青信号が青信号としての役割を終えた時、どうなってしまうのだろうか。

 

点灯しない青信号

以前に働いていた職場近くの交差点に「交差点おじさん」と呼ばれる人がいた。

彼は日がな一日、交差点隅に置かれた自作の木製椅子に座り、刺すような視線で交差点を眺めていた。

比較的交通量の多い交差点なので目まぐるしく変化する光景を眺め、行き交う車や歩く人を観察しているのかと思ったが、実はそうではないようだった。

 

「あの人はああやって交差点の平和を守っているんだよ」

同僚の一人は彼のことをそう評した。少し見下したような口ぶりだった。彼は人間観察をしている、そう言ったのだ。

 

ただ、僕はそれはちょっと違うんじゃないかと思った。彼は交差点を見ていなかったし、たぶん平和も守っていなかった。

憮然とした表情で睨みつけるその視線に先には信号機があった。ただ信号機だけがあった。彼はそれしか見ていなかったのだ。車や人なんて眼中にないような感じだった。

何の変哲もない普通の信号機だ。三色のランプの下部には3つの窓が備え付けられており、各方向への進行を許可する矢印が表示される。南側から来る車を捌く働き者だ。信号機の方は間違いなく交差点の平和を守っていると思った。

なぜ彼はそこまで信号機を睨みつけるのか。なぜここまで一心不乱にただの信号機を睨みつけるのか。しばらく観察しているとある事実に気が付いた。

 

「この信号は青信号が点灯しない」

全くもって点灯しないのだ。赤信号で車を堰き止めた信号機は、いよいよこっちが青になる番だぞとなってくると、まず下部の矢印窓に直進方向と左方向の矢印を表示するのだ。赤だけど直進と左折はいいよ、と主張してくる。

その後にいよいよ青信号が点灯すると思いきや、赤から黄色に変わってまた赤になった後、今度は右向きの矢印だけが表示される。赤だけど右折してもいいよ、という表示だ。しばらくするとまた黄色が点灯し、そのまま赤信号となって矢印も消える。このサイクルの中でついに青信号が点灯することはなかった。

 

交差点おじさんはその点灯することない青信号を眺めていた。たぶんきっとそうなのだろうと思った。

彼がその灯ることのない丸いランプに何を見出したのか分からない。ただなんとなく深い理由があるように思えた気がした。

 

「ああ、あそこはね昔は青信号が点灯していたんだよ。でも交通量が増えてきてね、右直事故が増えたからああなったんだよ。完全に進行方向で分けるようになっちゃった」

同僚がそう言っていた。あの青信号は少なくとも数年前の昔は活躍していたのだ。煌々とその青色の光を灯し、道行く車たちを導いていたのだ。

時代が変わり、道路事情が変わり、交通量が変わり、青信号はその必要性と必然性を失った。そして役割を終えたのだ。

 

睨みつけているように見えて、少し怖い印象を与えてくれていた交差点おじさんだったが、なんだかその表情が寂しいもののように思えてきた。

もしかしたら、おじさんも何らかの社会的な役割を終えた身ではないだろうか。そして青信号に自分を重ね合わせたのではないだろうか。勝手にそう思い始めていた。

 

役割を終えた信号機はどうなるのだろうか。

もう使わないからといって取り外すようなことはしない。青だけが存在しない信号機があるのか分からないが、付け替えることまではしないはずだ。

ただ出番のない青信号がそこにあるのだ。これはもうこの世に存在しないことと同じなのだろうか。

 

松本先生「人は何らかの役割を持って生まれてきます」

そう考えた時、一つの言葉が僕の頭の中に浮かんできた。

「人は何らかの役割をもって生まれてきます。けれども、役割はそれだけでは終わりません。どれだけ多くの役割を見つけられるか、それが人生なのかもしれません」

中学の時の担任だった松本先生の言葉だ。松本先生は常に生きることと役割について僕らに説いてくれる先生だった。その先生が最後の日に僕らにそう言ったのを覚えている。

ただ、松本先生の最後の日は終業式でも卒業式でもなかった。

yamauchi

中学時代、僕は歌が下手だった。いや、今でも下手だ。尋常じゃないレベルで音痴で、クラス対抗で争う合唱コンクールにおいて生き恥レベルでクラスの足を引っ張っていた。

言うなれば僕はそういった宿命と役割を担って生きていると思っていた。クラスに一人はいる歌下手の役割、それはちょっと誇らしくもあり、気恥ずかしくもあった。

 

また同時にある役割を持った女子がいた。こちらもクラスに必ず一人いる、合唱コンクールの練習で発狂するブスである。彼女もまたそういった役割と宿命を担っていたのだろう。今になってはそう思う。

