参考リンク:「親ガチャ」は存在していて、個人の努力で解決するものじゃない派 – 斗比主閲子の姑日記

https://topisyu.hatenablog.com/entry/2021/09/16/073000

 

これを読んで、「親ガチャ」について考えていたのです。

「親の影響」というのも多少はあるとはいえ、最貧国で食べていくためにゴミの山から金目のものを探すしかない子どもたちならさておき、日本であれば、頑張ればなんとなかあるだろう、いろんなサポートシステムもあるし……と、20年前くらいの僕は思っていたんですよ。

 

お受験で進学校とかに子どもを通わせると、世の中にはいろんな人がいる、というのがわからなくなって、偏った考えに陥ってしまうリスクもあるのではないか、それだと、社会に出てから困ることになるのではないか。

でも、自分が親になってみて、子どもを育てる側になると、結局、それなりのお金がかかる私立の小学校を受験させ、難関といわれるような中学校を目標とさせていました。

 

変節、と言われれば、その通りです、としか言いようがない。

「子どもに『社会勉強』をさせるために、あえて、イジメが横行していたり、勉強をすることがネガティブな反応を生んだりするような環境に置くべきか?それこそ、親のエゴじゃないのか?」と問われたとき、僕は反論できなかったのです。

 

実際、通わせてみると、私立の小学校は、先生たちの授業は僕が聞いていても「面白い」内容だったし、季節に応じたさまざまなイベントや自然体験学習が設定され、観劇や有名な研究者による授業も行われていました。

勉強している、勉強ができる子は周囲の子どもたちから尊敬されている、という環境に驚かされもしたのです。僕が通っていた公立小学校とは全然違うじゃないか、って。

 

正直なところ、それが「自然」なのか?「正しい」のか?という疑問もあったのだけれど、『孟母三遷』という故事成語がずっと伝わっているのには、それなりの理由があるようです。「環境」がひとをつくる。子どもであれば、なおさら。

 

『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(マイケル・サンデル著/鬼澤忍訳:早川書房)という本のなかで、サンデル教授は、この「アメリカ的な世界を覆っている、能力主義」について考察をしています。

不平等な社会で頂点に立つ人びとは、自分の成功は道徳的に正当なものだと思い込みたがる。能力主義の社会において、これは次のことを意味する。つまり、勝者は自らの才能と努力によって成功を勝ち取ったと信じなければならないということだ。

逆説的だが、これこそ不正に手を染める親が子供に与えたかった贈り物だ。彼らの本当の気がかりが、子どもを裕福に暮らせるようにしてやることに尽きるとすれば、子どもに投資ファンドを与えておけばよかったはずだ。だが、彼らはほかの何かを望んでいた。それは、名門大学への入学が与えてくれる能力主義の威信である。

「子どもを『いい学校』に入れる」というのは、親側の自己満足にすぎないのではないか、と感じるところもあるのです。

 

その一方で、実際に子どもが勉強している環境を考えると、「子どもをより恵まれた条件でやっていけるようにすることは『善いこと』にちがいない」とも自分に言い聞かせているのです。

僕にはそんなお金はないけれど、たしかに、子どもの将来の生活のことだけを考えれば、お金さえたくさん残せば、困りはしないでしょう(まあ、使い方を間違えば、莫大な遺産だって、あっという間に無くなってしまうのは歴史が証明していますが)。

 

受験戦争に勝ち抜き、自分が「成功」を勝ち取ったと確信している親たちは、自分の子供たちにも、同じ「成功」をしてほしいと願うようです。

率直に言うと、僕などは、それなりに勉強して医学部に入って医者になったのに、なんだかずっとモヤモヤしたものを抱えていて、自分が「成功」しているとは全く思えず、日々鬱屈しているだけなので、自分の子どもが「医者になろうかな」なんて言っているのを聞くたびに、「お前の父親をみてみろよ、そんなに幸せそうに見えるか?」なんて、心の中で呟いているのですけど。

 

まあでも、一般的には、「いい大学に入って、高収入で、周囲から一目置かれる人たち」の多くは、自分を「成功者」とみなしているし、「自分は他人より頑張ったから、能力を高めたから成功した」と考えているようです。

 

ただ、ひとりの老いつつある人間としては、「子どもたちが人生をスタートするときに、置かれている環境があまりに違い、ハンデ差が大きすぎる」ことに対して、それは良くない、と危惧している。

それでも、自分とその子供のことになると、「子どもをより良い環境に置けるだけの経済力と知識が自分にあるのなら、それを子供のために利用したほうがいい」と考えずにはいられないのです。

 

