1.『虐殺器官』という小説を知っているだろうか。

“人間は、特定の言語表現(作中では「虐殺の文法」とされている)によって人殺しの本能を呼び起こされる。このことが世界各国の紛争と関連しているという筋書きのSF小説だ。

ファンも多く、2017年に映画版が公開された。

 

この作品で描かれるような、大量虐殺を呼び起こすような言語表現が実在するとは考えにくい。

けれども、特定のコミュニケーションが流行ることによって、今まではあまり考えなかったことをみんなが考えるようになったり、今までやらなかった行動をみんながやったりすることはあるんじゃないだろうか。

 

たとえば、FacebookやInstagramに素晴らしい体験を次々とアップロードしている人について考えてみて欲しい。もし、それらのネットサービスが定着しておらず、スマホも普及していなかったとしたら、彼らはそのように行動していただろうか。

 

もともと観光地やレストランや映画館が大好きだったという人もいるだろう。しかし、すべての人がそうとも限らない。FacebookやInstagramを用いたコミュニケーションの一環として、あっちこっちに出かけて写真や動画を撮って来る人もいるはずだ。

いや、アップロードそのものが主な動機でなくても、“出かけるついでに”、ちょっとレストランに立ち寄ったり、週末に話題の映画を観に行ったりする頻度が増えた人なら、それなりにいるはずだ。

 

コミュニケーションのネタとして、あるいは「みんなが絶賛している体験をシェアする手段として」SNSを用いている人は、SNSによってコミュニケーションのネタを探すように、素晴らしい体験をシェアするように動機づけられている、とも言える。

SNSは、電話や電子メールなどとは違う。SNSならではの人と人の繋ぎかたによって、私達のコミュニケーション欲を呼び起こし、新しい行動を生み出す力を持っている。ここまでは、たぶん間違っていない。

 

 

2.ここからは思考実験な話なので、話半分に読んで欲しい。

SNSが登場してずいぶんと世の中が変化した。オバマ氏がアメリカ大統領になったのが2009年。その後、中東で“アラブの春”と呼ばれる政治イベントが連鎖し、その原動力としてSNSが取り沙汰された。

 

その後、イギリスはEUから離脱し、共和党のトランプ氏がアメリカ大統領になり、日本では、はてな匿名ダイアリーの「保育園落ちた日本死ね」(http://anond.hatelabo.jp/20160215171759)がバズりまくって国会答弁に登場した。

去年、アニメ映画や特撮映画が立て続けに大ヒットした背景にも、SNSによる口コミ効果や体験のシェアがあったと識者達は論じている。

 

これらの出来事には大小の違いがあるものの、その背景として、SNSをはじめとするインターネットが人と人を繋いだと言われている点では共通している。起こった時期もわりと近い。

 

ヒット作の件はともかく、政治イベントに関しては、SNS上のコミュニケーションには特有の偏りがみられた。SNSは、思想信条の似た者同士をよく繋げ、と同時に、思想信条の異なる者同士の対立をエスカレートさせているように私にはみえた。

そして、思想信条の違う者同士は、「おれらは正義」「あいつらは間違っている」的な中傷合戦に、積極的に身を投じているようにもみえた。

 

私がいつも参考にしている、インターネットを知り尽くしたベテランアカウント達ですら、SNSに政治的なテーマが流れてくると、自分達とは異なる思想信条の側の極端な論者を見つけては、しばしば槍玉に挙げているようにみえた。

極端な論者を槍玉に挙げるのは、政治手法として妥当ではある。だが、SNSが普及してからというもの、それまでは極端な論者を無視していたアカウントでも、対立するオピニオンの雑な論者をあげつらい、嘲笑し、その一部始終をリツイートやシェアを使って広めあい、(近い思想信条の者同士で)繋がりあう身振りをとる人が増えたようにみえる。

 

00年代の頃の、たとえば、ブログではそんな事をしようとも思っていなかったアカウントまでもが、そのような対立の構図に手を突っ込み、“政治的に振る舞うようになった”ようにみえるのである。

 

いや、手を突っ込んでいるというより、巻き込まれているというべきか。特定の政治的トピックスが流れてきた時に、言及するか否かが試されているような雰囲気が、今のSNSにはある。リツイートやシェア、そういったものを介して、「おれら」か「あいつら」かが踏み絵されているような雰囲気

もちろんスルーすることもできるが、SNSにおいて、スルーは、リツイートや言及よりも難易度が高い。スルー力を、意識的に・最大限に発揮できる人でなければ、ベテランといえどもSNSの言説空間に巻き込まれてしまう。

 

十分な良識を持っていてさえ、SNS上で「あいつら」が「おれら」をやり込めていて、しかも膨大なシェアやリツイートを伴っている状況に不安や怒りを感じない人は少ないのではないだろうか。つい、「おれら」の側に加勢したい気持ちに駆られてしまうのではないだろうか。

そうやって、SNSは人を巻き込み、反目するオピニオンを雪だるま式に巨大化させていく……。

 

私は、SNSは、人に自由にオピニオンを語らせる社会装置ではないと思う。

むしろ、本来なら言わないで済んだはずの言葉、言語化するどころか意識にすらのぼることすらなかったはずの言葉を、巻き込むように吐き出させる社会装置ではないだろうか。

 

