自作の「100日行」をしていました
ふと修行をしたいと思い立ち、「100日行」なる計画を勝手に作って、勝手にはじめた。
以前から修行はしたいと思っていたのだけど、家庭も仕事もあって、それらを投げうって山奥にこもったりする勇気は全くなかった。
ところが、ちょっとしたきっかけもあり、ひょっとして修行は別に山奥にこもらなくてもできるのではと思いつき、勝手に修行の計画を作って取り組み始めたのである。
行の内容はシンプルで、毎日、事前に立てた問いに対して答え続けるだけ。
自分は何を手に入れたいのか。
どうなりたいのか。
そのために何が必要なのか。
…などなどの問いを100日分作って、毎日1つずつ答えていく。
ただそれらを自問自答し続けるだけなのだが、やっていくと、実はこれがすごくきついことがわかってきた。
普段はフタをして見ないようにしている自分の内面を、無理にでももう一度ちゃんと見ないといけなくなってくる。
おまけに、そうやって無防備な状態になっていても、日常生活は普通に続いている。
日常は危険に満ちている。
誰かに痛いところを注意されたり、自分で勝手にミスをしたり、あるいは誰かに対して自分がきつく言いすぎてしまったり、判断を迫られている時にちゃんと決められなかったり…。
どれだけ慎重に生活していたって、うまくいかないことはかならず起こる。
そんな中に無防備な状態で放り込まれるので、ちょっとしたことに対してもとても傷つきやすく、すぐに落ちこんだり腹が立ったりするようになる。
かなり危ない。
後になってから、そういった危険性についてはちゃんと事前に考慮して、注意しておくべきだったと思った。
ただまあ、やってみないとわからなかった、ともいえる。
そのあたりはこの記事の最後にまとめておこうと思う。
さて、100日行をはじめてから85日目までのできごとは、以下の記事に書いた。
ChatGPTを使って、100日間ひたすら修行に専念してみる。今85日目。
以前から、修行をしたい、とは思っていた。
100日間、ひたすら修行に専念したら、何かが変わるんじゃないだろうかと思う。ということは、ぼくは何かを変えたかったのだ。
それじゃ、100日経ったあと、何が起きたのか?
結論から言うと、特に何かが大きく変わったわけではない。
たしかに100日のあいだに、ぼくの内面では大きな動きがあり、とんでもなくしんどい日々が続いたり、そこから浮上して、これまで経験したことのないような晴れやかな気持ちになったりすることも体験した。
だからといって、ぼくの内面が大きく変わったという印象はない。
なんなら、これまでよりも簡単に腹を立てたり落ちこんだりしやすくなった気がする。
なんとなくのイメージとして、修行をしたら心が穏やかになって、何事にも動じなくなり、どんな困難に直面しても軽やかに乗り越えていける人間に生まれ変わることができるんじゃなかろうかと思っていたのだが、残念ながらそんな気配はまったくない。
それじゃあ、この自作の100日行は失敗だったのか?
自作だけに?
それについては現段階では、完全にイエスと言い切るのはちょっと早い気もしている。
たしかにぼくの中で何かが大きく変わったわけではないのだが、まったく何も変わっていないかと言えば、そうでもない。
もっと言うと、100日行を通して自分が「変わる」ことが本当に目的だったのか?とも思う。
いや、もちろん当初はそれが目的だったのだけれども、取り組んでいるうちに、どうもその目的自体が変わっていっているような気もするのである。
このあたりは、もう少し具体的な内容を振り返りながら考えてみようと思う。
はじめの100日間で起きたこと
はじめの100日間では、この行の内容を考えること自体がとても楽しかった。
十牛図という悟りを開くプロセスを十段階で説明しているものを参考にして、問いのテーマを10に分け、それぞれのテーマを10日間かけて答えていく、というものにした。
ぼくは本当は何をやりたいのか?どこへ向かうのか?それはなぜなのか?そして、それを実現するために何をする必要があるのか…?
