普通なんてつまらない、他の者とは違う人生を歩みたいーー。
誰しも若い頃は、心のどこかでそんな思いを抱く。
ところが社会にもまれて生きていくうち、大半の人々は己が特別な存在ではないことに否応なしに気付かされることになる。
そこで自意識に折り合いをつける人もいれば、他者の輝きを横目に「いつかは自分も」と奮起する人もいるだろう。
また、「自分の価値を認めない周りが悪い」などといったように、心の不審火をくすぶらせる方もいる。
しかし、現実には誰もが自分だけの価値を持つ者、つまり万人にとって特別な人間になれるとは限らない。
この厳然たる事実に、果たしてどう向き合うべきかというのが今回のテーマだ。
あまりに物分りが良すぎて「まあ、そんなもんっすよね」とスンナリ受け入れてしまうのでは、成長につながらない。
だからといって、平凡な人生のレールから無理してはみ出て傷ついたり、悩みすぎて壊れてしまうのもよろしくない。
では、具体的にどうすればよいのか。
いかなるメンタリティーで己の人生に向き合うべきか。
不特定多数に向けて輝こうとする前に
「よそはよそ、うちはうち。」
今どきの親がそんなふうに子を戒めるかどうかは知らないが、少なくとも筆者はこの言葉で繰り返し諭され、反発を覚えながらも育ってきた。
他人と比べて何になる、それより置かれた場所で咲きなさいというわけだが、そうは言っても人間のサガとして、つい比較せずにはいられない。
そういうドグマから解放されるまでには、人にもよるだろうが多くの試行錯誤や挫折、そして時間を必要とする。
若いうちは常に他人を意識し、同時に周りの人間も自分のことを比較対象として見ているに違いないと思い込む。
それが原因で、少なくない青年はさまざまなコンプレックスに悩んだりするわけで、平凡な自己への嫌悪も、その一種と言っていいだろう。
ところが、歳を重ねるにつれ、徐々に気づいてしまう。
実は、誰も自分のことなんて、それほど気に留めていないという事実に。
相手の人生を一つの劇と考えると、その中での自分の役どころは「村人1」といったところ。
たとえ視界に入っていても、何ら意識されない存在に過ぎないという事実を知ってしまうのである。
脚光を浴びるのは、一握りの特別な人々のみ。
それが我慢ならないなら、自分が抜きん出た存在になるしかないが、実力や才能が伴わないままこれに本気で取り組むと、無残な結末となる。
結局、人の世には努力だけでは埋められない天分というものが存在し、それどころか才能を持ちながらも運に恵まれず、日の当たらない人生を送る場合もある。
むろん、決して努力の意義を否定するものではないし、人生頑張ってナンボだと筆者も思う。
だからといって「努力が全て」などと言って夢見る若者の背中を推しまくるのは、やや無責任ではないかと感じるわけだ。
では、とりたてて秀でたものを持っていない者が、その他大勢ではない特別な人間になろうとすることは間違いなのだろうか。
人は、分不相応な夢を見てはいけないのか
この問いに対し、退屈な人間代表を自認する筆者は、次のように提案したい。
「万人に対してではなく、誰かにとって特別な存在になることを目指すべき」
誰もが羨望を覚えるような輝きは放てなくても、特定の誰かに必要とされた時、キラリと光る何かを持てるようになること。
それだって簡単ではないけれど、少なくとも「他の誰も持ち得ない自分だけの価値」なんていう壮大なものを追いかけるより、よほど地に足がついているし、実現の可能性も十分ある。
これが、仕事の中で己の限界を嫌というほど感じ、あまりにもつまらない自分の生き方を嫌悪した果てにたどり着いた、筆者なりの考え方である。
大事なのは誰かにとってかけがえのない存在になること
そもそも今は、何者かになろうとする若者にとって、ある意味残酷な時代であると思う。
かつては他者と比べるといっても、その対象はせいぜい身の回りにいる人間と、あとはメディアの中で活躍する人々くらいのものだった。
ところが現在は、SNSをテキトーに開けば、何やらキラキラ輝いている人たちの一挙一動が無数に視界に入ってくる。
もちろん中には虚構の自分を演出している者も一定程度混じっているし、SNSの中で煌めいているからといって、その方の人生が幸福に満ちているとは限らない。
と言うか、そもそも冷静に考えれば、この人たちは自分にとって紛れもなく赤の他人。
そんなのと己を比べて何になるーーというのは確かに正論だが、それでも目にすれば大なり小なり意識してしまうのが人間というものだ。
筆者も経験のあることだが、特に同じ業界や生活圏に暮らしている人や、はたまた同じ目標を追っている人のうち、成功者やリアル充実な方のアカウントを見ていると、「それにひきかえ私ときたら」という思いを抱きがちである。
例えば、自分が暮らす中国では、在中邦人同士の無意識のマウント合戦がある。
大陸生活数十年、ほとんど現地に同化しているような突き抜けたお方は、そういうものにまず加わらない。
バトル参加者は多くの場合、海外に暮らしながらも日本の感覚を引きずっている人々で、上を見ては歯噛みをし、下を見ては愉悦に浸る。
とは言っても日本人なので、そんな思いをあからさまに表現したりはしない(する人もいるが)。
だが、ダンナの海外出向についてきた駐妻さんなどの間では、時として住んでいるマンションのグレードや夫の海外手当の額など、果てしなくどうでもいいことでヒエラルキーが構築される。
また、海外起業界隈のバトルもなかなか熾烈で、しっかり成功を掴んでいる方は我関せずだが、微妙な人ほど「誰それを知ってる」的な話をしたり、SNSの投稿を虚構の輝きに満たそうとしたりする。
そこで私見を言わせていただくと、そういうものに引っ張られそうになった時は、やはり己の人生を劇に例えて考えるとよい。
あなたの人生は、自分が主役。
その劇中で、SNSを通じて見る人々が果たしてどういう役どころかといえば、よく言っても「通行人A」、実際には舞台の背景程度のものでしかないことに気づけるはずだ。
ネットの中にいる誰かがいくら輝いていようが、それは舞台照明がまぶしい程度の話。
あなたが主役の劇、つまり人生にとって本質的な意味はない。
そこに張り合おうとして、万人に意識される存在になろうとするのは徒労とまでは言わないが、より大事なことを見失う可能性がある。
むしろ、いま自分が置かれている場所でいかに価値ある存在となれるか、現実世界で交流のある人々にとって大事な人となれるかの方が圧倒的に重要だ。
でもそれって普通すぎるのではという考えには、筆者は断固として反論したい。
事実、世の中には誰にも意識されず、大して必要ともされない方だって、ごまんといる。
何人か、いやたとえこの世にたった1人であっても、自分を求めてくれる者がいるのならば、間違いなくあなたはかけがえのない存在である。
そういう人間関係を築けたなら、平凡であると思い悩む必要などない。
少なくとも誰かにとって、あなたは普通ではなく、特別な存在なのだから。
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【プロフィール】
御堂筋あかり
スポーツ新聞記者、出版社勤務を経て現在は中国にて編集・ライターおよび翻訳業を営む。趣味は中国の戦跡巡り。
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Photo by Dick Thomas Johnson