今更ながら映画の国宝をみた。
序盤は正直退屈だったが、中盤以降は予想を超える展開がどんどん続いていき、目が釘付けになってしまった。
この映画で最も印象的だったのが、人間国宝である万菊さんだ。彼のセリフは、一つ一つが実に重い。
例えば最初の登場シーンで主人公・喜久雄に言うセリフが凄い。
「喜久雄さんでしたっけ?ちょっと」
「ほんと、きれいなお顔だこと」
「でも、あれですよ、役者になるんだったら、そのお顔は邪魔も邪魔。いつか、そのお顔に自分が食われちまいますからね」
である。
最初にこのセリフを聞いた時には、あまりにも何をいいたいのかがサッパリわからず、当惑した。
「顔に自分が食われる?いったい何を言ってるんだ?」と、ずっと引っかかりを覚えていた。
しかし最後のシーンで、主人公の顔が実に深みを増し、インタビューでは言葉は少ないものの、顔で明らかに言葉以上のものを語るシーンをみてから、やっと「ああ、そういう事だったのか」と納得した。以下で考察を重ねていこう。
こいつらイケメンすぎて、何も面白くない
これは単に僕がイケメンの顔に全く興味が無いからなのかもしれないが、自分は最初にもう1人の主人公である俊介と、喜久雄をみた時、あまりにも両者の顔と雰囲気が似すぎていて区別がつけられなかった。
なんとなく気質の違いから見分けはつけられるのだが、顔だけみてると、どっちがどっちなのか、全然わからない。
そういう事もあって「コイツら、ぜんぜん面白くないなぁ」と、序盤は退屈であった。
それが急に面白さを感じるようになってきたのが俊介が歌舞伎から逃げ出し、8年もの歳月が過ぎてから帰ってきてからである。
帰ってきた俊介に対し、一座の人間は極めて誠実に対応をする。そうしてまた厳しい稽古が始まるのだが、そこで万菊さんが俊介に対して言い放つ言葉がまた凄い。
久しぶりの歌舞伎の稽古だったからか、あまり上手に演技ができなさそうな俊介に対して、万菊さんの指導は大変に厳しい。
僕は「そりゃそうだよなぁ。久しぶりの演技なんだろうし」と同情する中、万菊さんは唐突に俊介を突き刺すような一言を言い放つ。
「あなた、歌舞伎が憎くて憎くて仕方ないんでしょ」
上手な演技ができない俊介に対して、お前は歌舞伎を憎んでいるから、そんな程度の低い演技しかできないのだと言いたげな台詞である。
僕は「万菊さんはいい演技がしたいのなら、憎しみを乗り越えろとでもいうのかな?」と次の台詞を予測していたのだが、続く言葉が
「でもそれでいいの。それでもやるの。それでも毎日舞台に立つのがあたしたち役者なんでしょうよ」
で、僕は打ちのめされてしまった。
辛いことは乗り越えるもの。それでようやく、人になる
僕らは必死になってこの世の中を生きている。
世情は荒波に満ちており、心地よい時も確かにあるが、自分の思うように世の中が上手く運ばず、辛い日に合う事も多い。
そういう風に辛い目にあうと、つい
「なんでこんな嫌な思いをしてまで、頑張って生きなくちゃいけないんだろうなぁ」
とメランコリックな気持ちになる。あ
まりにも辛すぎる日々が続く時なんて、それこそ希死念慮を抱くまである。
言うまでもなく、辛い気持ち・死にたい気持ちというのは、決して消せるようなものではない。
ある程度の誤魔化しや緩和はできても、それでも問題の本質が解決しない限り、症状は改善しない。
あまりにも強靭で終わりが見えない暗黒の日々が続くと、それが永遠に続くような苦しみに感じられてしまう事もあるが、それでも淡々と日々を過ごしていくと、そういう日もいつか終わってしまう。
そして困難を乗り越えてから振り返ってみると、自分自身が確かに成長したなと感じるのである。それが人生というものだ。
そうやって何度も何度も厳しい試練を乗り越える度に、僕は自分の顔に独特のタフさが交じる事に最近気がついた。
