「タクシーに乗る時は、偉い人が一番奥で運転手さんの後ろです。お供の人は後から乗りましょう」
もう30年以上も前のこと、大手金融機関に入社した時の研修で、最初に教えられたビジネスマナーの一つだ。
不思議に思い、マナー講師さんに率直に疑問をぶつける。
「なぜですか?例えば部長とか偉い人は高齢の人も多く、奥に乗り込むのは大変だと思うんです。足が悪い人であればなおさらです」
「運転手さんの後ろが一番、事故の時に安全なんです。宴会などでも、上座は一番奥で下座は入り口に近いところです。同じことです」
「宴会はわかります、入り口で雑用をこなすためですよね?しかし可能性のほとんどない事故に備えるのが、本当に正しいのですか?」
するとマナー講師は、今はわからなくてもいいので奥が上座で手前が下座であると覚えろ、そのうちわかるというようなことを言った。
全く納得感がなかったが、新卒1年生だったこともありおとなしく引き下がる。
しかしそれから30年以上経った今も、“そのうちわかる”ような成長はできなかったようで意味が分かっていない。
さらに言えば、和室の飲み会で床の間を背負うのが偉い人というルールも、いまだに納得できない。
もちろん、床の間は神聖な場所というのが一般的な文化なので、そこに近い場所が上座という理屈は理解できる。
しかし結果として、下座の方が床の間の立派な掛け軸や生け花の美しさを堪能できるというのは、ズルいではないか。
そんなことに疑問を持っていたある日、ホテルラウンジで納得の光景を目にする。
お気に入りの店だったのに…
話は変わるが、今からもう20年近くも前だろうか。
グルーポンやポンパレと呼ばれる、共同購入クーポンサービスなるものが大流行したことがある。
例えば飲食店で、300名限定で通常価格60%offクーポンを発行する。
旅館でも同様に、100組限定で宿泊代50%offクーポンなどを発行して集客しようとするものだ。
フラッシュマーケティングと呼ばれる販売手法の一つで、24時間限定であったり、100組限定というような“今だけ”感の演出で消費者心理を刺激する。
半額以下などの大幅値引きで過剰なお得感も演出し、潜在顧客の掘り起こしに強力な効果があったとされた。
そんな流れに乗ろうとしたのだろう、ある時、近所にあった食べ放題・飲み放題の串揚げ屋さんが、50%offクーポンを300組限定で販売しているのをそれらサイトで見つける。
個人経営であろうそれほど大きくない、店内はいつも常連さんだけ10組もいないような規模のお店だ。
(いつでも気軽に行ける、安くて美味しいお気に入りの店だったのにな…)
そんなことを思いつつ、自分も50%offクーポンを買うのだが案の定、いつも満席で駐車場にも車があふれるようになった。
駐められているのは、県外ナンバーの車ばかり。フラッシュマーケティングとやらの集客力の恐ろしさを感じつつ、なかなか利用することができない。
とはいえクーポンには利用期限があるので、どこかのタイミングで使わないわけにはいかない。
そんなある日の平日夕方、開店と同時に並びやっと入店することができたのだが、あの時の修羅場は忘れられない。
串揚げの素材は冷蔵棚から取り、自卓で揚げるスタイルなので問題ないのだが、飲み物が全くこない。
20組50人くらいの客に対し、オーナー1人とバイトさん2名で運営しているので、完全にキャパオーバーだ。
さらに悪いことに、そのうち揚げ物の素材もすっからかんになってしまい、まったく補充されないようになる。
やがて店員さんに文句を言い始めるお客さんたち。
一見客であり、おそらくもう2度と来る気もない県外客ということもあるのだろうが、全く容赦がない。
そのクレーム対応でますます店員さんの手が止まり、飲み物も食べ物も提供されなくなる。
加えて、そもそもそれだけのお客さんを捌けるような店の作りにもなっていなかったのだろう。
店内には、気化した揚げ油が充満しそのうち目が痛くなりだした。
そして、1組、また1組と怒鳴りながら店を後にする。
するとあろうことか、今度はオーナーとアルバイトさんがフロアの真ん中で大声を出し、ケンカを始めてしまった。
もっと手を動かせというような叱責に対し、こんなもん間に合うわけねえだろというような言い合いが始まり、忙しさのストレスをぶつけあう。
そこにもう1人のバイトも参加して、オーナーとの激しい言い合いを始めると、やがて2人とも辞めるというようなことを言ってフロアから出て行ってしまった。
もう後は、営業どころではない。
