正月に実家に帰った時、一つのことに気づいた。

実家にあるべき、新聞がなかったのだ。

 

両親に聞くと、「新聞をとるのをやめた」と言っていた。

両親は70代、団塊の世代真っ只中で、他のどの世代よりも新聞を信頼していただろうはずなのに、である。

 

電通に勤める知人は

「新聞は既にマスメディアではなく、セグメントメディアになってしまった。そのセグメントは高齢者だ」と言っていた。

が、ついに70代の父母まで、新聞をとらなくなっていたとは、軽い衝撃を受けた。

 

そんな気持ちでいたところ、ある記事が目に飛び込んできた。

「新聞ビジネスの凋落」についてである。

「新聞崩壊」はたった一年でこんなに進んでしまった(現代ビジネス)

新聞の凋落が2017年も止まらなかった。日本新聞協会がまとめた2017年10月現在の新聞の発行部数合計(朝夕刊セットは1部と数える)は4212万8189部と、1年前に比べて115万部減少した。

2007年は5202万8671部だったので、10年で約1000万部減ったことになる。最大の発行部数を誇る読売新聞1紙がまるまる消えた計算になる。

新聞発行部数のピークは1997年の5376万5000部で、2000年以降は前年を上回ったことがなく、2008年あたりから減少率が大きくなっている。

まさにつるべ落としの状態で、2017年は2.7%減と、前年の2.2%減よりも減少率が大きくなり、下げ止まる気配はまったく見えない。

「新聞崩壊」とは随分と大仰なタイトルではあるが、納得はする。

新聞が読まれなくなっている、という事実を両親の行動を見て、肌で感じたからである。

 

私は両親を観察した。

「どうやってニュースを得ているのか」

「どんなニュースを見ているのか」

についてである。

 

私はてっきり、スマートフォン、もしくはタブレットを見るのかと思っていた。

母は未だにガラケーだが、父はスマートフォンを持っている。また、私が誕生日にプレゼントした、iPadも持っているからだ。

 

しかし、そうではなかった。

スマートフォンは殆ど使われていない。理由は「画面が小さくて見づらいから」、さらにiPadはもっぱら、写真を見るためだけに使われている。

彼らがニュースを見ていたのは、「ノートパソコン」だった。

もともとは昔、自分がセットアップしたものであったが、ノートパソコンはインターネットでの調べ物と、メール、そしてAmazonを使う端末として、そしてとくに、新聞の代わりとして積極的に使われていた。

 

父は起床すると、ノートPCを開き、ニュースを見る。

見ているのはYahooニュース、およびハフィントンポスト、たまにMSNなど。

おそらくPCは画面が大きくて見やすいのだろう。

 

また、母はインターネットが大好きで、多様なものをインターネットで検索し、調べていた。

旅行、孫へのプレゼント、読みたい本の評判、家の近くの旧跡の歴史……

 

私は両親に「なぜ新聞を取るのをやめたのか?」と聞いた。

すると両親は言った。

「一つは、新聞が面白くないこと。二つ目はインターネットで十分であること」

 

さらに、もう少し話をしていると、いろいろなことがわかった。

 

・「新聞の文字が大きくなった」のは、実はマイナスも大きかった。

⇒読みやすいが、内容が薄くなったと感じられている

 

・「老人向け」の広告とコンテンツばかりが目立つと感じる

⇒老人扱いされたくない。若々しい気持ちになれるコンテンツを彼らは望んでいる

 

・「中立・客観的な報道」が少なくなっている

⇒ネットのほうが、様々な意見を見ることができるので、むしろ良い。

 

・社説などが的はずれである。

⇒若い記者の感覚と、合わなくなってきているのかもしれない。

 

・キャッチアップすべき、と思う情報が少ない

⇒引退すると、無理に情報を入れなくても良いと感じるのかもしれない。

 

指摘が事実かどうか、私にはよくわからない。

だが、「高齢者がそのように感じている」のは事実である。

 

*****

 

上で引用した記事の中でも触れられていたが、海外では、新聞はそもそも、セグメントメディアという認識が主流だろう。

「特定の人に、特定の情報を」が新聞の目的である。

したがって、日本の新聞が現在まで「マス」メディアでいられたことのほうがむしろ、例外なのだ。

 

だが、既にマスメディアへの需要は激減している。

現在の世の中は情報が多すぎ、情報の取捨選択が重要になっているからだ。

 

換言すれば「隣の人と同じ情報がほしい」と思っている人が減っているということだ。

必要とされる情報は最適化、細分化、セグメント化されており、もはや「全員が知る必要のあるニュース」など、ほんのわずかである。

 

したがって、新聞社が本質的に問わなくてはならないのは、ただ一つ。

「新聞が大きくある必要が本当にあるのだろうか?」という問いである。

 

より小さく、より濃く、より個別に。

それが新聞の本来あるべき姿かもしれない。

仮にそうであるならば、新聞社は今の巨体を維持できない、ということになる。

 

*****

 

余談だが、テレビについて。

実は今年、大晦日から正月にかけて、実家ではほぼ、テレビをつけることがなかった。

いや、正確には「テレビ番組」を見る機会がなかった。

 

年々、お正月にテレビをつけることが少なくなっていたのは感じていたが、

「テレビが嫌い」とか

「面白くないから」とか、

そういった積極的な「見ない」ではなく、ごくごく自然に、テレビをつける流れが生まれなくなったのだ。

もしかしたら、新聞がなくなったことにより、「テレビ欄」を見る機会がなくなったからかもしれない。

 

その代わり、ディスプレイにはYoutube、Amazonプライムビデオ、そしてiPhoneで撮影されたホームビデオが流れていた。

子どもたちも、Amazonプライムビデオの「おさるのジョージ」にかじりついていた。

なにせ、今は好きなものが何時でも見られるのだ。

 

知人の、テレビの製作会社に勤める方がつい最近、こう言っていた。

「テレビ局がだす制作予算よりも、Amazonなどのネット会社が出す制作予算の方が遥かに大きい。」

 

新聞とテレビは、同じ道をたどるのだろうか。

それとも、イノベーションによって新たな需要が創造されるのだろうか。

 

 

【お知らせ】

安達裕哉Facebookアカウント (安達の最新記事をフォローできます)

・編集部がつぶやくBooks&AppsTwitterアカウント

・すべての最新記事をチェックできるBooks&Appsフェイスブックページ

(Photo:Judy van der Velden