先日、私の新しい本『何者かになりたい』がイーストプレスさんからリリースされた。

想定読者は「何者かになりたい」と願わずにいられない人や「何者にもなれない」と悩んでいる人だ。

そうした気持ちをどこかに抱えながら中年期を迎えた人も、潜在的読者かもしれない。

 

ところで、この「何者かになりたい」「何者にもなれない」といったフレーズには、シンパシーをおぼえる人とまったくおぼえない人がいるのが通例だ。

たとえば先月、講談社ビジネスに

「何者かになりたい人々」が、ビジネスと政治の「食い物」にされまくっている悲しい現実)』という記事が公開された時、twitterやはてなブックマークではこうした気持ちへのシンパシーがたくさん書き込まれると同時に、「そんな気持ちになったことはない」という書き込みも少なくなかった。

 

先月公開された『いい年した大人の『何者かになりたい』という感覚は、けっこう厄介。』という記事でも、筆者の安達さんは以下のように述べている。

私自身、今までのキャリア上、自分が楽しめるか、面白いかどうか、を気にしたことはあったが、「何者かになれるかどうか」を気にしたことはなかった。

もちろん、きちんとした調査をしたわけではないので、単に私の周りにそういう人が多いだけなのかもしれないが、精神科医であるシロクマ先生のところには、そういう人が集まってくるのかもしれない。

──『いい年した大人の『何者かになりたい』という感覚は、けっこう厄介。』より

そう、世の中には「何者かになりたい」と願ったり「何者にもなれない」と悩んだりしない人が案外いたりするのである。

 

卑見では、筆者の安達さんのような実業家タイプだけでなく、研究が大好きな科学者や、自動的にオタクになっていく人のなかにも、このような「面白さの追求が動機として太く、アイデンティティの悩みがあまり動機になっていないようにみえる人」は結構いる。

職業柄もあって、私は「何者かになりたい」「何者にもなれない」といった欲求を持っている人を嗅ぎ当てる練習をずっと続けているが、こうした人にはアンテナがまったく反応しない。

 

それと、

思春期の真っ最中なのに何者問題を意識しない人の典型は、「自分とはなにか」を考えるまでもなく、その場その場の人や場面に合わせ、なんらかの役割を引き受け、居場所を獲得できている人です。そういう人は、他人から自分がどう見えているのか・どう評価されているのかを気にする素振りもありません。そのぶん、際立った野心を持っている人は少ないようにも見えます。

……いまどき、そのような人はそれほど多くありません。そのような人は無条件に家族に愛され、よほど地元や学校での人間関係に恵まれ、その状態が修飾後も円満に続くような人でしょう。そうした状態を維持できるほどコミュニケーションが上手な人でもあります。自分自身の構成要素を探すのに一生懸命な人から見れば、羨ましい人、なにもかも充実している人とうつるかもしれません。

──『何者かになりたい』より

陽キャのきわみにある人、ごく自然にスクールカーストの良い位置を占める人からも、「何者かになりたい」という願いや「何者にもなれない」という悩みが感じられない。

こういう人は特定の職業や趣味、アチーブメントに執着するまでもなく、そこにいるだけで何者かになっている。

 

ごく自然に学校や家庭の人間関係のなかで認められ、性格や容姿も含めたコミュニケーション能力でも世代平均を上回る人は、「何者かになりたい」と思い悩むことなく思春期を通過し、壮年期になっても同様であることが多い。

 

「何者問題」を思い煩いやすい人、そうでない人

ここからは、「何者かになりたい」「何者にもなれない」と思い悩みやすい属性、そうでない属性についていくつか紹介していく。

 

・地元勢か、そうでないか

生まれ育った地元を愛している人や学校以来の人間関係で満ち足りている人は、「何者かになりたい」と願わなければならない度合いが低い。

というのも、そのような人々はアイデンティティの構成要素のうち、人間関係の部分ががっしりしているからだ。

地元の風景や自然、行事に愛着を感じているなら、それらも全部アイデンティティの構成要素となり、自分が何者なのかをかたちづくる一部となる。

そうなると、わざわざ「何者かになりたい」と思わなければならない必然性が無い。

 

