターの足切りさえ抜ければ、あとは極めて限定された土俵だけで勝負出来るよ」という入試形態だったんですよ。
当時、国語と英語と論述にだけはむやみに自信があり、それ以外の教科についてはヘボかった私は、最初から後期入試以外で勝負する気がありませんでした。
大抵の人は前期入試の後のセカンドチャンスとして後期入試にチャレンジしていまして、私のように前期入試をガン無視して後期入試一本勝負、しかも他の大学を一校も受けていない、という受験生は当時割と少数派だったのではないかと推測します。
滑り止めなんてありません。
東大に落ちたら就職する予定でした。
これには経済状況とか親族環境とか色々と事情がありまして、前期入試では到底他の受験生とは勝負にならないと思っていたこと、国立大学に行く以外の選択肢は用意されなかったこと、受験費用も極めて限定されていたこと、地方から東京に出ることだけは(自分で)決めていたことなどがその主な理由です。
やったことはスキル極振りの一芸入試に近く、fujiponさんの例示で言うと「要領型」に該当するのでしょう。
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で。
上で挙げた「二つの問題」の話、まず一つ目の「自他のコスト/リターン意識」なんですが。
これ、いわゆる「〇〇に入ったからには××しないともったいない」という、「もったいない意識」と「コストに対する「リターン」としてのロールモデルがどれだけあるか」という問題なんですよ。
東大に限らず、大学受験というのは相当のコストを必要とするものなので、「折角いい大学に入ったからには」そのコストに見合ったリターンが得られることを期待する、あるいは当然リターンが得られるものだと考えるのは、まあある程度自然なことです。
がんばった本人はもちろん、学習費用や様々なサポートを行った親や、あるいは学校の先生とか塾の先生、そういった人たちが「リターン」を期待することもあるでしょう。
当然のことですが、ここで言う「リターン」は必ずしも金銭的なものとは限りません。
「息子が東大出て政治家になった」という社会的ステータスやら、人脈やら便宜やらもリターンに含まれるかも知れません。
この「リターンに対する期待」がどれだけの強さで降りかかってくるか、というのは人によって、環境によって全く違います。
この「期待」が殆どなかったという人は、当然選ぶ道についてかなり自由でいられるでしょう。
一方、周囲からの期待でがんじがらめにされて、ほぼ選択の余地なく官僚への道を目指さざるを得なかった、なんて人もいます。
やっかいなことに、この「リターン」の選択肢自体、環境によってはかなり狭かったりするんですよね。
つまり、「いい大学を出た」という武器が、どのように効果を発揮するのかというロールモデルが非常に乏しかったりする場合もあるんですよ。
特に田舎の非進学校においてそれが顕著です。
以前、こんなツイートを拝見しました。
田舎、「学校の成績がいいとなれる職業」の例がマジで「医者」しか上がらないというのが地味にキツイ気がする(本来学業成績の良さは将来の選択肢を増やすもののはずなのに
— MAEJIMA Satoshi (@MAEZIMAS) 2020年11月4日
私自身にもものすごーーーく身に覚えがあるんですが、滅茶苦茶あるんですよねこれ。
身近に「いい大学を出た」というサンプルが少ない、ないしほぼ存在しないので、「その後どうなったのか/どうすればいいのか」というモデルが形成されないんです。
結果、「医者」「政治家」「博士」くらいしか「リターン」としての選択肢が提示されなかったりする。
そうなると、本人の意識としてもそのどれかを目指すしかなくなってしまう。
いや、これ冗談じゃありませんよ?
「末は博士か大臣か」って言葉が呪いとしてしか動作しないんです。
そして、その言葉通りになれなかったことが、「期待外れ」という自他の歪んだ視線として、自分に降りかかってくる。
そういう地域が実際にあるんですよ。
これも一つの格差なんですけど、有名進学校の最大の強みは、「いい大学を出た後のロールモデルが身近に山ほどある」ということに尽きるのではないかなーと私は思っています。
ああ、こういう生き方もあるんだ、こういう能力の活かし方もあるんだ、というバラエティ豊かなサンプルが自然と目に入る。
これ、その後の人生に滅茶苦茶影響を与えると思います。
「自分が見えていない範囲にも、実は山のように生き方があるんだ」「そして、そこでもちゃんと自分の能力や経歴にパワーを発揮させる方法はあるんだ」という認識は、どこかで身に着けておけると楽なんじゃないかなーと思っています。
これをどこでどう獲得するのか、というのも一つのポイントです。
ときどさんの存在なんか、その一つの典型的なサンプルだと言っていいでしょう。
一方、自分に対する周囲のリターン期待というのは本当に面倒な話でして、これを排除するのは容易ではありません。
ここでは、「自分の人生を生きたい場合、自分の人生に対する強制力を発揮しようとしてくる人たちとの関係は、どこかで断ち切らなくてはいけない」と記載するにとどめておきます。
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一方。「自他の能力的な期待値/ないし先入観」という、もう一つの問題があります。
「東大卒」という肩書の一つの特徴的な効用として、「能力に対する期待値を無駄に上げる」というものがあります。
「東大に入ったくらいなんだから頭いいんだろ」というヤツです。