その日も合唱コンクールの練習においてブスが発狂した。僕の歌下手は人智や叡智を超えたレベルだったらしく、おまけに声がでかい。

発狂ブスは一通り発狂した後に大きなため息をつき、こう言った。

「おねがいだから合唱コンクールの日は休んで」

 

僕としては不真面目にやっているつもりはなかったが、彼女にはそう映ったようだった。

クラスの足を引っ張るためにわざとやっているくらいに思ったのかもしれない。

かくして歌が下手なブサイク中学生男子と、勝ちたいあまり発狂するブスと、お互いが与えられた役割をしっかり担って奮闘している絵図ができあがっていた。

 

すると松本先生が口を開いた。

「歌が下手な人がいたっていいじゃないか。勝つことが目的ではない。みんなでやり遂げることが大切なんです。皆がそれぞれの役割を全うすればいいんです」

そう言ってブスを諫めた。

すごく美談のように思えるが、先生からも僕が歌下手だと太鼓判を押された形になる。アメリカだったら訴訟もんだ。

 

こうして大きなお荷物を抱えたまま我がクラスは合唱コンクールに参加し、順当に6クラス中6位に落ち着いた。

クラスの女子は嘆き悲しみ、ブスは発狂して号泣していた。さすがに鈍感だった歌下手ブサイクもなんだか悪いことしたなあという気分になった。

 

さて、合唱コンクールが終わると僕らの役割はどうなるだろうか。

歌が下手でクラスの足を引っ張るという役割を担った僕も、発狂してクラス中に気まずい空気を蔓延させる役割を担った彼女もお役御免だ。ただのブサイクな中学生男子とブスな中学生女子になってしまう。

 

これを人生における大きな「何か」に置き換えたらどうだろうか。

子育てでもいい、大きな仕事でもいい、課せられた役割を全うすることは大切なことだ。

では課せられた役割を全うした時、その人の人生は終わるのだろうか。持って生まれた役割という考え方はこういったパラドックスがある。

 

松本先生の卒業式

合唱コンクールのエピソードには続きがある。

あの惨劇からしばらく経った日のことだった。その日の授業の最後に松本先生が改まった口調で言った。

 

「申し訳ありませんが、先生は先生を辞めることになりました。最後までみなさんのことを見守れなくて残念です」

なんでも、先生はご病気で、その療養が長引くことが予想されるらしく、少し早く退職することにしたそうだ。年度の途中で辞めることは大変悔しいが、仕方がない。そんなことを言っていたように思う。

 

僕らの小さな心はそれを受け止められないでいた。

何が起こっているのかよくわからなかったのかもしれない。学年が終わるまで松本先生が見守ってくれていると思っていた。

それどころか担任でなくなってもこの学校内のどこかから僕たちを見守ってくれていると思っていた。その松本先生がいなくなってしまう。何がどうなっているのか分からない、というのが正直な気持ちだった。

 

「卒業式をしよう。松本先生の卒業式を!」

クラスの誰かが言った。僕はハッとした。

それが良いアイデアだと思ったとかそういった類のものではなく、その提案が現実に引き戻してくれたのだ。

そして、やはり松本先生はいなくなるんだと強く認識するに至ったのだ。

 

かくして僕らは手作りの卒業式を松本先生最後の日に執り行うことにした。

しかしながらそこは子供である。きちんとした儀式を執り行うほどの企画力も資金力もない。

皆で集めたお金でささやかな花束を買い、寄せ書きの色紙を贈り、合唱でもしよう、となった。

 

これに発奮したのは例のブスだった。

新たな生命を吹き込まれたかのようにスパークしたブスは、「合唱コンクールの二の舞にはさせない」と高らかに宣言し、絶対に私が成功させてやると大見得を切った。

「合唱コンクールの練習で発狂するブス」、という役割を終えた彼女に新たに「先生を送り出す歌の練習で発狂するブス」という役割が宿った瞬間だった。

 

そして、もう一人新たな役割が宿った男がいた。

そう、「合唱コンクールでクラスの足を引っ張るから休めと言われるブサイク」という役割を終え、新たに「先生を送り出す歌で足を引っ張るから参加するなと言われるブサイク」という役割を持つ男、そう、僕だ。

 

スパークしたブスが最初に手を付けた仕事が僕に休めと言うことだった。

「本当に最後に先生に見せる歌だけはちゃんとしたいから休んで、お願い」

彼女はそう言った。彼女なりに与えられた役割を全うしようと一生懸命だったのだと思う。ただ、僕はそれは筋じゃないと思った。

 

