コンサルティング会社にいたとき、新任の管理職向けの研修をやっていたことがある。

 

その研修の中で、「𠮟り方」は一つのジャンルとなっていた。

大人に向かって「叱る」のは、なかなか得られない経験であるから、管理職になった時には「叱り方」を学ばせたい、という意向を持つ経営陣はそこそこ多いので、それを反映した形だ。

 

 

しかし、本当に「叱ること」が重要なのか? という点については、あまり議論はなかった。

 

だが、「叱ること」と「マネジメント」は、私が観察するかぎり、研修や書籍などでは現状、ほぼセットで語られている。

「上司は部下を叱って当然」

「叱らない上司はむしろダメ」

「叱ることは、怒ることとちがって、その人のためになること」

そんな「常識」が、そこには存在している。

 

果たして、それは自明なのだろうか。

 

叱らないマネジャー

叱らないマネジャーを見たことがある。

この人は、「テクニックとして叱らない」というのではなく、芯の部分で「叱っても、成果が上がるわけではない」と、ドライに考えていたフシがあった。

 

例えば、部下が期日までに宿題を提出しなかったときのやり取りは、こんな感じだった。

 

マネジャー「今日が期日ですよね。」

部下 「すいません、まだ終わってません。」

 

マネジャー 「(ちょっと考えて)いつまでに終わりますか?」

部下 「申し訳ないです。明日までにはやります。」

 

マネジャー 「現在までの進捗を見せてください。」

部下 「これです。まだ全然終わってなくて……。」

 

マネジャー 「わかりました。これでいいです。ありがとうございました。」

 

部下に警告したり、問い詰めたりするのかと思いきや、マネジャーはするりとその仕事を引っ込めてしまった。

後で聞いたところ、その仕事は別の人に振り分けたとのこと。

 

そして、そのマネジャーは、「締め切りを守れなかった部下」に対して、次の仕事はとても簡単なものを与えた。

それこそ、「誰でもできる仕事」を。

 

彼はそこでまた、様子を見ていた。

部下が、それをクリアできればもう少し難しい仕事を与えた。

できなければ更に簡単な仕事だけを与えた。

 

彼は淡々と、ただ、「できましたか?」と聞き、できていればそのまま。

できていない場合は、その場で仕事を中止し、たいてい、自分で片付けるか他の人に対処させた。

 

叱ったら成果が出るのですか?

一般的に、会社は部下たちに「同じような仕事」を与えて、成果を競わせることが多い。

しかし、このマネジャーは全く反対のことを志向していた。

 

能力が高い者にはそれなりの仕事を与え、

能力が低い者には、低いなりの仕事を与えた。

 

そうして、評価にはそれが反映された。

特にボーナスには、大きく仕事の成果が反映された。

 

それを見て、私はマネジャーに一度、聞いたことがある。

「叱らない上司はダメと、研修で教えているのですが、マネジャーさんは全く叱らないですね。」と。

 

そのマネジャーは言った。

「叱ったら成果が出るのですか?」

 

ストレートに問われて、私は言葉に詰まった。

「部下を育てるためには、叱ることも必要かと。」

 

マネジャーは首を振った。

「20年、30年と積み重ねてきた結果が、今の彼らの能力です。今更私が叱ったところで、変わるとは思えません。」

 

私は食い下がった。

「叱られて本気になって、能力が伸びる方もいるのでは?」

 

彼は言った。

「彼らがサボるか、本気になるかは、私の管理の範疇外。私が責任を持っているのは、彼らの気持ちではなく、仕事の成果ですので。」

 

「叱るのも上司の役割」という思い込み

ただし、彼の名誉のために言っておくと、彼は決して「部下を放置するマネジャー」ではなかった。

成果には細かく気を配っていたし、部下の相談にも乗っていた。

 

ただ、決して「感じのいい人」でもなかった。

 

言葉を荒げることは決してなく、叱ることもしない。

部下の「出来ない」に対して、寛容ではあったが、評価は容赦ないため、おそらく、あまり部下からの人気はなかった。

中には、「部下への愛情が足りない」とこぼす人もいた。

 

しかし、私は彼を見て、「叱るのも上司の役割」という考えを改めざるを得なかった。

なぜなら、叱らなくても十分、仕事は回っていたからだ。

 

「叱るのは上司の役割」という方がいるかも知れない。

だが、叱られても大した改善もせず、「偉そうにして、腹が立つよなーあの上司」という、上司への不満をぶちまけるだけの人もたくさん見てきた。

 

「叱る」と「パワハラ」の区別がつかない人も多い現在、ある意味彼は、そうした環境に適応したマネジャーだったのかもしれない。

 

 

最近、ヒルティの「幸福論」を読み直したとき、次の一節を文中に見つけた。

悪は激しくしかったり非難したりするには及ばない。たいがいの場合は、明るみに持ち出すだけで十分である。

そうすれば、たとえ表面上は抗弁しても、どんな人間もある良心において、それは自らを裁くのである。

 

それゆえ、非難すべき人と話す場合には、落ち着いて静かに、事柄を包み隠すことなく、別段柔和を装うこともなく、あっさりと、怒らないで話さねばならぬ。

おこってみてもいくらかでもよくなることなど、めったにないからである。

私の記憶の中の、あのマネジャーは、ちょうどヒルティの述べるような態度だったな、と改めて思ったので、ここに記事にするとする。

 

 

 

 

【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

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