そういった問いを考えることも楽しかったし、この問いに答え続けていくことで自分はどのように変化していくのだろう?ということを想像するのも楽しかった。
十牛図の八段階目は「人牛倶忘」といって、行の中で目指している目的を忘れてしまうだけでなく、自分自身のことも忘れてしまう段階だという。
いわゆる無我の境地なんだろうけれども、果たしてそんな境地に至ることができるのだろうか?とか、至ることができたらどんな気持ちなんだろうか?とか色々妄想しているのも楽しかった。
さて、そんな風に作りこんだ100の問いに対して向き合い続けてきた100日間。
たしかに修行というか試練と思えるようなことはいくつも起きた。
あまりにも何度も「自分がやりたいことは何か」ということを問いつめすぎて、そもそもやりたいことなんてないし、自分にはたいした野望も使命感もないし、だいたいそんな状態で生きていること自体が申し訳ない、周りはもっと一生懸命に生きているのに自分は本当にダメ人間だ、どうしようもない、というくらいに勝手に追いつめられてしまったりした。
まったく心の変容が起きないのに、次の段階に問いを進めるのが辛すぎて、かなり初期の問いに戻らざるをえないこともあった(それ自体ははじめから想定はしていたけど)。
ただまあ、どれだけ辛いことがあろうが、悲しいことがあろうが、日は進む。
これは100日行のとてもいいところだと思う。
何がどうなろうが、ちゃんと一日経てば、修行は一日分進むのである。
そして、無事に100日を迎えられたとき、どんなことが起きたか?
その時のぼくのメモがある。
・自然体、ありのまま。力を抜き、直感を信じる。思いこみを捨てる
・空っぽ、心の自由。開き直れば何でもできる
・愛の循環、惜しまずに与える、きっとそのうち還ってくる。10年後、20年後、あるいは100年後…
・この世界の答えを知っているのはぼくだけ。この世界の秘密を知っているのはぼくだけ
・他者に引っ張られず、自分の道を進んでいく
いま読み返してみると、ずいぶん他人に引っ張られることに苦しんでいたんだなあと思う。
これについては、100日行をはじめる前からずっと悩んできたことのように思う。
14年前にブログを書きはじめた時から。
あるいはもっと前から、他者の評価が人生の中心にあった。
広告会社のクリエイティブ局に配属されないとコピーライターの仕事はできないと思いこんでいたし、コピーを書きはじめてからも広告賞を獲らなければ良いクリエイターとして認められないと思っていたし、そもそもクリエイターとして「有名」になりたいと思っていた。
「有名」ということは、他者から知られること。
他者による認知状況に、自分自身の評価をあずけるということだ。
それじゃ、100日経って、ぼくは他者の評価から自由になれたのか?というと、そんなことは全くない。
ただ、それとどう関係があるのかわからないけれども、メモにもあるように「自然体」ということを意識するようになった気がする。
自然体とは何か。
なぜ自然ではなく自然「体」なのか。
まだよくわからない。
ただ、なぜか合気道だけは、もう長年やってきているのに、なぜかここにきてうまくなった。
力を抜いて、気楽な状態でやるだけでこんなに変わるのか、というくらいに変わった。
だけど、他は何も変わっていない。
仕事の中でうまく「自然体」を発揮することができたかというと、そんなこともない。
その程度の変化だ。
ただ100日間、自分に対して問い続けるという行は達成できたということで、晴れやかな気持ちにはなれた。
と同時に、このままやめてしまうのはもったいないなと思ったし、そこは無理してではなく、わりと自然な感じで、新たな100日間の問いを作りはじめたのだった。
101日目~200日目で起きたこと
101日目から200日目までの大きなテーマは「自分で答えをつくる」というものだった。
100日間で、ぼくはかなり他者の評価に引っ張られて生きてきて、それについて本気でなんとかしたいと思っていることがわかった。
だったら他者ではなく自分の軸を作ろう、自分の人生の答えを自分自身で作っていこう、と思ったのだ。
そこでぼくはどんどん新しい行動を起こしていった。
その結果、ほとんどが空回りで、何ひとつ仕事にもならなかったし、新しい成果も生み出さなかった。
チームメンバーともコミュニケーションがうまくいかなくてイライラしていた。
家庭でもいつもイライラしていて、すぐにカッとなったり、ネガティブな感情をうまく抑えられなくなってきた。
おまけに200日行の後半には家庭で問題が起きたり、合気道の師範が突然亡くなったりして、感情がめちゃくちゃになっていた。
当時の記録を読み返すと、それでもまだ仕事では何か新しい行動を起こし続けていて驚く。