クラス対抗で戦う合唱コンクールにおいて僕が足を引っ張っていることは事実だった。

勝つという目的がある以上、足を引っ張っている僕がブスに何を言われようと仕方がないと思っていた。

 

けれども、先生を送り出す歌となれば話は別だ。勝つも負けるもない。足を引っ張るも何もない。つまり、そこまで迫害される謂れがないのだ。

だから僕はこの時ばかりはブスに言い返した。ブスもまさか言い返されるとは思っていなかったらしく、一瞬ひるんだが、それでも持ち前の口の悪さで応戦してきた。

 

「先生を送り出す歌なのに誰かを排除しようって考えが浮かぶなんて頭おかしいんじゃないか」

「あなたの下手さは不快だから先生も気分を悪くする。参加しないで」

「君は松本先生の言葉が何もわかってないんじゃないか。本格的に頭おかしいんじゃないか」

「あなたの歌の下手さで小動物が死ぬ」

「たかが歌で人のことをそこまで言えるって本格的に頭おかしいんじゃないか」

 

という激しい応酬があり、最終的にブスが泣いてしまったので、僕はブスの言う通り先生を送り出す歌に参加しないことにした。

放課後にこっそりと練習することになっていたが、僕はそれに参加せず、家に帰ってスチュワーデス物語の再放送をみていた。

 

クラス委員長が置いていったカセットテープ

数日して、クラス委員長が我が家にやってきた。

彼は成績優秀なスポーツマンでナイスガイという男で、責任感が強い。そんな彼が僕を慰めるように言った。

「俺もブスが言っていることはおかしいと思う。全員で先生を送り出すべきだ。歌が下手なやつが混じっていていいと思う。俺がブスを説得する。だから是非とも参加して欲しい」

ということだった。

すごい美談に思えるかもしれないが、委員長からも僕が歌が下手だと太鼓判を押された形になる。アメリカだったら訴訟もんだ。

 

こうして僕は先生を送り出す歌に参加することになったのだけど、やはり練習に参加するとブスとの衝突が避けられないため、当日まで自主練習に励んで欲しい、そう言っていた。

さらに、これの1曲目がみんなで歌う曲だからとカセットテープを置いていった。

皆で歌う曲は荒井由実さんの「卒業写真」だった。歌詞の一部を引用すると次のような内容だ。

人ごみに流されて 変わってゆく私を

あなたはときどき 遠くでしかって

(卒業写真/荒井由実より引用)

松本先生にはいつまでも見守っていて欲しい、そんな僕たちの願いと気持ちがこもった良い選曲のように思う。

Ippei Suzuki

これが委員長が残していった「Yuta’s BEST」と書かれた謎のテープの1曲目に入っていた。

けれども、結果から先に書いてしまうと、僕はこの曲ではなくB面の1曲目を聴いて、それが皆で歌う曲だと思い込んでいた。

具体的に言うと、そこには尾崎豊さんの「卒業」が収録されており、僕はそれが課題曲だと思い込んでいた。これを選ぶとは冒険するなーって思ってた。

 

こうして一人ぼっちの練習が始まった。血の滲むような練習が始まったのだ。あまり知られていないことだが、実は音痴な人間も狂ったように練習し、全ての音程を暗記してしまえばそこそこに歌えてしまうのである。

音痴とは単に音程が合っているのか外れているのか自分で判断できないだけなので、正当な音程を完全に覚えてしまえばまあまあ歌える。

 

委員長曰く、最後の合唱は僕中心でいく構成にしたそうだ。僕が一番松本先生に歌のことで手を煩わせたので、僕中心に歌うべきと言った。

初めに僕のソロから歌が始まり、徐々にクラスメイトが参加していき最後に大合唱になる、そういった構成にするつもりだったようだ。

かなり責任重大だ、特に序盤あたりは完璧な音程を暗記しなくてはならない。死に物狂いで特訓した。

 

ただ、忘れないで欲しい。皆で歌うのは荒井由実さんの卒業写真だ。僕が死に物狂いで練習しているのは尾崎豊さんの「卒業」だ。既に不幸な結末しか見えない。

 

熱唱「尾崎豊」

いよいよ松本先生が退職される日になった。

いつものように授業を終えた松本先生は、少しだけ改まって教卓の前に立ち、ゆっくりと話し始めた。

 

「人には持って生まれた役割があります。先生はそう思います。けれども、それだけじゃない。役割以外もずっとその人の人生は続いていく。役割がつまらないことや終わってしまったことを嘆くより、より沢山の「役割」を見つけられるようにしなさい。そう生きるべきです。