日本が資本主義社会で、行きたい学校を(試験に合格すれば)選べるのであれば、そういう親たちの「自分の子どもを少しでも良い位置からスタートさせようとする傾向」を妨げるものはありません。

ただ、そういうのも親の独り相撲というか、「お受験」が親側の押し付けになってしまって、勉強漬けにされ、心が壊れてしまう子どもたちというのも少なからずいるのです。子どもは、とくに小さな子供は「親の期待に応えようとする」から、ブレーキがかかりにくい。

 

世間では「子どもは良い学校に行っていて、親は立派なお仕事もされていて……」と言われていても、内情は家庭崩壊、なんていう「良家」もたくさんありますからね……

この年になってみると、「親ガチャ」って、外れクジしか入っていなくて、「大ハズレ」か「まだマシなほう」くらいの違いではないのか、とも感じます。自分の子どもたちには申し訳ないのだけれども。

 

しかしながら、「心の幸福」なんてものは計測できないのだから、せめて経済的に困らない、本人が望んでいる(はずの)職業に就かせてあげたい、というのも理解はできる。

できるのだけれど、行き過ぎてしまうと、「成功していることが正義と同じになってしまう社会」になってしまう、いや、すでになっているのかもしれません。

 

前述のサンデル教授の本のなかに、こんな話が出てくるのです。

私が大学生のあいだに見いだしてきた能力主義の感性は、アメリカだけの現象ではない。2012年、私は中国の南東岸にある厦門(アモイ)大学で講義をした。テーマは市場の道徳的限界についてだった。

少し前の新聞の見出しが、iPhoneとiPadを買うために腎臓の一つを売った十代のある中国人の話題を伝えていた。私は学生たちにこの事例をどう思うかとたずねた。その後の討論で、多くの学生がリバタリアン的な見解を述べた。

つまり、その十代の人物が圧力や強制を受けたわけではなく、腎臓の売却に自由意志で同意したのであれば、彼にはそうする権利があるはずだというのだ。

 

一部の学生はこれに異議を唱え、富める者が貧しい者から腎臓を買って命を長らえるのは公正でないと主張した。会場の後方にいたある学生はこう答えた。裕福な人びとは自分で富を築いたのだから、報酬を受ける資格があり、したがって長生きするに値すると。

私は、能力主義的な思想がこれほど臆面もなく応用されることに面食らった。

いまにして思えば、それは、健康や富を神の好意のしるしとする「繁栄の福音」の信仰と道徳的に同種のものであることがわかる。もちろん、その考えを口にした中国人学生は、ピューリタン的な、あるいは摂理的な伝統に深くなじんでいたわけではないだろう。だが、彼やそのクラスメートは中国が市場社会へと転換する時期に成人していたのだ。

僕は「なんてひどい話だ……iPhoneのために腎臓ひとつなんて……」と思ったんですよ。

貧しい者を助けるのではなくて、その「格差」を利用して、必要なものを安く買いたたく、それが「賢いやりかた」なのだろうか。

 

でも、それが売る側も合意した上での「取引」であるのならば、第三者がそれを強制的にやめさせることが可能なのだろうか。(ちなみに、日本では臓器売買は禁じられていますのでダメです。中国でも合法ではなさそうですが)

いや、取引としては真っ当であったとしても、そんなことが人間として許されるのか?

 

能力があるほう、学歴が高いほう、経済力があるほうを多くの人が求めるようになったことで、これらは「有利である」から「正しいこと」になってきている、ともいえます。

先ほどの引用部で、サンデル教授は「臆面もなく」という言葉を使っていますが、「金で他人の頬をひっぱたいて言いなりにさせる」ような行為に対して、今の若者世代は「みっともない」とは感じなくなっているのです。

もちろん、彼らは、その親の世代の行動をみて、その影響を受けてきました。

 

サンデル教授は「能力主義のダークサイド」について、こう語っています。

能力主義社会において貧しいことは自信喪失につながる。

封建社会で農奴の身分に生まれれば、生活は厳しいだろう。だが、従属的地位にあるのは自分の責任だと考えて苦しむこともないはずだ。

また、自分が苦役に耐えながら仕えている地主は、自分より有能で才覚があるおかげでその地位を手に入れたなどと思い込んで悩む必要もない。地主は自分よりもその地位にふさわしいわけではなく、運がいいにすぎないことがわかっているはずだからだ。

 

対照的に、能力主義の最下層に落ち込めば、どうしてもこうした考えにとらわれてしまう。すなわち、自分の恵まれない状況は、少なくとも部分的には自ら招いたものであり、出世するための才能とやる気を十分に発揮できなかった結果なのだ、と。

