抑うつ状態
「鬱(うつ)」という言葉はわりと広い概念ではないかと思う。
もちろん、「うつ」=「うつ病」=「大うつ病性障害」と考える人もいるだろう。
とはいえ、信頼にたるかどうかわからないWikipediaでも「抑うつ」として項目があるように、「抑うつ状態」というものがある。
その根っこは、いわゆる「うつ病」である「大うつ病性障害」であることが多いのかも知れない。
しかし、実態、その原因は多岐にわたるといっていい。
たとえば、大切な人を喪ったとか、職を失ったとか、そういう人生上のイベントで気が塞ぐ場合もあるだろう。
それで抑うつ状態になることもある。
それは人間の心理として当たり前のことではあるので、病気としてみなされない場合もある。
おれはべつに「鬱だ死のう」という軽い使い方をしてもいいと思う。
ちょっとした軽く不愉快な出来事でも、人は鬱になると思う。
とはいえ、おれは双極性障害と医師にも行政にも認められた(?)、手帳持ちの精神障害者だ。
そのおれが抑うつ状態になったときのことを書き留めておきたいと思う。
あくまでおれは一当事者であって、医師でもなんでもない。
おれの体験する一時の状態である。その記録、記憶である。そのことはご留意いただきたい。
身体
おれが抑うつ状態になったな、と思うときは「身体が動かない」ときである。
脳と身体の回路が断絶したような気になる。
ともかく身体が動かない。「鉛様麻痺」という言葉があるが、それがしっくりくるだろうか。
ともかく、自分にだけ重力が強まったように、身体が動かない。
これを疑似体験するには、脳に効く薬(そんなものあるか知らないが)などより、手足に重い重い鉛をくくりつけたらいいと思う。
とにかく、動かないし、動けないのである。
同じ体勢でじっとするしかない。
寝返りをうつとか、腕が痺れてきたから姿勢を変えるとか、それすら辛いのだ。
辛いというか、できない。どうにかしてしまったというかというほど、動けない。いや、どうにかしているのだけれど。
意識
意識という言葉が適切かどうかわからない。わからないが、とりあえず意識はあったりなかったりする。
寝ているわけでもないが、寝ているような感じでもある。
とはいえ、意識がある場合もある。
「動かなくてはならない」と思う。思うけれども動かない。
目を開けて一点を見つめたりするし、目を閉じたりする。
おれは独身者なので、伏せっているときも一人だが、もしもだれかが声をかけたら「ああ」とか「うん」とか返事はできると思う。
心理
心理という言葉が適切かどうかはわからない。
わからないが、言葉としての想念が浮かぶこともある。
だいたいは、「こんなんでは仕方がない」、「動かなくてはならない」、「使い物にならない」、「死んでしまった方がいい」とか、当たり前のようにネガティブなものである。
身体が動かない状態でポジティブな考えが頭に浮かぶとは思えないが。
とはいえ、身体が動かないその状況下、そのときにあって、暗い想念で頭がいっぱいになるという感じでもない。
むしろ頭は空っぽに近い。
「身体が動かない」、それでいっぱいという感じ。
思考のようなものが入り込む余地は少ない。そのように思える。
行動
先に身体が動かないと書いたが、やはり少しの行動はある。
あまりにも喉がかわいたら、枕元のペットボトルから水分を補給する。
さらに、あまりにもお手洗いに行きたくなったら、ベッドから這いずり降りて、トイレに行く。
ただ、その動きはひどく緩慢で、用を足したら、自動的にベッドに戻ってしまう。
その行動を見て、「動けるじゃないか」と考える人もいるだろうし、おれ自身も「お手洗いに動けるなら」と思わないでもない。
が、やはりどうしても自動的に、強い力に引っ張られてベッドに戻ってしまうのだし、また動けなくなる。
自分でも不思議に思っているので勘弁してほしい。
空腹
朝ごはんも(もとから朝食をとるという習慣はないけれど)、昼ごはんの時間も過ぎて、まだ動けないときがある。
そういう場合、抑うつの動けなさに加えて、純粋に体力的な動けなさを感じることがある。
空腹といっていいかどうか。
サイクリングなどをする人にはわかるかもしれないが、ハンガーノックのような状態になる。
だったら、とにかく起きて、なにか食べれば? という話になるが、それもできない。