それは必ずしも間違いではないんですが正解とも言えません。
大多数の人が勘違いをしている点として、「東大生は確かに勉強が出来るが、別にそこまで万能ではないし、人によって想像以上に能力のグラデーションがある」という問題があります。
「勉強が出来る」という言葉は、一言でいうと明快ですが、実際には本当に様々なスキルの集積です。
読解力、計算力、論理思考力、目標設定能力、集中力、記憶力、etcetc。
人によって得意不得意にはグラデーションがあり、「勉強が出来る」という言葉で、「どの能力がどういう風に秀でているのか」を表現することは極めて困難です。
これは一般的に言ってしまっていいと思うんですが、「勉強が出来る」ということが実際にはどういうことなのか、きちんと分析される機会って本当に少ないと思うんですよね。
これについてもその内書きたいと思っているんですが。
おおよそ、東大生と一口で言っても、「出来る/出来ない」「得意/不得意」にはかなり激しいバリエーションがあると言っていいと思います。
中には「本当に何でも出来る」という人も確かにいますが、「これは得意だけどこれはあんまり得意じゃない」という人の方が遥かに多いです。
最低限の集中力や目標設定能力は保証されるでしょうが、そこから先はばらっばらで、創造的なスキルに長けている人もいれば事務的なスキルに長けている人もいます。
で、「勉強が出来る」ということで周囲が想像した能力の多寡と、実際の自分の能力がきちんと合致しなかった時、「東大出たのにこんなことも出来ないのか」みたいなよく分からない罵倒が発生するわけです。
まずいことに、「東大を出た」ということが「自分自身の」能力について勘違いさせちゃう、みたいなケースもあるんですよね。
あなた別に創造力を発揮して東大入ったわけじゃないでしょ、受験の時なにしたか思い出しなさいよ、とか思う人が、思いっきり創造的な分野に入って「案外出来ない自分」に打ちひしがれちゃったり、周囲から「東大卒なんだからこれくらい出来るだろ」攻撃に合って徹底的に疲弊しちゃったりするわけです。一つの悲劇です。
この「自他の、自分に対する能力の期待・ないし勘違い」と「実際の能力」との乖離が、いわゆる「高学歴いびり」の一つの原因になっている、ということは間違いないと思っています。
何故か、「お勉強だけ出来てそれ以外のことはてんでダメ」というような類型を高学歴の人間に期待している人もいて、そういう人はより一層面倒だったりするんですけどね。なんでしょうねアレ。
学歴というラベルは強力な武器でもあって、「東大に入ったくらいなんだから頭いいんだろ」と思わせる力は、有効利用すれば非常にいい感じに人生を渡っていくことができます。
一方、その力の使いどころを間違えると、逆に人生における障害になってしまいます。
これについて二点書くとすれば、
・「自分がどこで勝負をしたのか」ということを忘れない
・ラベルを使うべき場所はどこなのか、を見極める
ということについては、心がけておけば幸せになれるような気がします。
自分は何が得意なのか、自分の武器はなんなのか。
これについての材料は、「大学に受かった」という時点で既にある程度示されています。
大学受験を攻略出来た時点で、ストロングポイントの見極めはある程度済ませている筈で、それをその後の人生でも忘れるべきではない、というのが一つ、重要なポイントです。
どういう訳か、就活の時には「自分は受験をどう攻略したのか」を忘れてる人が結構多いんですよね。
一方、「なるべく自分の都合のいいようにラベルを使う」というのも重要なポイントです。
就活の時なんていい例ですが、「自分の能力を高い方向に勘違いして欲しい時」はいつなのか、ということを見定める能力は、社会を泳いでいく際強力な力になります。
就活面談、評価面談、やりたい仕事の担い手を探されている時。
そういう時だけ、「そういえばあいつ東大だったな」的に思い出してもらえるよう、上手い具合にラベルの露出度を調整出来れば、それ程有利なことはないでしょう。
勘違い誘発能力は相手にだけ向けましょう、自分には向けないようにしましょう、という話でした。
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長々と書いてまいりました。
最後にちょっとだけ自分自身の話をしますと。
私は、上記のような受験の経緯から、「自分の能力」については全く期待や幻想を抱いていなかったので、「自分の武器は何なのか」ということについては勘違いしないで済みました。
人間出来ないことは出来ません。
一方、自分に対する「リターンの期待」というのは、ある時点で「遮断する」という選択を取りました。
これについては、何が正解なのか、というのは難しいと思います。
これは東大に限らない話なんですが、折角頑張って大学に入ったのに、それがかえって自分を苦しめてしまう、というのは非常に悲しい話です。
学歴なんて所詮はただのラベルであって、重要なことは「大学で何を学ぶのか」と、「ラベルをどう使うのか」ということ。
それだけを頭に置いて人生渡っていくのがいいんじゃないかなー、と考える次第なのです。
今日書きたいことはそれくらいです。
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【著者プロフィール】
著者名:しんざき
SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。
レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。
ブログ:不倒城