ここ数年、「文系」がやたらと軽く扱われ、「理系」こそが未来を担う人材だと言われるようになった。

なんなら、「文系学部不要論」が出てくるくらいだ。

 

統計を見てみても、高校で理系を選ぶのは22%に対し、文系は46%。

大学に入り学士ともなると、理工農系は21%、人社系が55%と、その偏りはさらに大きくなる。*1

 

だから、「理系を増やそう」というのは、当然の流れかもしれない。

ただ正直なところ、日本で理系を増やすって、かなりむずかしいんじゃないかなぁ……とも思う。

だって日本人の国民性って、「科学的思考」と、致命的に相性が悪いから。

 

科学=理論をみんなで検証して真実に近づけること

まず、『LIFE SCIENCE』という本のなかで紹介されている、「科学とは」「科学的思考とは」の部分を抜粋して紹介したい。

科学は何かというと、仮説(理論)をどんどんよいものにして、真実に近づける営みです。(……)

出発点は仮説を考え、検証をしています。とてもシンプルです。
(……)
「こうした仮説があるのか」と他の研究者が知り、そこから検証を始めます。その論文を疑えば、同じ実験をします。これは「追試」と呼ばれていますが、追試することでデータが正しいかを調べるわけです。
追試だけではなく、別の実験で同じ結果になるかなども検討します。あるいは「仮説が正しければこのような結果も出るはず」、(つまり前に書いた予想です)とそれを試す人も出てきます。
(……)
科学はこうやって、後に続く研究が進歩させていきます。
追試で間違いがわかった場合は論争になりますが、ねつ造や改ざんでない限り、業界や所属機関を追われるようなことはありません。誰もその研究者を責めたりもしません。一生懸命に実験したものの間違っていて、そのまま掲載されることはいくらでもあります。

これだけ聞くと、「うん、科学ってそういうものだよね」と、だれもが納得すると思う。

 

「こうかもしれない」という仮説があって、実験して「正しい」ことを証明し、追試によってそれを確認する。その結果をもとにまた新たな仮説を唱え、検証し、進んでいく。

「失敗は成功のもと」という言葉があるように、科学とは、失敗を繰り返していろんな可能性を排除し、残った正しい選択肢を探していくものなのだ。

 

「発明王」と謳われるトーマス・エジソンも、失敗に関して多くの名言を残しているしね。

……とまぁこう書くと納得感があると思うのだが、現実世界ではどうだろう?

わたしたちは、日本の教育は、日本の社会は、「科学的思考」を養ってきたのだろうか?

 

他人の主張の真偽を確かめるのは「失礼」

本で紹介されているこのくだりのなかで気になったのは、

 

・理論を検証し、確認のために追試をする

・ねつ造や改ざんでなければ、間違っていても責められることはない

 

というところだ。

 

このふたつ、日本人同士のコミュニケーションとめちゃくちゃ相性が悪い気がするのは、わたしだけだろうか。

たとえば先輩が、「この作業はAという方法でやったほうがいい」と言ったとする。

それに対して後輩が、「AとBを比べて本当にAの効率がいいのか試してみますね」とか、「Aが最適なのか疑問なので確かめてみてもいいですか」なんて言ったら、先輩は「生意気な後輩だ」と思わないだろうか。正直イラッとこないだろうか。

 

たとえ友だちでも、「え、本当ー? どこ情報? ソースを教えてよ、自分で確認するから」なんて言われたら、だれだっていい気はしないだろう。

 

そう、「相手の主張の真偽を確かめる」という行為は、上司が部下にするならともかく、基本的には「相手を疑っている」ものとして受け止められ、日常生活では「失礼」とされがちなのだ。

だから、一番最初の「他人の意見を検証する」段階でつまずいてしまう。

 

先輩に言われたAのやり方を検証した後輩が、「Aは最適解ではない」と結論付けたとしたときのことを、想像してみてほしい。

先輩は「まちがったやり方を伝えた人」になるので、「面子をつぶされた」「先輩としてのプライドが」と腹が立ったり、恥ずかしくなったりして、その後その後輩を避けるかもしれない。

 

逆に、先輩の言う通りAが正しかったら、後輩は「先輩に生意気なことを言った」という後味の悪さだけが残るだろう。

「確かめた結果やっぱり正しかった! 納得! めでたしめでたし!」とはならないのだ。

 

現実世界では、「他人の主張を検証することは失礼に当たる」可能性が高く、まちがえた人は「他人に誤りを指摘された」と少なからずイヤな気持ちになり、主張が正しければ「言いがかりをつけられた」として相手に悪印象をもつかもしれない。

そう、こういった価値観は、科学的思考と相性がめちゃくちゃ悪いのだ。

 

「どちらが正しいか」を決める訓練をしていないわたしたち

これは大人になってから急にそうなったわけではなく、小さいころから、わたしたちはそういう環境で育ってきたと思う。

文化祭で「たこ焼きをやろう」という意見が出たとして、「採算が取れるか過去のデータを見てから決めたほうがいいんじゃないか」「原価を計算して実行可能か確かめるべきだ」なんて検証を提案する人がいたら、クラスメートから白い目で見られるだろう。

 

最終的に、「たこ焼き屋はいい選択だ」という結論が出たら、「じゃあ最初から賛成しとけよ面倒くせぇな」と思われるかもしれない。

たとえ「やっぱりたこ焼き屋はやめたほうがいい」という結論になったとしても、「ノリが悪い」「協調性がない」という印象は、たぶん避けられない。

 

