つい先日、旧交を温めに3人で飲みに行った。前に会った時からだいぶ時間が経っていたので、話ができるかどうか不安だったのだが、杞憂だった。やはり学生時代の仲間はいいものだ。

「久々に会っても話が止まらない」のは、それだけ共有しているものが多いことの証なのかもしれない。

 

とは言え、「その後の進路」によって、人生観は大きく異なっていた。その話を少し書きたいと思う。

 

同級生の彼は、なかなか華々しい経歴だ。一流の国立大学に入学し、学生時代に遊びを返上してダブルスクールをし、公認会計士の試験に合格、その後に、某外資系投資銀行で働き、現在はあるコンサルティング会社の副社長とのこと。

一方、後輩は大学を卒業した後、残業代も出ないような「中小の建設業」で働き、その後製造業に転職。しかし独立の夢を追って35歳で健康食品の輸出会社を作ったが見事に失敗。その後なんとか会社を立て直したが、彼曰く「現在も、サラリーマンの時の収入を超えていない」とのこと。「会社をやるのはつらいだけで、全然楽しくないです。」という。

言い方は彼に失礼かもしれないが、「泥をすすって生きてきた」という感じだ。

 

話題は中学高校の時の思い出から始まり、次第に仕事の話となった。何気なく話していたが、意見の食い違いが次第に鮮明になる。その時の話題は

「努力について」

であった。

 

その同級生は言った。

「収入が低いのは、結局努力していないだけ。別にわざわざ救ってあげる必要はない。努力する気を削ぐから、累進課税もやめて欲しい。」

後輩はそれに対し、

「これだから俗物は…いいですか、努力できないのは、スタートラインが違うから本人のせいじゃないです。しかも、そもそも日本人は働き過ぎですから、これ以上努力しなくていいです。もっとたくさん休みをとらせなきゃダメなんです。でも、今の中小企業の社員は頑張らないと生活すらままならない。おかしくないですか?何かしらの施策が必要です。」

 

平行線だ。彼等は議論を続ける。が、結論は出そうにない。

 

なぜ議論が平行線のままなのか、少し考えると、この2人の違いは「努力の報われ方」にあるのだと気づいた。

一方は、努力に見合って「報われた」人間。

もう一方は、努力に見合って「報われていない」人間。

 

報われ方で努力に対する態度が異なる、これは、何も身近な人々に限った話ではない。例えば、「ホリエモン」は、努力が報われた側だが、彼はこう述べる。

堀江貴文氏が初めて語った本心、働く人に伝えたいこと

――プロジェクトを通じて堀江さんを近くで見た印象は、「こんなに働く人は見たことがない」ということです。本の中にもあった「働く」「努力」の原動力はどこから生まれるのですか?

堀江氏: 努力はするのが当たり前。言うより先に自然とやるものだと思っています。仕事は結果重視なので、逆に出せなかったらはずかしいし、努力して失敗したらすごく悔しいです。

(中略)

堀江氏: 世の中には魔法の処方箋などはなく、何事も努力なしには始まりません。コツコツやらないといけない。地味な作業ですが情報収集もやろうと思えばすぐにできるのにやろうとしない人が多いです。仕事はハマッて作業に没頭して楽しくやります。つまらないこと、嫌なことの中にも必ず楽しいことがあるので、それを自分なりに見い出してやればいいと思います。

(Biz.ID)

しかし、決して少なくない数の若者が、「努力は報われない」と考えているのもまた事実である。

若者3割「努力報われない」=将来見通し、経済評価好転も-国民性調査・統計数理研

閉塞(へいそく)感から若者の安定志向が高まり、20~30代では「努力しても報われない」が約3割に上った。

(jiji.com)

努力が報われたことのない人間が、報われたことのある人間から「努力せよ」と言われるのは、腹が立つに違いない。そしておそらく、「生まれ」や「才能」のような自分でコントロール出来ない要因に、現在の境遇の原因を求めるのである。

「努力できるのも才能」という言説も、その3割の方にとっては当然なのかもしれない。

 

 

さて、この議論に対して、なにか新しい知見が得られるチャンスが有るのだろうか。

「メリトクラシー」という言葉がある。

メリトクラシー

学校での学力の形成を支えている原理は、メリトクラシーである。メリトクラシーとは、もともとは、生まれや身分によって地位が決定された前近代社会から個人の業績(メリット)によって地位が決定される近代社会への転換によって広がった原理である。

それは、生まれや身分によってではなく能力と業績によって社会的な地位が諸個人に配分されるという、近代的社会編成原理を指す概念として用いられてきた。

(中略)

つまり、近代的メリトクラシーは、「がんばればみんなできる」という「能力=平等主義」に支えられて、人材の地位配分の機能と、国民国家における社会統合の機能という、両方の機能を同時に担ってきたということである。

ベネッセ教育総合研究所

だが、上で紹介した2名の議論は、社会通念として広く受け入れられてきた、「がんばればみんなできる」という考え方に対して、「正しい」という人間と、「そうでもない」という人間が分かれてきていることを意味する。

しかし、現在の殆どの人は、再び「生まれ」や「身分」によって地位が決定される社会に戻りたくはないと感じていることは間違いないだろう。

「生まれ」に比べれば、まだ「成果」で地位を決める方がマシである。

「身分」に比べれば、まだ「学歴」で地位を決める方がマシである。

そうやって、人はみなメリトクラシーを受けれたのだ。

だが、「成果」や「学歴」が、「生まれ」に左右されるとなると、話は別だ。

「東大生の親は金持ち」は本当だった! もはや「教育格差絶望社会」なのか

教育統計学者の舞田敏彦氏が2月1日、ツイッターに「東大生の家庭の年収分布」と題したグラフを投稿して話題となっている。世帯主が40~50歳で世帯年収が950万円以上ある家庭の割合は、一般世帯で22.6%に対し、東大生の家庭では57.0%を占めたという。

同一の組織やバックグラウンドを持つ人々同士の中での競争であれば、「努力」は大きな割合を占めるかもしれない。しかし、現在の自分の地位や収入は、「努力」ではなく、「運」によって決まっていると、今の成功者と呼ばれる人々はどれだけ認識しているだろうか。

公平に見るならば、現在の状況に対して「努力が足りないから貧しいのだ」と言うのは、いささか乱暴な気もする。

参考記事:成功は自分の実力?それとも運が良かっただけ?

 

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