たぶん、しんどいことから目をそらして、逃げていたのだろうけど、それにしてもあっちこっちに出かけたり、新しい人たちと出会ったり、なんとか状況を変えようと動いていた。
200日目のメモにはこんなことが書いてある。
・弱さ、葛藤、あるいはそれと格闘する自分を、自分の強みとして取りこむ
・弱さ、欲望との葛藤があるからこそ、アイデアを作れる。人々を惹きつけるサービスが作れる
・解脱しない
・超越しない
・逃げない
・悟らない
・達観しない
・苦や煩悩に留まって、苦くてしかし楽しい人生を味わい続けていく
201日目~300日目で起きたこと
ここからなぜすんなり300日行へと移れたのかはよくわからない。
ただ、自分の置かれた状況があまり良くなかったので、蜘蛛の糸でもなんでもいいので何かすがるものが必要だったのかもしれない。
「とにかく何かを続けている」「他のすべてはうまくいってなくても、これだけは続けることに成功している」という感覚が、よりどころになるのだろう。
なので、新しいテーマを考える余裕もなく、201日目から300日目も「自分で答えをつくる」は変わらず、ただ「さらなる実践」という言葉を付け加えた。
さて、この100日間はどうだったかというと、とにかく体調が悪い日が多かった。
熱を出して寝こんだ。
熱が引いても咳が止まらなくて、ずっと咳こんでいたら、今度は持病の腰痛が再発して、ちょうどそのタイミングで出張先でのワークショップをしなければいけなかったのだが、ずっと痛みをこらえながらやっていたのでほとんど記憶がない…。
腰痛がマシになったあとも、全身がだるかったり、眠気がおさまらなかったりして、やる気が出ない日が続いた。
仕事に関しては久しぶりに大きくてやりがいのあるプロジェクトを立ち上げることができ、それはとてもうれしかった。
また、それは「自分で答えをつくる」ということの実践に他ならないと思うし、ここまで試行錯誤してきた結果がようやく表に出てきた、ということなんだろう。
一方で、別の、わりと長く育ててきたプロジェクトについては完全にゼロからのやり直しとなってしまった。
その日がちょうど、300日目だった。
その日のメモ。
・なんと300日行の最後にまさかの最悪の日になる
・しかしまあ、これは次へのある意味、一番良いスタートだ
・どん底からのスタート
(今読み直すと、それはちょっと言い過ぎじゃないの?と思うけど、まあ当時はそんな気持ちだったのだろう)
301日目~400日目で起きたこと
さて、ここからが最新の100日間のできごとだ。
この100日間のテーマについては、こんな風なものだ。
〇テーマ:出し惜しまず、力を尽くす。透明になれる時間を増やしていく。
・ぼくが一番幸せと感じるのは、目の前のことにひたすら集中し夢中になっているとき
・その時間を少しでも多く作っていく
・これまで「自分が答えをつくる」と言ってきて、これは意識としては定着してきたと思う
・次はその答えを作るプロセス自体を、ぼくの人生の「答え」としていく
・いくら服を買ったり見た目を気にしたり評判を気にしたりしていても、そこには「答え」はない
・ただ目の前に集中して力を十二分に発揮できているとき、ぼくは満たされているし、自分のことをかっこいいと思えるし、これでいいと思える
今これを読み直すと、だいぶ気恥ずかしいというか、そこまで「自分が答えをつくる」意識が定着しているとは思えないし、まだ周りの評判を気にしているあたりが未練がましい。
それでも、だいぶ精度が上がってきているのではないかな、と思う。
というのも、ぼくが取り組むテーマは以下のように変化しているからだ。
・1日目~100日目:そもそも何を目指したいのか、それ自体を探す期間
・101日目~200日目:自分の軸を他者からの評価ではなく、自分自身へと戻しはじめる期間
・201日目~300日目:自分の軸をつくろうとして悪戦苦闘する期間
・301日目~:自分の軸をつくるということは「全力を尽くす(透明になる)」ことだという気づきを得つつある期間
特に、直近の100日間(301日目~400日目)は、「やりたいことの断捨離」に取り組んだ。
仕事では、取り組む領域をしぼりこんで、他の部分は自分以外のメンバーに託すことにした。
ぼくは全体を見つつも、基本的には自分のプロジェクトに集中できる体制に変えていった。
また、できるだけ集中力が失われない工夫をはじめた。
スマホからの通知を制限したり、特になくても困らないアプリを削除したりして、気がそれる要素を減らしていった。
アイデアを考える時間や企画書にまとめる時間を30分とか50分とか決めて、その時間内に完璧でなくてもいいのでとにかくやりきってしまう練習をはじめた。
そして400日たった今、何か変わったか?
