『なぜ星付きシェフの僕がサイゼリアでバイトするのか?』(村山太一著・飛鳥新社)という本を読みました。

著者は、イタリアの「26年間三ツ星を保ち続けている、伝説のレストラン」で、創業者の一族以外ではじめての副料理長に抜擢されるという輝かしいキャリアを積み、東京の「ラッセ」というイタリアンレストランを経営しているのです。

 

『note』の記事が話題になり、書籍化されたこの本。

正直なところ、僕の第一印象は、あまり良いものではなかったのです。

ああ、また奇抜なことをわざわざやって、話題づくりをしようとしている人の本か……サイゼリアでバイトしている時間があるなら、自分の店のことをなんとかすればいいのに……って。

 

この本のなかでは、自らの行動指針としている

「サバンナ思考」(危機感を持ち続け、一つでも多くのことに気づき、すぐに行動する、というサイクルをなるべく早く繰り返していく)と

「マヨネーズ理論」(自分でマヨネーズの作り方を一から研究するよりも、美味しいマヨネーズを作れる人に、作り方を教えてもらうほうが早い、という「すごい人のやり方を丸パクリして最速最短で成長するメソッド」)

が紹介されています。

 

この「マヨネーズ理論」についての話、「そんなの当たり前のことなのでは……」と思いながら読んでいたんですよ。

でも、著者が、その「丸パクリ」のやり方について語っているところを読んで、昔の自分の失敗を思い出さずにはいられなくなったのです。

尊敬する誰かを素直にコピーできる人は超強いです。

一流料亭吉泉での3年間はまさに、料理長であるオヤっさんをひたすらコピーし続ける日々でした。

当時の料理人の世界では「教えない」のが普通でした。師匠や先輩のしていることを見て、マネながら習得していかなければならなかったんです。だから、教わらないと何もできないような人はあっという間に淘汰される、弱肉強食のサバンナでした。

 

ここでも、サバンナ思考の「危機感×気づき×即行動」が重要になります。

僕はオヤっさんを必死で観察しました。何を見て、どう感じて、どう動いているのか。オヤっさんと同じように見て、感じて、動くようになりました。

 

ある日、オヤっさんの食材の買い出しに同行させてもらい、京都中央市場に行きました。僕はじっとオヤっさんを観察していました。何度か連れていってもらううちに、どの店で、どういう魚を選んで、どの順番で買うのか、だいたいわかるようになりました。

ルートがわかっていたから、僕は自然と先回りをして、次の店に行ってお店の人と準備を進めて、またオヤっさんのところに戻る。そんな風に市場まわりをするようになりました。

 

僕が入って半年くらい経ったとき、オヤっさんが珍しく弟子全員で市場への買い出しに行こうと言い出しました。仕入れが半分くらい終わったころ、オヤっさんは弟子たちに言いました。「お前ら村山の動きを見ろ」と。10年以上いる兄弟子もそこにいました。

僕は何のことかわかりませんでしたが、後から同期に聞いたところ、「僕が先回りしているところを見せたかった」とのことでした。

一流を徹底的に観察して、完コピする。そのうえで、先回りする。このやり方で間違っていなかったんだと、僕は確信しました。

こんなやり方、誰にだってできるっていうものじゃないだろ!

師匠の完コピがうまくなっても、自分のオリジナリティがないから、この人のレストランは星1つだけなんじゃないか?

そんな否定的な感情も、読みながら生まれてはいたのです。

 

でも、それは、僕自身が「自分を指導している人たちを、うまく『見る』ことができなかった」というコンプレックスに基づく反感でした。

 

 

医学部の学生って、病棟実習に出ると、外科の手術であるとか、指導してくれる先生の外来を「見学」する時間がけっこう長いのです。

晴れて医師免許を取り、さまざまな治療や処置をする際にも、まず、指導医や先輩の手技を「見る」ことから始まります。

 

その日、僕は手術場でやる、簡単な処置に、助手として付くことになりました。

これまで、何度も「見て」きた処置です。

このくらいなら、自分でもできるだろう、いやでも、人間相手だからなあ……と、やたらと緊張していたのを覚えています。

 

患者さんに麻酔がかけられ、術者が「じゃあ、準備して」と僕に言いました。

そこで、僕は患者さんの身体をイソジンで消毒し、身体を覆う、滅菌シーツを手にとり……手にとり……

 

僕はそこで、固まってしまったのです。

このシーツ、どんなふうに掛けるのが正しいのだろう?