そのため食事を切り上げ店を後にしたのだが、ほどなくしてそのお店は臨時休業になり、そのまま閉店してしまった。
結果として、フラッシュマーケティングとやらを利用したことで、お店をつぶしてしまった形である。
そしてグルーポンやポンパレといったサービスそのものも、数年ほどで急成長しその後、数年で急速に衰退し姿を消した。
当然である。あのようなサービスを飲食や宿泊業にまで適用するのは、どう考えても「物事の本質」を外しているのだから。
ではいったい、何を外しているというのか。
この眺め、自分が観ちゃだめだよね
フラッシュマーケティングとやらが力を発揮するのは、「自社(自店舗)を知らない潜在顧客」に対する、認知の獲得“だけ”である。
例えばサプリメントの通販であれば、初回限定50%off、今から1時間だけというような、“お試し”のやり方だ。
通販であれば、一時に需要が集中しても大きな問題になりにくいうえに、商品が良い物なら必ず一定数リピーターになるので、意味のあるマーケティングになりえるだろう。
しかし飲食や宿泊業では、「安いから利用するだけ」「正規の値段では絶対に来ない」顧客など、百害あって一利なしに決まっているではないか。
ましてそのような集団が一時に大量に押し寄せるなど、ブランドや信用を根こそぎ破壊し、ロイヤルカスタマーの期待を毀損する結果しか招かない。
極論すれば、「筋悪でもいいので知ってもらいたい」のであれば、迷惑系youtuberとして店を宣伝すればいいのである。
飲食や宿泊業がポンパレやグルーポンを利用するなど、そういう行為だったということだ。
サービスを利用したお店も、見境なくあらゆる業種に売り込んでいったフラッシュマーケティング事業者も、衰退して当然の結果であった。
そして話は冒頭の、ホテルラウンジで見た光景だ。
いったい何を見て、マナーに対するモヤモヤがすっきりしたのか。
東京のラグジュアリーホテル、高層階にあるダイニングラウンジでのこと。
偉い人に指定され、場違いなレストランにランチで赴いたのだが、高層階だけあって見たこともないようなとんでもない眺めが目の前に広がる。
個室でもないので、通路側に偉い人を座らせるわけにはいかない。
そのため20分前に店につくと、通路側に座り相手を待つのだが、眺めの良さを下座である私だけが楽しめてしまう形になる。
ふと周囲に目をやると、客層は上品そうな男女2人組ばかり。
そして例外なく、通路側には女性が座り、窓を背にする席には男性が座っていた。
きっと普段なら、通路側に女性を座らせるようなことなどしない紳士たちだろう。
(そらそうだよな…。この眺め、自分が観ちゃだめだよね)
結局のところ、マナーというものの本質は、「相手を思いやり、リスペクトする気持ち」である。
にもかかわらず、マナーを守ることが目的化したら本末転倒でしかない。
場違いなラグジュアリー空間に思いがけず出かけたことで、マナーの本質を見たような想いになった。
同様に、フラッシュマーケティングとやらについてだ。
事業者もお店も、原理原則で顧客のニーズを考えれば、売ってもいい業種なのか、利用してもいいサービスなのかくらい、容易に理解できただろう。
にもかかわらず、売ることが目的化し、また知ってもらうことが目的化した結果、本質を外し事業を潰した。
手段と目的をはき違えるということはそれくらい、あらゆることをぶち壊すほどの破壊力があるということである。
余談だが若い頃、マナー講師の教えに納得ができなかった私は今も、目上の人とタクシーに乗る時には必ずこう聞く。
「もし奥に移動されるのがご面倒であれば私、先に乗ります!」
マナーなんてものは手段の一つであって、決して目的ではない。
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(2026/4/7更新)
【プロフィール】
桃野泰徳
大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。
主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など
偉そうなことを書きましたが、カタブツの昭和のオッサンの中には「マナー警察」も大量にいました。
「先に乗りましょうか?」と聞き、タクシー車内で20分、怒られ続けたこともあります…泣
X(旧Twitter) :@ momod1997
facebook :桃野泰徳
Photo:Hongwei FAN








