今日はロールプレイングゲーム『真・女神転生』について書く。

なぜなら、この作品は1990年代を懐かしむのに適しているのはもちろん、2025年の日本社会や世界情勢を連想しながらプレイするにも、約30年の時代の流れに思いを馳せるにも向いていると感じられたからだ。

 

はじめに:『真・女神転生』とは

『真・女神転生』は国産ロールプレイングゲームとしては名前の通ったほうだと思う。

本作品は1992年10月にスーパーファミコン版として発売された。

世界じゅうの悪魔や神々を仲魔にしていくゲームシステムを確立したファミコン版『女神転生』や、核戦争後の世界で銃をぶっぱなす『女神転生2』も名作だったが、三作目として発売された『真・女神転生』は、スーパーファミコンらしいグラフィックと凝ったマルチエンディングシステムを備えた新作として登場した。

悪魔や神々を仲間にするアイデアは、ビックリマンチョコの時代からあったから、『女神転生』シリーズが元祖とは言えない。

しかし、そうした神話の存在を率いて戦うゲームとして知られ、日本のユースカルチャーシーンに北欧やケルトやインドの神々の名前を広めた作品のひとつとして『女神転生』シリーズを挙げないのはおかしいだろう。

人気ソーシャルゲーム『Fate/Grand Order (FGO)』に登場するテスカトリポカやケツアルコアトルといったアメリカ大陸の神々も、『真・女神転生』には既に登場している。

『FGO』に登場するサーヴァントたちに設定されている、「秩序ー混沌」「善ー悪」という二軸によるアライメント属性も、この手のゲームのなかでは『真・女神転生』が最初ではないだろうか。

本作品ではプレイヤーの選択によって主人公のアライメント属性が秩序~混沌の間で揺れ動き、アライメント属性に応じてストーリーも変化し、エンディングも変わる。

秩序を司るメシア教徒や天使たちに味方するのか、混沌を司るガイア教徒や鬼神たちに味方するのか。それとも中立中庸を目指すのか?

 

今となっては、この程度のマルチエンディングは珍しくもないかもしれないが、当時としてはよくできたストーリー分岐で、しかも選んだアライメント属性によって仲間にできる悪魔や神々も変わり、プレイ感覚が変わる感触がとても良かったと記憶している。

 

3Dの迷路がちょっと手ごわいかもしれないが、攻略本や攻略サイトがあれば十分に対応できる。名作と言っても言い過ぎではないんじゃないだろうか。

 

1990年代前半という時代と『真・女神転生』

2025年現在、この『真・女神転生』は、ニンテンドースイッチのオンライン契約で勝手についてくる「スーパーファミコンNintendo Classics」を利用すれば無料でプレイできる。

そういう意味では遊びやすい作品だが、本作品のある部分に関しては、もう二度と再現できない。

 

それは1990年代前半という「時代」だ。

 

『真・女神転生』という作品は1990年代前半の気分に沿ってつくられている。それは冷戦の緊張さめやらぬ世紀末の気分、そして終末思想が流行った時代の気分だった。

世紀末を描いた有名な作品としては、たとえば漫画『北斗の拳』がある。

「199X年、地球は核の炎に包まれた!」から始まる『北斗の拳』は、1980年代の、綺羅星のごとき週刊少年ジャンプ作品群のひとつだった。『AKIRA』の映画版が1988年、『ターミネーター2』が1991年と、この時代は核戦争後や第三次世界大戦後の世界を描いたヒット作が次々に登場している。

 

1992年にリリースされた『真・女神転生』でも199X年に大破壊イベントが発生し、物語は荒廃した東京を舞台に進んでいくことになる。そうした作品が作られ、大ヒットするコンテキストのなかで本作品が誕生したとみるべきだろう。

この時代には終末思想が一種の流行になっていて、これもサブカルチャーの世界に話題を提供していた。あのオウム真理教も、そうしたサブカルチャーの話題のひとつとして注目を集めていった一面がある。

 

オウム真理教は1990年の国政選挙に打って出て完敗を喫した。

しかしオウム真理教はその後もマスメディアや世間を騒がし、ハルマゲドンだなんだと不安を煽り続けていた。

私自身にとって、オウム真理教はテレビの向こうの笑って済ませられる存在ではなかった。なぜなら私の大学時代には学内にオウム真理教のシンパとして知られるサークルが存在し、学生のあいだではきわめて危険と認識されていたからだ。

 

その認識は、後に1994年の松本サリン事件、さらに1995年の地下鉄サリン事件をとおして正しかったと証明されていく。

 

ちなみに私は、その頃に生まれてはじめて上京している。東京の第一印象としてよく覚えているのは、サブカルチャーの文物の圧倒的な質・量と、悪臭が漂いドブネズミが我が物顔で歩き回っている駅前ロータリー、ひりつく渋谷センター街、テレクラの広告だらけの電話ボックス、うまくない米と硬い肉でつくられた牛丼、等々だった。

