あまり良いことではないのだが、人生で2回だけ、私は人に金を貸したことがある。
ひとりは30代後半の男性に10万円で、仕事での繋がりしかないただの知人だ。
「家族が急病になって、どうしても100万円必要なんです」
もっともらしいことを言うが、見え透いた嘘である。
彼が多重債務者で、あらゆるギャンブルにのめり込んでいることは皆が知っていた。
「わかりました、10万円だけ貸します。ただ、返すまでもう連絡してこないで下さい」
縁切り料だと割り切り、封筒を手渡した。
ねちゃっとした目尻を緩め封筒を受け取った彼の表情は、今も忘れようがない。
もう一人は30代前半の女性で、こちらは取引先の担当さんだった。
わけあって急に借金を抱え、生活が破綻し今すぐ30万円必要なのだという。
一生懸命に苦境を説明するが、話のつじつまが合わない事情を話す。
客観的に考えて、お人好しのチョロい兄ちゃんにたかろうと思ったのだろう。
「わかりました、10万円だけ貸します。ただ、返すまで担当を別の方に変えて下さい」
女性は悲しそうに封筒を受け取ると、翌月から別の担当さんが会社に来ることになった。
どう考えてもそれぞれ、悪意を持って私に近づいてきたことは間違いないだろう。
正直、だいぶ昔の話なのでなぜ貸そうと思ったのかすら、よく覚えていない。
しかしこの後に起こったことは、少し意外な展開だった。
100%死ぬ
話は変わるが、40代以上の人であれば1999年3月に発生した「能登半島沖不審船事件」について、記憶している人も多いのではないだろうか。
史上初めて自衛隊に「海上警備行動」が発令された、我が国の国防史に残る重大事件である。
この事件は、日本海近辺で北朝鮮のものと思われる活発な電波交信や船の動きが探知されたことから始まる。
当然のこと、海上自衛隊と海上保安庁は直ちに近辺の艦船と航空機を動員し、能登半島沖に急行した。
すると程なくして、漁船を偽装する明らかに不審な船を発見する。
漁具を積まず、また多くのアンテナが装備され船尾が観音開き構造というものだ。工作母船である。
つまりこの船には今まさに、多数の日本人が拉致されている可能性が高い。
想像してほしいのだが、女性や子どもを含む多くの人が目の前で、北朝鮮の船で連れ去られようとしている光景を目撃したら何を思うだろう。
この時、護衛艦「みょうこう」の航海長として不審船追尾を指揮していた海自の伊藤祐靖・1等海尉(当時)は、
「血液が逆流するような、どうにも抑えきれない激しい感情がわき起こった」(文春新書:国のために死ねるか)
と述懐しているが、偽らざる本音だろう。
しかしこの後、そんな感情とは裏腹な事実が次々に明らかになる。
世界屈指の性能を誇る最新鋭艦・みょうこうでも、漁船を装ったボロ船1隻すら止める手段がなかったのである。なぜか。
当時の思想では、護衛艦は他国との戦闘、つまり敵艦を撃沈するものとして役割が設計されていた。
そのためこのような不審船を強制的に停め、立入検査をする能力や装備など備えていなかったのである。
つまり今できることは、日本人もろとも工作船を木っ端微塵に破壊するか、警告射撃にビビって停船し言うことを聞くことを祈るか、指をくわえて見送ることしかなかったということだ。
しかし敵船を破壊することも、黙って見送ることもできるわけがない。
そのため「みょうこう」は、全速で逃走する敵船前方50mの海面に127mm炸裂砲弾を何発も撃ち込む。
なおこの炸裂砲弾をこの距離に撃つなど、もはやギリギリの警告である。
実際にこの時、不審船の窓ガラスが粉々に砕け散る様子が、「みょうこう」から目撃されている。
そんなこともあるのだろう。
不審船はこの後、日本海の海上に停船をするのだがその瞬間、先の伊藤1尉は自分でも思いがけないことを呟いた。
「止まっちまった」(文春新書:国のために死ねるか)
繰り返しで恐縮だが、当時の海上自衛隊に敵船への立入検査能力など無い。
つまり停まったら停まったで、誤解を恐れずに言うと困るのである。
しかし敵が停まった今、乗り移り制圧しなければならない。
フル武装した工作員が待ち構える敵船に、防弾チョッキすら装備せず、ロクに拳銃を触ったこともない”選抜チーム”で乗り込んで制圧戦を挑むのである。
加えて北朝鮮の工作船は、追い詰められたら自爆するのが常套手段だったので、移乗した自衛官は100%死ぬ。
この時、艦の食堂に集められた寄せ集めの出撃メンバーの中には、防弾チョッキ代わりに「少年マガジン」を、体にグルグル巻きにしていた者すらいたそうだ。
それほどに無策な出撃が今まさに始まろうとしている時、伊藤1尉はこう思ったという。
「彼らを、政治家なんぞの命令でいかせたくない」(文春新書:国のために死ねるか)
しかし立入検査を開始しようとしたまさにその時、北朝鮮の工作船は不具合が修正されたのか、再び全速で北上を開始する。
そしてそのまま取り逃がしてしまい、結果として作戦は中止された。
もしあのまま突入が実施されていれば、自衛隊史上初となる戦死者が出ていたことは、確実だっただろう。