もちろんこれは地元の人間関係がうまくいっている人の話で、人間関係がイマイチだと感じている地元勢や、強いられて人間関係をやっている地元勢なら、「何者問題」を思い煩うことはあり得る。

学力や金銭の都合がつくなら地元を離れ、新天地でリスタートしたほうが幸せかもしれないが、20世紀末に比べると、地元を離れられる余力のある家庭は少なくなっている。

地元を離れられる余力のない家庭の子にとって、地元の(スクールカースト以来の)人間関係は死活問題だ。地元で何者かになれるのか、それともなれないのかがそれで決まってしまう。

 

一方、進学などで大都市圏に引っ越した人は、大都市圏に出てきて間もない時期には多かれ少なかれ「何者問題」に煩わされる。

というのも、自分がどういう人間なのかを規定してくれるアイデンティティのうち、人間関係や地元といった構成要素が引っ越して間もない時期はどうしても弱くなるからだ。

高校時代までは人間関係が順調だった人でも、相対的にアイデンティティの構成要素が薄くなる進学直後には「何者問題」が動機として働きやすくなり、新しい取り組みや人間関係へと本人を導いてくれる。

 

ただし、これは良いことばかりとは言えない。

たとえば大学の新歓シーズンには、一般的なサークルや同好会に混じって怪しげな団体も勧誘活動をする。

普段は勧誘に引っかからない人でも、アイデンティティの構成要素が薄くなり、「何者問題」が強まっている時期は勧誘に引っかかりやすくなることを、勧誘する側は知っている。

田舎から出てきたばかりの大学生は、そういう意味ではまさに狙い目である。

 

・どれだけ強い人間関係(と居場所)を持っているか

『何者かになりたい』でも記したが、アイデンティティ(=自分が何者なのかを構成する諸要素)は、個人的なアチーブメントや肩書きや職業だけではない。

友人関係・パートナーシップ・家族関係・職場関係などもその一部をなしている。

ここでいう人間関係は、居場所と言い換えられるようなものを特に指す。

 

たとえば努力するまでもなくスクールカースト上位にいられる学生は、学校での人間関係や居場所をとおしてポジティブなアイデンティティを獲得できる。

学校に限らず、望ましい人間関係や居場所がどこにどれだけあるかは重要な要素だ。

その程度によって「何者問題」の程度や深刻さは大きく変わる。

 

そうしたなかで意外に重要なのは家族だ。

家族関係が悪く、家庭が居場所になっていない人は、友人関係がかなり恵まれていても「何者問題」を思い煩うことが多い。

家族関係があまりにも悪い場合、たとえば幼少期から虐待やネグレクトに晒され続ける等した場合には、「何者かになりたい」「何者にもなれない」は本格的なメンタルヘルスの問題、たとえば反応性愛着障害や一部のパーソナリティ障害などと接続し、容易に解決しない問題になってしまう。

 

これらのメンタルヘルス領域の問題は、人間関係が不安定になることによるハンディをもたらすだけではない。

上手くいっている人間関係や居場所、評価される技能などをせっかく手に入れても、それらを自分自身のアイデンティティの構成要素として実感することまで難しくしてしまう。

 

精神疾患のなかでも、特に家族関係に端を発するとされるものと「何者問題」の相性は概して悪い。

そのような人の「何者問題」は、(『何者かになりたい』のように)発達心理学的に考えるより、精神病理学的に考えたほうが整理整頓できそうだが、ここではカバーできない。

 

・褒められやすい素養・能力を持っている度合い

地元の人間関係や家族関係への影響も含め、褒められやすい素養や能力を持っている人のほうが、そうでない人よりも何者問題に思い煩わされずに済む。

たとえばスクールカーストが平均的な高校生でも、勉強や遊びをとおして「お前、面白いことやってるね」「すげー」と声をかけてもらいやすい人とそうでない人では、何者問題を思い煩う度合いはかなり違う。