いたずらに空腹に苦しみ、それでもなお動けない。二重の動けなさだ。これには正直、まいる。
不安
暗い想念、言葉が入り込む余地は少ないと書いた。
しかし、心臓に動悸があり、手汗がにじむような不安感に襲われることもある。
一刻も早く抗不安剤を飲まなくてはならないと思う。
思うけれど、起き上がって、薬の置いてある場所まで行って、薬をパチっと容器から出して、口の中に入れて、水で流し込む、という一連の動作ができない。
頭の中で何度もシミュレーションのようなことをするが、動けない。
お手洗いのついでかなにかに、なんとか抗不安剤を飲むことができることもある。
しかし、飲んだら飲んだで、心が休まってしまい、ますます身体は動かなくなったりする。どうしようもない。
礼拝
これはおれ自身が名づけた自らの動きだ。
横たわりから、なんとかして立ち上がろうとして、とりあえず正座のような姿勢になる。
しかし、そこで力尽きて、両手を前について、なにかを拝むような姿になる。
そのまま倒れ込んで、また横になってしまう。
これを何度も繰り返す。
そのたびに「あーあ」と思うが、思うばかりで、身体は言うことを聞かない。
時間
抑うつ状態、強い倦怠感を感じるようになると、時間の動きが遅くなるという話もある。
たしかに、そのような感じもある。そういう感じもわかる。
わかるけれど、おれの場合は、無駄に早く過ぎていくという感覚が強い。
朝、起きられず、出社すべき時間も過ぎて、それでも動けない。
そんなときは、あっという間に三十分、一時間が過ぎていく。
過ぎていって、昼を過ぎて午後になるのは毎度のことだ。
晩、仕事を終えて家に帰って、座り込んで動けない。そういう場合もある。
そんなときも、「晩ごはん作らなきゃ」と思いながら、あっという間に時間が過ぎていく。
自炊するには遅くなりすぎて、余力があればカップ麺でも作れるか、というくらいになる。
なにもできないで時間だけが過ぎ去っていく。本当になにもない時間だ。
端末
身体が動かない、という状態でも、指先は動いたりする。
となると、携帯端末、スマートフォンを操作することくらいはできる。
それによって、会社に「動けないので遅れます」、「昼になります」、「午後になります」、「夕方までにはなんとか出られます」とメッセージを送ることができる。
あるいは、ネットにアクセスして、文字を読むこともできる。いや、できない。
このあたりは微妙で、なんとかブラウザを立ち上げて、ニュースサイトなどにアクセスしてみても、文字が頭に入ってこない場合もある。
いくらか文章を読むことができる場合もある。
いくらか文章を読める状態になったら、もうちょっとで身体も動かせるのではないかという予感に通じる。
とはいえ、文章が読めたら、確実に身体が動くというようなものでもない。
最悪の状態から、ちょっぴりましになった程度だ。
ただ、指先は動く。
身体が動かないときでも、ちょっと脳が動けば、指先が端末の文字入力をすることは可能だったりする。
座椅子に座りこんで、そこから二本の足で立つことすら困難に感じるときでさえ、ノートパソコンのキーボードを打つことは可能だったりする。
たとえば、今現在のおれがそうだったりする。最悪の状態より、ちょっぴりましなとき。
始動
動けない、動かない。それでも、どうにか動けるときが来る。
それまでに何時間もかかる。
まれに一時間横になっていたら動ける、ということもあるが、やはりそれはまれだ。
ともかく、「礼拝」の次の段階の起立に移行する。
二本の足で立つ。これがいかに大変なことか、体験しなければわからないだろうと思う。
自分でもどうかしていると思う。いや、どうかしているのだけれど。
そして、歩く。
これが滑稽なほどに緩慢だ。
もしも見ている人がいるならば、わざとスローモーションの演技をしているのではないかと思うことだろう。
でも、どうしてもゆっくりにしか動けない。
これで思い出すのは、祖父のことだ。
祖父はパーキンソン病を患っていた。
最晩年というわけではなく、わりと早くから。
祖父の動きは、とてもゆっくりだった。ちょっとずつしか歩けなかった。
子供心に「お年寄りになるとはこういうことか」と思っていたが、今では違うとわかる。
脳の指令が身体に届いていないのだ。パーキンソン病というものが、脳の病気だと知った今ではそう思う。
とにかく、ゆっくりしか動けない。動かない。
