星野源さんのエッセイ集『いのちの車窓から』のなかで、星野さんが、自身の「人見知り」について、こんなふうに書いておられました。
人見知りをしなくなったのはいつからだろう。ある日、自分が人見知りでないことに、ふと気づいた。それまで、道端で知人を見かけても声はかけなかったし、集団でいるときも、なるべく一人でいた。
ある日、ラジオ番組のゲストに出たとき「人見知りなんです」と自分のことを説明していことに、ふと恥ずかしさを覚えた。それがさも病気かのように、どうしようもないことのように語っている自分に少し苛立ちを感じた。
それまで、相手に好かれたい、嫌われたくないという想いが強すぎて、コミュニケーションを取ることを放棄していた。コミュニケーションに失敗し、そこで人間関係を学び、成長する努力を怠っていた。
それを相手に「人見知りで」とさも被害者のように言うのは、「自分はコミュニケーションを取る努力をしない人間なので、そちらで気を使ってください」と恐ろしく恥ずかしい宣言していることと同じだと思った。
数年前から、人見知りだと思うことをやめた。心の扉は、常に鍵を開けておくようにした。好きな人には好きだと伝えるようにした。ウザがられても、嫌われても、その人のことが好きなら、そう思うことをやめないようにした。それで思い出した。「お前ウザいよ」と言われた幼いあの日から、嫌われないように自分の性格を歪め、そもそも人間が好きではないと思おうとしていたが、僕は人が、人と接することが大好きだったのだ。
集団でわざわざ一人になる必要はなくなった。そもそもどんな人間も一人であり、だからこそ人は手を取り、コミュニケーションを交わすのだ。
「人見知り」「コミュ障」であると自認している僕としては、「そうか、あの星野さんも昔はそれで悩んでいたのか」という共感と、「でも、こうして、『コミュ障と周囲に宣言して努力を怠るのは、恥ずかしいことだ』って言えるのは、『生存者バイアス』みたいなものではないのか」という反感の両方が入り乱れていたのです。
「コミュ障」という言葉もけっこう一般的になって、初対面の人に「私、『コミュ障』なんです」(あるいは「人見知りなんです」)って言われる機会もあります。
僕もそんなことを口にしたことがあるんですよね。
今から考えたら、若者にそう言われたら微笑ましくても、オッサンにそう宣言されても、どうしたら良いのか、と困惑されるだけだよなあ。
「コミュ障」という言葉のおかげで、人と接するのが苦手な人が、ある程度認知された、という感触はあるんですよ。
ただ、そのことは「コミュ障の人々」を、そういう自分に安住させてしまっているのかもしれません。
「そういう人が大勢いるんだから、別にこのままでも良いよね」って。
もちろん、世の中には病的な「対人恐怖症」というのもあって、そうなると「なんで人と積極的にコミュニケーションをとろうとしないんだ!」と言うのではなく、ちゃんとした治療が必要なわけですが、実際は、「人と接するのに気を遣うのがめんどくさい人」が「コミュ障」という言葉に乗っかっているケースが多いように感じます。
そこまでして無理にコミュニケーションなんてとる必要はない、と決めてしまっているのならともかく、そういう人も、大部分は「もうちょっとうまくやれたらいいのに」って思っているのではないでしょうか。
『採用学』(服部泰宏著・新潮新書)という、企業の「採用する側」からみた「採用のノウハウ」を検証した本のなかに、こんな話が出てきます。
産業・組織心理学の研究者・コンサルタントのブラッドフォードさんが『Topgrading』という著書に記されている議論だそうです。
組織や職場を『Aクラスの人材』でいっぱいにするにはどうしたらいいのか、という内容のビジネス書なのだが、その中で、人材の「能力」に注目した部分がなかなか面白く、かつ考えさせられる。
それぞれの企業における選抜基準を見直す際の、ガイドラインとしてお読みいただければと思う。
ブラッドフォードによれば、私たちが持っている能力は「極めて簡単に変わるもの」と、「非常に変わりにくいもの」の二つがある。(中略)
ここで注目したいのは、多くの日本企業が採用基準として設定している口頭でのコミュニケーションが「比較的簡単に変化」する能力としてあげられていることだ。
先に紹介した経団連の「新卒採用(2014年4月入社対象)に関するアンケート調査」によれば、日本企業の実に80%以上が、口頭でのコミュニケーション能力を、自社の選考の際に重視する基準としてあげている。既に紹介した日本企業の人事データの分析からも、日本の面接が、いかにこれを重視して構成されているかということがわかる。
ところが心理学の世界では、これが相当程度可変的なものであり、意図的な努力によって向上するものであることが指摘されているのだ。
大学1年生の時には、人の目を見て話すことすらままならなかった学生が、卒業する頃には他人とのコミュニケーションにすっかり慣れて、立派にプレゼンテーションをこなしたりするなど、私たちの日常的な経験に照らし合わせても、この主張には納得がいく。
コミュニケーションの能力そのものの重要性を否定するわけではないけれど、これが果たして日本企業が採用時に時間とコストをかけて確認すべき能力であるのかという点について、疑問を持たないわけにはいかない。この点については、場所を改め考えてみよう。
このように「比較的簡単に変化」する能力の対極にあるのが、「非常に変わりにくい」とされる能力だ。IQに代表される知能、創造性、ものごとを概念的にとらえる概念的能力、また、その人がそもそも持っているエネルギーの高さや、部下を鼓舞し、部下に対して仕事へのエネルギーを充填する能力などは、非常に変わりにくいとされる。
たとえば論理的推論や空間把握といった、いわゆるIQと呼ばれる知能は、悲しいかな、かなりの程度、遺伝によって決定されることがわかっている。
この話の論旨は、「後天的に改善しやすい『コミュニケーション能力』というのを、採用時にそんなに重視すべきなのか?」ということなのですが、言われてみると「大学デビュー」「社会人デビュー」なんて周囲から揶揄される、すっかりチャラくなってしまった友人を思い出す人も少なくないはず。
「チャラい」と言えば印象が悪くなるけれど、他人に接する態度というのは、環境や本人の努力によって、変えられる(あるいは「変わる」)ことが多いのです。
「比較的容易に変えられる能力」であり、「本当は改善したいと思っている人がたくさんいる」にもかかわらず、「コミュ障」というのが一般化し、自他ともに「そういう人もいるから、仕方ないね」と認めてしまうのは、必ずしも良いことばかりではないと思います。
「コミュ障」は、けっして、克服できないものではないし、むしろ「コミュニケーション能力というのは、努力が実を結びやすい分野」であるというのは、知っていて損はしないはず。
星野源さんの話に戻すと、星野さんの「コミュ障の克服」ではなく、「創造性」や「エネルギーの高さ」こそが、「真似できないもの」なんでしょうけどね……
(文責-ティネクト株式会社 取締役 倉増京平)
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著者;fujipon
読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。
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