増えてない?
いま、多くの人がやってることって、ググれば大抵のことはヒットする
ゲームの攻略法、カードゲームのデッキの組み方、儲かる転売商材、もう何でも
でもさー、本当は考えてそこに到達するのが楽しいんじゃん?
ゲームクリアできない、なんでだ?どこだ?ここか?こうすればいいのか?あっうまくいった!ってのがいいのでは?
最初から正解見て、その通りやって、俺は失敗しませんでした、って威張るの、時間の無駄じゃない?
いや、対戦ゲームとかで全国優勝とか目指してるなら常に最先端に身を置くのもいいと思うけどさ
友人との対戦とか、田舎のカードショップでの野良試合で、全国大会優勝者と同じもの使うってのは、それ楽しいのか?
1月の終わりに、はてな匿名ダイアリーでこんな投稿がバズっているのを見かけた。
本来、ゲームの世界で大きな楽しみとされていた試行錯誤が減って、最短距離を目指すゲームプレイが増えていると指摘する内容だ。
さらに筆者は、そんなゲームプレイの何が楽しいの? とも問うている。
これに対して、はてなブックマーク上ではたくさんの反論が集まった。
・大抵の人は試行錯誤は「せざるを得ない」からするのであって、ショートカットがあるならそっち選ぶって人が大半。/増田も車で旅行行くなら高速道路乗るでしょ。
・もう、時間ないんだよ。はやく、はやく何かやらないとと気持ちが焦って。何に追い立てられてるのか。試行錯誤が出来る気持ちになりたい。
・もう対人ゲームは自分で試行錯誤するものじゃなくて情報を交換しながらみんなで強くなる集合知ゲーなんだよね
これらの反論を見るに、ゲームとは、娯楽や気晴らしや暇つぶしではなく、仕事や業務のような姿勢で向き合うもののようにみえる。
まるで、「ゲームを遊ぶ」ではなく「ゲームを勤める」かのようだ。
ゲームで試行錯誤する気持ちが失せている人は、ゲームを仕事や作業としてこなしているのだろうか。
対照として、昭和ファミコン時代のゲーム小僧たちを思い出してみる。
ファミコン好きの子どもたちは、ゲームで存分に試行錯誤を繰り返していた。
今となっては誰も見向きもしないようなクソゲーを相手取っても、昭和の子どもたちはありとあらゆることを試していた。
また、そうでなければ『ソロモンの鍵』や『ドラゴンクエスト2』や『女神転生』はクリアできなかっただろう。
ではなぜ、昭和ファミコン時代のゲーム小僧たちは試行錯誤ができたのか?
遊べるゲームが少なく、ひとつひとつのゲームのボリュームも小さく、ゲーム小僧たちが暇だったから、というのは一つの回答になるだろう。
令和時代の子どもと比べて、昭和ファミコン時代の子どもには時間があった。学校が終わる時間が早かったし、塾や稽古事に通っている小学生も少なかった。
たとえば私自身の小学生時代を思い出すと、ぼんやりと天井の模様を眺めて過ごす時間が、今の自分の子どもより格段に多かったと言わざるを得ない。
その暇なゲーム小僧たちが、まだボリュームが小さく高価なゲームをやっとのことで手に入れていたのだから、試行錯誤し尽くさないわけにはいかないし、ゲーム制作者サイドも試行錯誤させることを躊躇っていなかった。
自分の知る限りでは、ファミコンゲームだけでなくパソコンゲームやアーケードゲームもそうだ。
『ロマンシア』や『ドルアーガの塔』、等々。
対して、令和時代のゲームプレイヤーはというと。
遊べるゲームは無尽蔵にあり、しばしば安価だ。ひとつひとつのゲームのボリュームも大きい。
去年の年末に放送された「テレビゲーム総選挙」にノミネートされたゲームだけでも、いったい何年遊べるのか見当がつかないほど作品が充実している。
そのなかで一位に輝いた『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』にしても、隅から隅まで遊びつくすにはたくさんの時間が必要になる。
他方、大人はもちろん、小学生もスケジュールが厳しくなり、遊ぶゲームの不足よりも遊ぶ時間の不足が目立つようになった。