そして、それにたいへんな疲労がともなう。二、三歩あるいただけで、しゃがみこんでしまう。
呼吸も苦しい。いわゆる呼吸困難とは違うだろうが、自然に息ができない。
すべての呼吸がため息になるといったらいいだろうか。
気づいたら息をしていないので、大きく息を吸って、吐く。
はーっと大きなため息のようになる。というか、それをため息というのか。
シャワー
そんなに動けないならば、動かないまま安静にしていればいい、という声も聞こえてきそうだ。
しかし、おれは動かなくてはならない。
動いて、労働に出かけなくてはならない。
零細企業で底辺の労働者をするというのは、そういうことだ。
自分の代わりがいない。おれが行かなくてはならない。仕事をしなくてはならない。
横たわって一日を過ごしていいのならば、そうしている。
そうできないから、苦しんでいる。苦しみながら、大地に立つ。
ガンダムが大地に立ってどうするか。
シャワーを浴びる。「仕事に行くのに遅れて、時間がないのならばそんなことをしている場合ではないのでは」という声も聞こえてきそうだ。
だが、おれのある種の強迫観念と潔癖症がそれを許さない。
外出するときは、シャワーを浴びて、清潔でなくてはならない。
と、それと同時に、シャワーを浴びるのは、超短期的なリハビリでもある。
頭や身体を洗うのに手を動かす。髭を剃るという動作を行う。
この過程を経て、ようやくなんとか服を着たりすることができる。
もちろん、シャワーを浴びれば急にしゃきっとなるわけでもない。
動作は緩慢だし、ユニットバスで何回も転んであざを作る。それでも、この一連の動作で、なんとか最低限の「動き」ができるようになる。
出社
シャワーを浴びる。服を着る。ようやく出社の準備が整う。
もちろん、抑うつ状態に襲われたときに比べたら、はるかに緩慢な動作でだ。
それでも、なんとか外に出る。
外に出てどうする。
歩く。歩く場合は、ものすごくゆっくりだ。足腰弱った風の老人にも追い抜かれる。
傍目には酔っ払っているか、薬物でもきめているのかというふうに映るかもしれない。
出勤に普段の二倍から三倍の時間がかかる。
自転車に乗る、ということもある。というか、普段の通勤は自転車だ。
だが、自転車に乗っていてもつらい。バランスを保つ最低限の速度しか出ない。
とっさの判断もできないだろうし、道路を選ぶ。
あまり人の歩いていない自転車通行可の歩道をゆっくり進むか、あまり車が走っていない車道をゆっくり進むかだ。
安全を重視して、遠回りになっても普段とは違う道を選ぶ。
できれば歩くべきだろうが、歩くのがつらすぎる、ということもある。
それでも会社に行かなくてはならない。
退社
ようやくのこと会社に出る。
呼吸はため息だし、動きは緩慢だ。
それでも、幸いなことにおれの労働はパソコンの前に座って、マウスとキーボードを操るだけなので、なんとかなる。
なんとかしているうちに、抑うつから抜け出すことも少なくない。
とはいえ、油断は禁物だ。
帰り道で急にまた抑うつに襲われることもある。
「お、平常にもどったな」と思って、スーパーに寄って買い物などしていて、その最中に急に来ることもある。勘弁して欲しい。
そうなると、やはり帰り道の足取りはおそろしく遅くなる。
歩いていて、信号待ちなどのときはしゃがみこんでしまうし、なんならもうそこに倒れ込んでしまいたくもなる。
ほとんどそれに近い状態になったことは、何度でもある。
自転車でもそうだ。
ちょっとした坂道で、もう漕いでいられなくなって、手押しになって、それも限界になって、ハンドルに持たれかかり、やはり倒れて横たわりそうになる。
そんなふうに帰宅したあとは、やはり椅子に座ってただただ時間が過ぎていく。
おれは健常者に比べて行動できる時間が少ない。
定期的に精神科に通い、薬の処方を受けても、そうなのだ。
だからこそ障害者なのだが、障害者と認定されたからといって楽になるわけでもない。
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【著者プロフィール】
著者名:黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
Twitter:黄金頭
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