世の中にはパッと見では全然面白そうにないが、やってみるとハマるタイプのものがある。

そのうちの一つに勉強がある。

 

作家であり元名古屋大学助教授であった森博嗣さんは大学3年生の頃までは勉強が大嫌いだったそうだが、大学4年生になって研究と出会い人生観が一変したという。

<参考 勉強の価値>

 

それまで勉強に何の面白みも感じられなかったというのに、研究と出会った途端に寝食を忘れる程に勉強が好きになってしまったというのだ。

 

人間の知的好奇心というものは無限・底なし

森さんはいったい勉強の何が楽しかったのだろうか?

森さんはその問いに対して、世の中で誰も解決していない問題を解く事の喜びを挙げる。

 

「世界で自分が最初に発見するという事の快感は他には代えがたい」

 

誰も答えをしらない問題を解く事の面白さは凄まじいそうで、森さんは大学に勤務し勉強を仕事にしてから毎日16時間大学で”勉強”をしていたという。

彼は一年365日休みなく働き続け、酷い時は三日も食事をするのを忘れるほどに”勉強”にハマったそうだ。

それほどまでに人間の”知りたい”という欲は強い。

 

人間の知的好奇心というものは底なしだ。知りたいという欲求を一度おぼえてしまうとそれは何にも増して強固となる。

森さんは研究に飽きた研究者を一人も知らないといい「これが人間の幸せというものなのではないか」とまで言い切っている。

 

最近読んだ、”チ。―地球の運動について―”という漫画でも、命がけで真実を暴き出そうと奮迅する人々の姿が描かれているのをみたが、あの漫画に多くの人が惹きつけられてしまうのは自分の底なしの知的好奇心が震えるのを感じてしまうからなのかもしれない。

<参考 チ。―地球の運動について―>

 

子供があんなにも嫌がる勉強は、それほどまでに”楽しく”なってしまうポテンシャルを秘めているものなのだ。

 

楽しくないを理由に辞めてたら、一生目覚めなかった

この現象が興味深いのは森さんほどに深く勉強にハマる素質を持った人間が非常に長いあいだ勉強が全然好きではなかったという事である。

もし仮にだけど、森さんのご両親が聞き分けがよすぎて「嫌なら勉強しないでもいいよ」とでも言っていたら、彼は一生勉強の楽しさに目覚める事はなかったかもしれない。

 

このように人生というのは楽しくないを理由に何かをやらない事で、後の可能性をことごとく潰してしまう事がある。

各々が己の好きを突き詰めるのは結構だが、多くの人は将棋の藤井聡太さんのようにはなれないのだから多少の嫌ぐらいなら何でもやっておいた方が無難だろう。

 

食わず嫌いは何にも増して勿体ない事の一つだ。

10年以上の時をかけて嫌いが大好きになってしまうのは食べ物に限らないのだ。

 

時が満ちたら、わかる

仕事なんかも最初の頃は何が楽しいのかサッパリわからなかったりするものだが、ある程度慣れてきて自分で処理できる裁量がでてくると徐々に面白さを見出す事ができるようになる。

 

仕事の面白さを理解できるようになるに時間が必要だ。

逆に言えば時間さえある程度かければ、大体の物事は面白くなる。

 

「本当はこんな事やりたかったわけじゃないんだけどなぁ」

 

こう思っている新社会人の人も結構多いとは思うが、個人的には最低でも一年ぐらいは頑張ってみる事をオススメする。

人生は長い。

どんな経験も無駄にはならない。

そして経験は後々になって必ず何らかの形であなたの人生に響く。

 

森さんと勉強との出会いに長い年月が必要だったのと同様、凡人にとっての”楽しさ”というものは目の前にわかりやすく開けているものではない。

 

世の中には将棋の羽生善治さんや藤井聡太さんのように人生のかなり早い時期から自分の”好き”を見つけ出し、それに耽るタイプの人もいるが、あれは極めて特殊な事例である。

この手の小さい頃から自分の好きを見つけた天才モデルは物凄く世間ウケがよく、またあの手の子育てに憧れを持つ人は多いが、個人的にはあれを理想像にするのはかなり危険だと思う。

