「学校に行きたくない!くもんの宿題なんて嫌だ!」
ある日、子供がそういって泣き叫んでいた。
正直に言えば…気持ちはすごくよく分かる。僕だって学校になんて行きたくなかったし、くもんなんて拷問以外の何事でもなかった。
じゃあ、嫌な事からは逃げた方がいいのだろうか?
この問いに対する自分の答えは「今よりもっと苦しくなりたいのなら逃げてもいいが、楽になりたいのなら逃げないほうがいい」である。
自由だからといって、社会の義務を背負わなくていいわけではない
現代社会はとても自由だ。私たちは基本的には誰かから何かを強制される事はないし、仮にされたとしても跳ねのける事はそう難しいことではない。
じゃあ現代社会は優しいのか?その答えはNO!である。
世の中は世の中で、求めている事がある。
例えば医者は病院で真面目に働く事が薄っすらと求められているし、子供は小学校に真面目に通う事が薄っすらと求められている。
この規範を踏襲している限りにおいて、世の中は人に優しい態度を取る。
病院で働く医者は「立派なかたですねぇ」なんて言ってもらえたりするし、学校でキチンと教育を受けている子供も「ちゃんと勉強して偉いねぇ」と言ってもらえる。
対して、この2つを不真面目にやる人間に対して、社会は冷淡だ。
働かない医者は単なる無職だし、学校に通わない子供は単なる登校拒否で、特に何らかの保障を与えてくれるわけではない。
ワガママと自由は何が違うのか?
ワガママと自由の区別はとても難しい。
全体主義という言葉がある。これは社会全体の利益が尊ばれるという主張で、過激になるとナチズムやかつての共産主義政権のように、個人の人権が極めて蔑ろにされる性質のものだ。
これに対応するのが個人主義だ。これは個人の人権こそが尊いものであり、過激になると社会全体なんてのは個人にとっちゃどうでもいいものだという事になる。
言うまでもないことだが、このどちらも極端な形では”正しく”はない。社会は社会でキチンと存続しないと個人は生活ができないし、個人の自由もある程度は認められないと、息苦しすぎて生活ができない。
故に私たちは常にこの両者のバランスを上手に取らなくてはいけないのだが…この2つを上手に調律する事は非常に難しい。
嫌な事をやると、ワガママ成分が消える
冒頭の子供の「学校が嫌で、くもんの宿題が嫌だ」という発言に戻ろう。
この2つは、確かに嫌だ。そして子供にも一応は拒絶を主張する権利ぐらいはある。
しかし、この2つから逃げて、子供に何のメリットがあるだろうか?
そりゃ勿論、死にたくなるとか、徹底した人格批判がそこで行われるというのなら、逃げるのも妥当性があるが、ちょっとぐらい嫌だというのなら、単なるワガママと受け取られても、何も言えない。
逆に、ここで頑張って学校に行ったとしよう。すると子供は多少は社会性が育まれるだろうし、くもんの宿題をイヤイヤでもやれば、四則演算が身体で覚える事ができる。
ここで興味深いのが、このいずれもが社会全体からすれば、身につける事が望ましい性質であるという事だ。
逆に逃げて何が得られるかと言うと、個人の自由が拡大される程度であり、少なくとも社会には特に何の功徳も積まれない。
社会の信用は冷淡に判断を突きつけてくる
社会にキチンと功徳を積むとどうなるのか?その答えは極めてシンプルだ。社会が優しくなるのである。
借金を例に話を具体化させてみよう。例えば住宅ローン。これはサラリーマンが家を買う時に、年収の概ね10倍程度ものお金を借りれるシステムだが、金利はわずか1%程度と、他の制度と比較すると極めて良心的だ。
仮に同じ額の借金を、社会的な信用が全く無い状態からやると金利がどれぐらいになるか個存じだろうか?その答えは金利15%である。
いわゆる信用ゼロの状態から借りられるサラ金からお金を借りると、同じ借金でもこんなにケタが違うのである。
昨今はホルムズ海峡の閉鎖もあって住宅ローンの金利上昇で阿鼻叫喚の自体が叫ばれてるが、そこで問題となるのは精々数%の話であり、サラ金の15%とは比較にならないレベルの話でしか無い。
サラ金で数千万円借りて15%の金利を背負って生きる息苦しさは、住宅ローンで数千万円借りて発生する息苦しさとは文字通り桁違いのレベルである。
同じ借金をしたとしても、社会というのは権利を果たしているモノには徹底して優しい。対して、権利を果たしていると主張できない人間に対しては、どこまでも冷酷になる。
このように、世の中というのは冷淡に人を扱う性質がある。
社会というのは義務を果たしている人間には”それなり”の対応をするし、逆に義務を果たさない・あるいは義務を果たしていると主張できない人間に対しては”そういう存在”として対応をしてくる。
信用スコアは可視化されてないが、日本にもちゃんとある
この社会からの信用スコアは中国なんかだと可視化して提示されているようだが、日本に存在しないというわけではない。
例えば中年のオジサンが公園で子供を眺めていたら不審者扱いされるかもだが、子持ちのお父さんが子供を眺めていたら、それは至極普通の事とされる。
たまに「なんで苦労して金を払って子供を育てなくちゃアカンのや」という人がいるが、そういう人は、社会の信用スコアの力をわかっていないのだと思う。
社会は常に社会が追い求める規範や利益があり、それに見合った貢献をしてくれる個人に”それなり”の対応をする。
残念ながら、承認欲求は社会からの信用スコアの代用にはならない
承認欲求という言葉がある。誰かに認めて欲しいという気持ちがその源泉にあるとされるこの言葉だが、多くの人は承認を与えてくれるのはフォロワーやファンのような”個人”だと思っているフシがある。
だから現代ではインターネットのインフルエンサーが「承認欲求を稼げる人」として人気なのだろう。
自分もそういう存在に憧れた人間の一人なので、わからなくもない。
僕もインターネット歴が長いので、そういうインフルエンサーを何人も見てきたが、そういう人間が社会から独立して「わし、インフルエンサーで食っていきますわ」となって幸せになっている事例が驚くほど少ない事に、中年となって愕然としている。
なぜ社会と繋がらない個人は変になっていくのか?