ぼんやりと天井の模様を眺めて過ごしていた昭和のゲーム小僧も、中年になれば遊ぶ時間をひねり出すのに一苦労だ。
いや、ゲームを遊ぶ気力をひねり出すことにすら苦労するようになり、ゲームが趣味というアイデンティティの残骸を引きずったまま、寝転びながらスマートフォンでゲームをいじるのが精いっぱいの人も少なくない。
そのような新環境のもと、ひとつひとつのゲームにたんまり時間を費やし、試行錯誤を繰り返すのはいかにも困難だ。
だから、時間も気力も不足しがちなプレイヤーが最短ルートでゲームをプレイするしかないのは理解できることだし、そうした傾向は、グズグズしていると環境にキャッチアップできなくなってしまうタイプのゲームジャンルで顕著だと言える。
「今どきのゲームプレイヤーが試行錯誤を楽しめていない」という問いには、ここまでの話だけでも答えたことになっていると私は思う:つまり、いまどきは遊ぶべきゲームがあまりにも多すぎる一方で、プレイヤーの可処分時間と可処分気力があまりにも不足しているからだ。
そうしたプレイヤー側の事情を見透かすように、オンライン上にはゲーム攻略サイトと、そのサイトを使ってビジネスに励むゲーム関連企業が繁栄している。
かくして、「時間も気力も不足しがちなプレイヤーが、遊びきれないほどのゲームに包囲され、最短距離の攻略情報をなぞる」というゲーム世界生態系ができあがっているのだから、その既存の生態系のなかで敢えて試行錯誤するゲームスタイルを採るのは、なかなか冒険的だと言えそうだ。
でも、本当に試行錯誤を許さないのは、ゲームではなく社会、いや、あなた自身では。
では、できあがってしまったゲーム世界生態系がすべての元凶なのだろうか?
否。娯楽であったはずのゲームまでもが時間に追われ、効率主義にとらわれ、最短距離をひた走らなければならなくなってしまったのは、ほんとうは社会の問題、ひいては、私たち自身のメンタリティの問題だともいえないだろうか。
令和の日本社会を振り返ると、効率重視、生産性重視のメンタリティが隅々にまで行き渡っている。
「選択と集中」だの「人生のコスパ」だのといった言葉がまかり通る社会では、試行錯誤など歓迎されようがない。
試行錯誤を繰り返すのは遠回りをする非効率な人で、高速道路やショートカットを用いて最短距離の努力で結果を出す人が効率的な人、ひいては優れた人とみなされる社会ができあがってしまった。
まだ社会にゆとりがあった頃、いや、社会がおおらかと言えば聞こえがいいが、もっと非効率で野蛮だった頃、試行錯誤は若者にとってエッセンシャルな体験であるとみなされていた。
この、昭和時代に書かれた小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』をはじめ、当時の心理学者たちは若者のモラトリアム(猶予期間)についてさまざまに語った。
高学歴化、晩婚化、思春期の延長によって若者が試行錯誤する期間が長くなり、また、試行錯誤が必須課題になった、といった若者観だ。
実際、こうした若者観は平成のユースカルチャーの気分、たとえば「自分探し」などとも一致している、ようにみえた。
ところが21世紀に入り、そうした若者観はどんどん陳腐化していった。
21世紀においても、高学歴化、晩婚化、思春期の延長は続いたし、幾つかの点ではますます延長したとさえ言える。
けれどもそれは自由気ままな猶予期間が増えたことを意味してはいなかった。
そうではない。猶予期間のように見えていたのは猶予なき競走の季節で、いわば就活の前哨戦でしかなかった。
そうした実態が、ズタボロになった就職氷河期世代をとおして白日の下に曝され、後発世代に悉知されたのだった。
職業がまだ決まっていないから・結婚相手がまだ決まっていないからといって、自分は気ままで構わない、試行錯誤し放題だと考えている若者が、今、いったいどれだけいるだろう?
