「計算できない労働者」

おれには双極性障害という障害がある。「躁うつ病」といったほうがいまだに通りがいいかもしれないし、イメージしやすいと思う。

双極性障害にはI型とII型があり、I型が波の大きさが凄まじく、II型はそうでもない。おれはII型で「そうでもないのならいいのでは?」と思うが、II型はII型で自殺率も高くけっこうやっかいなものだ。

症状は……もちろん人によって違う。処方される薬も効き方も人によって違う。あくまでおれひとりの例を書く。

 

おれの場合は「躁うつ」というより、限りなく「繰り返される抑うつ」といったほうがいい。

軽躁状態であっても、人並みに活動できるというのがせいぜいで、イライラ感に苦しんだり、暴力的になったりもしないかわりに、躁状態ならではの高揚もない。せいぜい歯ぎしりが出るくらいのものだ。

 

一方で、抑うつ状態はなかなかに重い。これは以前、できるかぎりの詳細をこちらに書いた。

おれが抑うつ状態になったときのことを書き留めておきたい。 

 

「鉛様麻痺」という言葉が、自分の症状には一番しっくりくる。

ベッドの上で動けなくなる。上半身を起こすこともできない。朝から、これになる。このところは午後になっても動くようにならないことが増えてきた。ちなみに、この症状について、主治医は「珍しい出方」と言っていたのを申し添えておく。

 

で、これに前兆があるかといえば、これといってない。

月曜日、普通に、あるいはご機嫌ですらあった翌朝、急に動けなくなる。普通に過ごした前の夜に「明日の朝はやばそうだ」と感じることなど、まったくない。長年やってきたが、微塵もない。

 

もちろん、一度抑うつモードに入ると、さすがに「明日もか」と思う。何日か、長ければ一週間は続くのだ。

逆に、今日よくて明日だめで明後日は大丈夫でその次の日はだめ、みたいな一日単位での入れ替わりはないけれど。

 

では、なにかこれに原因はあるのか。明日は嫌な仕事があるとか、嫌な人と連絡しなくてはならないとか。そういうのも、ないのだ。もしもあったらあったで、よくわからないが適応障害とか、なにか別名がつくかもしれない。

むろん、長期的に見たら現状の幸福も将来の希望もなにもないといったストレスフルな状況ではあるが、毎日毎日ということになると、べつに(低賃金を除いて)職場に問題もないし、人間関係も良好だ。

 

いずれにせよ、ランダムに、いきなり抑うつはやってくる。そして、おれの場合は「動けない」という形で現れる。

「動けない」とはどういうことか。「働けない」ということだ。短くて半日、長くてその日の夕方まで、いきなり労働力のおれは「0」になる。

 

あれ、おれって「計算できない労働者」じゃないのか。ふと、そう思った。

 

問題はあるけれど計算できる労働者

世の中にはいろいろな労働者がいる。

もちろん、いろいろな病気や障害を持った人もいるだろう。あるいは、現代的な労働環境に適応がむずかしい、ある種の発達障害を持った人もいるだろう。

 

そういう人にはその人の地獄があって、おれには語れない。

しかし、周りから見れば、例えばその人が平均の7割くらいの労働力しかないとしても、動いて労働する分には「0.7」という労働力が計算できるではないか。

 

たとえば、身体障害がある労働者がいて、どうしてもできないことがあって、人より生産性が劣るとしても、働いている分にはそれだけのプラスが計算できることになる。

雇う側は労働力を足し算して、必要な生産をする。しようとするわけだ。

 

前提としては、「計算できる労働者」がいることだ。たぶん。

その想定で人を何人雇って、何時間働かせて、どれだけ利益を上げるか、という話だ。たぶん。

たぶん、というのは、おれが経営学など学んだことが一切ないからだ。まともな仕組みの企業で働いたこともない。

 

「計算ができない労働者」は困る存在なわけだが

で、おれである。おれはいきなり「0」になる。

計算ができない。おれは計算も苦手だが、おれ自身も計算できない存在というわけだ。これは困ると思う。というか、困らせていると思う。

 

そんなおれがなぜ労働者としてかろうじて存在できているかといえば、おれの能力がすばらしく高いので、そんなマイナス要素を吹き飛ばしてしまうからだ……と、言ってみたい。

