「シン・ゴジラ」、「君の名は」と最近は邦画のヒットが続く。

そして一部の好事家の中で、それら2作よりも面白いのではないかと評判の邦画がある。聲の形である。

 

聲の形がどういう映画かを簡単に説明すると、高度の難聴を患った女の子を10代の五体満足の子供たちが自分たちの社会に、どうやってキチンと受け入れていくかという話である。

この映画は難聴という難しい題材を通して、社会がマイノリティを受け入れる意義について雄弁に語っており、様々な観点から非常に勉強になる。

 

以下、物凄くネタバレを含みつつ、聲の形が描く”より良い社会の方向性”について書いていくことにする(まだ映画をみてない人はさっさと見に行くが良し。恥ずかしながら僕は劇中に3回も泣いてしまった。それぐらいは面白い作品である)

 

みんなが足並みを揃えることの難しさ

この物語は健全な肉体を持つ小学校6年生の集団社会の中に、高度の難聴を持つ子供・西宮硝子が編入してくる事からスタートする。

西宮硝子が編入する以前までは皆仲良く秩序だって生活していた子供達だが、難聴という障害を持つ硝子を自分たちの社会に適切に受け入れる事ができず、結局イジメという手法で自分たちの社会からの迫害を図る事になる。

 

この物語には根っからの悪人はいない。それなのに、どうして子供たちはイジメを行ってしまったのだろう?

それは、健全な子供からすれば、難聴の子供を苦労して受け入れるより、難聴の子供抜きで色々遊ぶほうが楽しいからである。だからイジメという方法を取ることで、こっち側に入ってくるなという意思表示をしたのである。イジメ≒異なる存在の拒絶なのだ。

 

子供は余裕がない。今を楽しく生きるのに必死な子供に、弱きを助く事の大切さを説いたとして、意味を理解はしてくれるかもしれないけど、それを実践させる事は非常に難しい。

子供の社会でイジメが問題になりやすいのは、子供は価値観がまだ広くなく、寛容さが足りてないからである。

 

ただ実際問題、僕達大人も弱き者をキチンと社会に受け入れているかというと、あまりうまくいっているとは言い難い。

例えばだけど、あなたの職場に本当に能力のない外国人がやってきたとする。その人は、日本語が全くできないとしよう。そして今現在、あなたの職場は人手不足で全く余裕がないとする。

今の人員でギリギリ仕事を回せてる状況で、こういった足手まといな人が組み込まれてきたら、あなたはその人を率先して自分たちの社会にキチンと受け入れる余裕があるだろうか?たぶん殆どの人には、かなり難しいはずだ。

 

自分よりもある面で弱さを持った存在を、自分の社会に適合するように手引することは、とても面倒くさい。難聴を始めとする身体障害を持つ人達もそうだし、それ以外にもゲイやレズといった性的マイノリティー、難民などなど。

世の中には、健常とされている人達と比較して、ある面での弱さを抱えている人がたくさんいる。

 

聲の形では、当時小学校6年生だった主人公達は硝子をイジメという形で拒絶する。

これを僕が全く笑えないのは、僕達大人も上にあげた身体障害者や性的マイノリティー、難民といった存在を、積極的に迎合できていないという現実があるからだ。自分と同じような隣人は迎合できるのに、自分よりも弱いものを助ける事に積極的な大人は物凄く少ない。

僕は大人になったと思っていた。けど子供の頃と比べて、果たして本当に成長したのだろうか?この映画はこの難しい問いを、冒頭からド直球で視聴者にぶつけてくる。

 

弱者を切り捨てると、何がおきるか?

世の中には様々な人間がいる。強い人、弱い人。能力のある人、能力のない人。

この間も長谷川豊さんの透析に対する問題提起で「強者は巨額の負担をしてでも弱者を救うべきか、それともコスパが悪いと切り捨てるべきか」という問いが大変話題になった。

 

この問は経済的効率という観点からのみ見ると、弱者の切り捨てが最適解にみえてしまう。僕も若い頃はどちらかというと、そういう弱者切り捨て的な答えが最適解だと思っていた。

この映画が実に面白いのは、そうやって社会的弱者を切り捨てたらどうなるのかについてが劇中で書かれている事だ。映画をみた事がある人はわかると思うけど、難聴を持つ子・西宮硝子は結局主人公たちの輪の中に加われず、転校してしまう。

 

その後、主人公たちの生活が西宮硝子転入以前の元の生活へと戻ったかというと、そうはならなかった。今度はイジメを扇動したとされた主人公が、逆に吊し上げを食らう形で社会の構図が入れ替わるのである。

迫害が加速していき、弱者(硝子)が”その空間を離れた”時、訪れたのは元の”楽しかった平和な日々”ではなく、”次に迫害を受ける生贄の吊し上げ(将也)”だった。

 

これは実に示唆的な展開で、マイノリティーを迫害し迫害し続けて根絶してしまうと、世界はそこでは終わらずに生贄の再生産が行われるのである。

社会保障を受けている弱者は、僕達が安穏と生きていられるための防波堤として機能している。それが切り崩された時、次に生贄になるのが誰になるのか?今回の長谷川さんの騒動は、それを結構端的に表現した形で終結したんじゃないかと僕は思う。

 

生産性を拡大し、多様性を発達させられたからこそ僕たちはここまでこれた

この映画はその後、自分の行動を真摯にかえりみた高校3年生となった主人公が、難聴を持つ西宮硝子に再度邂逅し、自分の社会に受け入れる努力をする事となる。この過程でどういった事が起きたかを書くのは野暮なので詳しくは書かないが、主人公を取り巻く環境は劇的に豊かになった。

 

この事を私達のこれまでの歴史を振り返ってみると、また別の側面から理解できる事がある。

我々の祖先はアフリカで生まれたという。初めの頃は、当然と言うか物凄くシンプルな社会構成だったはずだ。弱いものは死に、強いものは生き残る。そういう動物的な生き方しか、許容されなかったはずだ。ここに多様性はない。少なくとも現代のように、アニメオタクもいなければ、競馬に熱中するオジサンもいない。

 

その後人類は色々な事があり、生産性が向上した。そうして様々な強さを獲得する事ができた事で、私達は動物社会ではありえないような多様性のある社会を並列させる事に成功している。

寒冷な地に住むイヌイット人も、畑でワイン作りに勤しむフランス人も、アニメに熱中するオタクも、それぞれを許容して生きる事ができる位、余裕ある社会がうまく形成されている。アフリカで僕達の祖先が生まれたときと比較して、今の世は圧倒的に多様性に富んでいる。非常に素晴らしい事である。

 

結局、弱いものをコスパが悪いとガンガン切り捨てていった後に残るのは、多様性が許されない非常に生きにくい世の中なのである。そういう社会、嫌じゃないですか?

もちろんというか、この社会の存続のためには多大なるコストが必要であり、不景気な日本では財源に余裕があまりないのは事実ではある。ただそういう”余裕”を確保するのに頑張るのが、幸運に恵まれた社会的強者の責務であり、少なくとも強きものがコストを理由に弱者を切り捨てるのを正当化するのは、やっぱりおかしいのだ。

豊かな社会の為に、私達が何ができるか。そのことをこれ以上なくうまく表現したのが、この映画だと僕は思う。人としての良きあり方と、その大変さ。

そういうものを守るために、まずは何ができるかを考えることから初めませんか?

 

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【プロフィール】

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著者名:高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

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