 

僕はその手技で、患部を処置するための機械の操作法とか、手技の手順とか、合併症を起こさないための注意点とかをけっこう予習していたつもりでした。

でも、その手技を行うまでの下準備が、全然頭に入っていなかったのです。

そういう下準備を「自分でやること」がイメージできていなかった。

 

「この布、どういうふうに患者さんに掛ければいいんでしょうか……」

「しょうがないなあ、今までずっと、何を見ていたんだお前は!」

 

本当に「何を見ていたんだ」ですよね……

 

今まで、「見学」で、「処置中の術野」とか「エコーの画面」とかを眺めているだけで、「見て学んでいるような気分」になっていたことに、このとき、ようやく気づいたのです。

病巣を取り除いたり、血を止めたりするような「わかりやすい、何かをやっているような場面」だけを見て、「見学」したと思い込んでいた。

 

まさに「お客さん気分」ですよね。

自分が術者になるときには、下準備ができなければ、そこから先には進めないのに。

 

僕は本当に「見ていた」だけで、「自分が術者になったら、どう動くべきなのか」への意識が決定的に欠けていた。

「見学」していると、どうしても派手なところ、わかりやすいところに目が行くのですが、実際の「勘どころ」は、それ以外のプロセスにある、ということも、少なからずあるのです。

 

採血や点滴ルートの確保は、「細い血管に、いかにうまく針を刺すか」という技術の優劣が問われると自分でやるまでは思っていたのです。

しかしながら、「卓越した技術がなくても簡単に刺せるような血管をうまく探し当てること」のほうが、「難しいことをやってみせる技術自慢」よりも、はるかに採血がうまくいく可能性を高めるのです。

 

プロ野球選手でも、「難しい球をうまく打つ」のが良い打者だと思われがちですが、長いシーズンでより良い成績を残せるのは「選球眼が良く、自分が打てる球を逃さずに確実にヒットにできる選手」なのだと思います。

エコーやモニターの画面よりも、検査をしている人の手元の動きや、患者さんの反応から得られる情報は多いのです。

 

この「名人の動きを完コピする」というのは、ものすごく前時代的な印象を受けるかもしれません。

しかし、少なくとも初心者は「自分の価値基準で要点をつかもうとする」よりも、「完コピする」ほうがはるかに有益だと僕も思います。

 

自分のオリジナリティは大事だけれど、型ができていない素人に「型破り」はできないのです。

なぜこんなことをやるのか、効率が悪いのではないか、と疑問になっても、実際にその動きをトレースすることによって、その動きの「意図」が理解できることもありますし。

 

 

著者は、「サイゼリアでアルバイトをして学んだら、人時生産性(従業員1人の時間当たり生産性)が約3.7倍になって、劇的に経営を改善できたそうです。

それまでは、長時間労働で、多くの従業員がいたレストランだったのですが、サイゼリアを参考にして、動線や道具を工夫し、少人数で効率よく動き、早く仕事が終わるようにしたら、人間関係も良好になったのです。

新型コロナウイルス禍でも、スタッフが、さまざまなアイデアを出して、著者をサポートしてくれてもいるそうです。

 

『サイゼリア』は、全国にたくさんの店舗がありますし、そこでは、大勢の店員やアルバイトが、「ごく普通の職場」として働いています。

一般的な感覚でいえば、ミシュランで星がつくようなレストランのほうが、よほど「特別な場所」なはず。

 

この本を読んでいて痛感するのは、「学べる環境」というのは身近なところにもたくさんあるのだけれど、そこで素直に学ぼうという姿勢でいるのは本当に難しい、ということなんですよ。

同じ環境にいても、そこから得られるものは、人それぞれ。

「見学」しているつもりが、「ただその場にいて、眺めているだけだった」自分のことを思い返すと、なんて勿体ないことをしてしまったのだろう、と情けなくなります。

 

ただ、著者が、自分のレストランで苦境に陥ったあと、サイゼリアで学んだように、実際にその仕事を経験してみることで自分に足りなかったものに気づき、あらためて学び直すというやり方もあるのです。

「自分はちゃんと『見て』いなかった」ことがわかってからどうするか、そこが勝負の分かれ目なのだと、今の僕は思っています。

 

 

 

 

 

【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

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