 

実際は違う。いくつかの偶然が重なったにすぎない。

 

たまたまおれのような人間を雇わざるをえない情況にある零細企業がある。

たまたまおれの仕事が夕方から出社してボーッとした頭でもなんとかできるような内容である。

たまたま仕事が、基本的にマウスとかキーボードを動かして、画面とやりとりできればいいだけで、取引先との商談とか、会議とか、あるいは営業とか、そういったものとはほとんど無縁だ。

 

むろん、急に出てこなくなってくることを十年以上承知という環境もある。迷惑はかけている。

 

まあ、そんな偶然が重なっているだけで、おれが労働者のふりができるのはたまたまだ。

高卒で資格もないおれが、別の場所でこのような環境を見つけ出したり、作り上げたりするのは非常に困難なため、転職というものはできない。会社自体が終わりそうなので非常にやばいが、この現状を維持するしかない。

 

いずれにせよ、おれは零細ゾンビ企業の維持には少し貢献しているかもしれないが、これをどうにかしてまともな企業するような力もない。いや、もしもそういう性能があったとしても、急に「0」になってしまうおれには、実行ができない。

急に「0」になるというのはいないのと同じことであって、存在しないのであって、抑うつ状態で固まっているおれは、労働者として無存在しているのである。

 

無をきわめることができればたいしたなにものかの修行者かもしれないが、そういう意味でもない。ただただ、うめきもせず、ごろごろしたりもできず、固まっている。

無為な時間だけが流れていく。とうぜん、おれの主観だけでなく、客観的に労働力として無なのである。

 

「計算できない労働者」も働きやすい世の中がいいよね

しかし、あらためて考えてみよう。突然働けなくなる人。おれのような障害者や慢性的な病気の人に限らない。

たとえば、子育て中の労働者はどうだろう。とにかくなにかいろいろトラブルがあったりして、急に職場を離れる必要とかが多いかもしれない。家族を介護している労働者というのもいるだろう。急にいなくならざるをえない。おれの想像力が足りないだけで、ほかにももっとあるかもしれない。

 

どうしたものか。と、どうしようもなくなって育児のために仕事をあきらめたりする話には事欠かないし、介護離職という言葉もよく目にする。いずれも社会問題になっている。そうだ、社会の問題なのだ。

 

というわけで、「計算できない労働者」も働きやすい世の中がいいよね、ということには社会のコンセンサスがとれるかもしれない。

かもしれない、というか、どうにかしなきゃな、という合意はあるのだろう。ただ、方法が難しいだけで。でも、そうだ、計算できない労働者も、現代労働に適応が大変な労働者も、みんな働きやすいほうがいい。

 

働きやすくしていこう

その解決策はあるのか。

究極的に一発で解決する方法はないだろう。ただ、あるていど計算ができるけど働けない、という場合には時短勤務などが有効かもしれない。休暇制度の充実とかもできればいいだろう。むろん、社会や企業にそれだけの余力がなければできない。

 

おれのようなまったく計算ができなタイプにはどうだろうか。

ぜんぜん普通のときに時短も休みも必要ない。そこで休んだからといって、動けないときに動けるようになるわけでもない。もっとフレキシブルな勤務体系がいいかもしれない。というか、おれも今現在、ある意味でフレキシブルに働いているといえなくもない。

 

なにせ朝突然、「今日は無理です、すみません」のLINE一本で連絡が途絶え(電話が鳴れば出るけど)、昼過ぎにいきなり出社とかしている。

しかしながら、もしも自分の仕事がベルトコンベアで流れてくるものを加工したり、時刻通りに電車を運転したり、店頭で接客するものであったりしたら無理だ。夕方にまとめてやります、というわけにはいかない。

 

そうはならない仕事でなくてはならないし、自分の仕事とて一週間や一ヶ月の長いスパンでなにか成果を出せればいいというわけにはいかない。だから抑うつの日にも出社しているわけで。

 

出社。これも問題か。おれの場合は通勤にほとんど時間がかからない。会社が近い。

あと、自宅に労働できるだけの環境を整えられない。職場のデスクがひどくなりすぎると、見るに見かねた上司がおれ不在のときに勝手に片付けてくれる。まあともかく、通勤、これがおおきな障害になっている人もいるだろう。

 