先生はもう「役割」は終わりです。君たちを成長させるという「役割」は終わりです。でも、君たちの成長を実感して喜ぶという新しい「役割」があります。どうか、いつか偶然街で会った時、先生を喜ばせてください。それが君たちの「役割」です。」

 

教室は静まりかえっていた。泣いている子もいた。そこで委員長が立ち上がった。

「先生、僕たちからプレゼントがあります」

それを合図に僕が立ち上がる。いよいよ歌が始まる。僕のソロから始まり、徐々に皆が参加してきて大合唱になる、感動的な演出が始まるのだ。僕は暗記してきた音程を間違いないように完全に集中して歌いだした。

ただし、何度も確認するが、皆で歌う曲は荒井由実さんの「卒業写真」であり、僕が練習してきたものは尾崎豊さんの「卒業」である。これはもう大事故だ。

 

さて、肝心の僕は覚えてきた音程を思い出すべく完全に集中して周りが見えない状態になっているので、クラスメイトの誰かになったつもりでこの状況を振り返ってみたいと思う。

僕がおもむろに立ち上がり、歌い始める場面からだ。

「校舎の影 芝生の上 すいこまれる空」

え!? これ歌ちがわね? 尾崎? なんで!?

「幻とリアルな気持ち 感じていた」

やべえ、あのアホ、歌間違ってる。尾崎、歌ってる。

「チャイムが鳴り 教室のいつもの席に座り 何に従い 従うべきか考えていた」

どうしたらいいんだ。これ途中から入ったほうがいいのか。でも正確に歌詞なんかわかんねえぞ。入るべきか入らないべきかどうするんだ。

「ざわめく心 今 俺にあるもの 意味なく思えて とまどっていた」

ざわめいているのは俺たちだし、意味なく思えているのも俺たちだし、とまどっているのも俺たちだ。

「笑い声とため息の飽和した店で ピンボールのハイスコアー 競いあった」

競い合ってねえし。ってかみんな静観か。つまりあいつ一人に唄わせ続けるんだな。微妙に音程外してるし笑いこらえるのが大変だぞこりゃ。

「行儀よくまじめなんて 出来やしなかった 夜の校舎 窓ガラス壊してまわった」

壊して回ってねえし

「信じられぬ大人との争いの中で 許しあい いったい何 解りあえただろう」

これ、先生送り出す歌じゃないよな。先生を全く信じてない歌だよな。全然解り合えてないし。

「うんざりしながら それでも過ごした ひとつだけ 解っていたこと」

やべえよこいつ、ほんとやべえよ。ソロでここまで歌いきっている。麻酔銃とかないのか。誰か麻酔銃とか持ってないのか。ヤツを止めろ。

「この支配からの 卒業」

まるで先生が俺たちを支配していたみたいじゃないか。これ、アメリカだったら訴訟もんでしょ。

「闘いからの 卒業」

闘ってねえし。

(尾崎豊「卒業」より引用)

 

これはもう悲劇ですよ、悲劇。

僕は音程を守ることで精いっぱいで、周りがついてきていないことに全く気付いていないわけですし、クラスメイトもはいってくるわけにもいかない。

これを悲劇と言わずに何を悲劇というのか。その後も微妙な空気の中で花束を渡したり色紙を渡したりしていた。

 

さすがの僕も自分のやらかした罪の大きさにかなり落ち込んだのだけど、微妙な空気の中でブスだけが僕に声をかけてくれて、こう言った。

「けっこう上手かったじゃん。見直した」

そう言った彼女の笑顔には、何か新しい役割が吹き込まれたように見えた。

 

役割が終わっても僕らの人生は続いていく

人には持って生まれた役割がある。その役割を全うすることはもちろん大切だが、もっと大切なことはいかにして多くの役割を見つかるかである。

役割が終わっても僕らの人生は続いていく。

きっと多くの役割が僕らの人生には横たわっているのだから。

 

役割を終えた青信号はどこにいくのだろうか。

急に冒頭で述べた灯ることのない青信号とそれを見守っていた交差点おじさんのことが気になり、少し車を走らせて前の職場の近くまで行ってみた。

 

もう交差点おじさんの姿はなく、彼が置いた自作の椅子も撤去されていた。

何が起こったのかは知らないが、それでも青信号は相変わらず青を灯していなかった。やはりあの青信号は支配から卒業したのだ。

 

ただ、その灯ることのない青信号の上には小さな鳥が二羽とまって休憩していた。

それを見た僕はまた車を走らせて、今の職場へと向かうのだった。

 

 

著者名:pato

テキストサイト管理人。WinMXで流行った「お礼は三行以上」という文化と稲村亜美さんが好きなオッサン。

Numeri/多目的トイレ 

Twitter pato_numeri

 

(Photo:Jun OHWADA