狙いどおり「全力を尽くす」時間を増やすことができたのか?
…正直言って、よくわからない。
せっかく取り組む領域をしぼって集中しようとしても、他のメンバーからの相談に乗っているうちに日中に仕事ができる時間が終わってしまって、しかたなく夜中にこっそり企画をして睡眠不足になってしまう。
あるいはスマホの通知を制限しても、ついつい自分から見にいってしまう。
削除したはずのアプリはいつのまにか復活している(もちろんぼくがやったのだ)。
せっかく制限時間を決めて企画をつくっていても、ちょっと調べものをしようとブラウザを開いたりAIに質問したりするつもりだったのに、気がつくと全然違うことを考えはじめていたりする。
まあ、試行錯誤である。
ただ、400日経って思うこととして、あ、これは終わらないかもしれないな、ずっと続くことなのかもしれないな、という感覚がある。
冒頭にも書いたけれども、100日行としてこの「問い続ける」行をはじめたときは、100日経ったら何か大きな変化が自分の中に起きて、そこで修行は完了するのだと思っていた。
ところが実際は、まあたしかに色々な心の揺れや試練は経験したものの、そこまで大きな変化が起きたわけでもないし、「ああ、これで修行は終わったぞ」という感覚もあまりなかった。
だから、101日目が勝手にはじまったし、正直言って今も、ここまで続けてきてやめるのはもったいないな、という気持ちで続けているだけかもしれない。
だけど、それでいいじゃないか、とも思うのだ。
この行の素敵なところは、その日の問いにうまく答えることができなくても、一日はちゃんと終わるというところだ。
うまくいかないのなら、うまくいかなかったという記録を残して、また次の日の問いに取り組めばいい。
次の日がダメならまた次の日、それもダメならまた翌日。
行はずっと続く。
ぼくがあきらめない限り。
それって、人生と同じじゃない?
さて、ぼくが400日目にして思うことは、たったそれだけだ。
この行に特に意味がなくてもいいじゃないか、ただ無意味にでも続けていって、どこまで続くか見てみたいじゃないか。
そんな風に思っている。
もしこれからも行を続けていくのなら、取り組むテーマもどんどん変わっていくだろう。
今は人生の中の軸を自分のほうへと取り戻すことに苦心しているけれども、今後は反対に他者へと再びまなざしを向けていくこともあるかもしれない。
あるいはそれを行ったり来たりするのかもしれない。
そのあたりは全然わからない。
わからないけど、人生は続く。
あるいは続くことをうれしいと感じる。
いま感じているのは、そんなところだ。
行に取り組む際に注意したほうがいいと思うこと
最後に、この100日行あるいは「問い」の行に取り組むときに気をつけたほうがいいと思うことを並べておく。
前回の記事を読んでくれた方々の中で何名かの方が、ぼく宛に「自分も100日行に興味がある」「やってみようと思う」という連絡をくださっている。
そのたびに注意点をお伝えしているので、あらためてここに書いておこうと思う。
・少しでもしんどいな、辛いな、と思ったら、無理に問いに答えようとせず、その日はやめておく。
翌日もしんどいと感じたら、やっぱりやめておく。で、「今日は考えなかった」とか「しんどいのでやめておいた」とちゃんと記録しておけば、それだけで十分な行になると思っている。
ぼくは何度も、何も答えられない日を経験しているし、あまりにも今の自分の状況と問いが合っていないと感じたら、ためらいなく問いの内容を変更している。むしろ、その作業が特に中盤あたりでは大事になってくる気がしている。
この行はとにかく行ったり来たりだ。昨日まではものすごい変容を感じていた気がするのに、いきなり大ショックなできごとが起きたりする。あるいはまったくやる気の出ない低空飛行が何日も何日も続くことも普通だ。それらを素直に記録するだけでいい。あとで見返したときに、「うわーそれはしんどいよなあ…」とか「あーこのときの経験がここに活きてきたのかなあ…うーんどうかなー…」とかいう感想を楽しむことができる。
