ここ数年ぐらいだろうか、以下のようなカットと台詞の抜粋をSNSでしばしば見かけるようになった。
団塊ジュニア世代~就職氷河期世代の男性なら目に留まりやすいカットだと思う。週刊少年ジャンプの人気漫画『魅!男塾』の続編のなかで男塾塾長・江田島平八が贈った言葉が、「男なら しねい」だった。
この『魅!男塾』がジャンプで連載されていたのは昭和60年から平成3年だったが、当時すでに、こうした“男塾的な男らしさ”は真面目に取り合うものではなく、滑稽な時代錯誤とみられていた。
男塾の塾生たちは、どんなことにも命を懸け、ナンセンスなことにまで根性をみせる。
そのさまを、小学生である私たちはギャグマンガのようにも、ジャンプお得意のバトル漫画のようにも受け取っていたと記憶している。
それから32年の歳月が流れた。
この間、社会は男女の機会均等を推進し、少なくともある程度までは女性の社会進出が実現した。
男性らしさ、女性らしさ、そういったジェンダーにこだわることは愚かで、時代遅れで、無駄で、モラルのうえでも良くないと考えられるようにもなったと思う。
かくして、当時からナンセンスだった「男なら しねい」から最も遠い社会に私たちはたどり着いた……はずだ。
ところが2023年においても、「男なら しねい」がインターネット上を幽霊のように徘徊しているのである。
もちろんこれを真に受けている人は少数で、良識あるほとんどの人がナンセンスなギャグとして受け取っているに違いない。
だが……これはいったい何を示唆しているのだろうか。
「死」に近いのはやはり男だ
令和の日本社会のうちに、「男なら しねい」が積極的に支持されている雰囲気を感じ取るのは不可能に近い。少なくとも私は、そのように男たちが強いられていると即断しないだろう。
しかし男性なるものは、女性と比較してやはり死にやすい生き物である。
男性は女性よりも体内のテストステロン濃度が高い。それに伴い、男性はより攻撃的な行動や冒険的な行動に駆り立てられがちだ。のみならず、筋肉や骨格が女性よりも発達しやすいつくりとなっている。
競技スポーツの記録や体格の男女差などは、こうした生物学的基盤に基づいている。
そのかわり、テストステロン濃度の高い男性の平均寿命は世界じゅうどこでも女性よりも短い。
社会活動においても男性は死に近い場所に位置づけられている。
厚労省のこちらのpdfを参照すると、女性の社会進出が相当進んでいるにもかかわらず、労災の発生状況の男女比では男性のほうが労災に巻き込まれる割合がかなり高いことが示されている。特に若い世代において、労災の男女比のギャップが大きい。
この労災の男女比からは、即座に右のことが連想される──男性と女性では、就いている仕事の種類がそもそも違っているんじゃないか?
では早速、産業ごとの女性就業者の比率をみてみよう。ちょうど、独立行政法人・労働政策・研修機構さんのウェブサイトにわかりやすい図像があったので引用する。
見てのとおり、男性は建設業や運輸業、工学的な分野に従事していることが多く、女性は医療や教育分野に従事していることが多い。この、産業によって男女比が異なるという構造が、労災に巻き込まれる者の男女比にも反映されているのだろう。
ちなみに同サイトにはアメリカ・イギリス・フランスの就業比率も掲載されているが、こうした傾向は日本とそこまで変わらない。
また、自殺率という点でも男女比には大きな違いがある。精神疾患に罹患し治療を受けているのは女性のほうが多いにもかかわらず、自殺で命を落としている者の数は男性のほうが多いのである。ここでも、男性は女性に比べて死にやすい結果となっている。
この、一般社団法人・いのち支える自殺対策推進センターからお借りしたグラフ をじっと見つめると、改めて驚かずにはいられない。
男性のほうが女性よりも自殺者数が相当多い。それだけではない。1998年から2011年にかけて、自殺者数が増えに増えて3万人を超えていた期間において自殺者数がより増加したのも、また男性なのである。
これらを見ていると、本当は社会には「男なら しねい」という透明な圧力が存在しているのではないか、と疑いたくなる。
いや、そこまで明け透けな圧力が存在しないとしても、「男性は死に近い生を生きている」とか「男性のほうが命のリスクのある社会的役割を負わなければならない」とか、そういった圧力が存在するのではないか、とは疑いたくももなる。
「男らしさ」は本当に終了したのか
冒頭で私は、すでに昭和時代にはナンセンスになっていた『魁!男塾』塾長のセリフを引用した。
男塾で描かれる男らしさとその追求は今日の私たちにはバカげたもののようにうつる。が、本当にそれは過ぎ去ったことと言い切れるのだろうか?