 

それよりも

 

「面白さはやってみないとわからないんだから、つまらなそうだと思った事でもある程度はやってみた方が良い」

「やってみて全然面白くないと思った事ですら、何年か後になってから面白さに目覚める事も多いし」

 

と言ってあげる方が多くの子供にはむしろ親切だろう。

実際、そういう風にして僕は血肉になった活動が沢山ある。

最近はランニングがそうだ。

 

ランニングは小学校の頃の長距離走と違ってキツくない

多くの人もそうだと思うのだが、僕も長距離走が大嫌いだった。

小学校で1キロとか走らされてお腹が痛くなり、二度とこんな事はやるまいと心に誓ったのを昨日のことのように思い出せる。

 

そんな僕がランニングの面白さの一端に触れたのは大学生活の終わりの頃だ。

 

当時、就職前に

「なにかやっておいた方がいい事って、あります?」

と先輩医師に聞いたところ

「とりあえず体力はあって困るものじゃないし、走ってみたら?」

と言われたのがキッカケだった。

 

医師国家試験が終わって暇だった僕は

「長距離走は嫌いだけど、自分でアドバイスを求めておいて実践しないのもなぁ」

と走る事にしたのだけど、意外というかそこには小学校の頃のようなキツさは全くなかった。

 

マラソンは自分のペースで走る分には10キロ程度ならシンドさが皆無だという事をその時にはじめて理解した。

また、何度かやっているうちにランナーズハイみたいな快感が出るようになったのも面白かった。

最終的にはランナーズハイが出にくくなって走るのに飽きて辞めてしまったが「走るのも悪くはないかもな」という事を20代の始めに知れたのは良い経験だった。

 

ランニングは心を分厚くする

そんなこんなでもう10年近く走ってなかったのだけど、最近になって人生のシンドさが極地に達した僕は

「この胸の苦しみにはランニングが効くのではないか?」

とふと思いつき、ランニングを再開する事にした。

 

30代になってから改めて始めたランニングで見える景色は20代の頃にみたモノとまた全然別物だった。

心を虚無にして淡々と走り続けるのは瞑想に近く、心が無になればなるほど僕の胸から人生のシンドさが抜けていった。

走る前は仕事を辞めたい気持ちがハイパーMAXだったのに、走り終わったら「もうちょっとだけ、頑張ってみるかな」となるのだから、ランニングの心をタフにする力は中々なものである。

 

世の中のハードワーカーにランナーが多いのにも納得した。

ランニングはメンタルにいい。

抗うつ作用があるという研究結果もあるそうだが、確かに納得である。

 

こうして僕はランニングの楽しさに20年近くかけて辿り着く事に成功した。

最初は最悪の思い出だった小学校の長距離走がこんな風になったりするのだから、誠に人生というのは摩訶不思議である。

 

楽しいことは種を撒くように育てられる

”雨垂れ石を穿つ”という諺がある。

これは雨垂れが長い間同じ所に落ち続ければ、硬い石にも穴があくという事象からできたフレーズだが、人生の多くって実は”雨垂れ石を穿つ”じゃないか?と最近は思うようになってきた。

 

多くの人にとって勉強もランニングも最初は酷く退屈だが、やり続けていたら穴があく事がある。

やってみて。挫折して。またしばらくしたら、やってみて。

こんな感じで10年とか20年かけて様々なモノの”楽しさ”を探窟するのが人生というモノの醍醐味なんじゃないだろうか?

 

人生は長い。

「良いな」と思っていたモノが駄目になったり「駄目だ」と思ったモノが良くなったりするには十分すぎるほどの時間がある。

 

その長い歳月の中で、どれだけの面白い事を見つけ出せるかは全てあなたにかかっている。

 

「好き嫌い」で割り切らず、抱えられるものは抱えていく。

そうして”雨垂れ石を穿つ”ごとくジックリと活動し、時間をかけて色々なものの”楽しさ”を発掘する。

 

長い人生を豊かに生きるという事はそういう事なのではないかと思う。

 

 

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【著者プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

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