得意なことがある人は幸いである。

 

何に挑戦してもだいたいうまくいく人の場合、アイデンティティの構成要素は選択の余地が広がり、たとえ移り気だったとしてもアイデンティティの空白に悩む期間は短い。

のみならず、その多芸多才さが人間関係をつくる助けとなり、アイデンティティの構成要素をたっぷり獲得することも珍しくない。

 

そのような人が自分自身のアイデンティティの一面として「自分は挑戦するものをキチンと選べて、キチンと達成できる人間だ」という自信を獲得すると、「何者かになりたい」などと思い悩む必要性はいよいよなくなる。

そういう人は実業家や経営者だけでなく、専業主婦、看護師、漁師等々、さまざまな職種にポツポツと混じっている。

 

素養や能力が認められる程度は、その人のいる場所や挑戦する場所によっても左右される。

たとえば一人の学生がトップクラスの進学校に進んだのか、それとも中堅の進学校に進んだのかによって、「お前、面白いことやってるね」「すげー」と言ってもらえる可能性は変わる。

 

東大に入ったのか慶大に入ったのか、専門職に就いたのか総合職に就いたのか、子育て専業主婦になったのかバリキャリになったのかによっても変わるだろう。

「自分は何者でもない」と感じている研修医のように、世間的には好ましいとされる場所にいるからこそ、かえって「自分は何者でもない」と感じている人もいる。

 

とはいえ、自分が得意な場所を見分けられるかどうかもそれはそれで素養や能力のうちだし、どこの場所でも花を咲かせられる度合いも、素養や能力のうちではある。

 

・動機のうち、好奇心が占める程度

なかには知的好奇心が強く、それが大きなモチベーション源となり、他人の目線をあまり気にせず勉強や趣味や事業に向かっていく人がいる……といわれている。

少なくともそのように自称する人は結構多い。

 

しかし、たとえば好奇心旺盛な昔のオタクの典型ですら、思春期の頃は自意識が強まり、他人の目線が気になりやすくなる。

行く先々で疎外され続けていれば、そのようなオタクですら「自分は何者でもない」という悩みに囚われてしまうことがある。

 

好奇心がモチベーション源として重要なのは確かだが、専ら好奇心にモチベートされているようにみえる人でも、よくよく観察してみると、人間関係や居場所、褒められやすい素養・能力に恵まれ、そこがアイデンティティのアンカーになっていることが多いものである。

 

好奇心が強い人のほうが「何者問題」を思い悩む程度が軽くなりやすいとしても、本当に知的好奇心だけでその人のモチベーションやアイデンティティが完結しているかはわからない。

思うに、そういう人は俗世ではあまり見かけないのではないだろうか。

 

・思春期モラトリアムが許容されていた度合い

「何者かになりたい」と願うためには、何者かになれる余地や可能性も必要だ。

生育環境が著しく厳しく、生存欲求や生理的欲求が動機として大きい人は「何者かになりたい」などと思っていられない。

 

こうしたサバイバー系の人は「何者かになりたい」という欲求を、ぜいたくで、無駄で、無意味なものと感じていることが多い。

「何者かになりたい」を過剰に嫌悪している人をよく観察していると、モラトリアム期間の欠如と、それゆえの嫉妬を露わにすることがままある。

 

アイデンティティとモラトリアムについて論じた心理学者のE.エリクソンも、時代ごとの精神性の違いを論じた社会心理学者のD.リースマンも、思春期モラトリアムがあらゆる時代・文化に共通しているとは言っていない。

階級や格差、時代風潮によってもモラトリアムの有無は異なるだろう。

 

「勉強すれば・努力すれば誰でも何にでもなれる」という神話がまことしやかに信じられていた”一億総中流”の時代や、エリクソンが活躍していた頃の”古き良きアメリカ”は、青少年が「何者かになりたい」と願いやすい一時代だった。

一方、階級がくっきりしているヨーロッパ諸国では、こうした思春期モラトリアムの考え方は部分的にしか適用できない。

令和の日本も、平成の日本に比べればそうだろう。

だから筆者である私自身、『何者かになりたい』が適用できる青少年の範囲は、平成の頃に比べてやや狭いと想定している。

 