 

山手線の中吊り広告は21世紀のそれより猥雑で、世界の終末やノストラダムスの大予言についての特集記事をしばしば見かけた。たまたま、園子温監督の「東京ガガガ」というパフォーマンスに出会って驚いたこともある。それらを見た私は、「東京って、やっぱり終末っぽいなぁ」という思いを強めたものである。

『真・女神転生』ではゲーム中盤に大破壊というイベントが発生し、東京は崩壊する。

その大破壊後の世界で目を覚ました主人公を出迎えるのは、その名も「崩壊」というタイトルの5分の4拍子のBGMだ。この変則的リズムに不意打ちされた直後、手持ちの日本円が紙クズになったことを告げるイベントが発生し、プレイヤーは魑魅魍魎のうろつく瓦礫の世界に放り出される。

 

この演出のインパクトと田舎者の私にとって異世界過ぎる1990年代の東京のインパクトが重なった結果、今でも私はgoogleマップを見ながら富士そばを探す時や路線バスを使って知らない場所を移動する時、このB5分の4拍子のBGMを思い出す。

 

私にとっての東京は今でも5分の4拍子の街だ。果てしなく広くて、荒涼としていて、魑魅魍魎が蠢いていて……。

 

2025年という時代と『真・女神転生』

思い出話はここまでにしよう。

2025年のある日、私は『真・女神転生』をむしょうにプレイしたくなった。数年前、ニンテンドースイッチでダウンロード可能になった頃は見向きもしなかった本作を、今、リプレイしてみたくなったのだ。それはなぜだろう?

 

本作品にはユリコという謎の女が登場し、東京都庁で処刑イベントをやるなど暗躍している。

これは、2025年に『真・女神転生』をリプレイすると偶然の一致に驚くところだ。が、それはともかく、本作品に詳しい人なら、2025年に遊びたくなる気持ちはわかってもらえるんじゃないだろうか。

 

それは、現実世界のほうが再び『真・女神転生』の世界に近づいてきたからだ。

さきほど触れたように、『真・女神転生』のストーリーは秩序を司るメシア教徒に味方するのか、混沌を司るガイア教徒に味方するのかによって大きく変わる。

前者はキリスト教をモチーフにしているように見え、後者は秩序への反抗や日本の伝統の復活を望むグループをモチーフにしているように見える。作中では、前者のしもべとして「メシア教徒 狂信者」などが、後者のしもべとして「ガイア教徒 特攻隊」や「ガイア教徒 処刑ライダー」などが登場する。

 

冷戦が終結し、ノストラダムスの大予言もはずれ、終わりなき日常をまったり生きる21世紀が始まった頃、『真・女神転生』とそこで描かれるメシア教徒とガイア教徒の争いはいかにも時代遅れに感じられた。

アメリカ同時多発テロ事件やイラク戦争が示していたように、実際には日本のずっと向こうでは終わりなき日常を侵食する波音が聞こえ始めていたのだけど、そうした波音は身近な問題ではなく、他人事の世界の問題だった。

 

この「他人事の世界の問題」という意識は、2020年代まで私のなかでは持続していたと思う。

ところが2020年にはコロナ禍が起こり、あちこちで戦争が始まり、トランプ政権の二期目が始まった。それらに関連するさまざまな報道が流れ、フェイクニュースが飛び交い、円安が進行した。

 

気が付けば、日本も秩序と混沌……ではないとしても、既存の秩序とそれに対する反発がぶつかりあう思想の戦場になっていた。

思想の戦場化は世界のどこにでもみられるものであると同時に、それぞれのお国事情によって少しずつ色彩が異なっている。

私の見るところ、日本ではグローバル資本主義に根差した秩序を守っていきたい陣営(または思想)と、その既存の秩序に多かれ少なかれ反抗心を持ち日本の伝統に親和的な陣営(または思想)、という構図が目立つようにみえる。

私には、その構図から『真・女神転生』のメシア教徒とガイア教徒を連想せずにいられない。

作中のメシア教徒は、博愛精神や奉仕の精神を持つ反面、正義や美徳の名のもとに統治を押し付け、異教徒の命をなんとも思っていない勢力として描かれている。

 

対するガイア教徒は、そのメシア教徒を批判する抵抗勢力であるだけでなく、秩序を破壊し、混沌を広め、弱者が死ぬことを当然のこととみなす酷薄な勢力として描かれている。

 

それらの姿から、いまどきの押し付けがましい思想や酷薄な思想を思い出すのは簡単だ。というより、いまどきの押し付けがましい思想や酷薄な思想を眺めているうちに私は『真・女神転生』のことを思い出し、リプレイせずにいられなくなったのだろう。