ちなみにゲームの世界で、「そのスキルを使うとこうなる」と言う人に対し、「どこソース?」とか「ちゃんと自分で確かめた?」なんて聞くと、煽り認定されてすぐケンカになる。

そうならないために、「煽りじゃなくて純粋に疑問なんだけど」という枕詞を使うわけだ。

 

いや本当、「どこ情報? 再現できるか確かめたい」って言っただけでブチ切れる人たくさんいるからね。「失礼だ、疑ってるのか」って。

ケンカしたいわけではなく、単純に「その主張の正当性を自分で確かめたい」だけなのに……。

 

「相手の意見を検証する」というのは、検証の結果がどうであっても、相手は不愉快になる。高確率で。だからみんな、それをやろうとしない。

 

でも理系分野は基本的に「正しい答えを導き出す」ことが目的だから、「あなた」と「わたし」の考えがちがえば、どちらがより正しいかの検証をしなくてはいけない。

そうなると当然、他人から「まちがっている人」とレッテルを貼られることもあれば、検証の結果他人の誤りを指摘することもあって、それがなんとも気まずい。だから、苦手。

 

というか、そもそもわたしたちは、「どっちが正しいか白黒つけよう」という訓練・教育を受けてこなかった。

「みんなちがってみんないい」と、おててをつないでゴールすることを推奨されてきたのだから。

 

まちがえた人と指摘した人の共同作業によって前へ進む

では、科学的思考を養うためにはなにが必要なのか。

それは、「まちがいだとわかることは進歩」という認識だ。

 

「Aが正しい」と主張をした人と、「検証した結果Aはまちがっている」と誤りを指摘した人。

そのふたりの協力によってAという選択肢を排除し、「じゃあBかも」「もしかしたらC?」と、より正解に近づける。

 

まちがいを減らすほど真実に迫れるのだから、「まちがいが判明するのは進歩」。

それが共通の認識になれば、まちがった主張をした人が恥じる必要はないし、検証に遠慮することもなくなるし、誤りの指摘に罪悪感を抱くこともなくなる。

 

そう、わたしたちが科学的思考を身に着けるのために必要なのは、「まちがいだとわかることは進歩」という考え方なのだ。

 

「正解した人」ではなく「まちがえた人」が優勝した理由

ちなみにこの記事を書くきっかけとなったのは、クイズ王伊沢さんが立ち上げたクイズグループQuizKnockの、『【ガチ研究】東大卒が蚊よけになるものを調査してみた』という動画だ。

動画内では「蚊よけ対策」をテーマに、伊沢さん、東大物理学博士課程の須貝さん、東大王でおなじみ鶴崎さんの3人が、「蚊に刺されないためにどうすればいいか」の仮説を立て、実験している。

 

伊沢さんはたくさんの蚊が入っている箱に、レモングラスの香りがついた手と、ついていない手を交互に入れて、蚊が寄ってこないかを確かめた。

結果、レモングラスの香りには、蚊を遠ざける効果があることが判明する。

 

2番目の須貝さんは、「蚊は二酸化炭素を感知できる」という習性を利用し、囮としてとなりにドライアイスを置いてみることに。

しかし結局は人間の手のほうに蚊が集まってきたので、「人間の体温やにおいのほうが大事なのかもしれない」と仮説を立てる。

改めて調べたところ、近距離では、蚊は二酸化炭素ではなく体温をたよりに獲物を探しているそうで、二酸化炭素と温度の両方が大事だったとのこと。

 

最後の鶴崎さんは、マジックで手から腕にかけて縞模様を描いて実験。シマウマの縞には虫よけ効果があることからの思いつきだが、実際のところまったく効果はなかった。

「蚊は黒色を好むから、ちがう色なら結果が変わったかも」と締めくくっている。

 

さてさてこの3つの実験、ふくらP(プロデューサー)が最後に「優勝」として選んだのはだれだったか?

それは、ドライアイスを試した須貝さんだ。

レモングラスで蚊を遠ざけることに成功した伊沢さんを差し置いての優勝である。

 

実験自体はうまくいかなかったものの、なぜうまくいかなかったかの検証・考察が優れていたため、「研究価値が高い」と評価されて優勝したのだ。

 

これが、いわゆる「科学的思考」なのだと思う。

判断基準が「正しいかどうか」ではなく、「次につながるか」だったから。

 

「まちがいだとわかる」ことに価値があると気づくのが科学的思考

よく、「日本人はまちがえるのを嫌う」と言われるけど、まちがえること自体だけでなく、自分の意見を疑われたり、他人に検証されたりすることがそもそも好きじゃないんだと思う。

もちろん、みんながそうというわけではなく、傾向として。

 

「あなたはこう思って、わたしはこう思う。それでいいじゃない、みんな仲良くしましょう」と言ったほうが、人間関係が圧倒的にうまくいくしね。

でもそれでは当然、まちがいは減らないし、正解に近づいていくこともできない。

前に進むためには、相手の意見を疑ったり、確かめたり、誤りを指摘したりしなきゃいけないこともあるのだ。

 

改めて書くが、「まちがいだとわかる」ことには、とても価値がある。

だから、まちがった人が恥じる必要はないし、まちがいを指摘するのに遠慮や罪悪感はいらない(言い方は考えるべきだけど)。

 

「失敗によってデータが増えたね!」「やっぱり正しかったからこの路線で進めよう!」と、「正しいかどうか」に囚われず、協力して進んでいけばいいのだ。

それが、わたしたちに必要な、「科学的思考」なのだろう。

 

<参考>

*1 内閣府「Society 5.0の実現に向けた教育・人材育成に関する政策パッケージ(素案)」p15

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by Volodymyr Hryshchenko