加えてSNSには、フォロー/フォロワー、リツイート、シェア、いいね、ブロックといった機能がある。これらの機能により、SNSには似た者同士が群れやすく、そうでない者同士が結び付きにくいSNSならではの偏りが生じる。

それで一種の住み分けができあがるなら、大した問題ではないかもしれないが、パブリックなテーマについてコミュニケーションする際には、極論と極論を叩き合いやすく、対立するオピニオンの極論をあげつらいやすく、お互いのオピニオンを擦り合わせにくく、対立している側の言い分や立場の酌量を難しくしてしまっているのではないだろうか。

 

もちろん私は、SNSだけが悪いと言いたい訳ではない。扇動家も問題だろうし、現代社会そのものが抱える問題や矛盾も深刻なのだろう。

だが、コミュニケーションに二者択一的な対立の色彩を与える媒介物として、SNSという社会装置に、もっと注意を払ったほうが良いのではないだろうか。

 

SNSが無かった頃には政治問題にそれほど手を突っ込んで来なかった人達が、それぞれに旗幟を鮮明にしてオピニオンを発信――いやオピニオンに溺れているのかもしれないが――しているのを眺めていると、これは、「人の問題」である前に「場の問題」、あるいは「ツールの問題」や「アーキテクチャの問題」ではないかと疑わずにいられなくなるのだ。

 

 

3.預言的なメディア論者、マーシャル・マクルーハンは「メディアとはメッセージである」と言った。

 

オベリスクや書物に記されたメッセージだけでなく、オベリスクというメディアの特質、書物というメディアの特質自体が、メッセージを読む側に与える影響を(ある程度)決めてしまう。

たとえばオベリスクは、人の集まる場所に屹立し続けるという性質によって、メッセージの伝播に独特の影響を与えるし、大量生産できて持ち運びも簡単な近現代の書物は、その性質に即したかたちでメッセージを伝播していく。電話やテレビやラジオにしてもそうだ。

 

この、「メディアとはメッセージである」になぞらえてSNSを考えてみよう。

SNSも、これまた独特なメディア的特質を持っている。スマートフォンによるモバイル性と常時接続性、アカウントという概念、フォロー/フォロワー・シェア・リツイート・ブロック等々に由来する選択的な人と人との繋がりかたによって、旧来のマスメディアとはもちろん、ブログやウェブサイトや2ちゃんねる等ともまた違ったメディア空間をつくりあげている。

 

だから、SNSに何を書いたかを考える以前に、そもそもSNSというメディアを使うことによってどんなメッセージが伝わりやすく、どんなメッセージが伝わりにくいのかを、私達は振り返ってみるべきではないだろうか。

そして、そのような特有のメディア空間を用いてコミュニケーションし、考え、群れることが、私達の言動をどのぐらい変容させ、どのような言動を強いているのかを、ときどき点検してみたほうが良いのではないだろうか。

 

冒頭で私は『虐殺器官』の「虐殺の文法」を紹介したが、これになぞらえると、SNSは「対立の文法」、あるいは「対立を生み出すアーキテクチャ」なのではないかと私は疑っている。

日常生活のコミュニケーションの決して少なくない割合をSNSに頼るようになった私達は、Facebookやtwitterのシステムが内包するメディア的特質をモロに蒙って、おのずと似た者同士で群れやすく、「おれら」同士で団結しやすく「あいつら」に対して排他的に振る舞いやすくなってはいないだろうか。

SNSで飛び交い、ときにマスメディアや政局まで賑わすメッセージの群れは、どこまでが個々のユーザーの思考や性質を反映したもので、どこからがSNSというメディアの特質に由来しているのだろうか。

 

twitterやFacebookの来歴を考えると、これらのツールは、大規模で政治的討論のためにつくられたものではない。オタク同士がつるむためのツール、同窓会的な集まりのためのツールとして立ち上がってきたはずだ。

フォロー/フォロワー・リツイート・シェア・ブロックといったシステムは、そうした小さな仲間同士のコミュニケーションには最適だったのかもしれない。

 

しかし、現在のSNSの用途は、そんな狭い範囲におさまりきらなくなっている。現代人のコミュニケーションの一定のウエイトを占めると同時に、巨大化したリツイートやシェアや「いいね」が、世論を左右するほどの影響力を生み出すようになっている。

だとしたら、twitterやFacebookの創始者が想像もしなかったような「副作用」が現れ出てもおかしくないし、現に、現れているのではないか。

SNSのメディアとしての特質が、今日の政治的・コミュニケーション的布置の全部とはいわないが、かなりのところを形づくっているのではないか。

 

ネットメディアの提供者は私企業であり、彼らが追い求めるのは利潤だ。その点を責めるのはお門違いだろう。

しかし、当初は想像もできなかったほどSNSは普及し、政治運動にまで使われる状況が常態化してしまった。こうなってしまった以上、SNSを提供している側も、SNSを使っている側も、自分達の使っているメディアが一体どういうもので、一体どういう風に乗せられやすくなっているのか、真剣に考えるべきだろう。

極論をまき散らす論者を叩いたり、肥大化したオピニオンを糾弾したりするのも良いが、その前に、やっておくべきことがあるのではないだろうか。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)など。

twitter:@twit_shirokuma   ブログ:『シロクマの屑籠』

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(Photo:Manel Torralba)