いつの時代にも変わり者はいるから、なかにはそういう若者もいるだろう。
けれども私の目には、そのような気ままさが時代の気分になっているようには見えない。
四半世紀前の若者に比べると、今の若者は努力の効率性やキャリアの戦略性といった点で高い意識を持っているようにみえるし、試行錯誤にうつつをぬかして遠回りすることを警戒しているようにもみえる。
そうやって、子どもから中年、ひょっとしたら老人までもが競争社会の常在戦場を意識させられ、全力で効率を叩き出すことが素晴らしいという資本主義的精神を叩きこまれている社会のなかで、ゲームの世界だけが特権的に試行錯誤を許されている・許されるべきだと考えるのは、まあ違うだろうなと思う。
社会と私たちが効率性や最短距離に囚われているからこそ、ゲームの遊び方もまた、そのようなメンタリティに親和的なスタイルへと変容した、とみるほうが事実に即しているのではないだろうか。
こうやって考えた時、私は、3年前に自分が書いたソーシャルゲームについての文章が恨めしく思えてくる。
ソーシャルゲームは、なまじっかの仕事よりはるかに難しい、現代人ならではの高等遊戯ですよ。
この手のゲームに慣れたプレイヤーはほぼ例外なく、とにかく効率的にゲームを遊ぼうとします。
ゲームに飽きてきた場合でさえ、「ログインボーナスだけは貰っておく」といったかたちで、効率性重視の姿勢は改めません。
こうした効率性の意識はプレイヤー側が持っていると同時に、ゲーム運営側もよく心得ているところで、どちらが最初に効率化を促したのかは判然としません。
ただ、多くのソーシャルゲームの仕様とプレイヤーの実態をみる限り、ソーシャルゲームの本態は効率性を追求するゲームであり、時間やリソースをマネジメントするゲームである、と言っても過言ではないでしょう。
(中略)
だとしたら、仕事でやっているのと大同小異なタスクを、わざわざゲームの世界でも繰り返しているソーシャルゲームプレイヤーとは、いったいなんなのでしょう?
仕事でくたびれているサラリーマンが、息抜きと称してソーシャルゲームを隙間時間に起動させて、そこでもギリギリまで効率性を突き詰めているのって、なんだか喜劇的だと思いませんか。
ソーシャルゲームをこんな風に遊んでいる人とは、効率主義にとりつかれた、試行錯誤を自分自身に許せない、そういう人間ではないだろうか。
もちろんこれは自戒をこめて書いているつもりだ。
結局今でも私は、効率最優先で遊ぶべきソーシャルゲームを後生大事にしているからだ。
でも、難しくなっただけに、希少価値があると思いませんか。
こんな風に、試行錯誤は世の主流ではなくなり、時間や気力にゆとりのない人には難しいものになった。
少なくとも、呑気で野蛮でおおらかだった頃のようには試行錯誤していられない、とは言えるだろう。
だがしかし、と私は思う。
試行錯誤をおいそれとやっていられない今だからこそ、試行錯誤ができる状況と経験は、希少だと言えないだろうか。
子ども時代から効率性や最短距離に急き立てられる世相のなかで、それらを度外視した冒険や挑戦ができるとは、恵まれていることで、余裕があることで、ぜいたくで、余人が経験できないものを経験し思いつけないことを思いつける状況でもあるように思う。
もちろん試行錯誤にもある種のセンスや戦略が必要だから、何でも希少というわけではない。
しかし誰もが試行錯誤をやっていた頃に比べれば、試行錯誤をとおしてしか獲得できないタイプの経験や知見は見過ごされやすくなっているはずで、逆説的ながら、その希少価値は高まっているように思う。
この、時間も気力も搾り取ってゆく社会のなかで、試行錯誤を上手に経験蓄積できる人間は少なかろう。
だからこそ、試行錯誤をとおして得た力、たとえば目標も正解も与えられていない問題に問いを与え、みずから答えを導く力などは、高速道路しか知らない人々に差をつける武器として、いかにも重要ではないだろうか。
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』
Photo by Ken Yamaguchi