男性性、特にそのジェンダーとしての男性性についてまとめた大著『男らしさの歴史』によれば、そうしたジェンダーとしての男性性がピークを迎えたのは19世紀であるという。
『男らしさの歴史 第二巻 19世紀・男らしさの勝利』の表紙には、序文ダイジェストとして以下のような文言がみられる。
■十九世紀に入っても、この男らしさの束縛が男性の活動を支える。男たちはみずからの行為によって絶えず男らしさを示さなければならない。男らしさは本質的な概念である偉大さ、優越性、名誉、徳としての力、自己制御、犠牲的行為の感覚、そして自己犠牲とその価値に一体化する。領土の探検と征服、植民地化、自然支配を証明するあらゆるもの、経済発展、そうしたもののなかで男らしさが栄える。
『男らしさの歴史 第二巻 19世紀・男らしさの勝利』表紙カバーより抜粋
男性はたえず男らしさを示さなければならず、それは、偉大さ・優越性・名誉・自己制御・自己犠牲、といったものであったという。
あわせて同書には、当時の男性たちが示さなければならなかった勇敢さや勇猛さ、性的な旺盛さ、といったものも記されている。男性は競いあうもの・冒険的なもの・能動的なもの・戦うものであるともみられていた。そうでない男性には立つ瀬が無い。
当然、女性には男性とは異なるものが求められ、ジェンダーとしての女性性をなし、女性を束縛もしていただろう。
『男らしさの歴史』によれば、そうしたジェンダーとしての男らしさは20世紀以降、ピークアウトしたとされる。確かにピークアウトはしたのだろう。『魁!男塾』が本気の男漫画とみなされず、ナンセンスやギャグとみなされた程度には。
そして世の男性たちは──少なくとも日本では──血の気が少なくなり、路上で因縁をつけたり喧嘩したりすることも少なくなった。男性だからといって命を張っていろいろやらなければならない……という固定観念はだいぶ弱まっているに違いない。
とはいえ、男性と女性のあいだには依然として小さくない違いも残る。
それは労災に巻き込まれる人数からも、就労している産業のジャンルからも、自殺者数のギャップからも想像される。
それらがどこまで生物学的な男女の差異によるのか、それとも文化的・ジェンダー的な差異によるのかは、ここでは峻別することができない。が、何かが違っているということまでは認めざるを得ない。
でもって、少なくとも私はいまだ圧力を感じ続けているのである。
「男らしくあれ」という圧力を。その圧力のある部分は、自分自身に内面化されたものに違いない。だがそれだけとも思えない。
実際、いまどきの若い男性たちは精悍な顔立ち、男性らしいいでたちをしているではないか。
私には、ユニセックスないでたちの男性は20年前に比べて少なくなっているようにみえる。髪型もだ。ジェンダーとしての男らしさは、21世紀に入ってむしろ復活していないだろうか?
なるほど、『男らしさの歴史』から引用したような男らしさが欠如していても、腰抜け呼ばわりされることも、面目を失ってしまうこともなくなっただろう。令和の日本男性が男らしさを度外視して生きていくことは、まあ、たぶん可能だ。
そして昔とは違って、腰抜け呼ばわりされたり面子を失ってしまったりすることが社会的生命を(ひいては生命そのものをも)左右するなんて場面も激減したようにみえる。
だが、残念ながら人間はいまだに社会や世間といったものを形成していて、そのなかで男性は、その社会なるもののなかで勇敢さ・力強さ・支配力などを試され続けているように私にはみえている。
もちろん、勇敢さ・力強さ・支配力などは19世紀に比べて多義的であるはずで、身体領域・知的領域・経済領域・そのほか細々としたジャンルや産業の領域のどこかでそれらを発揮できていれば令和時代に求められる男らしさは合格していることになるだろう。たとえばプロ棋士や辣腕弁護士も、それはそれで男らしさ合格とみなされそうではある。
だとしても、けっきょく男らしさは死んではおらず、私たちはいぜんとして圧のもとにあり、したがってナンセンスの極致のように思える「男なら しねい」は、単なるネタとして受け取るには私にはきわどすぎるのだ。
こうして言語化してみると、しぶとく男らしさが要請されていることに慄然とする。
そして男らしさがこれほどまでに生存しているとは、おそらく女らしさも生存していて、女性もそれにさらされていると想像せずにいられなくなる。
では、ジェンダーか生物学的な差異かを問わず、これから私たちは性別をなくすべきだろうか?
男女がいがみあい、対立するさまに着眼する限りにおいて、性別は邪魔であり、有害であり、男女平等実現の妨げのようにみえる。
男女平等を突き詰めて考えるなら、ジェンダーについてごちゃごちゃと議論するのでなく、性別そのものを破壊するしかなくなるのではないだろうか。
読者のみなさんなら、どのように考えますか。
男らしさは邪魔ですか。女らしさも邪魔ですか。人間は、性別を捨てるべきですか。
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』
Photo:UnsplashのTim Mossholder