なんていうか、いい顔つきになるのである。
コイツら、ちゃんといい顔になったなぁ
物語はその後、主人公の転落も入り混じりつつ、共に苦難を乗り越えた俊介と喜久雄が、再び東半コンビを結成し、大団円を迎える…ように見せかけて、再び思い通りには決していかない様相を呈していく。
この頃になると、役者の顔に明確に”差”がある。
俊介も喜久雄も、どちらも思ったとおりには決していかない人生を、異なる種類の困難とはいえ乗り越え、それでも毎日いい演技をするために舞台に立つ。
役者にとっての寿命は、舞台に立てなくなる日である。
俊介は、舞台を降りて養生すれば、もっと長く生きられただろう。
しかし、彼はそれこそ命がけで舞台に立つ。なぜなら、役者にとって、舞台に立たないという事は、生きる意味の喪失にも等しい事だからである。
別に僕はサディスティックな気質はないが、それでも俊介が苦悶にまみれた顔をしながら舞台に立つ姿をみて「ああ、いい顔してるな」と思わされてしまった。
そして冒頭にも書いた万菊さんの「役者になるんだったら、そのきれいなお顔は邪魔」という台詞が、ようやく自分の中で納得できてきた。
ああ、確かに…きれいな顔なんて保つ事だけ考えてたら、役者になんてなれないな…体裁だけ整えるようになっちゃったら、役者が役に、食われてしまうのだろう。
いい顔ができなくちゃ、生きてる意味もないわな
心穏やかに日々を過ごしたいという願いは、誰もが持っている。
しかし世の中はそう簡単ではない。誰かにとっての都合のいい展開は、誰かにとっての都合の悪い展開である。
欲望に満ちたこの世界において、自分に都合のいい展開ばかりが続くという事はありえない。
だから仏教ではそういう”執着”を手放し、何事も諸行無常であるのだからと、日々を淡々と過ごせと説く。
しかしこの話を聞く度に、僕は「じゃあ何で人はそもそも、生きなくてはならないのか?」とずっと疑問だった。
生きる意味とはそもそもなんなのか?それが見えない限り、仏教の高尚な教えは何の活用方法も無い。
脳内を快楽物質で埋め尽くすのが生の目的なのか?それとも権力を手にしてこの世を我が物とするのが生きる目的なのか?これが全然わからなくて、辛い思いを抱えている人は多いだろう。
生きる意味。この問いに万全たる回答は無い。しかしそれでも私達は産まれてきたのだから、何らかの意味が欲しい。
だが、このとても難しい深淵なる問いに対して、直接的な回答を作成する事は、とても難しい。
しかし間接的な回答ならどうだろうか?僕はその鍵は、やはり人の顔にあるように思う。
外来で日々診療し、病院を歩いていても、やはりそこには特有の見ていて気持ちのいい顔つきをしている人間というのは、やはりいる。
そういう気持ちのいい顔をした人間は、純粋な知性や能力のような指標では推し量れない何かが確かにある。
何らかの境地に到達した人間にしか作れない表情というのが、どうもあるのではないかと自分は感じている。
そこに至る事で初めて見える景色というのが、恐らくある。
映画・国宝で流れた最終シーンは、その一つのモチーフなのではないか?と自分は思っている。「あそこに何かがある」と俊介と喜久雄は舞台の奥を眺めて劇中で語っていたが、それが見えるのは、至った顔を作れたものだけなのだろう。
その風景がみえるようになった時、たぶん生の意味がようやく具体的な形で実感できるようになるのだと思う。
「歌舞伎が憎くて憎くて仕方ない。でも、それでいい。それでもやる。それでも毎日舞台に立つのが、役者である」
改めて、実に味わい深い台詞だなと思う。
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