まあ、だからといって何かに役立つかどうかはわからない。何度も言うが、修行をしたからといって何かが変わるわけではないのだ。それを期待して取り組むのはやめたほうがいいと思う(ぼくがそうだったから)。
・自分が100日行に取り組んでいることを周りにちゃんと伝えておく。
これはとても大事。前回の記事を書いていた頃は、主にChatGPTを対話の相手としながら取り組んでいたのだが、ChatGPTはこちらに寄り添いすぎる。それだと自分がどんな状況にいるのか客観的に見えなくなってしまう。
ぼくは数名の信頼できる友人に対して「実は100日行なる修行を勝手にはじめまして、しばらく連絡が途絶えるかもしれません」と事前に伝えていた。
また職場でもわりとオープンに「今、勝手に100日行なる修行をしていまして、言動がおかしくなることがあるかもしれません。その際はご容赦を」と言っていた。そう言われてポカンとしている人もいれば、また何か変なことをはじめたなとニヤニヤしている人もいた。
でも言っておいてよかったと思う。
なぜなら、ぼくが中盤ですごく辛くなってきていて、でも自分でそれに気づけていないときに「いぬじんさん、その修行、大丈夫なんですか?最近かなり不安定ですよ」と言ってくれる人もいたし、「修行も大事だけど、そろそろ娑婆に戻ってこない?悟りを開いちゃったら、やりたいことができなくなっちゃうよ。いぬじんさんみたいな人には欲望や煩悩も必要だと思うよ」とアドバイスしてくれる人もいた。
そのおかげで、ぼくは娑婆に戻ってくることができたのだと思う。
・本当に辛いときは、ためらわずに信頼できる人や病院に相談する。
前回の記事に書いたとおり、中盤あたりは辛い時間が続いていたので、66日目に、とても尊敬しているコーチングの師匠に時間をいただいて、今の状況を聞いてもらった。
ぼくが「今、修行をしていまして」と切り出すと、彼は「ああ、いいですね、修行。ぼくもしていますよ」と言って、自分はどんなことをやっているかを教えてくれた(それは、誰でもできること簡単なことなんだけど、なかなか続けづらそうなことだった)。
それからぼくたちは人間関係と時間についての話をした。100日っていうと長く感じるけど、木からするとそれほどの時間じゃないんだよね、と彼は言う。
木は10年、20年、30年。そして100年、1000年。そんな風にして育っていく。人と人の関係性もやっぱり10年、20年って感じでゆっくり育っていくんじゃないかなあ。
そんな話をしているうちに、ぼくの中のこわばっていた部分がじわじわとやわらかくなっていった。焦って修行の成果を出そうとするのをやめよう、と思えるようになった。あの時、彼に会わなければ、かなりキツかったのではないかなと思う。
また、100日間が過ぎてから、臨床心理士の知人にこの話をしたところ、それは本当に危ないところでしたね、いぬじんさんはおそらくそのとき鬱になっていたと思います、普通は自力では回復しづらい状態にあったんだと思いますよ。今後そういうことがあった場合は、すぐに病院に連絡したほうがいいですよ、と助言をもらった。
…ちょっとした注意書きをするつもりが長くなってしまった。
だけど本当に、もし興味があって100日行をやってみようと思う方がいたら、細心の注意を払ってもらいたい。
行なんていつでもやめられるし、いつでも再開できる。
たいしたことじゃない。
人生は続く。
オブラディ・オブラダ、という感じで。
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(2026/2/9更新)
【著者プロフィール】
著者:いぬじん
プロフィールを書こうとして手が止まった。
元コピーライター、関西在住、サラリーマンをしながら、法人の運営や経営者の顧問をしたり…などと書こうと思ったのだが、そういうことにとらわれずに自由に生きるというのが、今ぼくが一番大事にしたいことなのかもしれない。
だけど「自由人」とか書くと、かなり違うような気もして。
プロフィールって、むずかしい。
ブログ:犬だって言いたいことがあるのだ。
Photo by:Md Mahdi