一体何でそんな事態になってしまうのだろうか?
それについて自分なりに真剣に考察を重ねたのだが、結論は「個人が権力を持ってしまうと、社会の義務を果たすのがダルくなってしまい、結果的に社会の信用スコアがゼロになる」というものである。
世の中の不条理に晒されなくても生きていけてしまう強い個人は、社会からすれば扱うのが面倒な個人でしかない。
そういう社会の手に余る個人がどうなるかというと、社会はそっとその人を”見放す”のである。
こうして社会から見放された人間は、見放されているが故に社会性を失う。
社会から目を背けて生きる人間に対して、社会は極めて冷淡な態度をとる。
異次元レベルの社会的制裁に君は耐えられるのか?
そうして、いつの間にか社会からの信用スコアが消失した人間は、金利15%という重たい世界で生きる事を余儀なくされてしまうのである。
金利数%で生きている人間は、金利の上昇は確かに「苦しい」が、何とか対応できないレベルではない。辛いのは確かだが、頑張れないレベルではない。
だが金利15%の世界で生きるのは苦しいとか辛いとか、そういうレベルではない。そももそも9割の人間は、そんな世界では息を吸う事すら不可能である。
あまり社会から与えてもらう承認の事を馬鹿にし過ぎない方が無難である。
社会がクソだと叫びたくなる気持ちは痛いほどよくわかるが、残念ながら人は社会なしでは生きられない。そして義務を果たさない人間に対する社会の制裁は、異次元レベルで重いのだ。
悪人をやれない人間は、真っ当をやってしまった方がコスパはいい
以前から、なんで多くの人が自分の行いを善行のように語るのかが不思議でしかたがなかった。
少なくとも、自分を悪人であると正面切って主張している人をみた事はあまりない。
たまに自分の事をダメ人間だという人はいるが、そういう人間を本当にダメな奴だと正面切って批判して「ホンマにその通り。君は正しい!」とニコニコする姿なんて、一度も見たことがない。
なぜ人は善人ヅラをするのか?それは人が弱いからだ。
人間という生き物は、堂々と悪人をやれるほどには、精神的に強くはないのである。
スターウォーズのダース・ベイダーがカッコいいのは、あれが真剣に悪をやっているからである。
もしルークに「お前は悪人だ!」と言われて「ち、ちげーし。ジェダイが悪いんだし!」と顔を真赤にして反論したら、そこから神性は一気に剥がれ落ちる。
人はみな、罪深い生き物なのである
歳を取るという事はシンプルではない。故に僕らは、気が付かないうちに罪を重ねて生きる事になる。
みんな本当は、自分がとても罪深い人間であるという事を”わかって”いる。
だが、僕らはその罪を受け入れられる程には強くはない。だからどうしても自分の事を”善人”であるように振る舞ってしまうし、自分の行いが”善行”であると過度に主張してしまう。
しかし…そろそろ自分が悪人である事を、ゆっくりと受け入れられる位には、強くなるべきではないだろうか?
いつまでたっても正義のヒーロー役しかやれない人間は、少なくとも”大人”ではない。大人は必要に応じて悪役だってやるし、子供をひっぱたいてでも学校に行かせ、くもんの宿題をやらせる。
そうして子供に無理をしてでも社会の信用スコアを蓄積させ、子供から嫌われる事を甘んじて受け入れるのである。
好きな人から、愛する人から、嫌われたっていいではないか。
その人がキチンと真っ当に生きられるようになるのなら、大人はいつだって悪人の顔を、するべきなのである
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(2026/4/7更新)
【著者プロフィール】
都内で勤務医としてまったり生活中。
趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。
twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように
noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます
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