人びとの出世を可能にし、称賛する社会では、出世できない者は厳しい判決を宣告されるのである。

「親ガチャ」と言われる、「生まれた環境の違いによって、その後の人生の有利不利が決まってしまう」という面がある一方で、いまの日本の社会は、最貧国のスラム街の子どもたちほど「這い上がるチャンスがほぼ皆無」ではないのです(もちろん、どうしようもなく厳しい環境もあるでしょうけど)。中世の身分制度に比べれば、まだ、「チャンスはある」。

 

だからこそ、そこでうまくいかないことに自信を失い、自責の念に駆られてしまう。

おそらく、いまを生きている若者たちにとっては、僕が思っている以上に「生まれによる格差」が大きいのだと思います。

「親ガチャ」というのは、「誰にでもチャンスがある、という建前に押しつぶされそうな人たちが、自分を守るために必要な鎧」として機能しているのかもしれませんね。

 

東大生の親は高収入で、学歴も高い傾向がある、というようなデータが日本でも出ているわけです。

「生まれ」で多くのことが決まってしまうような社会というのは、やっぱりおかしい、と僕も思います。

とはいえ、日本が資本主義社会で、自由競争が前提である以上、劣悪な条件にある子どもたちをある程度サポートすることができるとしても、スタートダッシュを決めようという富裕層の子どもたちにブレーキをかけることは難しい。

 

サンデル教授も、この格差を是正する案をいくつか提示しています。そのなかには、名門校の入学に「運」の要素を入れる、すなわち、合否をいきなり決めるのではなく、ある程度以上の成績の子どものなかから、クジ引きで決めるようにする、などというものもあるのです。

 

ただ、サンデル教授の「是正案」を読むと、同じ本のなかの、その他の項に比べると歯切れが悪い、というか、「自由な競争社会」であることが大前提のアメリカでは、格差を改善するのは難しいことが伝わってきます。

それは、いまの日本でも、たぶん同じです。

これを改革するには、子どもたちを親から引き離し、集団で養育する、というSF小説(あるいは、日本の某宗教団体)のような方法しかないのかもしれません。

そして、実際に、それをやってみた事例が世界の歴史にあるのです。

 

『愛着障害 子ども時代を引きずる人々』 (岡田尊司著/光文社新書)という本のなかに、こんな記述があります。

かつて、進歩的で合理的な考えの人たちが、子育てをもっと効率よく行う方法はないかと考えた。その結果、一人の母親が一人の子どもの面倒をみるのは無駄が多い、という結論に達した。それよりも、複数の親が時間を分担して、それぞれの子どもに公平に関われば、もっと効率が良いうえに、親に依存しない、自立した、もっと素晴らしい子どもが育つに違いないということになったのである。

その「画期的な」方法は、さっそく実行に移された。ところが、何十年も経ってから、そうやって育った子どもたちには重大な欠陥が生じやすいということがわかった。彼らは親密な関係をもつことに消極的になったり、対人関係が不安定になりやすかったのである。さらにその子どもの世代になると、周囲に無関心で、何事にも無気力な傾向が目立つことに、多くの人が気づいた。

これは、イスラエルの集団農場キブツで行われた、実験的とも言える試みの教訓である。効率本位の子育ては、愛着という重要な課題を、すっかり見落としてしまっていたのである。こうした弊害は、幼い子どもだけでなく、大人になってからも不安定な愛着スタイルとして認められた。ただし、同じようにキブツで育っても、夜は両親と水入らずで過ごしていた場合には、その悪影響はかなり小さくなることも明らかになった。

この「実験」の結果は、愛着における不可欠な特性の一つを示している。

それは、愛着の対象が、選ばれた特別の存在だということである。これを「愛着の選択性」という。愛着とは、ある特定の存在(愛着対象)に対する、特別な結びつきなのである。愛着対象は、その子にとって特別な存在であり、余人には代えがたいという性質をもっている。特別な存在との間には、見えない絆が形成されているのである。それを「愛着の絆」と呼ぶ。

「親ガチャ」を国家的に解消しよう、子供たちを平等に養育しようというイスラエルでの試みは、結果的に、対象者の人生に悪い影響を与えてしまっただけだったのです。

 

人は「偏り」を嫌いがちだけれど、「偏り」こそが「個人」をつくっている、とも言えます。

「親ガチャ」というのは「教育格差の象徴」であるのと同時に「自分に与えられた可能性がゼロではないからこそ感じる絶望」でもあるのです。

 

これが突き詰められていくと、格差をぶっ壊すための革命が起こるのか、あるいは、奴隷制のほうが気楽だ、ということになってしまうのか……

 

 

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(2024/3/26更新)

 

 

【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

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Photo by Marisa Howenstine