この事件では、実はこれほどまでにムチャな命令が実行されようとしていたということである。
自衛隊は確かに、世界に誇る精強さと規律・装備を備えている。
しかしそれでもなお、小さな工作船の活動すら阻止できず、多くの日本人が最新鋭艦の目の前で連れ去られた。
歴史に残るこの重大な事件から私たちが学ぶべき教訓は、余りにも多い。
「あなたの上司は尊敬できるリーダーですか?」
話は冒頭の、お金を貸した二人とのその後についてだ。
ギャンブル狂の男性は1年ほど後に再び現れると、私にこんな事を言った。
「家族の治療ですがあと30万円あれば治るようです。なんとかあと30万円だけ、助けて貰えないでしょうか」
当然断るが、最後には人殺しだの恩知らずだの罵詈雑言を吐きイスを蹴って、喫茶店のコーヒー代すら払わずに出ていった。
その後、勤務先で無断欠勤が続き、連絡が取れなくなったので解雇されたと聞いている。身の丈に合わない私利私欲に狂った人間の、典型的な末路だろう。
10万円は結局、1円も返ってこなかった。
一方で、取引先の女性についてだ。
「お世話になりました。10万円と、僅かばかりのお礼です。また今日から担当させて下さい」
「大丈夫なのですか、もう落ち着かれたのですか?」
2ヶ月後に来た女性は、副業を重ね生活を立て直しつつあると言った。
そして借金については、本当は父親が急逝し残した負債を抱え込んだことが原因だったと説明する。
同情されたくないので、適当な話を作ったのだという。
「立ち入ったことをアドバイスするようですが、相続放棄という選択肢もあるのではないでしょうか」
「娘としてのプライドです。この世に借金を残したままでは、父の名誉にかかわります」
「気持ちはわかりますが、お父さんが本当に願っているのは借金の清算ではなく、あなたの幸せではないでしょうか」
「…」
「どうするかはともかく、一度知人の弁護士を紹介します。頑張るのはそれからでも遅くないはずです」
その後、彼女がどうしたのかは知らない。
しかし今まで以上に頑張る姿を見せてくれていたので、きっとうまくいったのだろう。
お金を貸して良かったとは思わないが、良い結果になったであろうことは嬉しく思っている。
そして話は、能登半島沖不審船事件についてだ。
あの極限の環境下で、航海長として指揮を執った伊藤1尉はなぜ、
「彼らを、政治家なんぞの命令でいかせたくない」
と思ったのか。
それは私利私欲しか考えておらず、公益のために生きていると思えない政治家たちの失策のツケを若い命で埋め合わせるなど、間違っていると考えたからだった。
自衛隊イラク派遣の際、第2次隊長を務めた田浦正人・元陸将にお会いした時には、こんなお話を聞いたことがある。
「桃野さん、自衛隊イラク派遣の際、宿営地には多数のロケット弾が撃ち込まれました。その時、中央からどんな指示が来たと思いますか?」
「なんでしょう、想像もつきません」
「自衛隊になにかあったら政権が吹っ飛ぶ。相手の要求をすべて飲め、です」
「え?でもそんなことしたらミサイルを撃ち込むことが利益になるので、余計に自衛官に危険が及ぶのでは…」
「はい。しかし残念ながら、これが日本のリーダーなのです」
能登半島沖不審船事件にしろイラク派遣にしろ、私には政治家というリーダーの姿は、10万円を踏み倒して逃げた男性の姿に重なる。
そしてムチャな環境の中、理不尽な命令にも義務を果たそうとした自衛官の姿は、取引先の女性に重なる。
公益に関心がない輩がリーダーになり、社会や組織に義務を果たそうとする誠実な人間の願いを悪用する構図になっているからだ。
なぜそんな事になっているのか。
それはひとえに、日本では教育のすべての段階で、まともな「リーダー論」を誰も学んでいないからに他ならないだろう。
これは政治家に限らず、一般企業でも同じことだ。
「あなたの上司・社長は尊敬できるリーダーですか?」
というアンケートを日本中の会社で集めたら、きっと悲惨な結果になるのではないだろうか。
いろいろな考え方があると思うが、リーダーが持つべき最低限の素養は、
「組織や部下への奉仕」
という願いを持ち合わせることだと、確信している。
それがない者は10万円を借り逃げした男性と同じで、間違っても、リーダーになどなってはならない。
ぜひ、リーダーと呼ばれる立場にある人にはそんなことを考えてほしいと願っている。
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【プロフィール】
桃野泰徳
大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。
先日、目を閉じて揚げ物当てクイズをしたのですが、ホタテフライをイワシフライと言ってしまいました。
もう二度とグルメ気取りなどいたしません。
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Photo by:Official U.S. Navy Page