今日のテーマはこちらです。
「敬語を使わない部下に敬語を強要するのはハラスメントか否か」。
言い方を変えれば、「言葉遣いの多様性はどの程度許容できる・されるべきか」。
多様性が正義とされ、その人がその人らしく生きられる社会が理想だといわれる現在。
そんななか、もしあなたの部下になった新入社員が敬語を使わない主義だったらどうしますか?
敬語を使わない主義のアルバイト、N君
大学生のときバイトしていた居酒屋のキッチンスタッフに、N君という、髪がぼさぼさで愛想のない同い年の男の子がいた。
初めて会ったとき、わたしは名乗ったのにN君は名乗らず、「よろしく」という挨拶もなくて面食らった。
後から入ってきた年上の人にもタメ口だし、店長のことも「〇〇君」と呼んでいて、なんだかヘンな人だなぁと思っていた(店長はバイトから社員になった人なので、N君以外の古参メンバーも「〇〇君」と呼んでいたが)。
人づてに聞いた話によると、彼は「尊敬する人にしか敬語を使わない主義」らしい。
だからその居酒屋にいる人全員に対してタメ口で、いくら忙しくともお客様に料理を運ぶこともしない。本部の人が来た時は、ペコリと頭を下げて奥に引っ込んでいるらしい。
……いや、なんだそれ。
どんな主義・主張があるかは知らないけど、ただ非常識なだけだぞ?
まぁわたしはフロアスタッフでN君と関わることがほぼないから、どうでもいいんだけどさ。どういう経緯で彼が採用されたかも知らないし。
でも「採用してみたら仕事に支障が出る主義・主張を持っていたら」と考えてみると、採用した側はきついよなぁ、と思う。
言葉遣いの多様性はどの程度認められるべきか
というわけで、もしあなたの部下が敬語を使わない主義だったらどうする?という、冒頭の質問である。
もちろん、そんな人に仕事は任せられない。
先輩たちから苦情がくるならまだかわいいもので、お客様に失礼があったら大変だ。……というか、タメ口の時点で100%失礼なので、客前に出せない。仕事に支障ありまくりである。
そんなワガママは困るわけだが、上司が部下に敬語を強要することは許されるのだろうか。
どういう根拠をもとに、敬語を強要していいのだろうか。それはパワハラなんじゃないだろうか。
もちろん、ビジネスの場で敬語を使うのは絶対的ルールだ。
でもそれを強要する根拠と権限がないかぎり、「本人の自由」という主張に反論するのはむずかしい。
「そもそも面接で落とす」というのはもっともだが、「トランスジェンダーだと伝えたら面接で落とされた」というのが大問題になる以上、「なぜトランスジェンダーの権利は守られるのに、言葉遣いの多様性は認められないのか」なんて言われたら?
それとこれとは全然話がちがうとは思いつつも、降参だ。
「敬語を強要されることでストレスを感じる人もいるんだから配慮すべき」という主張に対し、それを論理的に否定できる自信がない。
性自認の多様性、髪色やスーツ・化粧のような見た目の多様性、働き方の多様性、家族の多様性……。
いろんなかたちの多様性がある。
そしてそれを認めることが社会正義であり、選択肢が多ければ多いほどわたしたちは自由で幸せだといわれる。
じゃあ、言葉遣いは?
言葉遣いの多様性は、どの程度認められるんだろうか?
言葉遣いは「その人らしさ」を表す大切な要素
わたしは女にしては荒っぽい言葉を使うほうだが、それは小学生のころ、男子と同じように「お前ふざけんなよ!」と言ったらわたしだけ注意されたことがきっかけだった。
女だって、男と同じように話したっていいだろ。それがダメなら男でもその言葉遣いはダメじゃないか。
いまでもそう思っているから、積極的に「女らしい言葉遣い」はしない。
また、わたしは一緒にいる人の言葉遣いの影響を受けやすい。
香川県に引っ越したときは家族で唯一讃岐弁を話していたし、いまも夫の出身地の方言がたまに出る。わたし自身はそこに住んだことがないのに。
きっとわたしは、言葉遣いを似せることで仲間意識を強く感じるタイプなのだろう。
男子と同じように話したかったのも、男友達が多いから同じように振る舞いたかったのかもしれない。
とまぁこんな感じで、言葉遣いというのは、その人の価値観やこれまで歩んできた人生、他人との関係の作り方、相手をどう扱いたいか、自分がどう見られたいか、などさまざまな要素に影響される。
いわば、「その人らしさ」がモロに出るのだ。
だから、「言葉遣いを自分で選択して自分を表現したい」というのは当たり前の欲求である。
でもその表現方法が、「全員に一律タメ口」だったら?