たとえば実業高校を卒業して堅実に働いていこうとする青少年や、逆に世襲制にも等しい資産階級や知識階級の青少年にはモラトリアム期間が無いかあっても短く、「何者問題」を長く思い煩っていられない。

もちろん、そうした青少年も既定コースから逸脱すれば話が変わってくるのだが。

 

・時代による語りの許容度

2021年現在、オンラインかつ匿名のアカウントでならまだしも、オフラインで面と向かって「何者かになりたい」「何者にもなれない」と口にするのは難しい。

なぜなら「中二病」と同じく、「何者かになりたい」「何者にもなれない」といった言葉は青臭い言葉として知られ過ぎていて、それを口にすると青臭い人間だと思われてしまうリスクがあるからだ。

 

ちなみに、「中二病」もアイデンティティの空白を埋め合わせるための行為なので、アイデンティティの空白を埋めること・アイデンティティの獲得を願うこと全般が、2020年代では揶揄の対象になりやすい、とも言えるかもしれない。

そうしたことを子ども時代から嗅ぎ取ってきた利発な青少年は、だから「何者かになりたい」と内心で思っていても、見知らぬ人間には開陳しない。

アイデンティティに関する望みや悩みは、弱点や欠陥とみられるおそれすらある。

 

アイデンティティ論や自分探しが流行っていた時代、日本ではおおよそ平成時代がそれにあたるが、当時は忌避感が今よりずっと少なかった。

ミスターチルドレンや『あいのり』等、サブカルチャーのコンテンツと共鳴して一時代を築き、そういう語りは弱点や欠点とみなされるより、青少年の特徴として語られていた。

 

こうしたアイデンティティを語って構わない雰囲気は時代や国によって違っているはずで、私が2015年に韓国の教育サミットにお招きいただいた時には、かなりポジティブな、私からみて懐かしい論調で語られていたのをよく覚えている。

尤も韓国社会は日本より早く変わり続けているので、今頃はそうでもなくなっているだろう。

 

何者かになりたいと語れることは大切だ

いかがだっただろうか。

 

このように「何者かになりたい」を思い煩いやすいかどうかは、さまざまな変数に左右される。

が、全体としては、まだまだ成長が必要な青少年、これからアイデンティティを獲得・確立していかなければならない青少年が思い煩いやすいものだと言える。

 

先ほども触れたが、現在は「何者かになりたい」という気持ちをおおっぴらにしにくい時代だと思う。

いまどきは子どもも含め、誰もが完成品でなければならない時代であり、(AO入試や就活や婚活といった)人生の節目ごとに、私たちは完成品かどうかを検品される。

そうした風潮のなかでは、なるほど、「何者かになりたい」と語るのはイノセントであると同時に危険かもしれない。

 

「何者かになりたい」と語るのは、社会の部品として自分は未完成ですよと吹聴しているようなものだからだ。

 

だけど。

 

この二つのツイートが述べているように、「何者かになりたい」「何者かになれるかもしれない」とは、未完成品としての悪しき兆候である以上に、伸びしろとしての希望ではなかっただろうか。

で、本来、若者とは多かれ少なかれ未完成であると同時に、伸びしろのある存在ではなかっただろうか。

 

生まれながらに何者になるべきか決まりきっている社会では、「何者かになりたい」という欲求は意味をなさない。

しかし私たちの社会にはまだ、青少年が未来を模索する可能性が残されているし、そうした可能性は未来に残されるべきだ。

 

そうした可能性を未来に残すためにも、「何者かになりたい」という気持ちを悪い兆候とみなし過ぎないで欲しいと私は願う。

もちろん「何者かになりたい」の顛末がネットサロンの養分であるような問題もあるにはあるのだけど、本来この気持ちが青少年を飛躍させるモチベーションのひとつだったことは、やっぱり忘れてはいけないはずだ。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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Photo by Brendan Church