もちろん対策はリモートワークだ。フルリモートともなれば、なにかこう、いろいろ助かる人もいることだろう。むろん、世の中にはリモートワークでどうにかなる仕事と、そうはいかない仕事がある。

いまのところ、そうはいかない仕事のほうが世の中には多いだろう。たとえばエアコンの撤去と設置をリモートワークでできるかという話だ。

 

……ちょっと話は逸れるが、「エアコンの撤去と設置」はおれのなかで一つの目安になっていて、これを完全に自動で機械ができるようになれば、「シンギュラリティが起こった」と言えるのではないかと思っている。

 

というのも、自分の安アパートのエアコンを買い替えたときやってきた業者のお兄さんの手際やその場での判断などを見ていて、これは難しいと思ったのだ。

いや、難しい仕事なんて世の中にはたくさんあるけれど、さまざまな立地のさまざまな部屋までエアコンを運んできて、さまざまな現状を把握し、古いエアコンを片付け、新しいエアコンと室外機を設置して帰っていく。

これ全部、機械ができたら、さすがにシンギュラリティだろうと。

 

たぶん、いまのAIとロボット工学では難しいよね? おれのちらかった部屋のシステムベッドの上で作業して(さすがに業者さんくるときは片付けますが)、古いエアコンの室外機がなぜかコンクリートで固定されているのを見て、撤去をあきらめて別の角にパイプつなげて新しいの置いて……って。それでもって、車が入れないところにあるから、近くのコインパーキングに古いの持っていって、自動運転で帰っていく。まあ、いくらでも金をかけていいというのならば、技術的には実現可能なのかもしれないが……。

 

閑話休題。って、なんだっけ。そうだ、ええと、働きやすい職場づくりで、障害や問題のある人も楽に働けるようになれば、社会全体の生産性も上がるかもしれないし、ハッピーだということだ。

 

ハッピーなのか?

 

そもそもなんで働かなきゃいけねえんだ

そうだ、なんだ、なにが働けてハッピーだ。そこがおかしい。

なに、労働は人間の尊厳を保つために重要な要素だ? 知らねえ。おれは働きたくないんだ。それを忘れてた。おれの座右の銘は「無為無作」だった。

 

障害があるからか? 違う。もう、子供の頃から学校に行かなきゃいけないことも苦痛だったし、結果ちゃんと引きこもりのニートになったくらいだ。

生きるために食う。食うために仕方なく働く。死ぬ勇気はない。それだけの話だった。

 

なにが働きやすい職場だ。働かなくていいならそれに越したことはねえんだ。いや、そうだ、障害もあるんだ。双極性障害の人間の脳の灰白質が小さくなってんだ。

もう働いている場合じゃねえ。おれを休ませろ。固まってる日は固まるが、固まっていない日も固まらせろ。いや、固まらないと思うが、寝かせておいてくれ。頼むから静かにしてくれ。

 

あー、しかし、人間が働かなくてもいいって、それこそシンギュラリティの到来を待つか? それともあれか、ベーシックインカムか? ただで金くれたら解決か?

悪くねえ。でも、「ただで」というほどかんたんに金が湧き出てきて、みんなに配れるくらいなら、世の中の問題の多くはとっくに片付いているはずだ。ここでベーシックインカムのメリットとデメリットについて論じるつもりはねえが、なんかどうも今の人類には早すぎるような気もしている。

 

でも、おれは労働の外に出たい。働くのが嫌だ。なにもしたくねえ。

けど、なにもしなくて生きていけるほどの金がねえ。つーか、普通に老後の金もねえ。まあ、独身男性の平均寿命や「自殺を除いた」双極性障害者の平均寿命を考えたら、老後なんてこない確率のほうが高いんじゃないかと思うけどな。

 

ああ、おれだけにただで金が入ってこないものか。もう、年々、抑うつの強さと長さがきつくなってきてんだ。基礎的な体力的なものが、それに抗えなくなってんだ。

 

え、障害年金? 生活保護? もっとひどい情況になったら、現実的にはそういうことになるのか。

しかし、そうまでして生きていていいのか、おれは。生まれてくる必要があったのか。ねえな。ねえけど、いざとなったらおれはなにをするかわからねえ。

役所に行くぞ。申請するぞ。ふざけんな