それは多様性として受け入れるべきなんだろうか?
きっと多くの人は、「それはさすがに非常識だ」と答えるだろう。
でもその常識こそが古い、その常識こそが多様性の邪魔なんだ、と言われたら?
固定概念である常識と、秩序として存在する常識
改めて考えると、常識には2つの側面がある。
ひとつめは、「こうあるべき」という固定概念。
日本人なら黒髪であるべき、女ならスカートをはくべき、結婚したら同じ姓にすべき、といった考えだ。
これらは時代の変化とともに変わっていくもので、いまや地毛を黒染させるのは体罰だし、性別関係なく制服を選べる学校も増えているし、夫婦別姓への賛成者もたくさんいる。
一昔前では考えられなかったことだが、固定概念という意味での常識は、結構変わるものなのだ。
その一方で、赤の他人同士が同じ空間で過ごすためのルールとしての常識もある。
敬語を使う、順番を守る、時間に遅れない、のように秩序に関わるものだ。
これは、他人同士が関わって生活するという大前提が変わらない以上、固定概念のように大幅に変わることはないだろう。
いくら時代が変化したとしても、敬語そのものがなくなり、レジ列がなく早い者勝ちになり、みんな遅刻して当然……なんて未来は想像がつかない。
そして現在求められている多様性の多くは、固定概念に関することだ。
「こうあるべき、というけれど、そうじゃなくてもいいよね。その人らしく生きられるほうがいいよね」と。
しかしもしその多様性の要求が、秩序にまで及んだら?
固定概念を今の時代の価値観にバージョンアップするのと、多くの人の利益のために存在する秩序を作りなおすのは、同じ「多様性の尊重」でもまったくちがう話だ。
いろんな人がいるからといって、みんな時間を守らなくなったら、社会が成り立たないから。
多様性の尊重と秩序は両立するのか
さて、話を「言葉遣いの多様性」に戻そう。
わたしはお互いを尊重するという意味で、敬語は使うべき派だ。まぁ相手がタメ口主義っていうんなら、印象は悪いけど勝手にすれば?とは思うけど、仲良くしたくはない。
とはいえ、仕事となれば話は別。お客様の前で敬語を使えない社員なんて、どう扱えばいいかわからない。
しかし「敬語を使わない部下に敬語を強要していいのか」と聞かれたら、答えは「ノー」。だって、敬語を強要する根拠と権利がないもの。でもだからって、タメ口を認めるのも非現実的。
その人らしくあるために、本人が望む言葉遣いを認めるべきか。
それとも、礼儀やマナーを理由に言葉遣いの多様性を否定するのか。
「固定概念を今の時代に適応させる」という意味での多様性であれば、その多くを許容できるし、理解したいと思う。
しかし「秩序の再創造」となると、受け入れられないことも増えてくる。
歌舞伎町のジェンダーレストイレが4か月で廃止されたり、世界陸連がトランス女性選手の女性競技参加を禁止したりしたように。
敬語は医学的・生物学的な話ではないから同列には語れないにせよ、多様性と秩序は、どうしても両立がむずかしい場面が存在する。
学校の先生が生徒を「〇〇君」「〇〇ちゃん」ではなく一律「〇〇さん」と呼ぶようになったのも、「生徒の個性に合った呼び方をしよう」という多様性よりも、「年齢や性別に関わらず敬意をもとう」という秩序を優先した結果だし。
というわけで多様性の議論が「個人の自由の保証」から「社会全般の秩序の再創造」にまで及んだら、結局「マイノリティを黙殺して既存ルールを保持し、大多数の利益を守る」という多様性全否定の結論になっちゃいそうだなぁ、なんて思うわけである。
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(文責-ティネクト株式会社 取締役 倉増京平)
【著者プロフィール】
名前:雨宮紫苑
91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&
ハロプロとアニメが好きだけど、
著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)
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