 

中立・中庸の道とは……

そういうわけで、約30年ぶりにプレイする『真・女神転生』で私が選んだのは、当然、中立・中庸ルートだった。メシア教徒にはついていけない。さりとてガイア教徒も滅茶苦茶過ぎる。それならどちらにもつかず、真ん中を行くしかないではないか。

 

学生時代にプレイした頃は、この中立・中庸ルートを選ぶのがかなり難しく、てこずった記憶がある。

メシア教徒側にも転ばず、ガイア教徒側にも転ばないためには独特のフラグ管理が必要で、ありていに言えばどちらの勢力からも嫌われるような立ち回りが求められる。だが現在はインターネット上の攻略サイトを参照できるので、中立・中庸ルートを選択するのはそこまで難しくなかった。

 

問題はその中身である。押し付けがましく偉そうなメシア教徒と、無慈悲でカビ臭いガイア教徒の両方を否定するのはいい。しかし実際に中立中庸の道を歩むための方法は、両方の勢力を殴ってまわる道なのである。ミカエルもガブリエルもアスタロトも阿修羅王も、全部倒してしまえばよろしい。

 

上掲スクリーンショットのように、中立中庸ルートのエンディングには太上老君が登場し、もっともらしいことを述べる。

だが、そのためにプレイヤーがやったことといえば、のべつまくなしに神々を倒してまわり、否定してまわっただけではないか。

 

2025年に『真・女神転生』をリプレイして新たに感じたことのひとつは、全員ぶっ潰して回れるなら苦労しないよね、というものだ。

今日の日本を見ても世界全体を見ても、あらゆる勢力のあらゆるボスキャラを潰して回れるようなプレイヤーは存在しない。子どもがスーパーフアミコンでロールプレイングゲームを遊ぶにあたっては、この中立中庸ルートは痛快で、最もヒロイックなエンディングだろう。

 

しかし擦れた中年になってしまった今の私には、これが最も現実離れに見えてしまう。万が一、そんなプレイヤーが現れそうな気配が生じようものなら、既存の勢力は絶対に放っておかない。

成長しないうちに葬ってしまうか、抱き込んで飼いならしてしまうか。後者の場合、メシア教徒の狂信者やガイア教徒の特攻隊のように、駒として利用されるだろう。

 

それからもうひとつ、本作には憎しみの連鎖、という要素が欠落しているの、とも感じた。

メシア教徒やガイア教徒になぞらえたくなる既存の勢力、あるいは世界各地で具現化しているコンフリクトの背景には、歳月や世代をこえて連鎖する憎しみの感情がある。

何かを倒す・誰かを殺すという行為は、憎しみや恨みを生み出す。何かを選ぶという行為すらそうかもしれない。そうした憎しみの感情とその連鎖について、本作は驚くほど無神経、または無反省である。

 

ただし、レトロゲームとしての本作を振り返るにあたり、その無神経さや無反省さは決して悪いものではない。むしろ好ましいとさえ感じる。なぜならこの無神経さや無反省さは、終末思想とならんで1990年代前半の日本の気分に忠実なものだからだ。

 

もし本作が2020年代に作られたなら、こんな風には作れまい。今、純粋な善とも悪とも言いきれない思想勢力のせめぎあいを題材にした作品を作れば、ゲームといえども現実に巻き込まれ、どこかビターな描写になるか、優等生的な描写になるだろう。ちょうど、オープンワールドRPGの金字塔である『Skyrim』の世界がそうだったように。

 

しかし、中立中庸ルートに限らず、本作は全体として憎しみの連鎖や感情に対してイノセントだ。こう言ってはなんだが、当時の日本人が湾岸戦争を眺めてさえずっていた反戦ソングに通じるものがある。それを醜悪と呼んでしまうのは簡単だが、しかし当時の日本が享受していた平和な気分とは、そのようなものだったのである。

『真・女神転生』がリリースされた1992年の日本はそういう気分に包まれていたし、その幸福さ加減、そのおめでたさ加減が本作品にもしっかり刻印されている。

 

1990年代を振り返るにも、今という時代を考えるにも

本作 『真女神転生』は、現在はNintendo Switchで取り扱われており、インターネット上の攻略サイトも残っているほうなので、比較的簡単にリプレイできる。

 

1990年代の日本を思い出すにも、2020年代の日本や世界の状況をダブらせるのも面白い作品なので、この文章に背中を押された人は是非プレイしてみて欲しい。

この時代のロールプレイングゲームとしては傑作だし、当時のハードウェアの限界のなかで表現を追求していたさまも感じられるだろう。興味を抱いた人は、仲魔たちを引き連れて5分の4拍子の東京を駆け抜けてください。

 

 

 

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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